id,title,title_kana,content,date_posted,date_modified,Permalink,_thumbnail_id,area_large,area_small,address,era_created,era_subject,category,geo_latitude,geo_longitude,description,kantaiji,hantaiji,hangul,russian,thai,geo_address,inscription,sign_ja,sign_en,reference,license,author,memo,image_url,images_filename,images_path,images_id,images_title,images_caption,images_description,images_alt_text,slug,order 322,北海道木彫熊発祥の地碑,ホッカイドウキボリクマハッショウのチヒ," ",2015年6月17日,2017年3月2日,http://donan-museums.jp/archives/322,323,八雲町,八雲地区,八雲町末広町154 八雲町公民館敷地内,,,"碑・像,美術・芸能",42.2541656,140.2690430,"北海道の土産品として有名な木彫り熊の発祥地が八雲であることを記念して建てられた石碑。 1978(昭和53)年に、徳川農場事務所跡である旧徳川公園(現在は、独立行政法人国立病院機構八雲病院敷地)内に、八雲町100年を記念して建立した。 その後、八雲町公民館敷地内に移設した。この場所は、木彫り熊を作るきっかけとなった徳川義親公が校長を勤めたこともある北海道八雲高等国民学校の跡地でもある。 隣りには、「徳川さん」と彫られた義親の銅像がある。",,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町156","(表) 木彫熊 北海道発祥の地 (裏) 北海道木彫熊発祥の地由来 大正十年から十一年にかけて欧州の農村事情を視察した徳川義親侯はスイスの農民が冬期間の副業として木彫熊を製作しているのに注目し、一個買い求めた。 翌年、義親侯は、こうもり傘の骨を研いだノミで八雲の農民達に木彫熊の彫り方をおしえ、出来た作品は買いあげる約束をしたところ、酪農家の伊藤政雄がスイス製をモデルにして製作し、大正十三年三月に開催 された徳川農場主催の「第一回農村美術工芸品評会」に出品した。 これが北海道における木彫熊第一号で、その後、農民達は「八雲農民美術研究会」を結成し、徳川農場内のこの場所に羆を飼育してもらうと共に、講習会などを開催して作品の技術向上に努めたので、わが国の代表的観光土産品として推奨されるに至り現在でも伝統は維持されている 一九七八年九月吉日 題字 八雲町長 北口盛 説明書 林硅雲 熊図 上林信光 施工 高橋石材加工店 (副碑) 碑の経緯 この碑は、木彫熊制作を推進した徳川農場の事務所跡である国立療養所八雲病院敷地(独立行政法人国立八雲病院)に八雲町百年を記念して建立されました。当時は、「町立徳川公園」(宮園町128番地)として町民に解放されていましたが、病院の医療整備のため、昭和56年より自由に立ち入ることが出来なくなりました。このため。木彫熊制作を奨励した徳川義親侯の銅像のあるここに碑を移設し、木彫熊の歴史と文化を顕彰することとしました。 平成23年6月2日 八雲町教育委員会",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/06/木彫熊北海道発祥の地碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/06/木彫熊北海道発祥の地碑.jpg,323,木彫熊北海道発祥の地碑,,,,%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e6%9c%a8%e5%bd%ab%e7%86%8a%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 325,函館市指定史跡 北海道建網大謀網漁業発祥の地及び記念碑,ハコダテシシテイシセキ ホッカイドウタテアミダイボウアミギョギョウハッショウノチオヨビキネンヒ," 天保10年(1839)、尾札部村の三代飯田屋与五左衛門と、臼尻村の小川屋幸吉が計画して南部の人田鎖丹蔵を招き、その指図で当時陸中で成功していた田代型大網(鮪大網、後に田代型大謀網と呼ばれる)を建網したと伝えられる(飯田屋は黒鷲岬沖、小川屋は弁天岬沖)。 これが、北海道の大謀網漁業の始まりとされ、北海道と尾札部村により、記念碑が建立された。碑文は北海道知事(当時)田中敏文が揮毫し、沿革の刻文は尾札部村長(当時)杉谷梅一が記した。",2015年6月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/325,328,函館市,南茅部地区,函館市尾札部町242,昭和,近世,"生業,碑・像",41.8935585,141.0239410,,,,,,,"日本, 〒041-1603 北海道函館市尾札部町242",,,,,,hakohaku,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/06/P1000719.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/06/大謀網発祥の地碑.jpg,P1000719.jpg||.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/06/P1000719.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/06/大謀網発祥の地碑.jpg,328||327,P1000719||大謀網発祥の地碑,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e6%8c%87%e5%ae%9a%e5%8f%b2%e8%b7%a1%e3%80%80%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e5%bb%ba%e7%b6%b2%e5%a4%a7%e8%ac%80%e7%b6%b2%e6%bc%81%e6%a5%ad%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0,0 397,伊能忠敬北海道最初の測量地,イノウタダタカホッカイドウサイショノソクリョウチ,"",2015年10月23日,2019年4月8日,http://donan-museums.jp/archives/397,398,函館市,西部地区,函館山山頂展望台側壁,昭和,近世,"歴史,碑・像",41.7593002,140.7042236,"伊能忠敬は、箱館を出発点として東海岸から根室まで、蝦夷地の実測を行った。その起点が函館山であったことを記念して、1957年(昭和32年)4月、函館市が函館山山頂展望台の側壁に石板・肖像ブロンズを嵌め込んで設置し た。 なお、現在、新たな記録の発見により、北海道の測量の起点は、福島町吉岡とされている。同町は伊能忠敬の没後200年を記念して、伊能忠敬北海道測量開始記念公園を整備し、園内に伊能忠敬像(彫刻家酒井道久製作)を設置、2018年(平成30年)4月27には公園の竣工式と銅像除幕式が行われた。",,,,,,"日本, 〒040-0000 北海道函館市函館山 函館山登山道路","伊能忠敬北海道最初の測量地 五月二十八日 新暦七月十九日 土用 朝五つ迄曇る 夫より晴天江戸出立後の上天気なり 併し山々白雲おほし 箱館山に登て所々の方位を測 夜も晴測量…… 寛政十二年 一八〇〇年 伊能忠敬測量日誌より 昭和三十二年四月 函館市",,,"「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年) 、「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)、「北海道建設新聞」2018年5月2日",cc-by,okuno.s,2019.04.08 福島町部分奥野追記,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0041.jpg,DSCF0041.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0041.jpg,398,伊能忠敬北海道最初の測量地,,,伊能忠敬北海道最初の測量地,%e4%bc%8a%e8%83%bd%e5%bf%a0%e6%95%ac%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e6%9c%80%e5%88%9d%e3%81%ae%e6%b8%ac%e9%87%8f%e5%9c%b0-2,0 403,トーマス・ライト・ブラキストンの碑,トーマス・ライト・ブラキストンノヒ,"",2015年10月23日,2019年4月8日,http://donan-museums.jp/archives/403,404,函館市,西部地区,函館山山頂,昭和,近世||明治,"歴史,碑・像",41.7593613,140.7036438,"トーマス・ライト・ブラキストンは、1832年12月27日にイギリスのハンプシャー州リミントンで誕生、1847年には王立陸軍士官学校へ入学、卒業後は砲兵少尉としてイギリス本国やカナダなどに勤務し、クリミア戦争にも従事した。この頃にも余暇には鳥や植物を採取して標本をつくり研究を続けていた。 その後一時軍籍を離れ、1857年から探検隊の一員としてカナダで活動するが、翌1859年には、本国に帰り軍隊に復帰している。1860年大尉に昇進、中国へ派遣されて、揚子江探検などに従事した後、再度本国へ帰還、途中函館(1861年・文久1年)にも立ち寄った。 イギリスで再び軍籍から離れてアジアでの貿易、製材事業を計画していた西太平洋会社と雇用契約を結び、日本での事業をおこすためにシベリアを横断して、1863年(文久3年)、再び函館に上陸、海運・貿易業や製材業に従事した。なお、この時、ブラキストンが設立した製材所は、日本ではじめての蒸気機関による機械製材所であった。1867年(明治10年)には、ブラキストン・マル商会を設立して西太平洋会社の代理人となり、事業を継続しながら鳥類を採取・研究、気象観測なども行い、福士成豊などに多大な影響を与えている。 1879年(明治12年)、函館滞在中に北海道内で捕獲した鳥類標本を函館仮博物場に寄贈した。この標本は、現在北海道大学植物園・博物館に所蔵されている。 1883年(明治16年)、本州と北海道の動物に著しい違いがあることをアジア協会報に発表して注目され、当時東京大学教授として来日していた地震学者ジョン・ミルンの提案で津軽海峡がブラキストンラインと呼ばれるようになった。同年、事業を整理して函館を離れ、後にアメリカ合衆国に移り住んだ。1891年カリフォルニア州サンディエゴを旅行中、病没している。 この碑は、1965年(昭和35年)、函館青年会議所がブラキストン・ラインを記念する ために建立した。本郷新の手によるもので、正面は、上部にブラキストンのブロンズ像がはめ込まれた黒御影石、裏面は白御影石で、上記の碑文が刻まれたブロンズ版がはめ込まれている。 1991年(平成2年)10月19日には、碑前にて没後100周年式典が行われ、周辺にエゾムラサキツツジなど約500本が植樹された。",,,,,,,"
(表) Blakiston
(裏) ブラキストンラインとは、動物学上の津軽海峡の呼稱であり、この海峡を境にして動物の分布は南北で異なることを発見した英国人T.W.ブラキストン(1832~1891)の名によるものである。 ブラキストンは函館開港直後の1861年より約23年間この地に在留し、貿易を営み、傍ら鳥類の採集研究に努めた。 この世界的業績は、津軽海峡と共に永遠に残るであろう。 1960年6月建立 函館青年会議所 函館J.C創立十周年 日本JC第9回北海道地区会員大会 記念
",,,"「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年) 、「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)、『蝦夷地の中の日本』(T・W・ブラキストン著 近藤唯一訳 八木書店 1979年)、平成2年10月20日「北海道新聞」",,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0039.jpg,DSCF0039.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0039.jpg,404,DSCF0039,,,トーマス・ライト・ブラキストンの碑,%e3%83%88%e3%83%bc%e3%83%9e%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e3%83%bb%e3%83%96%e3%83%a9%e3%82%ad%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%b3%e3%81%ae%e7%a2%91,0 409,寂照塔,ジャクショウトウ,"",2015年10月23日,2019年4月8日,http://donan-museums.jp/archives/409,410,函館市,西部地区,函館山(入江山)18番観音そば,昭和,昭和,碑・像,41.7565498,140.6987610,,,,,,,"Harakicho, Hokkaido, 041-0313, JP","(表) 北見丸乗組照内国雄 昭和二十九年九月二十六日台風十五号に於て遭難殉職す この地に遺体漂着よってこの塔を建設供養する
寂照塔 昭和三十年八月 照内ミサオ 仝 英世",,,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年),,okuno.s,場所は略図による,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0050.jpg,DSCF0050.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0050.jpg,410,DSCF0050,,,寂照塔,%e5%af%82%e7%85%a7%e5%a1%94,0 412,皇太子殿下御野立所,コウタイシデンカオノダテジョ,"",2015年10月23日,2019年4月8日,http://donan-museums.jp/archives/412,413,函館市,西部地区,函館山千畳敷 12番観音そば,明治,,"歴史,碑・像",41.7497978,140.7055511,"1911年(明治44年)8月20日から23日まで、皇太子(後の大正天皇)が函館を訪れた。若松町の桟橋から上陸、23日に函館駅から小樽へと向かうまで、市内各所を訪問し、庁立函館商船学校・函館高等女学校・函館商業学校、庁立函館中学校などの学校のほか、函館控訴院、函館公園、函館重砲兵大隊、五稜郭跡、園田牧場、大沼公園などを視察した。この間、函館区公会堂に宿泊し、訪れる先々で盛大な奉迎の行事が行われた。函館山には、函館山要塞を視察のため、21日に訪れている。 各地に、休憩の野立所が設けられたが、この記念碑もそのうちのひとつを記念したものである。",,,,,,"Unnamed Road, 函館山 函館市 北海道 040-0000 日本","(表) 皇太子殿下御野立所
(裏) 明治四十四年八月二十一日行啓",,,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、明治44年8月9日付・20~22・24日付「函館日日新聞」,cc-by,okuno.s,文献には(碑横 記念樹エゾマツ)とあるが現存するか? 場所は略地図による,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0029.jpg,DSCF0029.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0029.jpg,413,hako004,,,皇太子殿下御野立所,%e7%9a%87%e5%a4%aa%e5%ad%90%e6%ae%bf%e4%b8%8b%e5%be%a1%e9%87%8e%e7%ab%8b%e6%89%80,0 416,函館山登山道の記″函館を讃える碑″,ハコダテヤマトザンドウノキ ハコダテヲタタエルヒ,"",2015年10月23日,2019年4月8日,http://donan-museums.jp/archives/416,417,函館市,西部地区,函館山旧山道入口,昭和,昭和,碑・像,41.7581406,140.7089539,"この碑は、1974年(昭和49年)2月に亡くなった元函館市長宗藤大陸(昭和22年から昭和30年まで在任)の功績をたたえるとともに、同氏の任期中に完成した登山道路開通20年を記念して、元函館市長宗藤大陸氏をしのぶ会(世話人代表は元市長吉谷一次)が建立した。 台座は自然石で、碑は稲田石製で、碑面には宗藤氏の文章からとった碑文が刻まれている。 1950年(昭和50年)11月10日、世話人や関係者らが列席するなか除幕式が行われた。",,,,,,"Tomarimachi, Hokkaido, 041-0304, JP","(表) 緑の山 紺青の海 美しきかな函館 無音
(裏) 函館山の要塞が 市民に開放されてから すでに三十年を過ぎた この登山道路を開くときは なにかと苦労も多かったが 新日本百景では一位に選ばれ 今や三十万市民憩いの地となっている その夜景は まさに世界の絶景と謳われ 内外観光客に賑う今日 当時を偲び まことに感なしとしない よって有志相集い 登山路分岐点に 当時の市長宗藤大陸氏手書の一節を刻し この碑を建てる。 昭和五十年十一月 有志一同 函館山登山道の記 函館山開放 昭和21年10月 緑地としての都市計画決定 昭和23年11月 登山道工事着手 昭和25年10月 山頂まで開通 昭和29年7月",,,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982)、昭50年11月11日付「読売新聞」,cc-by,okuno.s,場所は住宅地図による,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0006.jpg,DSCF0006.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/DSCF0006.jpg,417,DSCF0006,,,函館山登山道の記″函館を讃える碑″,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b1%b1%e7%99%bb%e5%b1%b1%e9%81%93%e3%81%ae%e8%a8%98%e2%80%b3%e5%87%bd%e9%a4%a8%e3%82%92%e8%ae%83%e3%81%88%e3%82%8b%e7%a2%91%e2%80%b3,0 420,函館山,ハコダテヤマ,"■観光説明板 函館山は、幾たびもの火山活動により海中に隆起した孤島であったが、約3000年位前に、海水により港側と外海側から次第に砂が堆積されて砂州(さす)ができ、函館山は渡島(おしま)半島と陸つづきになった。函館の中心街はこの砂州の上にある。 函館山の地質は、約2500万年前に噴出した安山岩で、五稜郭や弁天台場などの工事にこの山の石を用いた。 函館山の最高峰は、ここ御殿山(ごてんやま)で標高334mあり、このほか、薬師山(やくしやま)、観音山(かんのんやま)、千畳敷(せんじょうじき)、鞍掛山(くらかけやま)などがあるが、この山の形が牛の臥している姿に似ているので、別名臥牛山(がぎゅうさん)とも呼ばれている。 山頂からは、扇状にひろがる市街地、遠く駒ケ岳、汐首岬も望まれ、晴れた日は、本州の下北半島も見られるが、特に市街地の夜景は世界一といわれる美しさである。 函館山の右手、西端には、異郷の地で永遠に眠る外国人の墓、外国人墓地があり、左手、東端には薄幸の詩人石川啄木とその一族が眠る立待岬があるほか、山麓には数多くの名所、旧跡が散在している。 展望台壁面には、寛政12年(1800年)5月28日、伊能忠敬(いのうただたか)が北海道最初に測量したことを記念したレリーフがあり、また、前方の広場には、ブラキストンラインで有名なブラキストンの記念碑もあるなど、学術的にも貴重な山である。函館市
MT.HAKODATE
Mt.Hakodate used to be a protuberant isolated island in the sea after many volcanic activities.About 3,000 years ago sand got accumlated gradually from the port side and the open sea.That then grew to be a sand bar.Mt.Hakodate was connected by this sand bar to the Oshima Peninsula. The nature of the soil in Mt.Hakodate is andesite which erupted about 25,000,000 years ago.When Goryokaku and the Benten Fort were constructed,stones from Mt.Hakodate were used. The top of Mt. Hakodate called Mt.Goten is 334 meters above sea level.As the shape of Mt.Hakodate together with Mt.Yakushi,Mt.Kannon,Mt.Kurakake,and Senjojiki looks like a lying cow,iti is calledg""agyuzan"" meaning Mt.lying cow. From the top of the mountain one can see the wonderful sight of a fan-shaped city.Also from the top of the mountain,on a clear day,one can see Mt.Komagatake,the Shiokubi cape,and the shimokita Peninsular of the main island.The night view looking from Mt.Hakodate is notably remembered as one of the most fantastic views in the world. At the foot of the mountain there are many noted places and historic spots such as a foreign cemetery to the west,on the right of Mt.Hakodate,and the Tachimachi cape to the east on the left of Mt.Hakodate.On the Tachimachi cape there is a tombstone for an ill-fated poet,Takuboku,and his family. A wall relief for the memory of Tadataka Inou's first measuring in Hokkaido in 1800 is on the surface of a wall in the observatory deck.In the square in front there is a monument of Blakiston who is famous for the Blakiston line.Scientifically,too,this mountain is significas.
