堀川乗経 ジョン・ミルン、トネ夫妻

ホリカワジョウキョウ ジョン・ミルン、トネフサイ

■解説

堀川乗経

堀川乗経は、陸奥国(青森県)下北郡川内村の浄土真宗本願寺派願乗寺住職の次男で、初め法恵と称し、天保12年(1841年)に蝦夷地(北海道)に来て、その事情を見て歩きました。
蝦夷地に同派の寺がないことを知った法恵は、安政2年(1855年)本山の許可を得た後、同4年(1857年)小樽に願乗寺出張所を、また箱館の地蔵町(現東川町)に願乗寺休泊所を創設しました。
これが現在の浄土真宗本願寺派函館別院です。
法恵は、安政6年(1859年)北陸地方の農民を清水郷(現北斗市)に入植開墾させました。また同年、水利の便が悪い箱館市中に堀割を開削して亀田川の水を引き、飲料水として給水しました。この堀割は全長2900m、橋を8箇所設け、工事費7300余両を費やした大事業で、願乗寺川あるいは堀川と呼ばれ、市街地が東部へ発展する要因となりました。なお、明治22年(1889年)上水道が完成したとき、堀割は埋め立てられました。

函館市

ジョン・ミルン、トネ夫妻

イギリス人ジョン・ミルンは、工部省の招きで明治9年(1876年)に来日し、工部大学校や東京帝国大学で鉱山学、地質学を教えた。また、日本の地震に興味をもち、地震計を考案して日本全国を観測し、明治13年(1880年)日本地震学会を創設するなど、わが国の地震学の創始 者の一人であり、近代地震学のもとを築いた。
ミルンは、明治10年(1877年)に地質調査のために来函し、翌年も先住民族の貝塚などを調査するため函館を訪れている。明治14年(1881年)東京で堀川乗経の長女トネを知って結婚し、明治28年(1895年)トネを伴ってイギリスに帰国した。大正2年(1913年)ミルンの死去後、トネは病身となり大正8年(1919年)函館に帰り、大正14年(1925年)世を去った。
この墓地には、堀川乗経とジョン・ミルン、トネ夫妻の墓がある。
函館市

■観光説明板

ジョン・ミルン、トネ夫妻

イギリス人ジョン・ミルンは、工部省の招きで明治9年(1876年)に来日し、工部大学校や東京帝国大学で鉱山学、地質学を教えました。また、日本の地震に興味をもち、地震計を考案して日本全国を観測し、明治13年(1880年)日本地震学会を創設するなど、わが国の地震学の創設者の一人であり、近代地震学のもとを築きました。
ミルンは、明治10年(1877年)に地質調査のために来函し、翌年も先住民俗の貝塚などを調査するため函館を訪れています。明治14年(1881年)東京で堀川乗経の長女トネを知って結婚し、明治28年(1895年)トネを伴ってイギリスに帰国しました。大正2年(1913年)ミルンの死去後、トネは病身となり大正8年(1919年)函館に帰り、大正14年(1925年)世を去りました。
この墓地には、堀川乗経とジョン・ミルン、トネ夫妻の墓があります。

函館市

描述

约翰·米尔恩(John Milne)跟特内(Tone)夫妻

英国人约翰·米尔恩在明治9年(1876年)受工部省邀请来到日本,在工部大学与东京帝国大学等校教授矿山学跟地质学。由于对日本的地震感兴趣,为了设计地震仪开始了日本全国观测,并于明治13年(1880年)创立日本地震学会,是日本国内地震学创始者之一,为近代地震学奠定了基础。
米尔恩在明治10年(1877年)来到函馆进行地质调查,隔年又为了调查原住民的贝冢等而再此来访。明治14年(1881年)在东京结识堀川乘经的长女特内并结为夫妻,明治28年(1895年)在特内的陪伴下回到英国。大正2年(1913年)米尔恩逝世后,特内带着病体在大正8年(1919年)归来函馆,于大正14年(1925年)逝世。
这里是堀川乘经跟约翰·米尔恩、特内夫妻的墓地。
函馆市

描述

約翰·米爾恩(John Milne)跟特內(Tone)夫妻

英國人約翰·米爾恩在明治9年(1876年)受工部省邀請來到日本,在工部大學與東京帝國大學等校教授礦山學跟地質學。由於對日本的地震抱有志趣,為了設計地震儀開始了日本全國的觀測,並於明治13年(1880年)創立日本地震學會,是日本國內地震學創始者之一,也為近代地震學打造了基礎。
米爾恩在明治10年(1877年)來到函館進行地質調查,隔年又為了調查原住民的貝塚等而再此來訪。明治14年(1881年)在東京結識堀川乘經的長女特內並結為夫妻,明治28年(1895年)在特內的陪伴下回到英國。大正2年(1913年)米爾恩逝世後,特內帶著病體在大正8年(1919年)歸來函館,於大正14年(1925年)逝世。
這裡是堀川乘經跟約翰·米爾恩、特內夫妻的墓地。
函館市

คำอธิบาย

คู่สามีภรรยาจอห์น โทเนะ มิลน์

จอห์น มิลน์ ชาวอังกฤษ มาประเทศญี่ปุ่นในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) จากการเชิญของกระทรวงวิศวกรรม เพื่อมาสอนธรณีวิทยาและเหมืองแร่ศึกษาที่วิทยาลัยวิศวกรรมศาสตร์และมหาวิทยาลัยโตเกียวเทโคคุ นอกจากนี้เขายังสนใจเกี่ยวกับแผ่นดินไหวของญี่ปุ่น คิดค้นประดิษฐ์เครื่องวัดแผ่นดินไหว สำรวจทั่วประเทศญี่ปุ่น และก่อตั้งสมาคมแผ่นดินไหวแห่งญี่ปุ่นในปีเมจิที่ 13 (ค.ศ.1880) เป็นหนึ่งในบิดาแห่งแผ่นดินไหววิทยาของประเทศเรา และยังสร้างต้นกำเนิดของแผ่นดินไหววิทยาสมัยใหม่
มิลน์ เดินทางมาที่ฮาโกดาเตะเพื่อสำรวจธรณีวิทยาในปีเมจิที่ 10 (ค.ศ.1877) และยังไปเยือนฮาโกดาเตะในปีถัดมา เพื่อสำรวจกองเปลือกหอยของชนพื้นเมืองดั้งเดิม ในปีเมจิที่ 14 (ค.ศ.1881) ได้รู้จักและสมรสกับโทเนะ บุตรีคนโตของโฮริคาวะ โจเคียว เขาเดินทางกลับประเทศอังกฤษพร้อมกับโทเนะ ในปีเมจิที่ 28 (ค.ศ.1895)  หลังจากที่มิลน์เสียชีวิตในปีไทโชที่ 2 (ค.ศ.1913) โทเนะก็ล้มป่วย และเดินทางกลับมาที่ฮาโกดาเตะในปีไทโชที่ 8 (ค.ศ.1919) และจากโลกนี้ไปในปีไทโชที่ 14 (ค.ศ.1925)
ที่สุสานแห่งนี้ มีหลุมฝังศพของโฮริคาวะ โจเคียว และคู่สามีภรรยาจอห์น โทเนะ มิลน์

大エリア 函館市
小エリア 西部地区
所在地函館市船見町26番
制作時代
主題時代 大正
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