The City of Hakodate
",2015年10月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/420,,函館市,西部地区,函館山緑地,,,未分類,41.7591476,140.7040405,,,,,,,"日本, 〒040-0000 北海道函館市函館山 函館山登山道路",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b1%b1,0 422,津軽要塞と函館山の植物,ツガルヨウサイトハコダテヤマノショクブツ,"■観光説明板 津軽要塞跡 明治30(1897)年、函館山で要塞工事が始まり、32年11月函館要塞として完成したが、昭和2(1927)年4月に津軽要塞と改称された。敷地は保安林も含め御殿山、薬師山、千畳敷、谷地頭付近の約16万坪が陸軍省の所管となり、昭和21(1946)年5月の開放までは、一般市民の立入りはもちろん、写生、撮影ならびに測量などが一切禁止された。 現在も函館山の各所に地下壕跡などが残されている。 函館山の植物 函館山は、その山容が標高わずか334m、周囲約9kmの小さい山でありながら、地形が複雑多岐であり、植物の生育環境が多様であることから、植物種は極めて多く、北方系と南方系が混生しており、その数は600種余りと言われ、まさに自然が造りあげた植物園である。白然林もさることながら、箱館奉行や開拓使によって植林されたスギやマツの群生が見られる。また、道路沿いや裸地に自立つセイヨウタンポポなどは、明治初期に移入されたものであるが、このような帰化植物は30数種類あると言われている。これらの豊富な植物は、要塞が築かれてから50年近くも入山禁止となったために自然が守られ、保護された結果であろう。 ここはまた鳥類の楽園としても知られている。津軽海峡が動物分布上の境界線をなすことを発見した、英国人ブラキストンは、函館山の鳥類を調べてこの境界線(ブラキストンライン)を発表した。現在、留鳥と渡り鳥を合わせて約150種が見られる。函館市
TSUGARU FORT AND THE PLANTS FOUND ON MT.HAKODATE
REMAINS OF TSUGARU FORT In 1897 construction of Hakodate Fort started on Mt.Hakodate and it was completed in November 1899.In April 1927 it was renamed Tsugaru Fort. The whole site of about 160,000 tsubo (632,320 square yards) including the forest reserve,Gotenyama,Yakushiyama,Senjojiki and Yachigashira was under the jurisdiction of the Ministry of War until May 1946.Until then not only was it forbidden for citizens to enter the mountain area,but sketching,taking photographs and surveying were also strictly forbidden.Even today some underground shelters still remain. THE PLANTS ON MT.HAKODATE Mt.Hakodate,only 334 meters above sea level and about 9 kilometers in circumference,has a complicated and divergent topography.Over 600 species of plants grow here,including plants which can be found in both northern and southern parts of Japan.This whole mountain can be called a huge natural botanical garden. Here can be found gregarious Japanese cedars and pine trees,which were planted by Hakodate Bugyo (commissioner) and the ""Kaitakushi (Hokkaido Colonization Bureau)."" Common dandelions along the road side and on the uncultivated lands are thought to have entered Japan from abroad in the early days of the Meijj period.It is said that about thirty various plants among them were naturalized in Japan.These plants grew untouched because the military prohibited people from entering the area for nearly 50 years after the construction of the Fort. Mt.Hakodate is also known as a paradise for birds.Thomas W.Blakiston who came from England,researched the birds on Mt.Hakodate and discovered the geographical distribution of animals (now called the ""Blakiston Line"").This line is drawn along the Tsugaru Straits.At present there are about 150 species of both resident and migratory birds.CITY OF HAKODATE
",2015年10月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/422,,函館市,西部地区,函館山緑地(山頂),,,未分類,41.7591667,140.7040100,,,,,,,"日本, 〒040-0000 北海道函館市函館山 函館山登山道路",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%b4%a5%e8%bb%bd%e8%a6%81%e5%a1%9e%e3%81%a8%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%a4%8d%e7%89%a9,0 426,立待岬,タチマチミサキ,,2015年10月23日,2021年6月30日,http://donan-museums.jp/archives/426,,函館市,西部地区,立待岬,,,未分類,41.7452469,140.7207794,"立待岬 この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと立って待つ)に囚むという。 18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。 現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。 近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。 函館市","立待岬 这个地名来自阿伊努语的yukoushi,有潜伏等待猎捕渔获的意思。 18世纪末期虾夷地区由幕府直接管辖,为了战备目的而在此设置砲台。第二次世界大战期间,根据要塞地带法禁止一般市民进入此区域。 如今则是可以眺望津轻海峡的景点,吸引着非常多的游客来访。 附近还有石川啄木一族的墓地跟与谢野宽・晶子的歌碑。 函馆市","立待岬 這個地名來自阿伊努語的yukoushi,有潛伏等待獵捕漁獲的意思。 18世紀末期蝦夷地區由幕府直接管轄,為了戰備目的而在此設置砲台。第二次世界大戰期間,根據要塞地帶法禁止一般市民進入此區域。 如今則是可以眺望津輕海峽的觀景區,吸引非常多的觀光客來訪。 附近還有石川啄木一族的墓地跟與謝野寬・晶子的歌碑。 函館市",,,"แหลมทาชิมาชิ ชื่อสถานที่แห่งนี้ ตั้งขึ้นตามคำว่า โยะโคชิ ในภาษาไอนุ (หมายถึง สถานที่ซุ่มรอ หรือ ยืนรอที่จะจับปลาอยู่ที่นี่) ตอนปลายศตวรรษที่ 18 พอภูมิภาคเอโสะ (ชื่อเรียกภูมิภาคที่เป็นที่อยู่อาศัยของชนเผ่าไอนุ) เข้าอยู่ใต้การปกครองโดยรัฐบาลบากุฟุ เคยมีการสร้างป้อมปราการขึ้นที่นี่เพื่อรักษาความปลอดภัย และระหว่างสงครามโลกครั้งที่สอง ถูกห้ามไม่ให้ประชาชนเข้าใกล้ตามพระราชบัญญัติเขตป้อมปราการ ปัจจุบัน เป็นจุดชมวิวที่สามารถมองเห็นช่องแคบทสึงารุ มีนักท่องเที่ยวมาเยือนจำนวนมาก ในบริเวณใกล้ๆ กัน มีหลุมฝังศพของตระกูลอิชิคาวะ ทาคุโบคุ กวีในสมัยเมจิ และแผ่นศิลาจารึกกลอนของโยซาโนะ ฮิโรชิ และ อากิโกะ","日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町15−23",,"この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に困むという。 18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。 現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。 近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e7%ab%8b%e5%be%85%e5%b2%ac,0 428,弁天岬台場跡,ベンテンミサキダイバアト,,2015年10月25日,2021年6月30日,http://donan-museums.jp/archives/428,,函館市,西部地区,函館市入舟町6(児童公園内),近世,近世||明治,未分類,41.7728348,140.7039948,"弁天岬台場跡 西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元年(1854年)、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。 台場は、安政3年(1856年)、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)をした台場は、元治元年(1864年)に完成した。 この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2年(1869年)5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。 台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29年(1896年)、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。 函館市","弁天岬砲台遗迹 江户末期,在西洋列强不断施与压力的背景之下,幕府第2次将虾夷地区列为直辖。安政元年(1854年),箱馆奉行的竹内下野守跟堀织部正将箱馆的战备情形上报给幕府,而后建造了弁天岬砲台。 砲台在安政3年(1856年)时以10万两的预算在如今的函馆造船厂一隅开始施工。设计、监督与五稜郭同为武田斐三郎,不等边六角形(外围约684米、面积约32,340平方米)的砲台于元治元年(1864年)完工。 这个砲台实际开始使用于箱馆战争之际。旧幕府脫走军(因为拒绝投降而离开的旧幕府军分支)占领砲台之后与新政府军展开炮战但仍被新政府军击溃,明治2年(1869年)5月15日,困守于砲台之中的箱馆奉行永井玄藩与其他约240人全部投降。 而后更名为弁天砲台,属陆军省管辖并由函馆砲队守备。明治29年(1896年),由于港湾改良的原因遭到拆除,如今已无法一览当年雄风。 函馆市","弁天岬砲台遺跡 江戶末期,在西洋列強不斷施與壓力的背景之下,幕府第2次將蝦夷地區列為直轄。安政元年(1854年),箱館奉行的竹內下野守跟堀織部正將箱館的戰備情形上報給幕府,而後建造了弁天岬砲台。 砲台在安政3年(1856年)時以10萬兩的預算在如今的函館造船廠一隅開始施工。設計・監督與五稜郭同為武田斐三郎,不等邊六角形(外圍約684公尺、面積約32,340平方公尺)的砲台於元治元年(1864年)完工。 這個砲台實際開始使用於箱館戰爭之際。舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)佔據砲台之後與新政府軍展開炮戰但仍被新政府軍擊潰,明治2年(1869年)5月15日,困守於砲台之中的箱館奉行永井玄藩與其他約240人全部投降。 而後更名為弁天砲台,屬陸軍省管轄並由函館砲隊守備。明治29年(1896年),由於港灣改良的原因遭到拆除,如今已無法一覽當年雄風。 函館市",,,"ซากป้อมปราการที่แหลมเบนเต็น ในช่วงปลายสมัยเอโดะ ที่แรงกดดันจากมหาอำนาจตะวันตกเพิ่มมากขึ้น รัฐบาลบากุฟุ เข้ายึดภูมิภาคเอโสะ (ชื่อเรียกภูมิภาคที่เป็นที่อยู่อาศัยของชนเผ่าไอนุ) เป็นครั้งที่สอง ในปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) ฮาโกดาเตะบุเกียว ทาเคะอุจิ ชิโมะทสึเคะโนะคามิ และ โฮริโอะริเบะโนะโช ได้ส่งหนังสือร้องเรียนไปยังรัฐบาลบากุฟุ เกี่ยวกับการรักษาความปลอดภัยของฮาโกดาเตะ จึงตัดสินใจสร้างป้อมปราการขึ้นที่แหลมเบนเต็น ป้อมปราการ เริ่มสร้างในปีอันเซที่ 3 (ค.ศ.1856) ขึ้นที่มุมหนึ่งของท่าเรือฮาโกดาเตะในปัจจุบัน มีงบประมาณในการสร้าง 100,000 เรียว ออกแบบและกำกับการก่อสร้างโดยทาเคดะ อายะซาบุโร เช่นเดียวกับป้อมรูปดาว โกะเรียวคาคุ ป้อมปราการรูปหกเหลี่ยมด้านไม่เท่า (ระยะโดยรอบประมาณ 684 เมตร, พื้นที่ 32,340 ตร.ม.) สร้างแล้วเสร็จในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864) ป้อมปราการแห่งนี้ ถูกใช้จริงตอนสงครามฮาโกดาเตะ กองทัพผู้หลบหนีรัฐบาลบากุฟุเก่าเข้ายึดเป็นที่มั่น และยิงปืนใหญ่ต่อสู้กับกองทัพรัฐบาลใหม่ แต่สู้ไม่ได้ จนเมื่อวันที่ 15 พฤษภาคม ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) ฮาโกดาเตะบุเกียว นะไกอิ เกมบะและพวกประมาณ 240 คน ที่เข้าล้อมป้อมปราการจึงยอมแพ้ ต่อมาภายหลัง ป้อมปราการอยู่ภายใต้สังกัดกระทรวงทหารบก ในฐานะป้อมปืนใหญ่เบนเต็น กองกำลังปืนใหญ่ฮาโกดาเตะเป็นผู้ปกป้อง ในปีเมจิที่ 29 (ค.ศ.1896) ถูกรื้อทิ้งและถมที่โดยรอบเพื่อดำเนินการปรับปรุงอ่าวท่าเรือ ปัจจุบัน จึงไม่สามารถทราบรูปลักษณ์ในอดีตได้","日本, 〒040-0051 北海道函館市弁天町 寺町通",,"西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。 台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)をした台場は、元治元(1864)年に完成した。 この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。 台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%bc%81%e5%a4%a9%e5%b2%ac%e5%8f%b0%e5%a0%b4%e8%b7%a1,0 431,堀川乗経 ジョン・ミルン、トネ夫妻,ホリカワジョウキョウ ジョン・ミルン、トネフサイ,,2015年10月25日,2021年7月1日,http://donan-museums.jp/archives/431,,函館市,西部地区,函館市船見町26番,,大正,未分類,41.7633057,140.6944122,"堀川乗経 堀川乗経は、陸奥国(青森県)下北郡川内村の浄土真宗本願寺派願乗寺住職の次男で、初め法恵と称し、天保12年(1841年)に蝦夷地(北海道)に来て、その事情を見て歩きました。 蝦夷地に同派の寺がないことを知った法恵は、安政2年(1855年)本山の許可を得た後、同4年(1857年)小樽に願乗寺出張所を、また箱館の地蔵町(現東川町)に願乗寺休泊所を創設しました。 これが現在の浄土真宗本願寺派函館別院です。 法恵は、安政6年(1859年)北陸地方の農民を清水郷(現北斗市)に入植開墾させました。また同年、水利の便が悪い箱館市中に堀割を開削して亀田川の水を引き、飲料水として給水しました。この堀割は全長2900m、橋を8箇所設け、工事費7300余両を費やした大事業で、願乗寺川あるいは堀川と呼ばれ、市街地が東部へ発展する要因となりました。なお、明治22年(1889年)上水道が完成したとき、堀割は埋め立てられました。 函館市 ジョン・ミルン、トネ夫妻 イギリス人ジョン・ミルンは、工部省の招きで明治9年(1876年)に来日し、工部大学校や東京帝国大学で鉱山学、地質学を教えた。また、日本の地震に興味をもち、地震計を考案して日本全国を観測し、明治13年(1880年)日本地震学会を創設するなど、わが国の地震学の創始 者の一人であり、近代地震学のもとを築いた。 ミルンは、明治10年(1877年)に地質調査のために来函し、翌年も先住民族の貝塚などを調査するため函館を訪れている。明治14年(1881年)東京で堀川乗経の長女トネを知って結婚し、明治28年(1895年)トネを伴ってイギリスに帰国した。大正2年(1913年)ミルンの死去後、トネは病身となり大正8年(1919年)函館に帰り、大正14年(1925年)世を去った。 この墓地には、堀川乗経とジョン・ミルン、トネ夫妻の墓がある。 函館市","约翰·米尔恩(John Milne)跟特内(Tone)夫妻 英国人约翰·米尔恩在明治9年(1876年)受工部省邀请来到日本,在工部大学与东京帝国大学等校教授矿山学跟地质学。由于对日本的地震感兴趣,为了设计地震仪开始了日本全国观测,并于明治13年(1880年)创立日本地震学会,是日本国内地震学创始者之一,为近代地震学奠定了基础。 米尔恩在明治10年(1877年)来到函馆进行地质调查,隔年又为了调查原住民的贝冢等而再此来访。明治14年(1881年)在东京结识堀川乘经的长女特内并结为夫妻,明治28年(1895年)在特内的陪伴下回到英国。大正2年(1913年)米尔恩逝世后,特内带着病体在大正8年(1919年)归来函馆,于大正14年(1925年)逝世。 这里是堀川乘经跟约翰·米尔恩、特内夫妻的墓地。 函馆市","約翰·米爾恩(John Milne)跟特內(Tone)夫妻 英國人約翰·米爾恩在明治9年(1876年)受工部省邀請來到日本,在工部大學與東京帝國大學等校教授礦山學跟地質學。由於對日本的地震抱有志趣,為了設計地震儀開始了日本全國的觀測,並於明治13年(1880年)創立日本地震學會,是日本國內地震學創始者之一,也為近代地震學打造了基礎。 米爾恩在明治10年(1877年)來到函館進行地質調查,隔年又為了調查原住民的貝塚等而再此來訪。明治14年(1881年)在東京結識堀川乘經的長女特內並結為夫妻,明治28年(1895年)在特內的陪伴下回到英國。大正2年(1913年)米爾恩逝世後,特內帶著病體在大正8年(1919年)歸來函館,於大正14年(1925年)逝世。 這裡是堀川乘經跟約翰·米爾恩、特內夫妻的墓地。 函館市",,,"คู่สามีภรรยาจอห์น โทเนะ มิลน์ จอห์น มิลน์ ชาวอังกฤษ มาประเทศญี่ปุ่นในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) จากการเชิญของกระทรวงวิศวกรรม เพื่อมาสอนธรณีวิทยาและเหมืองแร่ศึกษาที่วิทยาลัยวิศวกรรมศาสตร์และมหาวิทยาลัยโตเกียวเทโคคุ นอกจากนี้เขายังสนใจเกี่ยวกับแผ่นดินไหวของญี่ปุ่น คิดค้นประดิษฐ์เครื่องวัดแผ่นดินไหว สำรวจทั่วประเทศญี่ปุ่น และก่อตั้งสมาคมแผ่นดินไหวแห่งญี่ปุ่นในปีเมจิที่ 13 (ค.ศ.1880) เป็นหนึ่งในบิดาแห่งแผ่นดินไหววิทยาของประเทศเรา และยังสร้างต้นกำเนิดของแผ่นดินไหววิทยาสมัยใหม่ มิลน์ เดินทางมาที่ฮาโกดาเตะเพื่อสำรวจธรณีวิทยาในปีเมจิที่ 10 (ค.ศ.1877) และยังไปเยือนฮาโกดาเตะในปีถัดมา เพื่อสำรวจกองเปลือกหอยของชนพื้นเมืองดั้งเดิม ในปีเมจิที่ 14 (ค.ศ.1881) ได้รู้จักและสมรสกับโทเนะ บุตรีคนโตของโฮริคาวะ โจเคียว เขาเดินทางกลับประเทศอังกฤษพร้อมกับโทเนะ ในปีเมจิที่ 28 (ค.ศ.1895) หลังจากที่มิลน์เสียชีวิตในปีไทโชที่ 2 (ค.ศ.1913) โทเนะก็ล้มป่วย และเดินทางกลับมาที่ฮาโกดาเตะในปีไทโชที่ 8 (ค.ศ.1919) และจากโลกนี้ไปในปีไทโชที่ 14 (ค.ศ.1925) ที่สุสานแห่งนี้ มีหลุมฝังศพของโฮริคาวะ โจเคียว และคู่สามีภรรยาจอห์น โทเนะ มิลน์","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町26",,"ジョン・ミルン、トネ夫妻 イギリス人ジョン・ミルンは、工部省の招きで明治9年(1876年)に来日し、工部大学校や東京帝国大学で鉱山学、地質学を教えました。また、日本の地震に興味をもち、地震計を考案して日本全国を観測し、明治13年(1880年)日本地震学会を創設するなど、わが国の地震学の創設者の一人であり、近代地震学のもとを築きました。 ミルンは、明治10年(1877年)に地質調査のために来函し、翌年も先住民俗の貝塚などを調査するため函館を訪れています。明治14年(1881年)東京で堀川乗経の長女トネを知って結婚し、明治28年(1895年)トネを伴ってイギリスに帰国しました。大正2年(1913年)ミルンの死去後、トネは病身となり大正8年(1919年)函館に帰り、大正14年(1925年)世を去りました。 この墓地には、堀川乗経とジョン・ミルン、トネ夫妻の墓があります。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a0%80%e5%b7%9d%e4%b9%97%e7%b5%8c%e3%80%80%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%83%9f%e3%83%ab%e3%83%b3%e3%80%81%e3%83%88%e3%83%8d%e5%a4%ab%e5%a6%bb,0 433,天下の号外屋翁の墓,テンカノゴウガイヤオウノハカ,,2015年10月26日,2021年6月29日,http://donan-museums.jp/archives/433,,函館市,西部地区,函館市船見町26番,大正,,未分類,41.7644653,140.6946259,"天下の号外屋翁の墓 信濃助治は、明治27年(1894年)6月、衣類・コート・帽子・足袋のはてまで赤ずくめで来函した。 同年11月、日清戦争の頃、彼は北海新聞の号外を函館市民にまいて“天下の号外屋”と称して売り出し、「赤服」と呼ばれていた。 「赤心」(いつわりの無い心)は日本武道の精髄を表すとして、すべて赤色を用いたとのことである。 日清戦争終結後は、戦勝記念に名将軍を全国に訪ねて書を頼むなど、奇行の多い人だったので、当時の地元の新聞にも奇人として紹介されている。","天下号外屋翁之墓 信浓助治在明治27年(1894年)6月身穿红衣、头戴红帽、脚踩红鞋来到函馆。 同年11月日清战争之际,他自称“天下号外屋”提供北海新闻的号外给函馆市民,被称作“赤服”。 “赤心”(赤诚之心)代表日本武道的精随,故而选择一身红色的装扮。 日清战争结束后,为了纪念战胜而走访全国拜访名将求字,各种奇妙行为让他被当地新闻以奇人为题做了介绍。 函馆市","天下號外屋翁之墓 信濃助治在明治27年(1894年)6月身穿紅衣、頭戴紅帽、腳踩紅鞋來到函館。 同年11月日清戰爭之際,他自稱“天下號外屋”提供北海新聞的號外給函館市民,被稱作「赤服」。 「赤心」(赤誠之心)代表日本武道的精隨,故而選擇一身紅色的裝扮。 日清戰爭結束後,為了紀念戰勝而走訪全國拜訪名將求字,各種奇妙行為讓他被當地新聞以奇人為題做了介紹。 函館市",,,"สุสานของเจ้าแห่งหนังสือพิมพ์ฉบับพิเศษ ชินาโนะ ซึเคจิ มาที่ฮาโกดาเตะเมื่อเดือนมิถุนายน ปีเมจิที่ 27 (ค.ศ.1894) ด้วยชุดแดงตั้งแต่หัวจรดเท้า ไม่ว่าจะเป็นเสื้อผ้า เสื้อโค้ท หมวก ถุงเท้า เดือนพฤศจิกายนปีเดียวกัน ช่วงสงครามญี่ปุ่น-ชิง เขาได้แจกหนังสือพิมพ์ฮอกไกฉบับพิเศษแก่ชาวเมืองฮาโกดาเตะ และโปรโมทตัวเองโดยใช้ชื่อว่า ""เจ้าแห่งหนังสือพิมพ์ฉบับพิเศษ"" และถูกเรียกว่า ""อะคะฟุกุ"" หรือ ""นายชุดแดง"" ""หัวใจสีแดง"" (หัวใจที่ซื่อสัตย์ไม่โกหก) ที่ใช้สีแดงท้งหมด เป็นการแสดงออกถึงหัวใจของศิลปะการต่อสู้ของญี่ปุ่น เมื่อสงครามญี่ปุ่น-ชิงสิ้นสุดลง ได้เดินทางไปทั่วประเทศญี่ปุ่นเพื่อขอร้องให้แม่ทัพที่มีชื่อเสียงเขียนหนังสือให้ เนื่องจากเป็นคนที่มีพฤติกรรมแปลกๆ และหนังสือพิมพ์ท้องถิ่นในขณะนั้นก็เขียนแนะนำเขาว่าเป็นคนแปลกอีกด้วย","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町27−16",,"信濃助治は、明治27年(1894年)6月、衣類・コート・帽子・足袋のはてまで赤ずくめで来函した。 同年11月、日清戦争の頃、彼は北海新聞の号外を函館市民にまいて“天下の号外屋”と称して売り出し、「赤服」と呼ばれていた。 「赤心」(いつわりの無い心)は日本武道の精髄を表すとして、すべて赤色を用いたとのことである。 日清戦争終結後は、戦勝記念に名将軍を全国に訪ねて書を頼むなど、奇行の多い人だったので、当時の地元の新聞にも奇人として紹介されている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a4%a9%e4%b8%8b%e3%81%ae%e5%8f%b7%e5%a4%96%e5%b1%8b%e7%bf%81%e3%81%ae%e5%a2%93,0 436,咬菜園跡,コウサイエンアト,,2015年10月26日,2021年6月29日,http://donan-museums.jp/archives/436,,函館市,西部地区,函館市船見町3番8号,近世,近世,未分類,41.7662010,140.7057037,"咬菜園跡 安政4年(1857年)、名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1,140余坪(約3,770㎡)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植したので四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園として親しんだ。 咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者、武田斐三郎が名付親である。 明治2年(1869年)、箱館戦争時、榎本軍(旧幕府脱走軍)に追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本武揚は、同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。 明治2年(1869年)、箱館戦争時、榎本軍(旧幕府脱走軍)に追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本武揚は、同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。 同年5月16日、三郎助は五稜郭の前線基地千代ヶ岡陣屋(現中島町)で最後まで降伏を拒み、長男恒太郎(22歳)、次男英次郎(19歳)ともども壮烈な戦死を遂げた。 函館市","咬菜园遗迹 安政4年(1857年),知名慈善家堺屋新三郎从箱馆奉行买下1,140多坪(约3,770平方米)的土地创立庵居,由于从各地移植名花名木因此四季皆有繁花美景相伴,作为箱馆第一名园而广受当时的住民喜爱。 咬菜意指粗食,由五稜郭设计监督的西方学者武田斐三郎亲自命名。 明治2年(1869年)箱馆战争之际,榎木武扬接到新政府下达榎本军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队)讨伐令,军舰已从品川出港的战报后,在同年的3月14日与干部6人一同前来咬菜园享受最后的宁静。 作为箱馆奉行并(军政要职)的中岛三郎助同时也是位知名的诗人,在众多优秀的作品中,「ほととぎす われも血を吐く思い哉」(杜鹃鸟 吾欲呕血与君同哉) 、「われもまた 死士と唿ばれん白牡丹」(吾为被称作死士的白牡丹)等辞世诗句皆为此时留下。 同年5月16日,三郎助死守五稜郭的前线基地千代冈阵屋(现中岛町)拒绝受降,与长男恒太郎(22岁)、次男英次郎(19岁)一同在战场上壮烈牺牲。 函馆市","咬菜園遺跡 安政4年(1857年),知名慈善家堺屋新三郎從箱館奉行買下1,140多坪(約3,770平方公尺)的土地創立庵居,由於從各地移植名花名木因此四季皆有繁花美景相伴,作為箱館第一名園而廣受當時的住民喜愛。 咬菜意指粗食,由五稜郭設計監督的西方學者武田斐三郎親自命名。 明治2年(1869年)箱館戰爭之際,榎木武揚接到新政府下達榎本軍(因為拒絕追隨幕府投降而離開的舊幕府脫走軍)討伐令且軍艦已從品川出港的戰報後,在同年的3月14日與幹部6人一同前來咬菜園享受最後的寧靜。 作為箱館奉行並(軍政要職)的中島三郎助同時也是位知名的詩人,在眾多優秀的作品中,「ほととぎす われも血を吐く思い哉 」(杜鵑鳥 吾欲嘔血與君同哉) 、「われもまた 死士と呼ばれん白牡丹」(吾為被稱作死士的白牡丹)等辭世詩句皆為此時留下。 同年5月16日,三郎助死守五稜郭的前線基地千代岡陣屋(現中島町)拒絕受降,與長男恒太郎(22歲)、次男英次郎(19歲)一同在戰場上壯烈犧牲。 函館市",,,"ซากสวนโคไซเอ็น ปีอันเซที่ 4 (ค.ศ.1857) ซาไกยะ ชินซาบุโร ผู้ซึ่งเป็นที่รู้จักในฐานะผู้ใหญ่บ้านและผู้ใจบุญ ได้รับที่ดินจากฮาโกดาเตะบุเกียว จำนวน 1,140 ทสึโบะ(ประมาณ 3,770 ตร.ม.) และสร้างกระท่อมขึ้นที่นี่ ย้ายต้นไม้และดอกไม้ที่ขึ้นชื่อมาปลูก ทำให้มีดอกไม้หลากชนิดบานสะพรั่งตลอดสี่ฤดู เป็นสวนขึ้นชื่ออันดับหนึ่งที่ชาวเมืองฮาโกดาเตะในสมัยนั้นใช้พักผ่อนหย่อนใจ โคไซ หมายถึง อาหารที่เรียบง่าย ผู้ที่ตั้งชื่อคือ ทาเคดะ อายะซาบุโร นักวิชาการด้านการศึกษาตะวันตกที่เป็นผู้ออกแบบและกำกับการก่อสร้างป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ. 1869) ตอนสงครามฮาโกดาเตะ มีคำสั่งให้ตามล่ากองทัพเอะโนะโมโตะ (กองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม) เอะโนะโมโตะ ทาเคะอากิที่ได้รับรายงานว่าเรือรบของรัฐบาลใหม่ ออกจากท่าเรือชินางาวะ วันที่ 14 มีนาคมปีเดียวกัน เขาจึงออกไปเที่ยวส่งท้ายที่สวนโคไซเอ็นแห่งนี้ พร้อมกับแกนนำ 6 คน ฮาโกดาเตะบุเกียว นาคาจิมะ ซาบุโรสุเกะ ซึ่งเป็นที่รู้จักว่าเป็นกวีไฮกุ ที่มีผลงานยอดเยี่ยมมากมาย ได้เขียนไฮกุลาตายทิ้งไว้ว่า ""นกโฮโทโทกิสึ ฉันรู้สึกเหมือนจะกระอักเลือด"" ""เราก็เหมือนดอกโบตั๋นสีขาว ที่อาจถูกเรียกว่าเป็นทหารที่พร้อมจะตาย"" วันที่ 16 พฤษภาคม ปีเดียวกัน ที่ชิโยะงาโอกะ (ปัจจุบันคือตำบลนากาจิมะ) ซึ่งเป็นฐานที่มั่นก่อนป้อมรูปดาว โกะเรียวคาคุ ซาบุโรสุเกะ ปฏิเสธที่จะยอมแพ้จนถึงนาทีสุดท้าย ได้เสียชีวิตในสงครามพร้อมกับบุตรชายคนโต โคทาโร (อายุ 22 ปี) และบุตรชายคนรอง เอจิโร (อายุ 19 ปี)","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町3−8",,"安政4年(1857年)名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪(約3770㎡)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植したので四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園として親しんだ。 咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者、武田斐三郎が名付親である。 明治2年(1869年)箱館戦争時、追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本軍(旧幕府脱走軍)総裁榎本武揚は同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。 箱館奉行並中鳥三郎助は、俳人としても知られ、数多くの秀作があるが、「ほととぎす われも血を吐く思い哉」「われもまた 死士と呼ばれん白牡丹」の辞世の句などはこの時残したものである。 同年5月16日、三郎助は五稜郭の前線基地千代ヶ岡陣屋(現中島町)で最後まで降伏を拒み、長男恒太郎(22歳)次男英次郎(19歳)ともども壮烈な戦死を遂げた。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%92%ac%e8%8f%9c%e5%9c%92%e8%b7%a1,0 438,己巳役海軍戦死碑,キシノエキカイグンセンシヒ,"",2015年10月26日,2021年6月6日,http://donan-museums.jp/archives/438,1588,函館市,西部地区,北海道函館市船見町6(元官修墓地),明治,明治,碑・像,41.7657547,140.7038727,"己巳役海軍戦死碑 ここは、明治2年(1869年)の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、旧幕府脱走軍に攻撃を開始し、5月11日箱館湾海戦で新政府軍軍艦「朝陽」は、旧幕府脱走軍軍艦「蟠龍」の砲弾を受けて沈没した。 この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の新政府軍海軍の戦死者名が刻まれている。建立年月は記されていないが、明治2年(1869年)に建立されたものと思われる。 碑の石は、「高田屋の亀石」と呼ばれていた石の一部であり、高田屋嘉兵衛全盛のころ、現宝来町に築かれた「高田屋御殿」と呼ばれた豪邸の庭園に据えられていたものである。 嘉兵衛が、貧民救済の目的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの巨石を多数の人を動員して引き揚げさせたところ、亀に似ていたので亀石と呼ばれた。 函館護國神社(青柳町)にある「海陸軍戦死人名」碑と「招魂場」碑も同じ亀石を割って作られたものであり、いずれも箱館戦争新政府軍戦没者を祀った記念碑である。 函館市","己巳役海军战死碑 这里是明治2年(1869年)箱馆战争中战死的新政府海军慰霊之墓。同年4月整备妥当讨伐体制的新政府军开始进攻旧幕府脱走军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队),5月1日在箱馆湾海战中新政府军军舰朝阳号遭到旧幕府脱走军军舰蟠龙号砲击沉没。 此石碑上刻有朝阳舰副舰长夏秋又之助其下73名新政府军海军战死者的名字,虽没有记载建立日期,推测建于明治2年(1869年)。 碑石是曾在高田屋嘉兵卫全盛时期,置放于现今宝来町“高田屋御殿”豪宅庭院中,被称为“高田屋龟石”的一部分。 嘉兵卫曾经兼具救助贫民为目的,动员多人打捞住吉滨的海中巨石,因为此石形似乌龟而被称作龟石。 函馆护国神社(青柳町)的“海陆军战死人名”碑和“招魂场 ”碑也同样是切割龟石做成,两者皆为祭奠箱馆战争新政府军战死者的纪念碑。 函馆市","己巳役海軍戰死碑 這裡是明治2年(1869年)箱館戰爭中戰死的新政府海軍慰霊之墓。同年4月整備妥當討伐體制的新政府軍開始進攻舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍),5月1日在箱館湾海戰中新政府軍軍艦朝陽號遭到幕府脫走軍軍艦蟠龍號砲擊沉沒。 此石碑上刻有朝陽艦副艦長夏秋又之助其下73名新政府軍海軍戰死者的名字,雖沒有記載建立日期,推測建於明治2年(1869年)。 碑石是曾在高田屋嘉兵衛全盛時期,置放於現今寶來町「高田屋御殿」豪宅庭院中,被稱為「高田屋龜石」的一部分。 嘉兵衛曾經兼具救助貧民為目的,動員多人打撈住吉濱的海中巨石,因為此石形似烏龜而被稱作龜石。 函館護國神社(青柳町)的「海陸軍戰死人名」碑和「招魂場 」碑也同樣是切割龜石做成,兩者皆為祭奠箱館戰爭新政府軍戰死者的紀念碑。 函館市",,,"อนุสาวรีย์รำลึกทหารเรือที่เสียชีวิตจากสงครามคิชิโนะเอคิ (อีกชื่อหนึ่งของสงครามฮาโกดาเตะ) ที่นี่เป็นสุสานเพื่อไว้ทุกข์แก่ทหารเรือของรัฐบาลใหม่ ที่เสียชีวิตในสงครามฮาโกดาเตะ เมื่อปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) เดือนเมษายนปีเดียวกัน กองทัพรัฐบาลใหม่ที่ตั้งระบบปราบปราม ได้เริ่มโจมตีกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม และวันที่ 11 พฤษภาคม ในสมรภูมิรบทางทะเล เรือรบของกองทัพรัฐบาลใหม่ ""โชโย"" จมลง เพราะถูกลูกปืนของเรือรบของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม ""บันริว"" อนุสาวรีย์รำลึกนี้ สลักชื่อรองผู้บังคับการเรือโชโย ชื่อ นัทสึอากิ มาตะโนะสุเกะ และทหารเรือของกองทัพรัฐบาลใหม่ที่เสียชีวิต 73 นาย วันที่ก่อตั้งไม่ได้ถูกระบุไว้ แต่คาดว่าก่อตั้งเมื่อปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) หินที่นำมาใช้ เป็นส่วนหนึ่งของหินที่เรียกว่า ""ทาคาดะยะ โนะ คาเมะอิชิ (หินรูปเต่าของทาคาดะยะ"" เป็นหินที่อยู่ในสวนของคฤหาสน์ที่มีชื่อว่า ""ทาคาดะยะ โกะเต็น"" ที่สร้างขึ้นที่ตำบลโฮไรในปัจจุบัน ในช่วงที่ทาคาดะยะ คะเฮรุ่งเรืองถึงขีดสุด เมื่อคะเฮ ส่งคนจำนวนมากไปยกหินขนาดมหึมาขนาดประมาณ 2 เสื่อทาทามิ ที่อยู่ในทะเลชายหาดซึมิโยชิ เพื่อเป็นการช่วยเหลือคนยากจนด้วยในคราวเดียว หินก้อนนี้มีรูปร่างคล้ายเต่า จึงถูกเรียกว่า ""คาเมะอิชิ (หินรูปเต่า)"" อนุสาวรีย์รำลึก ""ชื่อทหารเรือผู้เสียชีวิตจากสงคราม"" และ อนุสาวรีย์รำลึก ""โชคงโจ"" ที่ตั้งอยู่ในศาลเจ้าฮาโกดาเตะโกะโคคุ (ตำบลอาโอยางิ) ก็กระเทาะหินรูปเต่ามาทำ ซึ่งทั้งหมดเป็นอนุสาวรีย์รำลึกสำหรับทหารกองทัพรัฐบาลใหม่ผู้เสียชีวิตจากสงครามฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町6−6",,,,,,okuno.s,建立年は不明であるが、「己巳役海軍戦死者函館府在住隊之碑」建立の1869年(明治2年)8月以後のこと。(「道南の碑」),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/hako098.jpg,hako098.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/hako098.jpg,1588,hako098,,,,%e5%b7%b1%e5%b7%b3%e5%bd%b9%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e6%88%a6%e6%ad%bb%e7%a2%91,0 440,山上大神宮,ヤマノウエダイジングウ,,2015年10月26日,2021年6月29日,http://donan-museums.jp/archives/440,,函館市,西部地区,函館市船見町15番,,中世||近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7667770,140.7015991,"山上大神宮 山上大神宮は、社伝によると今から600年ほど前の応安年間(室町初期)、藤坊という修験者がこの地に渡来し、亀田赤井川村神明山に草庵を結び、伊勢神宮の御霊をいただいたのが始まりと伝えられる。 その後、明暦元年(1655年)5月、尻澤辺村(現在の住吉町)に移し、箱館神明宮と称したとも伝えられる。天和2年(1682年)、現在の西消防署弥生出張所付近に移転し、明治7年(1874年)、社名をこの地の山之上町をとり山上大神宮と改称し、明治9年(1876年 )郷社となった。 幕末の頃、当宮8代神職であった澤辺琢磨(旧名山本琢磨)は土佐藩士で、坂本龍馬、武市半平太とは親類関係にあった。 また、箱館戦争の時、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍に加わった桑名藩主松平定敬の御座所に使用されるなど、歴史的にも由緒ある神社である。 函館市","山上大神宫 根据社传记载,山上大神宫是在距今约600年前的应安年间(室町初期),有位叫做藤坊的修验者来到此地,在龟田赤井川村神明山搭建草庵并从伊势神宫请来神灵后开创。 而后于明历元年(1655年)5月搬到尻泽边村(现住吉町),箱馆神明宫的称唿也流传下来。天和2年(1682年)转移到现在的西消防署弥生出张所(派出所)附近,明治7年(1874年)将名称改为跟地名山之上町一样的山上大神宫,并在明治9年(1876年 )成为神社规制下的乡社。 幕府末年之际,担任第8代神职的泽边琢磨(旧名山本琢磨)身为土佐藩士,与坂本龙马、武市半平太有着亲属关系。 另外,在箱馆战争之际加入榎本武扬所率领的旧幕府军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队)的桑名藩主松平定敬曾经将此处作为居所使用,是很有歷史感的神社。 函馆市","山上大神宮 根據社傳記載,山上大神宮是在距今約600年前的應安年間(室町初期),有位叫做藤坊的修驗者來到此地,在龜田赤井川村神明山搭建草庵並從伊勢神宮請來神靈後開創。 而後於明曆元年(1655年)5月搬到尻澤邊村(現住吉町),箱館神明宮的稱呼也流傳下來。天和2年(1682年)轉移到現在的西消防署彌生出張所(派出所)附近,明治7年(1874年)將名稱改為跟地名山之上町一樣的山上大神宮,並在明治9年(1876年 )成為神社規制下的鄉社。 幕府末年之際,擔任第8代神職的澤邊琢磨(舊名山本琢磨)身為土佐藩士,與坂本龍馬、武市半平太有著親屬關係。 另外,在箱館戰爭之際加入榎本武揚所率領的舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)的桑名藩主松平定敬曾經將此處作為居所使用,是相當具有歷史性的神社。 函館市",,,"ศาลเจ้าใหญ่ยามะโนะอุเอะ ศาลเจ้าใหญ่ยามะโนะอุเอะ ตามตำนานของศาลเจ้าที่สืบทอดกันมากล่าวกันว่า 600 ปีมาแล้ว ช่วงปีโออัน (ช่วงแรกของสมัยมุโรมาจิ) มีนักพรตชื่อ ฟูจิโบ มายังที่แห่งนี้ ได้สร้างอาศรมอยู่ที่หมู่บ้านคาเมดะอาไคงาวะ ภูเขาจินเม และได้รับวิญญาณเทพเจ้ามาจากศาลเจ้าอิเสะ จึงเป็นจุดเริ่มต้นของศาลเจ้าแห่งนี้ และยังกล่าวกันด้วยว่า หลังจากนั้น ในเดือนพฤษภาคม ปีเมเรคิที่ 1 (ค.ศ.1655) ได้ย้ายมาที่หมู่บ้านชิริซาวาเบะ (ปัจจุบันคือตำบลซุมิโยชิ) และเปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าฮาโกดาเตะจินเมงู ในปีเทนนะที่ 2 (ค.ศ. 1682) ได้ย้ายมาอยู่แถวสถานีดับเพลิงนิชิ สาขาย่อยยาโยย ในปัจจุบัน ในปีเมจิที่ 7 (ค.ศ.1874) เปลี่ยนชื่อศาลเจ้าเป็นศาลเจ้าใหญ่ยามะโนะอุเอะ โดยตั้งจากชื่อตำบลยามะโนะอุเอะ ซึ่งเป็นที่ตั้งในปัจจุบัน และในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) ได้เลื่อนเป็นศาลเจ้าประจำหมู่บ้าน ช่วงปลายสมัยเอโดะ นักบวชชินโตรุ่นที่ 8 ซาวาเบะ ทาคุมะ (ชื่อเดิม ยามาโมโตะ ทาคุมะ) มีความเกี่ยวดองเป็นญาติกับซาคาโมโตะ เรียวมะ และทาเคะอิจิ ฮัมเปตะ ชาวแคว้นโทะสะ และในช่วยสงครามฮาโกดาเตะ ถูกใช้เป็นที่พักของหัวหน้าแคว้นคุวานะ มัตสึไดระ ซาดาอากิ ที่เข้าร่วมกับกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม นำโดยเอะโนะโมโตะ ทาเคะอากิ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町15",,"山上大神宮は、社伝によると今から600年ほど前の応安年間(室町初期)、藤坊という修験者がこの地に渡来し、亀田赤井川村神明山に草庵を結び、伊勢神宮の御霊をいただいたのが始まりと伝えられる。 その後、明暦元年(1655年)5月、尻澤辺村(現在の住吉町)に移し、箱館神明宮と称したとも伝えられる。 天和2年(1682年)現在の西消防署弥生出張所付近に移転し、明治7年(1874年)社名をこの地の山之上町をとり山上大神宮と改称し、明治9年(1876年)郷社となった。 幕末の頃、当宮8代神職であった澤辺琢磨(旧名山本琢磨)は、土佐藩士で坂本龍馬、武市半平太とは親類関係にあった。また、箱館戦争の時、榎本武揚率いる旧幕府軍に加わった桑名藩主松平定敬(さだあき)の御座所に使用されるなど、歴史的にも由緒ある神社である。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%b1%b1%e4%b8%8a%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae,0 442,土方歳三と新選組隊士の供養碑,ヒジカタトシゾウトシンセングミタイシノクヨウヒ,,2015年10月26日,2021年6月29日,http://donan-museums.jp/archives/442,,函館市,西部地区,函館市船見町18番 称名寺内,近世||昭和,近世,未分類,41.7692451,140.7015839,"土方歳三と新撰組隊士の供養碑 土方歳三(新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、異国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記している。 称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年(1973年)に有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年(1954年)の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。","土方岁三与新撰组队士的供养碑 土方岁三(新撰组副长)加入榎本军后战死于函馆。该地点是在一本木(若松町)、鹤冈町还是异国桥(十字街)虽然众说纷纭,东京都日野市金刚寺记载着死去信徒的帐簿中提到函馆称名寺建有土方的供养碑。 称名寺在明治期间曾经发生过3次大火,供养碑并未保存下来,到了昭和48年(1973年)才由有志之士重新建立了现在的石碑。其他4名新撰组队员在称名寺墓地原有墓碑,但在昭和29年(1954年)时遭受颱风破坏,如今也将他们的姓名刻在这个石碑上。","土方歲三與新撰組隊士的供養碑 土方歲三(新撰組副長)加入榎本軍後戰死於函館。該地點是在一本木(若松町)、鶴岡町還是異國橋(十字街)雖然眾說紛紜,東京都日野市金剛寺記載著死去信徒的帳簿中提到函館稱名寺建有土方的供養碑。 稱名寺在明治期間曾經發生過3次大火,供養碑並未保存下來,到了昭和48年(1973年)才由有志之士重新建立了現在的石碑。其他4名新撰組隊員在稱名寺墓地原有墓碑,但在昭和29年(1954年)時遭受颱風破壞,如今也將他們的姓名刻在這個石碑上。",,,"อนุสรณ์ศิลารำลึก ฮิจิคาตะ โทชิโซ และ กลุ่มตำรวจพิเศษชินเซ็นกุมิ ฮิจิคาตะ โทชิโซ (รองหัวหน้ากลุ่มตำรวจพิเศษชินเซ็นกุมิ) เข้าร่วมกับกองทัพเอะโนะโมโตะ และเสียชีวิตที่ฮาโกดาเตะ ซึ่งมีหลายทฤษฎีระบุว่า สถานที่นั้นคือ อิปปงงิ (ตำบลวาคะมัตสึ), ตำบลทสึรุโอกะ, สะพานอิโคคุ(ย่านจูจิ) ฯลฯ แต่ในสมุดบันทึกอดีตของวัดคงโงจิ ที่อำเภอฮิโนะ กรุงโตเกียว ซึ่งเป็นสถานที่ที่มีความเกี่ยวข้องกับฮิจิคาตะ บันทึกไว้ว่า ได้สร้างอนุสรณ์ศิลารำลึกไว้ที่วัดโชเมียวจิที่ฮาโกดาเตะ ในช่วงรัชสมัยเมจิ เกิดเพลิงไหม้ที่วัดโชเมียวจิถึง 3 ครั้ง ทำให้ไม่มีอนุสรณ์ศิลารำลึกแผ่นเดิมเหลืออยู่ในปัจจุบัน แต่เมื่อปีโชวะที่ 48 (ค.ศ.1973) ได้มีอาสาสมัคร สร้างอนุสรณ์ศิลารำลึกแผ่นที่เห็นในปัจจุบัน ท่านอื่นๆ อีก 4 ท่าน เป็นสมาชิกของกลุ่มตำรวจพิเศษชินเซ็นกุมิ มีแผ่นหินหลุมฝังศพที่สุสานวัดโชเมียวจิ แต่ได้ถูกใต้ฝุ่นพัดเสียหายในปีโชวะที่ 29(ค.ศ.1954) จึงสลักชื่อไว้ที่อนุสรณ์ศิลารำลึกแผ่นนี้","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18",,"土方歳三と新撰組隊士の供養碑 土方歳三(新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記している。 称名寺は、明治期の大火で、3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%9c%9f%e6%96%b9%e6%ad%b3%e4%b8%89%e3%81%a8%e6%96%b0%e9%81%b8%e7%b5%84%e9%9a%8a%e5%a3%ab%e3%81%ae%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91,0 444,河野加賀守政通の供養碑,コウノカガノカミマサミチノクヨウヒ," ",2015年10月26日,2021年6月29日,http://donan-museums.jp/archives/444,1595,函館市,西部地区,函館市船見町18(称名寺内),近世,中世,碑・像,41.7692451,140.7015839,"河野加賀守政通の供養碑 河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年(1869年)までは「箱館」と書いた。 永正9年(1512年)、子・季通の時アイヌに攻められ館は陥落した 。 この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行 が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。","河野加贺守政通的供养碑 河野政通离开伊予(爱媛县)后,于享德3年(1454年)到来并在如今的基坂上面建立了城池。这片区域在阿依努语中原被称为usukeshi(海湾中突出的一角之意),据说由于这个城池的外观形似箱子才出现了箱馆的地名,一直到明治2年(1869年)为止都书写为“箱馆”。 永正9年(1512年)其子季通在位时此城被阿依努族攻陷。 这个碑是在宝历3年(1753年)时由松前藩的龟田奉行所建,正面刻有“捐馆高峰院殿加屋凌云大居士 神仪”,背面则记载着碑文。","河野加賀守政通的供養碑 河野政通離開伊予(愛媛縣)後,於享德3年(1454年)到來並在如今的基坂上面建立了城池。這片區域在阿依努語中原被稱為usukeshi(海灣中突出的一角之意),據說由於這個城池的外觀形似箱子才出現了箱館的地名,一直到明治2年(1869年)為止都書寫為「箱館」。 永正9年(1512年)其子季通在位時此城被阿依努族攻陷。 這個碑是在寶曆3年(1753年)時由松前藩的龜田奉行所建,正面刻有「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」,背面則記載著碑文。",,,"อนุสรณ์ศิลารำลึก โคโนะคะงะโนะคะมิมาซามิจิ โคโนะ มาซามิจิ เกิดที่อิโยะ (จังหวัดเอะฮิเมะ) มาที่ฮอกไกโดในปีเคียวโตคุที่ 3 (ค.ศ.1454) และสร้างคฤหาสน์ขึ้นบนเนินโมโตอิซากะ ซึ่งแถบนี้ ภาษาไอนุ จะเรียกว่า อุสึเคชิ (หมายถึง ปลายอ่าว) และเพราะคฤหาสน์หลังนี้มีรูปร่างเหมือนกล่อง จึงว่ากันว่าเป็นที่มาของชื่อฮาโกดาเตะ (""ฮาโก"" แปลว่า ""กล่อง"") และใช้ตัวคันจิที่หมายถึง ""คฤหาสน์กล่อง"" เขียนแล้วอ่านว่า ""ฮาโกดาเตะ"" จนกระทั่งถึงปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) ในปีเอโชที่ 9 (ค.ศ.1512) รุ่นของบุตรชายชื่อ สึเอะมิจิ ถูกชาวเผ่าไอนุบุกโจมตี ทำให้คฤหาสน์หลังนี้ถูกทำลายไป อนุสรณ์ศิลารำลึกแผ่นนี้ คาเมดะบุเกียวแห่งแคว้นมัตสึมาเอะ ได้สร้างขึ้นในปีโฮเรคิที่ 3 (ค.ศ.1753) โดยด้านหน้า สลักไว้ว่า ""捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀"" และด้านหลังมีข้อความจารึก","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18","(表) 河野加賀守政通(こうのかがのかみまさみち)公の供養碑 河野政通公は享徳三年(一四五四)南部大畑より渡来し、現在の函館病院附近に館を築き函館一帯の地を治めた。 後、アイヌ等を和人の間に争を生じ館は陥ち政通公も戦歿す。ここの供養碑は宝暦三年(一七五三)時の亀田奉行、政通公の祭祀の無きを嘆き弥生小学校辺にありし称名寺に建立せしが、後称名寺の移転と共に現在地に至りしものである。 (裏) 平成元年七月吉日建之","河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。 永正9年(1512年)、子季通(すえみち)の時アイヌに攻められ館は陥ちた。 この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。 函館市 ■追加解説 これの供養碑は、亀田奉行酒井喜澄が、1753年(宝暦3年)4月8日、箱館の館主河野政通を供養して建立したものである。",,,,okuno.s,「函館市史資料集」第26集(函館市史編纂委員会)も参照のこと。肝心の碑石は?,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/hako102.jpg,hako102.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/hako102.jpg,1595,hako102,,,,%e6%b2%b3%e9%87%8e%e5%8a%a0%e8%b3%80%e5%ae%88%e6%94%bf%e9%80%9a%e3%81%ae%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91,0 447,高田屋嘉兵衛一族の墓,タカダヤカヘエイチゾクノハカ,,2015年10月26日,2021年6月29日,http://donan-museums.jp/archives/447,,函館市,西部地区,函館市船見町18番 称名寺内,近世,近世,未分類,41.7692451,140.7015839,"高田屋嘉兵衛一族の墓 高田屋嘉兵衛は明和6年(1769年)淡路島に生まれ、廻船を業とし、寛政10年(1798年)、箱館大町に支店を設けた。 以来、弟・金兵衛と力を合わせ、千島エトロフの開発と共に、巨富をもって箱館の殖産興業に多大な業績を残した。日露両国間の問題解決に努力したのも有名で、その顕彰碑は観音堂前にある。郷里で没したから墓は淡路にもあるが、金兵衛の系統が函館に住んだので、称名寺にも墓が建てられた。 函館市","高田屋嘉兵卫一族之墓 高田屋嘉兵卫在明和6年(1769年)于淡路岛出生,经营船运的他在宽政10年(1798年)时到箱馆大町设立分店。而后又与弟弟金兵卫合力开发择捉岛,并投以巨资在箱馆地区留下了许多发展新兴产业的业绩。因为致力于解决日俄两国问题而相当出名,在观音堂前留有相关事件的彰显碑。回归故里后虽然葬在淡路,不过由于金兵卫一系依然居住在函馆,也为他在称名寺建造了坟墓。 函馆市","高田屋嘉兵衛一族之墓 高田屋嘉兵衛在明和6年(1769年)於淡路島出生,經營船運的他在寬政10年(1798年)時到箱館大町設立分店。而後又與弟弟金兵衛合力開發擇捉島,並投以巨資在箱館地區留下了許多發展新興產業的業績。因為致力於解決日俄兩國問題而相當出名,在觀音堂前留有相關事件的彰顯碑。回歸故里後雖然葬在淡路,不過由於金兵衛一系依然居住在函館,也為他在稱名寺建造了墳墓。 函館市",,,"สุสานของครอบครัวทาคาดะยะ คะเฮ ทาคาดะยะ คะเฮ เกิดเมื่อปีเมวะที่ 6 (ค.ศ.1769) ที่เกาะอะวาจิ ทำธุรกิจเรือสำราญ ได้มาเปิดสาขาที่ตำบลโอมาชิของฮาโกดาเตะ ในปีคันเซที่ 10 (ค.ศ.1798) ตั้งแต่นั้นเป็นต้นมา ก็ช่วยกันกับน้องชายชื่อคิมเบพัฒนาคุริลเอโทรอฟ พร้อมๆ กับประสบความสำเร็จอย่างมากในด้านการกระตุ้นอุตสาหกรรมใหม่ๆของฮาโกดาเตะ ทำให้มีฐานะมั่งคั่ง มีทรัพย์สินมหาศาล และมีชื่อเสียงในด้านการพยายามแก้ปัญหาระหว่างรัสเซียและญี่ปุ่น แผ่นศิลารำลึกแสดงความเคารพเขา ตั้งอยู่หน้าวิหารเจ้าแม่กวนอิม เนื่องจากเขาเสียชีวิตที่บ้านเกิด จึงมีหลุมฝังศพของเขาอยู่ที่อะวาจิด้วย แต่เชื้อสายของคิมเบอาศัยอยู่ที่ฮาโกดาเตะ หลุมฝังศพจึงถูกสร้างขึ้นที่วัดโชเมียวจิด้วย","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18",,"高田屋嘉兵衛は、明治6年(1769年)淡路島に生まれ、廻船を業とし、寛政10年(1798年)箱館大町に支店を設けた。 以来、弟金兵衛と力を合わせ、千島エトロフの開発と共に巨富をもって箱館の殖産興業に多大な業績を残した。 日露両国間の問題解決に努力したのも有名で、その顕彰碑は観音堂前にある。郷里で没したから墓は淡路にもあるが、金兵衛の系統が函館に住んだので、称名寺にも墓が建てられた。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e9%ab%98%e7%94%b0%e5%b1%8b%e5%98%89%e5%85%b5%e8%a1%9b%e4%b8%80%e6%97%8f%e3%81%ae%e5%a2%93,0 449,旧ロシア領事館,キュウロシアリョウジカン,"■観光説明板 安政元年(1854年)12月の日露和親条約に基づき、安政5年(1858年)9月初代領事ゴシケーヴィチが着任、実行寺(じつぎょうじ)に領事館を置いた。万延元年(1860年)、元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てたが、隣の英国領事館の火災で被災した。明治36年(1903年)、現在地で領事館の建設が始められたが、翌年の日露戦争で中断し、完成したのは明治39年であった。この建物は明治40年の大火で焼失するが、その直後から同じ場所で再建工事が始まり、同41年暮れに完成した(現在の建物)。 ロシア革命後、大正14年(1925年)からはソ連領事館となったが、最後の領事ザベーリエフが本国に引揚げた翌年の昭和19年(1944年)10月1日、領事館は閉鎖された。 昭和39年(1964年)に外務省から函館市が建物を購入、翌年5月から「函館市立道南青年の家」として近隣町村を含めた青少年宿泊研修施設として使用されたが、平成8年(1996年)7月「函館市青少年研修センター」の開館により、その機能は終了した。 設計はドイツ人建築家のR.ゼールで、レンガ造り2階建ての本館は、玄関に唐破風(からはふ)を用い、日本的な意匠が加味されている。函館市
The Old Russian Consulate Hakodate's frst Russian Consul Goshkevich took up his post in September 1858 as a result of the Japan and Russia Peace and Amity Treaty which was concluded in December 1854.The original Russian Consulate was established on the site of the current Russian Orthodox Church in Motomachi in 1860 however it was destroyed by a fire which started in the adjacent Engnsh Consulate. Work on a new Consulate commenced in 1903 at the present location but it wasn't completed until 1906,due to the Russo-Japanese War.However it was soon destroyed by the big fire of August 1907.Construction of the existing building was completed at the end of the following year. After the Russian Revolution,it was used as the Soviet Consulate from 1925 untnl 1944,when Consul Zaveliev repatriated on September 30. In 1964 Hakodate City bought the building from the Ministry of Foreign Affairs.It served as a youth lodging and training centre, (the Southern Hokkaido Youth House) until July l996 and is currently not in use. This building was designed by German architect Richard Seel.The two-storied main building is made of brick and the cusped gables used at the entrance give it a Japanese style.City of Hakodate
",2015年10月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/449,,函館市,西部地区,函館市船見町17番,明治,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7675285,140.7021790,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町17",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e9%a0%98%e4%ba%8b%e9%a4%a8,0 452,称名寺,ショウミョウジ,,2015年10月26日,2021年6月5日,http://donan-museums.jp/archives/452,,函館市,西部地区,函館市船見町18番,昭和,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7697258,140.7017212,"称名寺 称名寺は、正保元年(1644年)円龍上人が亀田村(現市内亀田八幡宮辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれており、箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院である。 明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)称名寺を公称し、宝永5年(1708年)亀田の衰退と箱館の繁栄により箱館の富岡町(現・弥生町弥生小学校辺り)に移転した。 明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)この地に移転した。その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート寺院が完成した。 境内には、函館の語源と言われる「箱館」の館主・河野政通の供養碑をはじめ、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑として有名な「貞治の碑」〔貞治6年(1367年)2月の銘がある板碑で北海道指定有形文化財〕が保存されている。 また、墓地には函館発展のもとを築いた高田屋一族、新島襄の海外渡航を助け日本最初の官立気象観測所を開設した福士成豊、日魯漁業株式会社創立者堤清六など、著名な人の墓や記念碑がある。 函館市","称名寺 据传称名寺始于正保元年(1644年),圆龙上人修建于龟田村(现市内龟田八幡宫一带)的阿弥陀庵。箱馆开港初始曾作为英国和法国的领事馆使用,是一座历史悠久的寺院。 明暦元年(1655年)时被称作阿弥陀堂,元禄3年(1690年)正式宣称为称名寺。宝永5年(1708年)伴随着龟田的衰退和箱馆的繁荣,而迁至富冈町(现・弥生町弥生小学一带)。 明治12年(1879年)的火灾正殿被烧毁,同14年(1690年)迁至此地。之后还曾遭多次火灾烧毁建筑,昭和4年(1929年)完成了现今的钢筋混凝土寺院。 里面不仅保存了函馆名称起源的“箱馆”馆主河野政通的供养碑,高田屋嘉兵卫的显彰碑,土方歳三与新撰组队士的供养碑,还有因北海道最古老而闻名的“贞治碑”〔贞治6年(1367年)2月的座右铭的木板碑,为北海道指定有形文化财产〕。 另外墓地中还有为函馆发展奠定基础的高田屋一族、协助新岛襄远渡海外并开设日本第一个官立气象观测所的福士成丰、日鲁渔业株式会社创立者堤清六等著名人士的墓地以及纪念碑。 函馆市","稱名寺 據傳稱名寺始於正保元年(1644年),圓龍上人修建於龜田村(現市内龜田八幡宮一帶)的阿彌陀庵。箱館開港初始曾作為英國和法國的領事館使用,是一座歷史悠久的寺院。 明暦元年(1655年)時被稱作阿彌陀堂,元禄3年(1690年)正式宣稱為稱名寺。寶永5年(1708年)伴隨著龜田的衰退和箱館的繁榮,而遷至富岡町(現・彌生町彌生小學一帶)。 明治12年(1879年)的火災正殿被燒毀,同14年(1690年)遷至此地。之後還曾遭多次火災燒毀建築,昭和4年(1929年)完成了現今的鋼筋混凝土寺院。 裡面不僅保存了函館名稱起源的「箱館」館主--河野政通的供養碑,高田屋嘉兵衛的顯彰碑,土方歳三與新撰組隊士的供養碑,還有因北海道最古老而聞名的「貞治碑」〔貞治6年(1367年)2月的座右銘的木板碑,為北海道指定有形文化財產〕。 另外墓地中還有為函館發展奠定基礎的高田屋一族、協助新島襄遠渡海外並開設日本第一個官立氣象觀測所的福士成豐、日魯漁業株式會社創立者堤清六等著名人士的墓地以及紀念碑。 函館市",,,"วัดโชเมียวจิ วัดโชเมียวจิ เป็นวัดเก่าแก่ กล่าวกันว่าเริ่มต้นจาก เอ็นริวโชนิน สร้างอาศรมอามิดะ ขึ้นที่หมู่บ้านคาเมะดะ (แถวศาลเจ้าคาเมะดะฮาจิมังในปัจจุบัน) ในปีโชโฮที่ 1 (ค.ศ. 1644) ตอนที่เปิดท่าเรือฮาโกดาเตะช่วงแรก ถูกใช้เป็นสถานกงสุลอังกฤษและฝรั่งเศส ปีเมเรคิที่ 1 (ค.ศ.1655) เปลี่ยนชื่อเป็นวิหารอามิดะ แต่ปีเก็นโรคุที่ 3 (ค.ศ.1690) เปลี่ยนชื่อเป็นโชเมียวจิ ปีโฮเอที่ 5 (ค.ศ.1708) เมื่อคาเมดะเสื่อมถอยและฮาโกดาเตะรุ่งเรือง จึงย้ายมาที่ตำบลโทมิโอกะ อำเภอฮาโกดาเตะ (แถวโรงเรียนประถมยาโยอิ ในปัจจุบัน) ปีเมจิที่ 12 (ค.ศ. 1879) โบสถ์ถูกเผาเสียหายจากไฟไหม้ครั้งใหญ่ในฮาโกดาเตะ จึงย้ายมาอยู่ที่นี่ในปีเมจิที่ 14 (ค.ศ.1881) หลังจากนั้น อาคารก็ถูกไฟไหม้อีกหลายครั้ง จนกระทั่งปีโชวะที่ 4 (ค.ศ.1929) วัดที่มีโครงสร้างคอนกรีตเสริมเหล็กจึงเสร็จสมบูรณ์ ภายในวัด มีอนุสาวรีย์รำลึกแด่โคโนะ มาซามิจิ ผู้เป็นเจ้าของคฤหาสน์ ""ฮาโกดาเตะ (คฤหาสน์รูปกล่อง)"" ที่เป็นที่มาของชื่อฮาโกดาเตะ, มีศิลารำลึกของทาคาดะยะ คะเฮ, อนุสาวรีย์รำลึกแด่ฮิจิกาตะ โทชิโซ และเหล่านักรบชินเซ็นกุมิ นอกจากนี้ ยังมีอนุสาวรีย์รำลึกที่มีชื่อเสียงและเก่าที่สุดในฮอกไกโด คือ ""อนุสรณ์ศิลาโจจิ"" (แผ่นศิลาที่มีจารึกเดือนกุมภาพันธ์ ปีโจจิที่ 6 (ค.ศ.1367) และเป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ของฮอกไกโด) ถูกเก็บรักษาไว้ นอกจากนี้ ที่สุสาน ยังมีหลุมฝังศพหรืออนุสาวรีย์รำลึกของ ครอบครัวทาคาดะยะ ที่ก่อร่างสร้างตัวได้จากการพัฒนาฮาโกดาเตะ, ฟุคุชิ นาริโทโยะ ที่เปิดสถานีอุตุนิยมวิทยาสาธารณะแห่งแรกของญี่ปุ่นและช่วยนีจิมะ โจให้เดินทางไปต่างประเทศ, ทสึทสึมิ เซโรคุ ผู้ก่อตั้งบริษัท Nichiro Gyogyo จำกัด ฯลฯ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e7%a7%b0%e5%90%8d%e5%af%ba,0 455,実行寺,ジツギョウジ,,2015年10月26日,2021年6月5日,http://donan-museums.jp/archives/455,,函館市,西部地区,函館市船見町18,,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7693405,140.7024231,"実行寺 実行寺は、明暦元年(1655年)、山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが始まりといわれ、元禄3年(1690年)松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが、実行寺と称するようになったのはいつ頃からか明らかではない。(明治17年山梨県身延山久遠寺の末寺に編入。) 正徳4年(1714年)、富岡町(現弥生町)に移転し、明治12年(1879年)の大火後、同14年(1881年)にこの地に移った。 その後も幾度か大火に見まわれ、大正7年(1918年)現在の建物が完成した。 安政元年(1854年)ペリー来航時には実行寺にスタジオが設けられ、そこで行われた写真術は、市民を驚かせた。翌年には、フランス軍艦シビル号(艦隊ではなく軍艦)が入港し、実行寺が多数の疾病水兵の養生所となった。また、ロシア領事着任当初の同5年(1858年)には領事館としても利用された。 また、明治2年(1869年)箱館戦争終結後、旧幕府脱走軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていたとき、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されている。","实行寺 据传实行寺始于明历元年(1655年),山上町(现弥生町)一个叫清宽的僧侣编织的草庵。元禄3年(1690年)曾成为松前日莲宗法华寺的分寺,从何时开始改称实行寺还有待考证。(明治17年编入山梨县身延山久远寺的分寺。) 正徳4年(1714年)迁至富冈町(现弥生町),明治12年(1879年)火灾后,同14年(1881年)迁至此地。 之后经历几次火灾殃及,大正7年(1918年)现建筑建成。 安政元年(1854年)培理(Matthew Calbraith Perry来航时,在实行寺中设立摄影棚并在那里照相,这让市民们目瞪口呆。第二年法国军舰CIVIL号(并非舰队)进入港口,实行寺成为了众多患病水兵的休养所。另外,俄罗斯领事就任初始的同5年(1858年),曾将这里做为领事馆使用。 明治2年(1869年)箱馆战争结束后、旧幕府脱走军(拒绝投降的旧幕府军)战死者的遗体随处放置于市区各处,住持与侠客柳川熊吉商量后,将遗体葬于寺中的美谈也流传至今。 函馆市","實行寺 據傳實行寺始於明曆元年(1655年),山上町(現彌生町)一個叫清寬的僧侶編織的草庵。元禄3年(1690年)曾成為松前日蓮宗法華寺的分寺,從何時開始改稱實行寺還有待考證。(明治17年編入山梨縣身延山久遠寺的分寺。) 正徳4年(1714年)遷至富岡町(現彌生町),明治12年(1879年)火災後,同14年(1881年)遷至此地。 之後經歷幾次火災殃及,大正7年(1918年)現建築建成。 安政元年(1854年)培理(Matthew Calbraith Perry來航時,在實行寺中設立攝影棚並在那裡照相,這讓市民們目瞪口呆。第二年法國軍艦CIVIL號(並非艦隊)進入港口,實行寺成為了眾多患病水兵的休養所。另外,俄羅斯領事就任初始的同5年(1858年),曾將這裡做為領事館使用。 明治2年(1869年)箱館戰爭結束後,舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)戰死者的遺體隨處放置於市區各處,住持與俠客柳川熊吉商量後,將遺體葬於寺中的美談也流傳至今。 函館市",,,"วัดจิทสึเกียวจิ วัดจิทสึเกียวจิ ว่ากันว่าเริ่มต้นเมื่อปีเมเรคิที่ 1 (ค.ศ.1655) เมื่อพระชื่อเซคัง สร้างกระท่อมขึ้นที่ตำบลยามาโนะอุเอะ (ตำบลยาโยอิในปัจจุบัน) ในปีเก็นโรคุที่ 3 (ค.ศ.1690) เป็นวัดสาขาของวัดฮกเคจิ นิกายนิจิเรน ในมัตสึมาเอะ แต่ไม่ทราบว่าเปลี่ยนชื่อมาเป็นวัดจิทสึเกียวจิตั้งแต่เมื่อไหร่ (ปีเมจิที่ 17 ถูกรวมเข้าเป็นวัดสาขาของวัดมิโนบุซัง คุอนจิ จังหวัดยามานาชิ) ในปีโชโทคุที่ 4 (ค.ศ.1714) ถูกย้ายไปที่ตำบลโทมิโอกะ (ปัจจุบันคือตำบลยาโยอิ) และย้ายมาที่บริเวณนี้ ในปีเมจิที่ 14 (ค.ศ.1881) หลังจากเกิดเพลิงไหม้ครั้งใหญ่ในปี เมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) หลังจากนั้นก็ถูกไฟไหม้อีกหลายครั้ง อาคารปัจจุบัน สร้างเสร็จสมบูรณ์ในปีไทโชที่ 7 (ค.ศ.1918) ตอนที่นายพลเพอร์รี่มาญี่ปุ่นในปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) ได้สร้างสตูดิโอขึ้นที่วัดจิทสึเกียวจิ เทคโนโลยีภาพถ่ายที่นั่น ทำให้ชาวเมืองประหลาดใจ ในปีต่อมา เรือประจัญบานของฝรั่งเศสที่ชื่อว่า ซิวิล (เรือประจัญบานไม่ใช่กองเรือ) ได้เข้ามาจอดที่ท่าเรือฮาโกดาเตะ วัดจิทสึเกียวจิ กลายเป็นที่พักของกะลาสีที่เจ็บป่วยหลายคน และยังใช้เป็นสถานกงสุลในปีอันเซที่ 5 (ค.ศ.1858) เมื่อครั้งที่กงสุลรัสเซียเข้ารับตำแหน่ง นอกจากนี้ มีบันทึกว่า หลังจากสิ้นสุดสงครามฮาโกดาเตะในปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) เมื่อศพผู้เสียชีวิตของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม ถูกทิ้งไว้ในเมืองเป็นจำนวนมาก เจ้าอาวาสจึงปรึกษากับผู้ที่กล้าหาญ ยานะงาวะ คุมะคิจิ และจัดนำไปฝังไว้ในวัด","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%ae%9f%e8%a1%8c%e5%af%ba,0 457,東本願寺函館別院船見支院,ヒガシホンガンジハコダテベツインフナミシイン,,2015年10月27日,2021年7月1日,http://donan-museums.jp/archives/457,,函館市,西部地区,函館市船見町18番,明治||大正,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7691765,140.7027283,"東本願寺函館別院船見支院 船見支院は、日本最初の鉄筋コンクリート寺院として名高い元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するため、明治37年(1904年)に建てられたもので、現在の建物は大正15年(1926年)に完成した。 この寺の墓地には、安政3年(1856年)幕府が箱館に設置した諸術調所(洋学の高等教育専門機関)の教授役で、五稜郭や弁天台場を設計監督した武田斐三郎の妻、美那子夫人の墓がある。 当時、箱館の町名主を勤め、内間町(現末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎(ペリー来航時の記録「亜墨利加一条写」の著者)の妹で、斐三郎が来箱した翌年の安政2年(1855年)に嫁いだが、8年後の文久3年(1863年)27歳の若さで病没した。 また、安政3年(1856年)日本最初の西洋型船「箱館丸」を建造した続豊治(明治13年82歳で没)のほか、明治期の函館発展に活躍した著名人の墓が多い。 函館市","东本愿寺函馆别院船见支院 东本愿寺函馆别院作为日本最早的钢筋水泥寺庙而闻名,其中的船见支院是为了管理墓地之用而在明治37年(1904年)建造,现在的建筑物则完工于大正15年(1926年)。 本寺墓地葬有武田斐三郎的妻子--美那子夫人。武田斐三郎是五棱郭跟弁天砲台等处的设计监督并在安政3年(1856年)幕府设置于箱馆的诸术调所(西学的高等教育专门机关)担任教授一职。 作为当时箱馆的町名主并于内间町(现末广町)开设杂货店的小岛又次郎(纪录黑船来航事件“亚默利加一条写”的作者)之妹,在斐三郎来到箱馆的隔年安政2年(1855年)两人结婚,却在8年后的文久3年(1863年)年仅27岁时病逝。 除此之外还有安政3年(1856年)建造日本最早西洋型船“箱馆丸”的续丰治(明治13年82岁逝)等多位明治时期对函馆发展进行贡献的知名人物。 函馆市","東本願寺函館別院船見支院 東本願寺函館別院作為日本最早的鋼筋水泥寺廟而聞名,其中的船見支院是為了管理墓地之用而在明治37年(1904年)建造,現在的建築物則完工於大正15年(1926年)。 本寺墓地葬有武田斐三郎的妻子,美那子夫人。武田斐三郎是五稜郭跟弁天砲台等處的設計監督並在安政3年(1856年)幕府設置於箱館的諸術調所(西學的高等教育專門機關)擔任教授一職。 作為當時箱館的町名主並於內間町(現末廣町)開設雜貨店的小島又次郎(紀錄黑船來航事件「亞默利加一條寫」的作者)之妹,在斐三郎來到箱館的隔年安政2年(1855年)兩人結婚,卻在8年後的文久3年(1863年)年僅27歲時病逝。 除此之外還有安政3年(1856年)建造日本最早西洋型船「箱館丸」的續豐治(明治13年82歲逝)等多位明治時期對函館發展進行貢獻的知名人物。 函館市",,,"วัดสาขาฟุนามิ ของวัดฮิงะชิฮงกันจิ ฮาโกดาเตะเบตสึอิน วัดสาขาฟุนามิ ถูกสร้างขึ้นเมื่อปีเมจิที่ 37 (ค.ศ.1904) เพื่อควบคุมจัดการสุสานของวัดฮิงาชิฮงกันจิ ฮาโกดาเตะเบตสึอินอันของตำบลโมโตมาจิ ซึ่งเลื่องชื่อในฐานะที่เป็นเป็นวัดคอนกรีตเสริมเหล็กแห่งแรกในญี่ปุ่น อาคารในปัจจุบัน สร้างเสร็จเมื่อปีไทโชที่ 15 (ค.ศ.1926) สุสานของวัดนี้มีหลุมฝังศพของ คุณนายมินาโกะ ภรรยาของทาเคะดะ อายะซาบุโร ซึ่งเป็นอาจารย์ของสถาบันศิลปะหลากแขนง (สถาบันเฉพาะทางการศึกษาระดับสูงของวิทยาการตะวันตก) ที่รัฐบาลบากุฟุตั้งขึ้นที่ฮาโกดาเตะ ในปีอันเซที่ 3 (ค.ศ.1856) และเป็นผู้ออกแบบและกำกับการก่อสร้างป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ และป้อมปราการที่เบนเต็น ในขณะนั้น มินาโกะเป็นน้องสาวของโคจิมะ มาตะจิโร ซึ่งเป็นผู้ใหญ่บ้านตำบลฮาโกดาเตะ (เป็นผู้แต่ง บันทึกการมาของเพอรี่ ""สำเนาสนธิสัญญาอเมริกา"") และเป็นเจ้าของร้านขายของจุกจิกที่ตำบลอุจิมะ (ตำบลซึเอะฮิโระในปัจจุบัน) หล่อนแต่งงานกับอายะซาบุโรในปีอันเซที่ 2 (ค.ศ.1855) ซึ่งเป็นปีถัดมาหลังจากที่อายะซาบุโรมาที่ฮาโกดาเตะ แต่ 8 ปีหลังจากนั้น ก็ป่วยและเสียชีวิตด้วยวัยเพียง 27 ปี ในปีบุงคิวที่ 3 (ค.ศ.1863) นอกจากนี้ ยังมีหลุมฝังศพของผู้มีชื่อเสียงที่มีส่วนร่วมในการพัฒนาฮาโกดาเตะในสมัยเมจิ เช่น ทสึสึกิ โทโยจิ (เสียชีวิตเมื่อปีเมจิที่ 13 ด้วยวัย 82 ปี) ที่สร้างเรือ ""ฮาโกดาเตะมารู"" ซึ่งเป็นเรือแบบตะวันตกลำแรกในญี่ปุ่น เมื่อปีอันเซที่ 3 (ค.ศ.1856)","日本, 北海道函館市 千歳坂",,"船見支院は、日本最初の鉄筋コンクリート寺院として名高い元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するため、明治37年(1904年)に建てられたもので、現在の建物は大正15年(1926年)に完成した。 この寺の墓地には、安政3年(1856年)幕府が箱館に設置した諸術調所(洋学の高等教育専門機関)の教授役で、五稜郭や弁天台場を設計監督した武田斐三郎の妻、美那子夫人の墓がある。 当時、箱館の町名主を勤め、内澗町(現末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎(ペリー来航時の記録「亜墨利加一条写」の著者)の妹で、斐三郎が来箱した翌年の安政2年(1855年)に嫁いだが、8年後の文久3年(1863年)27歳の若さで病没した。 また、安政3年(1856年)日本最初の西洋型船「籍館丸」を建造した続豊治(明治13年82歳で没)のほか、明治期の函館発展に活躍した著名人の墓が多い。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%9d%b1%e6%9c%ac%e9%a1%98%e5%af%ba%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%88%a5%e9%99%a2%e8%88%b9%e8%a6%8b%e6%94%af%e9%99%a2,0 459,近代彫刻の先駆者中原悌二郎の墓,キンダイチョウコクノセンクシャナカハラテイジロウノハカ,,2015年10月27日,2021年6月26日,http://donan-museums.jp/archives/459,,函館市,西部地区,函館市船見町18番,,明治||大正,未分類,41.7691231,140.7028046,"近代彫刻の先駆者中原悌二郎の墓 中原悌二郎は、近代彫塑の夜明けを告げた作家である。始め画家を志したが、荻原守衛・ロダンの作品に感動し彫刻に転じ、明治43年(1910年)文展に出品、第3回院展では樗牛賞を受け、第5回院展で同人に推薦された。 代表作に「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等がある。「平櫛田中像」は、かのブルーデルをして、「これが彫刻だ」と絶賛され、なかでも「若きカフカス人」は、日本近代彫塑の指針を示す作品であり、荻原守衛、高村光太郎とともに、一本の柱となっている。 中原家は祖父の代より函館にあって、精米業を開き、後父の代になって釧路に移住、雑貨廻船業および漁業を営む。 悌二郎は、明治21年(1888年)、次男として出生、9歳のとき旭川にある母の弟の養子となる。 札幌中学校在学中、無断出奔、芸術を志す。 苦学と過労により肺結核を発症し 、33歳の若さで没した。 悌二郎は彫塑に情熱を捧げ、その身を燃やしたが、全作品は11点に過ぎず、期間は10年であり、一瞬の光芒であった。 遺骨は実父忠四郎に抱かれ、当院の中原家の墓に葬られている。 1983年12月 赤光社美術協会 函館市","近代雕刻的先驱者中原悌二郎之墓 中原悌二郎是开启近代雕塑的作家。最初以画家为志向的他在受到荻原守卫与罗丹作品的感动后转向雕刻,明治43年(1910年)在文展展出后获得第3次院展的“樗牛赏”奖,第5次院展时也受到相关团体的推荐。 代表作有《石井鹤三像》、《乞食老人》、《平栉田中像》、《年轻的高加索人》等等。《平栉田中像》可与布德尔并列,曾被夸奖说“这才是雕刻”,另外还有《年轻的高加索人》是日本近代彫塑的指针之作,与荻原守卫、高村光太郎同为表率。 中原家从祖父开始代代居住在函馆经营米业,到了养父这代移居钏路并改为经营杂货船运以及渔业。 悌二郎作为家中次男,在明治21年(1888年)出生,9岁时被居住于旭川的舅舅收为养子。 就读札幌中学校时由于志在艺术而离家出走。 由于学习刻苦以及过劳引发肺结核,在年仅33岁时离世。 悌二郎抱着对雕塑的热情燃尽了生命,全部作品不过11个,在短暂的10年中留下一瞬的璀璨光芒。 其遗骨由亲生父亲忠四郎葬于本院的中原家之墓。 1983年12月 赤光社美术协会","近代雕刻的先驅者中原悌二郎之墓 中原悌二郎是開啟近代雕塑的作家。最初以畫家為志向的他在受到荻原守衛與羅丹作品的感動後轉向雕刻,明治43年(1910年)在文展展出後獲得第3次院展的樗牛賞,第5次院展時也受到相關團體的推薦。 代表作有「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等等。「平櫛田中像」可與布德爾並列,曾被誇獎說「這才是雕刻」,另外還有「若きカフカス人」是日本近代彫塑的指針之作,與荻原守衛、高村光太郎同為表率。 中原家從祖父開始代代居住在函館經營米業,到了養父這代移居釧路並改為經營雜貨船運以及漁業。 悌二郎作為家中次男,在明治21年(1888年)出生,9歲時被居住於旭川的舅舅收為養子。 就讀札幌中學校時由於志在藝術而離家出走。 由於學習刻苦以及過勞引發肺結核,在年僅33歲時離世。 悌二郎抱著對雕塑的熱情燃盡了生命,全部作品不過11個,在短暫的10年中留下一瞬的璀璨光芒。 其遺骨由親生父親忠四郎葬於本院的中原家之墓。 1983年12月 赤光社美術協會 函館市",,,"หลุมฝังศพของนะคะฮาระ เทจิโร ผู้บุกเบิกงานประติมากรรมสมัยใหม่ นะคะฮาระ เทจิโร เป็นศิลปินผู้ประกาศรุ่งอรุณของประติมากรรมสมัยใหม่ เริ่มแรกอยากเป็นจิตรกร แต่ประทับใจผลงานของโอกุสต์ รอแด็งและโองิวาระ โมริเอะ จึงเบนเข็มไปเป็นนักประติมากรรม ได้ส่งผลงานไปโชว์ในนิทรรศการศิลปะของกระทรวงศึกษาธิการ ในปีเมจิที่ 43 (ค.ศ.1910) ได้รับรางวัลโชกิว จากนิทรรศการสถาบันทัศนศิลป์ญี่ปุ่น ครั้งที่ 3 และได้รับเสนอชื่อเข้าชิงรางวัล ในนิทรรศการสถาบันทัศนศิลป์ญี่ปุ่น ครั้งที่ 5 ผลงานผู้แทน ได้แก่ ""รูปปั้น Ishii Tsuruzo"", ""Beggar Elder"", ""รูปปั้น Hirakushi Denchu"" และ ""Young Caucasian"" “Hirakushi Denchu” ได้รับการยกย่องจาก Bourdelle ว่า “นี่คือประติมากรรม” ในบรรดาพวกเขา“ Young Caucasian” เป็นงานที่แสดงแนวทางของประติมากรรมญี่ปุ่นสมัยใหม่ร่วมกับ โองิวาระ โมริเอะ และ ทามุระ โคทาโร มันเป็นเสาหลัก ครอบครัวของนากาฮาระ ทำธุรกิจโรงสีข้าว และตั้งรกรากอยู่ที่ฮาโกดาเตะมาตั้งแต่รุ่นปู่ของเขา พอรุ่นพ่อของเขา ก็ย้ายไปอยู่ที่คุชิโระ และทำธุรกิจขายของจุกจิกโดยเรือสำราญ และทำประมง เทจิโร เกิดเป็นบุตรชายคนที่สอง ในปีเมจิที่ 21 (ค.ศ.1888) และถูกยกให้เป็นบุตรบุญธรรมของน้องชายแม่ที่อยู่ที่อาซาฮีคาวะตอนอายุ 9 ขวบ ขณะศึกษาอยู่ที่โรงเรียนมัธยมต้นซัปโปโร เขาหนีไปโดยไม่ได้รับอนุญาต แล้วมุ่งมั่นด้านศิลปะ เขาล้มป่วยด้วยโรควัณโรคปอดและเสียชีวิตลง ด้วยวัยเพียงแค่ 33 ปี เนื่องจากการทำงานหนักและหักโหม เทจิโรทุ่มเทและอุทิศตนเพื่องานประติมากรรม แต่ผลงานทั้งหมดของเขามีเพียง 11 ชิ้นเท่านั้น ในระยะเวลา 10 ปี เหมือนแสงที่ส่องสว่างเพียงวาบเดียว เถ้ากระดูกถูกโอบกอดด้วยมือของชูจิโร ซึ่งเป็นพ่อแท้ๆ ของเขา และถูกนำมาฝังไว้ที่หลุมฝังศพของตระกูลนะคะฮาระที่วัดแห่งนี้ เดือนธันวาคม ค.ศ.1983 สมาคมศิลปะชักโคชะ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18−21",,"中原悌二郎は、近代彫塑の夜明けを告げた作家である。始め画家を志したが、荻野守衛・ロダンの作品に感動し彫刻に転じ、明治43年文展に出品、第3回院展では樗牛賞を受け、第5回院展で同人に推薦された。 代表作に「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等がある。「平櫛田中像」は、かのブルーデルをして、「これが彫刻だ」と絶賛され、なかでも「若きカフカス人」は、日本近代彫塑の指針を示す作品であり、荻原守衛、高村光太郎とともに、一本の柱となっている。 中原家は祖父の代より函館にあって、精米業を開き、後父の代になって釧路に移住、雑貨廻船業および漁業を営む。 悌二郎は、明治21年、次男として出生、9歳のとき旭川にある母の弟の養子となる。 札幌中学校在学中、無断出奔、芸術を志す。 苦学と過労により肺結核を発し、33歳の若さで没した。 悌二郎は彫塑に情熱を捧げ、その身を燃やしたが、全作品は11点に過ぎず、期間は10年であり、一瞬の光芒であった。 遺骨は実父忠四郎に抱かれ、当院の中原家の墓に葬られている。 1983年12月 赤光社美術協会 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%bf%91%e4%bb%a3%e5%bd%ab%e5%88%bb%e3%81%ae%e5%85%88%e9%a7%86%e8%80%85%e4%b8%ad%e5%8e%9f%e6%82%8c%e4%ba%8c%e9%83%8e%e3%81%ae%e5%a2%93,0 461,真言寺と不動明王立像,シンゴンジトフドウミョウオウリュウゾウ,,2015年10月27日,2021年6月26日,http://donan-museums.jp/archives/461,,函館市,西部地区,函館市船見町20番,,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7690926,140.6992950,"真言寺と不動明王立像 真言寺は、文久年間(1861年~1864年)、僧 寛純により創立されたといわれる。 この寺の主仏である不動明王は日常開帳されていない。 高さ36センチメートルの木彫の仏像で、作者・制作年代は不詳であるが古く立派なものであり、市の文化財に指定されている。 当時は盛り場が近くにあり、花柳界その他の人々から不動明王の寺として信仰を集めたという。 函館市","真言寺与不动明王立像 真言寺据说是在文久年间(1861年-1864年)由僧人宽纯所创立。 作为本寺主坛的不动明王平常并未公开。 古老华丽的的木雕佛像高36厘米,作者、制作年代不详,现被指定为市的文化财产。 据说因位于当时的欢乐街附近,作为不动明王寺深受众多花柳界等人士的信奉。 函馆市","真言寺與不動明王立像 真言寺據說是在文久年間(1861年~1864年)由僧人寬純所創立。 作為本寺主壇的不動明王平常並未公開。 古老華麗的的木雕佛像高36公分,作者・製作年代不詳,現被指定為市的文化財產。 據說因位於當時的歡樂街附近,作為不動明王寺深受眾多花柳界等人士的信奉。 函館市",,,"วัดชินงนจิ ฟุโดเมียวโอ(อจลนาถ) ปางยืน วันชินงนจิ กล่าวกันว่า ถูกสร้างขึ้นในช่วงปีบุงคิว (ค.ศ.1861 - ค.ศ.1864) โดยนักบวชชื่อคังจุน ฟุโดเมียวโอ(อจลนาถ) ซึ่งเป็นพระประธานประจำวัดนี้ ปกติจะไม่เปิดให้ชม เป็นพระพุทธรูปแกะสลักจากไม้ ความสูง 36 เซนติเมตร ไม่ทราบว่าใครเป็นผู้สร้างและสร้างขึ้นมาเมื่อไหร่ แต่เป็นพระพุทธรูปเก่าแก่ที่งดงามมาก ถูกกำหนดให้เป็นมรดกทางวัฒนธรรมของอำเภอ เนื่องจากตั้งอยู่ใกล้แหล่งเที่ยวกลางคืนในสมัยนั้น วัดนี้จึงเป็นวัดที่ได้รับการยอมรับนับถือจากหมู่คนในวงการเกอิชา ฯลฯ ในฐานะที่เป็นวัดของฟุโดเมียวโอ (อจลนาถ)","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町20",,"真言寺は、文久年間(1861年~1864年)、僧寛純により創立されたといわれる。 この寺の主仏である不動明王は日常開帳されていない。高さ36センチメートルの木彫の仏像で、作者・成作年代は不詳であるが相当古く立派なものであり、市の文化財に指定されている。 当時は盛り場が近くにあり、花柳界その他の人々から不動明王の寺として信仰を集めたという。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e7%9c%9f%e8%a8%80%e5%af%ba%e3%81%a8%e4%b8%8d%e5%8b%95%e6%98%8e%e7%8e%8b%e7%ab%8b%e5%83%8f,0 464,高龍寺,コウリュウジ,,2015年10月27日,2021年6月5日,http://donan-museums.jp/archives/464,,函館市,西部地区,函館市船見町21番,明治,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7690849,140.6997070,"高龍寺 高龍寺は、寛永10年(1633年)松前の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)に建てられたことに始まる、市内で最も古い寺院である。 その後、洪水による被害などで亀田村が衰退したため、宝永3年(1706年)に箱館の弁天町(現在の入舟町)に移転した。箱館開港当初には実行寺とともにロシア領事館一行の止宿所となり、明治2年(1869年)の箱館戦争時には箱館病院の分院として負傷者を受け入れた。 幾度か大火で建物を焼失したが、明治12年(1879年)にこの地に移転し、明治33年(1900年)には現在の本堂が完成、同43年(1910年)に完成した山門は彫刻が見事である。いずれも越後出身の名工たちの作で、明治時代末期の貴重な木造寺院であり、平成23年(2011年)には国の有形文化財に登録された。 函館山を借景とした日本庭園には、芭蕉の句碑(鼠塚)もあり、墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治など著名な人の墓がある。 また、松前藩家老で、人物花鳥にすぐれた画家であった蠣崎波響の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を所蔵している。 函館市","高龙寺 高龙寺始于宽永10年(1633年),作为松前的曹洞宗法源寺的分寺建造在龟田村(现在的市区万代町一带),是函馆市区最古老的寺院。 之后,因为洪水灾害龟田村衰败,宝永3年(1706年)迁至箱馆弁天町(现在的入舟町)。曾在箱馆开港初始与实行寺一起作为俄罗斯领事馆一行的宿处。明治2年(1869年)箱馆战争时,也曾做为箱馆病院的分院接收过伤病者。 之后经历几次火灾原建筑被烧毁,明治12年(1879年)迁至此地,明治33年(1900年)现大殿完工。同43年(1910年)完成的大门上精美的雕刻都出自越后名匠之手,是明治时代末期珍贵的木造寺院,平成23年(2011年)登记为国家有形文化财产。 借景函馆山的日本庭园里有芭蕉的句碑(鼠冢),墓地里有胜海舟深交好友涉田利右卫门以及日本最早实施接种牛痘疫苗的中川五郎治等名人之墓。 另外还收藏了松前藩家臣之首蛎崎波响的最高杰作《释迦涅槃图》(北海道指定有形文化财产)。 函馆市","高龍寺 高龍寺始於寬永10年(1633年),作為松前的曹洞宗法源寺的分寺建造在龜田村(現在的市區萬代町一帶),是函館市區最古老的寺院。 之後,因為洪水災害龜田村衰敗,寶永3年(1706年)遷至箱館弁天町(現在的入舟町)。曾在箱館開港初始與實行寺一起作為俄羅斯領事館一行的宿處。明治2年(1869年)箱館戰爭時,也曾做為箱館病院的分院接收過傷病者。 之後經歷幾次火災原建築被燒毀,明治12年(1879年)遷至此地,明治33年(1900年)現大殿完工。同43年(1910年)完成的大門上精美的雕刻都出自越後名匠之手,是明治時代末期珍貴的木造寺院,平成23年(2011年)登記為國家有形文化財產。 借景函館山的日本庭園裡有芭蕉的句碑(鼠塚),墓地裡有勝海舟深交好友涉田利右衛門以及日本最早實施接種牛痘疫苗的中川五郎治等名人之墓。 另外還收藏了松前藩家臣之首蠣崎波響的最高傑作「釋迦涅槃圖」(北海道指定有形文化財產)。 函館市",,,"วัดโคริวจิ วัดโคริวจิ เริ่มต้นในปีคังเอที่ 10 (ค.ศ.1633) จากการที่วัดโฮเก็นจิโซโตชูของมัตสึมาเอะถูกสร้างขึ้น โดยให้เป็นวัดสาขาในหมู่บ้านคาเมดะ (บริเวณรอบ ๆ ตำบลบันไดในปัจจุบัน) เป็นวัดที่เก่าแก่ที่สุดในเมืองฮาโกดาเตะ หลังจากนั้น หมู่บ้านคาเมดะเกิดความเสียหายจากน้ำท่วม จึงย้ายไปที่ตำบลเบ็นเต็นของฮาโกดาเตะ (ตำบลอิริฟุเนะในปัจจุบัน) ในปีโฮเอที่ 3 (ค.ศ.1706) ในช่วงแรกของการเปิดท่าเรือฮาโกดาเตะ เป็นที่พักของทีมกงสุลรัสเซีย ร่วมกับวัดจิทสึเกียวจิ และในปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) ช่วงสงครามฮาโกดาเตะ ได้ทำหน้าที่รับรักษาผู้บาดเจ็บ ในฐานะที่เป็นโรงพยาบาลสาขาของโรงพยาบาลฮาโอดาเตะ อาคารถูกไฟไหม้ทำลายหลายครั้ง ในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) ย้ายมาที่นี่ และปีเมจิที่ 33 (ค.ศ.1900) โบสถ์ที่เห็นในปัจจุบันสร้างเสร็จสมบูรณ์ และประตูซัมมงที่สร้างเสร็จในปีเมจิที่ 43 (ค.ศ.1910) รูปปั้นนั้นยอดเยี่ยม ทั้งคู่ถูกสร้างขึ้นโดยช่างฝีมือที่มีชื่อเสียงจากเอจิโกะ และเป็นวัดที่สร้างด้วยไม้ที่มีค่าในช่วงปลายสมัยเมจิ และได้รับการขึ้นทะเบียนเป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ระดับชาติในปีเฮเซที่ 23 (ค.ศ. 2011) สวนญี่ปุ่นที่มองเห็นวิวภูเขาฮาโกดาเตะ มีศิลาจารึกกลอน (เนซึมิสึกะ) ของบะโช ที่สุสาน มีหลุมฝังศพของผู้มีชื่อเสียง เช่น ชิบุตะ ริเอมง ที่คบหาสมาคมกับคัตสึไคชู, นาคะงาวะ โกะโรจิ ผู้ที่ทำการปลูกฝีเป็นครั้งแรกของญี่ปุ่น นอกจากนี้ ยังเก็บผลงานชิ้นเอกของคาคิซากิ ฮะเคียว ที่เป็นหัวหน้าข้ารับใช้ของแคว้นมัตสึมาเอะ และเป็นจิตกรที่มีฝีมือในการวาดภาพคน สิ่งของ ดอกไม้ และนก คือ""ภาพพระพุทธเจ้านิพพาน"" (มรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ของฮอกไกโด)","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町21",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e9%ab%98%e9%be%8d%e5%af%ba,0 466,傷心惨目の碑,ショウシンザンモクノヒ," ",2015年10月27日,2021年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/466,1621,函館市,西部地区,北海道函館市船見町21-11(高龍寺内),明治,明治,碑・像,41.7687340,140.6998291,"傷心惨目の碑 明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。 明治12年(1879年)高龍寺は移転、翌13年(1880年)に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。 碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。 函館市","伤心惨目之碑 明治2年(1869年)5月11日,箱馆战争中最激烈的战斗在箱馆市中心开战。当时的高龙寺与位于斜坡下方的旧幕府脱走军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队)箱馆医院分院同日遭到新政府军的先锋部队入侵,除了攻击伤病兵之外还在寺内放火,多数会津游击队的成员在此牺牲。 明治12年(1879年)高龙寺迁址,隔年明治13年(1880年)由旧会津藩的有志之士创立此碑,供俸当时被杀害的藩士们。 碑上所载“伤心惨目”引用于中国唐朝文人李华的《吊古战场文》,文字是临摹中国南宋忠臣岳飞的真迹。 函馆市","傷心慘目之碑 明治2年(1869年)5月11日,箱館戰爭中最激烈的戰鬥在箱館市中心開戰。當時的高龍寺與位於斜坡下方的舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)箱館醫院分院同日遭到新政府軍的先鋒部隊入侵,除了攻擊傷病兵之外還在寺內放火,多數會津游擊隊的成員在此犧牲。 明治12年(1879年)高龍寺遷址,隔年明治13年(1880年)由舊會津藩的有志之士創立此碑,供俸當時被殺害的藩士們。 碑上所載「傷心慘目」引用於中國唐朝文人李華的「弔古戰場文」,文字是臨摹中國南宋忠臣岳飛的真跡。 函館市",,,"อนุสรณ์ศิลาจารึก โชชินซัมโมคุ วันที่ 11 พฤษภาคม ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ. 1869) เกิดการรบครั้งใหญ่ที่สุดในสงครามฮาโกดาเตะขึ้นที่ใจกลางเมืองฮาโกดาเตะ วัดโคริวจิในสมัยนั้น อยู่ด้านล่างของเนินลงไปอีก ถูกกำหนดให้เป็นโรงพยาบาลสาขาของโรงพยาบาลฮาโกดาเตะของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม แต่ในวันนั้น ทหารทัพหน้าของรัฐบาลใหม่ได้บุกเข้าไป ฆ่าทหารที่บาดเจ็บ แล้วจุดไฟเผา ทำให้กองทัพเคลื่อนที่ของไอซึ เสียชีวิตเป็นจำนวนมาก ปีเมจิที่ 12 (ค.ศ. 1879) วัดโคริวจิถูกย้าย และในปีต่อมา อาสาสมัครชาวแคว้นไอซึเดิม ได้สร้างอนุสาวรีย์รำลึกขึ้น เพื่ออุทิศส่วนกุศลให้แก่เหล่าทหารที่ถูกฆ่าตายในครั้งนั้น คำว่า ""โชชิน ซัมโมคุ"" ที่จารึกไว้บนแผ่นศิลา นำมาจาก ""คำไว้อาลัยสนามรบโบราณ"" เป็นประโยคภาษาจีนของลี่หัว นักวรรณกรรมชาวจีนในสมัยราชวงศ์ถัง ตัวอักษรเป็นอักษรที่ถูกคัดลอกโดยกาคุฮิ ซึ่งเป็นผู้ที่จงรักภักดีในสมัยราชวงศ์ซ่งใต้","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町21−11","(表) 傷心惨目 撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉 会津残同抱共建 明治十三年","明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12年(1879年)高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。 碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。 函館市 ■追加解説 「岳飛」は南宋の武人で、南宋が金に攻撃された際に、幾多の武功をたてたが、その勢力が拡大することを恐れた宰相に謀殺された。碑文の元となった「古戦場を弔う文」は、戦争の悲惨さを述べ、戦死者の霊を弔うもので、英雄として名を残した岳飛の真蹟を刻むことで、同胞への追悼の表している。",,"「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)、「函館・道南大事典」(国書刊行会 1985年)",,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/hako109-e1457039229936.jpg,hako109-e1457039229936.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/hako109-e1457039229936.jpg,1621,hako109,,,,%e5%82%b7%e5%bf%83%e6%83%a8%e7%9b%ae%e3%81%ae%e7%a2%91,0 468,外国人墓地(プロテスタント墓地),ガイコクジンボチ(プロテスタントボチ),,2015年10月28日,2021年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/468,,函館市,西部地区,函館市船見町23番(山側),,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7679901,140.6969299,"外国人墓地(プロテスタント墓地) 誰ということなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいるが、必ずしも外国人ばかりでなく、キリスト教徒である日本人の墓も混じっている。 しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名ができたと考えられている。 古くは、安政元年(1854年)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ (55才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など、40基がある。 函館市","外国人墓地(プロテスタント墓地) 誰ということなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいるが、必ずしも外国人ばかりでなく、キリスト教徒である日本人の墓も混じっている。 しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名ができたと考えられている。 古くは、安政元年(1854年)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ (55才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など、40基がある。 函館市","外國人墓地(基督教墓地) 雖被稱作外國人墓地但是並非只有外國人埋葬於此,有些日本基督徒的墳墓也夾雜其中。 只是當時在函館離世的外國人幾乎都埋葬此處,因而得名。 最早有安政元年(1854年)4月由培里所率領的艦隊上死亡的海軍沃爾夫Wolfe (55歲)、雷米克Remick(19歲),德國代理領事哈伯Haber、丹麥領事杜斯Duus、在函館經營倉庫業的英國人史考特Scott的墓等共有40座。 函館市",,,"สุสานชาวต่างชาติ (สุสานนิกายโปรแตสแตนท์) ไม่สามารถระบุได้ว่าใครเป็นคนเรียกที่นี่ว่าสุสานชาวต่างชาติ และถ้าเป็นคริสต์ศาสนิกชน ไม่จำเป็นต้องเป็นชาวต่างชาติ จึงมีสุสานของชาวญี่ปุ่นปะปนอยู่ด้วย แต่ในสมัยนั้น ชาวต่างชาติที่เสียชีวิตที่ฮาโกดาเตะ ถูกนำมาฝังอยู่ที่สุสานแห่งนี้ จึงได้ชื่อว่าสุสานชาวต่างชาติ ตั้งแต่สมัยโบราณ มีหลุมฝังศพ 40 หลุม เริ่มจาก นายทหารเรือ ชื่อวอล์ฟ (อายุ 55 ปี) และเรมิก (19 ปี) ที่มาพร้อมกับกองทัพนายพลเพอร์รี่ และเสียชีวิตลง ในเดือนเมษายน ปีอันเซที่ 1 (ค.ศ. 1854), ยังมีฮาร์เบอร์ ตัวแทนทูตเยอรมัน, ดิวส์ ทูตเดนมาร์ก, สก๊อต ชาวอังกฤษที่บริหารโกดังที่ฮาโกดาเตะ ฯลฯ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,"誰いうことなくこの墓地を外人墓地と呼んでますが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっている。 しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外人墓地の名ができたのであろう。 古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基ある。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a4%96%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e5%a2%93%e5%9c%b0%ef%bc%88%e3%83%97%e3%83%ad%e3%83%86%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%83%88%e5%a2%93%e5%9c%b0%ef%bc%89,0 470,外国人墓地(ロシア人墓地),ガイコクジンボチ(ロシアジンボチ),"■観光説明板ここが、ロシア人墓地として公式に認められたのは、明治3年(1870年)のことで、当時の開拓使函館支庁と在函5ヶ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されました。 最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ポウリケヴィチのものです。 現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓があります。その中には、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の説教者で、のちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られています。 故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。
函館市
RUSSIAN CEMETERY In 1870,this cemetery was officially recognized as a Russian cemetery. At present,there are 43 graves including those of 25 Russian warship crew members. Mrs.Goshkevich,wife of the first Russian consul in Hakodate,and Vissarion Sartov,a chanter at the church attached to the consulate and later a teacher at the National School in Hakodate,are also buried here. Many Russians who have passed away in Hakodate now find their final resting place in this cemetery.City of Hakodate
",2015年10月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/470,,函館市,西部地区,函館市船見町23番,,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7681847,140.6974182,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a4%96%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e5%a2%93%e5%9c%b0%ef%bc%88%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e4%ba%ba%e5%a2%93%e5%9c%b0%ef%bc%89,0 472,函館中華山荘,ハコダテチュウカサンソウ,,2015年10月28日,2021年7月8日,http://donan-museums.jp/archives/472,,函館市,西部地区,函館市船見町23番(海側),,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7683105,140.6969757,"函館中華山荘 函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9年(1876年)に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始まる。 当初の面積は、184坪(607㎡)しかなかったが、大正8年(1919年)に隣接の土地を買収し、466坪(1, 538㎡)となった。この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。 墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。 この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日目)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。","函馆中华山庄 函馆从幕府末年开始有中国人居住,大多从事海产物资贸易。这块墓地开创于明治9年(1876年),最初是为埋葬漂流到青森县的中国人遗体而向开拓使借用的土地而始。 当初的面积只有184坪(607平方米),到了大正8年(1919年)又买下周围土地,将范围扩大到466坪(1,538平方米)。当时用红砖所划分的区域依然沿用至今。 墓地内除了有全桧木搭建的瓦制屋顶祠堂、刻有“中华义冢”的石碑以及炉迹之外,已知还有至少9座石碑跟4座木碑在此。 这块墓地目前由各代的华侨团体管理,每年清明节和中元节会进行祭祀并焚烧纸钱为先人祈福。 函馆市","函館中華山莊 函館從幕府末年開始有中國人居住,大多從事海產物資貿易。這塊墓地開創於明治9年(1876年),最初是為埋葬漂流到青森縣的中國人遺體而向開拓使借用的土地而始。 當初的面積只有184坪(607平方公尺),到了大正8年(1919年)又買下周圍土地,將範圍擴大到466坪(1,538平方公尺)。當時用紅磚所劃分的區域依然沿用至今。 墓地內除了有全檜木搭建的瓦製屋頂祠堂、刻有「中華義塚」的石碑以及爐跡之外,已知還有至少9座石碑跟4座木碑在此。 這塊墓地目前由各代的華僑團體管理,每年清明節跟中元節會進行祭祀並焚燒紙錢為先人祈福。 函館市",,,"สุสานชาวจีน ฮาโกดาเตะ ชูกะซังโซ ที่ฮาโกดาเตะ มีชาวจีนเริ่มเข้ามาอาศัยอยู่ตั้งแต่ช่วงปลายสมัยเอโดะ ส่วนใหญ่จะเกี่ยวข้องกับธุรกิจส่งออกอาหารทะเล สุสานแห่งนี้ เริ่มต้นจากการเช่าที่ดินจากผู้บุกเบิก เพื่อฝังศพชาวจีนที่ลอยมาติดที่ชายฝั่งของจังหวัดอาโอะโมริ ในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) แม้ว่าพื้นที่ในช่วงแรกจะมีเพียง 184 ทสึโบะ (607 ตร.ม.) แต่ในปีไทโชที่ 8 (ค.ศ.1919) ได้ซื้อที่ผืนติดกัน จึงทำให้มีขนาด 466 ทสึโบะ (1,538 ตร.ม.) และได้ก่อรั้วอิฐล้อมรอบ จนเป็นรูปลักษณ์ที่เห็นในปัจจุบัน ภายในสุสาน มีศาลเจ้าหลังคามุงกระเบื้องที่สร้างจากไม้ฮิโนะกิทั้งหลัง และแผ่นศิลาจารึกที่สลักว่า ""สุสานชาวจีนไร้ญาติ"" และนอกจากซากเตาเผาแล้ว เท่าที่รู้กัน มีแผ่นศิลาจารึกทั้งหมด 9 อัน และแผ่นไม้จารึก 4 อัน สุสานแห่งนี้บริหารงานโดยกลุ่มชาวจีนรุ่นสู่รุ่น จะจัดให้มีการไหว้ในช่วงเทศกาลเชงเม้งในเดือนเมษายน (วันที่ 15 หลังวันวสันตวิษุวัต) และช่วงเทศกาลสารทจีนในเดือนสิงหาคม (ช่วงโอบ้งเดิม) ของทุกปี จะมีการเผาเงินกระดาษและวางดอกไม้ธูปเทียนที่สุสาน อธิษฐานให้บรรพบุรุษไปสู่สุคติ เมืองฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,"函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9(1876)年に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始まる。当初の面積は、184坪(607㎡)しかなかったが、大正8(1919)年に隣接の土地を買収し、466坪(1,538㎡)となった。この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。 墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。 この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日日)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e4%b8%ad%e8%8f%af%e5%b1%b1%e8%8d%98,0 476,南部藩士の墓地,ナンブハンシノボチ,,2015年10月28日,2021年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/476,,函館市,西部地区,函館市船見町23番,,明治,未分類,41.7678185,140.6964874,"南部藩士の墓地 寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。 両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き、根室、国後、択捉に勤番所を設け、その任に就いた。その後、文政4年(1821年)に蝦夷地は松前藩に返還されたため、両藩士たちはそれぞれ帰藩したが、安政元年(1854年)に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命じられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。 しかし、幕府が倒され明治新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。 この間、多くの南部藩士が事故や病気で異郷の地に倒れた。函館で弔われた人については明治39年(1906年)から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年(1937年)にこの地に集めたものである。 現在、この墓地には、12名の藩士が祀られている。 函館市","南部藩士的墓地 宽政11年(1799年),幕府将东虾夷地作为直辖地(5年后再加上西虾夷地)经营,命南部・津轻两藩负责虾夷地的警备。 两藩分别派遣了500名左右的藩士作为警备之用。南部藩在箱馆设置元阵屋(统治管理之处),根室、国后岛与择捉岛设置勤番所(执行政务之处)并遣官上任。文政4年(1821年)由于虾夷地归还给松前藩,两藩的藩士们也陆续归藩,到了安政元年(1854年)虾夷地再度被设为幕府直辖地,东北的诸藩也再次受命进行虾夷地的警备与开拓。从箱馆到幌别(现登别市),由南部藩600余名藩士执勤。 可惜随着幕府被推倒后明治新政府的诞生,箱馆重新设置了箱馆府负责经营虾夷地,从东北诸藩来到虾夷的人也重新归藩。 当时有许多南部藩士因为事故或是疾病等原因而魂断异乡。为了这些埋葬在函馆的人可以得到祭祀,在明治39年(1906年)开始由盛冈出身的有志之士将散落各处的墓石以及墓碑集中,于昭和12年(1937年)时统一安置在此地。 如今这座墓地共供奉著12名藩士。 函馆市","南部藩士的墓地 寬政11年(1799年),幕府將東蝦夷地作為直轄地(5年後再加上西蝦夷地)經營,命南部・津輕兩藩負責蝦夷地的警備。 兩藩分別派遣了500名左右的藩士作為警備之用。南部藩在箱館設置兵營,根室、國後島與擇捉島設置勤番所(執行政務之處)並遣官上任。文政4年(1821年)由於蝦夷地歸還給松前藩,兩藩的藩士們也陸續歸藩,到了安政元年(1854年)蝦夷地再度被設為幕府直轄地,東北的諸藩也再次受命進行蝦夷地的警備與開拓。從箱館到幌別(現登別市),由南部藩600餘名藩士執勤。 可惜隨著幕府被推倒後明治新政府的誕生,箱館重新設置了箱館府負責經營蝦夷地,從東北諸藩來到蝦夷的人也重新歸藩。 當時有許多南部藩士因為事故或是疾病等原因而魂斷異鄉。為了這些埋葬在函館的人可以得到祭祀,在明治39年(1906年)開始由盛岡出身的有志之士將散落各處的墓石以及墓碑集中,於昭和12年(1937年)時統一安置在此地。 如今這座墓地共供奉著12名藩士。 函館市",,,"สุสานของนักรบแคว้นนัมบุ ปีคันเซที่ 11 (ค.ศ.1799) รัฐบาลบากุฟุ เข้ายึดครองภูมิภาคเอโสะ (ฮอกไกโด) ฝั่งตะวันออก (หลังจากนั้น 5 ปี ภูมิภาคเอโสะ ฝั่งตะวันตกด้วย) และเข้าปกครอง พร้อมสั่งให้แคว้นนัมบุ (จ.อีวาเทะ) และทสึงารุ (จ.อาโอโมริ) เข้ารักษาความปลอดภัยภูมิภาคเอโสะ ทั้งสองแคว้น ส่งนักรบของตนไปรักษาความปลอดภัยแคว้นละ 500 คน แคว้นนัมบุ (จ.อีวาเทะ) ได้สร้างโมะโตะจินยะ(จวน ที่ว่าการ) ที่ฮาโกดาเตะ และสร้างคินบันโชะ หรือที่ว่าการสาขาขึ้นที่เนะมุโระ คุนะชิริ และ เอโทโรฟุ หลังจากนั้นในปีบุนเซที่ 4 (ค.ศ. 1821) ภูมิภาคเอโสะ ถูกคืนสู่แคว้นมัตสึมาเอะ ทหารจากทั้งสองแคว้นจึงกลับภูมิลำเนาของตน แตะในปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) รัฐบาลบากุฟุเข้ายึดภูมิภาคเอโสะ อีกเป็นครั้งที่สอง จึงมีคำสั่งให้แคว้นต่างๆ ทางภาคตะวันออกเฉียงเหนือ เข้าไปบุกเบิกและรักษาความปลอดภัยอีกครั้งหนึ่ง แคว้นนัมบุ รับผิดชอบตั้งแต่ฮาโกดาเตะไปจนถึงโฮโรเบ็ตสึ (อำเภอโนโบริเบ็ตสึในปัจจุบัน) มีทหารไปปฏิบัติหน้าที่กว่า 600 นาย แต่ เมื่อรัฐบาลบากุฟุถูกโค่นลง และเกิดรัฐบาลใหม่คือรัฐบาลเมจิ ได้วางที่ว่าการเมืองฮาโกดาเตะ และเข้าปกครองภูมิภาคเอโสะ คนของแคว้นต่างๆ ในภาคตะวันออกเฉียงเหนือก็กลับภูมิลำเนาแคว้นตนเอง ในระหว่างนั้น นักรบของแคว้นนัมบุจำนวนมาก ประสบอุบัติเหตุ และล้มป่วยที่ต่างบ้านต่างเมือง ผู้คนที่ล้มตายที่ฮาโกดาเตะ ได้มีการทำบุญอุทิศส่วนกุศลอย่างต่อเนื่องตั้งแต่ปีเมจิที่ 39 (ค.ศ.1906) โดยอาสาสมัครที่มีบ้านเกิดที่อำเภอโมริโอกะ แต่ป้ายหินของหลุมฝังศพ, ศิลาจารึก มีอยู่กระจัดกระจายและเสียหาย จึงได้รวบรวมมาไว้ที่นี่ในปีโชวะที่ 12 (ค.ศ. 1937) ในปัจจุบัน มีนักรบ 12 ท่านฝังอยู่ที่สุสานแห่งนี้","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,"寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き根室、国後、択捉に勤番所を設け、その任に就いた。その後、文政4年(1821年)に蝦夷地は松前藩に返還されたため、両藩士たちはそれぞれ帰藩したが、安政元年(1854年)に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命ぜられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。 しかし、幕府が倒され明治新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。 この間、多くの南部藩士が事故や病気で異郷の地に倒れた。函館で弔われた人については明治39年(1906年)から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年にこの地に集めたものである。 現在、この墓地には、12名の藩士の墓が祀られている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8d%97%e9%83%a8%e8%97%a9%e5%a3%ab%e3%81%ae%e5%a2%93%e5%9c%b0,0 479,万平塚,マンペイヅカ,,2015年10月28日,2021年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/479,,函館市,西部地区,函館市船見町23番,大正,明治||大正,未分類,41.7678833,140.6969299,"万平塚 石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。 ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。 一例を挙げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ...」などとある。 この塚は、大阪から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4年(1915年)万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。 函館市","万平冢 石川啄木的歌中写到「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」(口中不断喃喃自语 此等乞食者),这个乞食者指的就是明治到大正年间函馆的怪人万平。 性情奇特,不接受他人恩惠坚持有风骨的乞食,每天早晨四处寻觅垃圾桶,并将对那家人物的评论以日记风格纪录下来。 举一个例子「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函馆区长)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一块、大根の皮と共に舍てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ...」(11月1日(明治39年)今早天气不错,就先去看山田邦彦君(函馆区长)的垃圾桶。不愧是山田君的夫人,在文明的薰陶之下,然却扔掉了一块肥猪肉跟白萝卜皮,想必正在练习西洋料理吧...)等评论。 这个冢是由一位铁工厂主“藤冈总兵卫”于大正4年(1915年)所建,他曾经从大阪来到函馆办事,在与万平借火点菸时被斥责“连帽子都没摘”从而感受到他的特质,于是在万平死后寻求函馆友人的帮助建造了这座供养塔。 函馆市","萬平塚 石川啄木的歌中寫到「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」(口中不斷喃喃自語 此等乞食者),這個乞食者指的就是明治到大正年間函館的怪人萬平。 性情奇特,不接受他人恩惠堅持有風骨的乞食,每天早晨四處尋覓垃圾桶,並將對那家人物的評論以日記風格紀錄下來。 舉一個例子「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ...」(11月1日(明治39年)今早天氣不錯,就先去看山田邦彥君(函館區長)的垃圾桶。不愧是山田君的夫人,在文明的薰陶之下,然却扔掉了一塊肥豬肉跟白蘿蔔皮,想必正在練習西洋料理吧...)等評論。 這個塚是由一位鐵工廠主「藤岡總兵衛」於大正4年(1915年)所建,他曾經從大阪來到函館辦事,在與萬平借火點菸時被斥責「連帽子都沒摘」從感受到他的特質,於是在萬平死後尋求函館友人的幫助建造了這座供養塔。 函館市",,,"มัมเปซึกะ หลุมฝังศพมัมเป อิชิคาวะ ทาคุโบะคุ กวีชื่อดัง เคยเขียนบทกวีเกี่ยวกับขอทาน ที่เดินไปรอบ ๆ พึมพำเกี่ยวกับสิ่งที่มีค่าและคุณงามความดีให้กับตัวเอง ขอทานคนดังคนนี้ชื่อ มันเป อาศัยอยู่ในฮาโกดาเตะตั้งแต่ช่วงเมจิจนถึงต้นปีไทโช เขาเป็นขอทานที่ไม่ง้อขอให้ใครช่วย เป็นคนใจสู้และมีอารมณ์ขัน ทุกเช้าก็จะเดินคุ้ยถังขยะ และเขียนอธิบายเกี่ยวกับแต่ละครัวเรือนที่เขาไปเยี่ยมทิ้งไว้เหมือนไดอารี่ ตัวอย่างเช่น ""1 พฤศจิกายน (ปีเมจิที่ 39) ค.ศ.1906 วันนี้ถ้าอากาศดี จะไปคุ้ยถังขยะของยามาดะ คุนิฮิโกะ (นายกเทศมนตรีเมืองฮาโกดาเตะ) ก่อน ภรรยาของนายยามาดะ ค่อยๆ ถูกดูดเข้าสู่บรรยากาศแห่งอารยธรรม ก้อนเนื้อหมูส่วนที่เป็นมันที่ถูกทิ้งออกมาพร้อมกับเปลือกหัวไช้เท้า แสดงว่าเธอกำลังเรียนทำอาหารแบบตะวันตก…"" เป็นต้น เมื่อครั้งที่ฟูจิโอกะ โซเบอิ เจ้าของโรงงานเหล็กจากโอซากาที่มาทำธุระที่ฮาโกดาเตะ เขาได้ขอต่อไฟจุดบุหรี่จากมัมเป แต่กลับถูกตำหนิเพราะความไม่สุภาพว่า ""หมวกก็ไม่ถอดก่อน"" ฟูจิโอกะจึงรู้สึกประทับใจกับนิสัยของมัมเป หลังจากที่มัมเปเสียชีวิตในปี ไทโชที่ 4 (ค.ศ.1915) ฟูจิโอกะได้สร้างหลุมฝังศพนี้เพื่ออุทิศส่วนกุศลให้แก่มัมเป โดยได้รับความช่วยเหลือจากคนรู้จักที่ฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,"石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を咳く乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。 ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。 一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の茶箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ…」などとある。 この塚は、大阪から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4年(1915年)万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e4%b8%87%e5%b9%b3%e5%a1%9a,0 481,有無両縁塔,ウムリョウエントウ," ",2015年10月28日,2021年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/481,1555,函館市,西部地区,函館市船見町23番(地蔵寺境内),近世,近世,碑・像,41.7679100,140.6969910,"有無両縁塔 この「有無両縁塔」は、元治元年(1864年)に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。 かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5年(1868年)に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廓も一層の賑わいをみせるようになった。 この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。 函館市","有无两缘塔 这座“有无两缘塔”是元治元年(1864年)时,由当时游郭的经营者为了供俸无依无靠的游女们而一同建立的供养塔。 过去被称作山上町,近邻(现在的船见町周边)是有不少游女屋的繁华区,箱馆奉行在安政5年(1868年)时将这区公认为山上游郭,整备也更加完善。伴随着隔年的开港,日本各地商人与外国人的往来逐渐兴盛,游郭也随之变得越加繁荣。 这块碑记录了在开港新时代的背景下,那些无法选择只能在此度过一生的游郭劳动女性曾经存在的事实,基石上刻有建立者们的名字。 函馆市","有無兩緣塔 這座「有無兩緣塔」是元治元年(1864年)時,由當時遊郭的經營者為了供俸無依無靠的遊女們而一同建立的供養塔。 過去被稱作山上町,近鄰(現在的船見町周邊)是有不少遊女屋的繁華區,箱館奉行在安政5年(1868年)時將這區公認為山上遊郭,整備也更加完善。伴隨著隔年的開港,日本各地商人與外國人的往來逐漸興盛,遊郭也隨之變得越加繁榮。 這塊碑記錄了在開港新時代的背景下,那些無法選擇只能在此度過ㄧ生的遊郭勞動女性曾經存在的事實,基石上刻有建立者們的名字。 函館市",,,"อนุสาวรีย์อุมุเรียวเอ็นโท อนุสาวรีย์นี้เรียกว่า ""อุมุเรียวเอ็นโท"" ถูกสร้างขึ้นในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864) เจ้าของกิจการสถานเริงรมย์ สร้างขึ้นเพื่อเป็นอนุสรณ์อุทิศส่วนกุศลแก่ผู้หญิงให้บริการที่ถูกทอดทิ้ง สมัยก่อน ย่านที่ถูกเรียกว่า ตำบลยามาโนะอุเอะ (บริเวณตำบลฟุนามิในปัจจุบัน) มีสถานเริงรมย์มากมายและรุ่งเรือง โดยหลังจากที่ฮาโกดาเตะบุเกียว รับรองให้ย่านยามาโนะอุเอะเป็นย่านแหล่งเริงรมย์ในปีอันเซที่ 5 (ค.ศ. 1868) ก็ได้มีการจัดระเบียบอย่างต่อเนื่อง ยิ่งไปกว่านั้น เมื่อเปิดท่าเรือในปีถัดมา ทำให้มีพ่อค้าทั่วญี่ปุ่นและชาวต่างชาติเข้าออกมากมาย ทำให้ธุริกจสถานเริงรมย์รุ่งเรืองเป็นอย่างมาก อนุสาวรีย์แห่งนี้ เตือนให้เราทราบถึงความจริงที่ว่า ในการเปิดท่าเรือเพื่อก้าวเข้าสู่ยุคใหม่ ยังมีผู้หญิงที่ไม่มีทางเลือกที่ต้องทำงานและจบชีวิตที่สถานเริงรมย์ในฐานะหญิงโสเภณี โดยมีชื่อของผู้บริจาคจารึกไว้บนแผ่นหิน","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23","(表) 有無両縁塔 (台座) 廓内遊女屋 施主人 住吉屋政十郎 小田屋善治 広田屋文吉 増屋定吉 宮川屋与吉 中里屋久一郎 東屋幸吉 金子屋東三郎 田中屋六太郎 小嶋屋栄三郎 大垣屋藤兵エ 高田屋たま 納屋孫右ヱ門 仲屋治右エ門 菱屋たま 北越屋さん 中嶋屋ひさ 新屋留吉 上田屋まさ 玉屋和五郎 佐藤久兵エ 盛屋武八 茂村屋定兵エ 伊勢屋徳右エ門 甲屋長太夫 世話人 ■新屋留吉 塩越屋冨右衛門 上田屋利助 岩橋屋文五郎 菊邑屋安五郎 落合屋忠治郎 維時元治甲子歳終夏六月仏歓喜日","この「有無両縁塔」は、元治元年(1864年)に、当時の遊廓の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。 かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5年(1858年)に、その一画を山ノ上遊廓として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廊も一層の賑わいをみせるようになった。 この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。 函館市",,「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/10/hako091-e1456125136643.jpg,hako091-e1456125136643.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/10/hako091-e1456125136643.jpg,1555,hako091,,,,%e6%9c%89%e7%84%a1%e4%b8%a1%e7%b8%81%e5%a1%94,0 483,函館検疫所台町措置場(旧函館消毒所)跡,ハコダテケンエキショダイマチソチジョウ(キュウハコダテケンエキショ),,2015年10月28日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/483,,函館市,西部地区,函館市船見町23番,,明治||大正||昭和,未分類,41.7665367,140.6953125,"函館検疫所台町措置場(旧函館消毒所)跡 明治18年(1885年)、内務省は防疫体制の強化を図るため、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟) に日本で最初の常設消毒所を建設した。函館では現在地に施設が建てられ、唯一残ったこの建物は事務所として使用されたものである。 明治29年(1896年)3月、函館検疫所と改称され業務をおこなってきたが、特に昭和20年(1945年)には、敗戦による樺太方面などからの引揚者の検疫にあたり、医療や援護にと活躍した。 昭和43年(1968年)、検疫所は市内海岸町に落成した港湾合同庁舎内に移転し、平成4年(1992年)にこの施設は廃止された。 施設の中で唯一残ったこの事務所は、全国的にも数少ない初期港湾施設の遺構として、平成元年(1989年)に市の景観形成指定建築物となっている。 令和元年(2019年)、敷地の海側では、美しい夕日などが眺められることから、市民や観光客が景観を楽しむことができる場所を整備した。 函館市","函馆检疫所台町措置场(旧函馆消毒所)遗迹 明治18年(1885年),内务省为了强化防疫体制,在当时的6个主要港口(函馆、横滨、神户、下关、长崎、新泻) 建立了日本最早的常设消毒所。函馆的设施当时建于此处,唯一留存下来的建筑物曾经被作为事务所使用。 明治29年(1896年)3月,改名为函馆检疫所并执行相关业务,特别是昭和20年(1945年)时为战败从桦太方面等处回国的人进行检疫,在医疗与援护方面也相当活跃。 昭和43年(1968年),检疫所移转到落成在市内海岸町的港湾合同厅舍,平成4年(1992年)时废止了这个设施。 设施当中唯一残留的这个事务所作为全国稀少的初期港湾设施遗迹,平成元年(1989年)时被指定为市的景观形成指定建筑物。 令和元年(2019年),由于建地靠海处可以欣赏美丽的夕阳,为了让市民和游客也可以共享景观而重新进行了整顿。 函馆市","函館檢疫所台町措置場(舊函館消毒所)遺跡 明治18年(1885年),內務省為了強化防疫體制,在當時的6個主要港口(函館、橫濱、神戶、下關、長崎、新瀉) 建立了日本最早的常設消毒所。函館的設施當時建於此處,唯一留存下來的建築物曾經被作為事務所使用。 明治29年(1896年)3月,改名為函館檢疫所並執行相關業務,特別是昭和20年(1945年)時為戰敗從樺太方面等處回國的人進行檢疫,在醫療與援護方面也相當活躍。 昭和43年(1968年),檢疫所移轉到落成在市內海岸町的港灣合同廳舍,平成4年(1992年)時廢止了這個設施。 設施當中唯一殘留的這個事務所作為全國稀少的初期港灣設施遺跡,平成元年(1989年)時被指定為市的景觀形成指定建築物。 令和元年(2019年),由於建地靠海處可以欣賞美麗的夕陽,為了讓市民跟觀光客也可以共享景觀而重新進行了整頓。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นสำนักงานกักกันฮาโกดาเตะ ไดมาชิ (สำนักงานฆ่าเชื้อโรคฮาโกดาเตะในอดีต) เพื่อเสริมความแข็งแกร่งของมาตรการป้องกันการแพร่ระบาดในปีเมจิที่ 18 (ค.ศ.1885) กระทรวงมหาดไทยได้จัดตั้งศูนย์ฆ่าเชื้อเป็นประจำขึ้นเป็นครั้งแรก ที่ท่าเรือสำคัญ 6 แห่งในสมัยนั้น (ฮาโกดาเตะ, โยโกฮามา, โกเบ, ชิโมะโนะเซคิ, นางาซากิ, นีกาตะ) ที่ฮาโกดาเตะ ได้สร้างขึ้นในที่อยู่ปัจจุบัน อาคารที่เห็นหลงเหลืออยู่เพียงหลังเดียว เป็นอาคารที่ใช้เป็นสำนักงาน ในเดือนมีนาคมปีเมจิที่ 29 (ค.ศ.1896) ศูนย์ถูกเปลี่ยนชื่อเป็นสำนักงานกักกันฮาโกดาเตะและดำเนินงานตลอดมา จนกระทั่งช่วงหลังสงครามโลกครั้งที่สองในปีโชวะที่ 20 (ค.ศ.1945) เมื่อแพ้สงคราม สำนักงานนี้มีบทบาทสำคัญในการรักษาแพทย์และการสนับสนุนด้านการกักกันและตรวจโรคในการส่งตัวกลับจากภูมิภาคคาราฟุโตะ(ซาคาลิน ประเทศรัสเซีย) มายังประเทศญี่ปุ่น ในปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) สำนักงานกักกันฮาโกดาเตะ ได้ย้ายไปอยู่ในสำนักงานท่าเรือรวมของรัฐ ที่ตำบลไคงัน อำเภอฮาโกดาเตะ ที่เพิ่งสร้างเสร็จ และอาคารสำนักงานเดิมถูกรื้อถอนในปีเฮเซที่ 4 (ค.ศ.1992) สำนักงานแห่งนี้ ที่เหลือเพียงหลังเดียว ตัวอาคารได้รับการกำหนดให้เป็นอาคารประวัติศาสตร์ของเมืองฮาโกดาเตะในปีเฮเซที่ 1 (ค.ศ.1989) และเป็นหนึ่งในมรดกสถาปัตยกรรมท่าเรือยุคแรกๆไม่กี่แห่งในประเทศญี่ปุ่น ปีเรวะที่ 1 (ค.ศ.2019) ที่ดินของสำนักงานด้านฝั่งทะเล สามารถมองดูพระอาทิตย์อัสดงที่งดงามได้ ทางอำเภอฮาโกดาเตะจึงดำเนินการปรับปรุงเพื่อให้เป็นสถานที่ชมวิวสำหรับประชาชนในเมืองและนักท่องเที่ยว","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,"明治18年(1885年)、内務省は防疫体制の強化を図るため、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に日本で最初の常設消毒所を建設しました。函館では現在地に施設が建てられ、唯一残ったこの建物は事務所として使用されたものです。 明治29年(1896年)3月、函館検疫所と改称され業務をおこなってきましたが、特に昭和20年(1945年)には、敗戦により樺太方面などからの引揚者の検疫にあたり、医療や援護にと活躍しました。 昭和43年(1968年)、検疫所は市内海岸町に落成した港湾合同庁舎内に移転し、平成4年にこの施設も廃止されました。 施設の中で唯一残ったこの事務所は、全国的にも数少ない初期港湾施設の遺構として、平成元年に市の景観形成指定建築物となっています。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e6%a4%9c%e7%96%ab%e6%89%80%e5%8f%b0%e7%94%ba%e6%8e%aa%e7%bd%ae%e5%a0%b4%e6%97%a7%e5%87%bd%e9%a4%a8%e6%b6%88%e6%af%92%e6%89%80%e8%b7%a1,0 485,諸術調所跡,ショジュツシラベショ,,2015年10月28日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/485,,函館市,西部地区,函館市弥生町2番,,近世,未分類,41.7666245,140.7104797,"諸術調所跡 諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856年)に設立された。 教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。 元治元年(1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。 同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリ力へ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまっていたための行動であったとも言われている。 内外共に多難な幕末期、開明的で進取果敢の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けるだろう。 函館市","诸术调所遗迹 诸术调所是箱馆奉行所的研究教育设施,专门为虾夷地的开拓与警备培养必要人才,于安政3年(1856年)设立。 由知名的五棱郭设计者武田斐三郎担任教授,西学为主,教授测量・航海・造船・砲术・筑城・化学等科目,另外还有操纵龟田丸航海前往俄罗斯等课程内容相当重视实践。 直到元治元年(1864年)斐三郎转到江户开成所(现・东京大学前身)担任教授为止,教育了相当多的学生,前岛密(邮便制度创始者)、井上胜(铁道制度创始者)等优秀门生辈出,是明治日本时期不可或缺的栋梁之材。 同志社的创设者“新岛襄”从函馆偷渡到美国一事,据说也是因为他为了进入诸术调所特地来到函馆后,而斐三郎却已前往江户所导致。 在内外灾难频传的幕府末年期间,由于这些开明且果断进取的人们以及学舍的影响遍布全国,他们是市民的骄傲,这种精神为了新时代的开拓而永存不灭。 函馆市","諸術調所遺跡 諸術調所是箱館奉行所的研究教育設施,專門為蝦夷地的開拓與警備培養必要人才,於安政3年(1856年)設立。 由知名的五稜郭設計者武田斐三郎擔任教授,西學為主,教授測量・航海・造船・砲術・築城・化學等科目,另外還有操縱龜田丸航海前往俄羅斯等課程內容相當重視實踐。 直到元治元年(1864年)斐三郎轉到江戶開成所(現・東京大學前身)擔任教授為止,教育了相當多的學生,前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鐵道制度創始者)等優秀門生輩出,是明治日本時期不可或缺的棟樑之材。 同志社的創設者「新島襄」從函館偷渡到美國一事,據說也是因為他為了進入諸術調所特地來到函館後,而斐三郎卻已前往江戶所導致。 在內外災難頻傳的幕府末年期間,由於這些開明且果斷進取的人們以及學舍的影響遍布全國,他們是市民的驕傲,這種精神為了新時代的開拓而永存不滅。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นสถาบันฝึกฝีมือ โชะจุตสึ ชิราเบะโชะ สถาบันฝึกฝีมือ ที่เรียกเป็นภาษาญี่ปุ่นว่า โชะจุตสึ ชิราเบะโชะ คือ สถาบันฝึกอบรมและวิจัยของฮาโกดาเตะบุเกียวโชะ สร้างขึ้นในปีอันเซที่ 3 (ค.ศ.1856) โดยมุ่งเพื่อสร้างบุคลากรที่จำเป็นในการบุกเบิกและรักษาความปลอดภัยในภูมิภาคเอโสะ (ฮอกไกโด) ""ผู้สอนคือ ทาเคดะ อายะซาบุโร ที่มีชื่อเสียงจากการออกแบบป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ นอกจากวิชาการศึกษาตะวันตก เขายังสอนการรังวัดที่ดิน, การเดินเรือทางทะเล, การต่อเรือ, ปืนใหญ่, การสร้างปราสาท, วิทยาศาสตร์ ฯลฯ โดยเน้นให้ความสำคัญกับการปฎิบัติจริง เช่น การเดินเรือคาเมดะมารุไปยังประเทศรัสเซีย เป็นต้น"" ตราบที่อายะซาบุโร ย้ายไปเป็นศาสตราจารย์ที่เอโดะไคเซโชะ (มหาวิทยาลัยโตเกียวในปัจจุบัน) ในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864) มีผู้เข้ารับการศึกษามากมาย อาทิ มาเอะจิมะ ฮิโซกะ (ผู้ก่อตั้งระบบไปรษณีย์), อิโนะอุเอะ มาซารุ (ผู้ก่อตั้งระบบรถไฟ) ฯลฯ ผลิตนักศึกษาที่จบออกไปมีผลงานสำคัญเป็นเส้นเลือดใหญ่ของประเทศญี่ปุ่นในสมัยเมจิ กล่าวกันว่าที่ผู้ก่อตั้งโดชิชะ ""นีจิมะ โจ"" แอบขึ้นเรือและเดินทางจากฮาโกดาเตะไปอเมริกา ก็เพราะอุตส่าห์มาฮาโกดาเตะเพื่อเข้าเรียนในโชะจุตสึ ชิราเบะโชะ แต่อายะซาบุโรกลับไปที่เอโดะแล้วนั่นเอง ช่วงปลายสมัยเอโดะ ที่เป็นช่วงที่ยุ่งยากทั้งในและนอกประเทศ แต่กลับมีสถานศึกษาและผู้คนที่เต็มเปี่ยมไปด้วยจิตวิญญาณที่เปิดกว้างและกล้าได้กล้าเสีย ความจริงที่ว่าผลงานของพวกเขาได้กระจายไปทั่วประเทศ เป็นสิ่งที่ชาวเมืองฮาโกดาเตะภูมิใจ และวิญญาณของพวกเขาเหล่านั้น ก็คงจะมีชีวิตอยู่ต่อไปเพื่อบุกเบิกยุคสมัยใหม่ต่อไป","日本, 〒040-0056 北海道函館市弥生町2",,"諸術調所跡とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856年)に設立された。 教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。 元治元年(1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。 同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカヘ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出ていってしまっていたための行動であったとも言われている。 内外共に多難な幕末期、開明的で進取積極の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けることであろう。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%ab%b8%e8%a1%93%e8%aa%bf%e6%89%80%e8%b7%a1,0 488,宇須岸河野館跡,ウスケシコウノタテアト,,2015年10月28日,2021年6月4日,http://donan-museums.jp/archives/488,,函館市,西部地区,函館市弥生町2番,,中世||近世||明治,未分類,41.7662888,140.7101288,"宇須岸河野館跡 享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。 政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いた。これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。この「河野館」に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。) 永正9年(1512年)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。 箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。次いで、寛保元年(1741年)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。 寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802年)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって大きく発展した。 この「河野館」跡は、箱館奉行庁舎が開かれた後も、明治に入ってからは開拓使庁舎、その後も北海道庁函館支庁庁舎が置かれる など,函館の行政の中心地であった。 函館市","宇须岸河野馆遗迹 享德3年(1454年)跟随津轻的豪族安东政季,武田信广 (松前氏的始祖)、河野政通等人渡海来到虾夷地。 河野政通在当时被称作宇须岸 的地方假造了一座馆,此馆就是宇须岸河野馆,据说占地面积东西35间(约63米)、南北28间(约50米),并在四周构筑土垒、干壕。箱馆的地名就是从河野馆而来。(明治2年改称为函馆。) 永正9年(1512年)河野季通(政通之子)一族在与阿依努族的战斗中战败,相传箱馆也在之后的百年日渐衰微。 箱馆在18世纪初叶(元禄时代末)起,龟田川下流流域移居前来的居民增加的同时,寺院也相继迁址,箱馆港也明显日渐繁荣起来。宽保元年(1741年)松前藩在此地区设置的行政厅“龟田番所”迁至“河野馆”旧址,奠定了迈向繁盛的基础。 宽政11年(1799年)幕府将东虾夷地作为直辖地,享和2年(1802年)设置箱馆奉行,并在此地建设箱馆奉行厅舍,加上高田屋嘉兵卫的活跃,箱馆有了长足的发展。 河野馆遗迹在箱馆奉行厅舍设立之后,也先后做为开拓使厅舍、北海道厅函馆支厅厅舍等,一直都是函馆的行政中心。","宇須岸河野館遺跡 享德3年(1454年)跟隨津輕的豪族安東政季,武田信廣 (松前氏的始祖)、河野政通等人渡海來到蝦夷地。 河野政通在當時被稱作「宇須岸 」的地方假造了一座「館」,此館就是「宇須岸河野館」,據說占地面積東西35間(約63公尺)、南北28間(約50公尺),並在四周構築土壘、乾壕。箱館的地名就是從河野館而來。(明治2年改稱為函館。 永正9年(1512年)河野季通(政通之子)一族在與阿依努族的戰鬥中戰敗,相傳箱館也在之後的百年日漸衰微。 箱館在18世紀初葉(元祿時代末)起,龜田川下流流域移居前來的居民增加的同時,寺院也相繼遷址,箱館港也明顯日漸繁榮起來。寛保元年(1741年)松前藩在此地區設置的行政廳「龜田番所」遷至「河野館」舊址,奠定了邁向繁盛的基礎。寬政11年(1799年)幕府將東蝦夷地作為直轄地,享和2年(1802年)設置箱館奉行,並在此地建設箱館奉行廳舍,加上高田屋嘉兵衛的活躍,箱館有了長足的發展。 河野館遺跡在箱館奉行廳舍設立之後,也先後做為開拓使廳舍、北海道廳函館支廳廳舍等,一直都是函館的行政中心。 ",,,"ที่ที่เคยเป็นโคโนะตาเตะที่อุสึเคะชิ ปีเคียวโตคุที่ 3 (ค.ศ.1454) ทาเคดะ โนบุฮิโระ (ต้นตระกูลมัตสึมาเอะ) โคโนะ มาซามิจิเดินทางไปที่ภูมิภาคเอโสะ ตามมหาเศรษฐีของทสึงารุ อันโด มาซาสึเอะ มาซามิจิ สร้าง ""คฤหาสน์"" ในสถานที่แห่งนี้ซึ่งถูกเรียกว่า ""อุซึเคะชิ"" ในเวลานั้น นี่คือ ""คฤหาสน์อุสึเคะชิ โคโนะ"" ซึ่งมีรายงานว่า จากตะวันออก - ตะวันตก 35 เคน (ประมาณ 63 เมตร) และจากเหนือ - ใต้ 28 เคน (ประมาณ 50 เมตร) ว่ากันว่ามีการสร้างผนังดินสี่ด้านและคูแล้งไปรอบ ๆ ว่ากันว่าชื่อสถานที่ ""ฮาโก (箱) ดาเตะ (館)"" มาจาก ""โคโน (河野) ตาเตะ (館)"" แห่งนี้ (ฮาโก (箱) ดาเตะ (館) เปลี่ยนไปใช้ตัวอักษร ฮาโก (函) แทนในปีเมจิที่ 2) ในปีเอโชที่ 9 (ค.ศ.1512) ตระกูลโคโนะ สึเอะมิจิ (บุตรของมาซามิจิ) แพ้สงครามที่ทำกับชาวไอนุ ทำให้เกิดเป็นตำนานที่ฮาโกดาเตะถดถอยนับแต่นั้นเป็นต้นมา นานกว่าร้อยปี ตั้งแต่ต้นศตวรรษที่ 18 (ช่วงท้ายของยุคเก็นโรคุ) ในฮาโกดาเตะ ชาวเมืองย้ายที่อยู่จากบริเวณแม่น้ำคาเมดะตอนล่าง และทำให้วัดย้ายตามกันไปเรื่อย ๆ ทำให้ท่าเรือฮาโกดาเตะเจริญรุ่งเรืองขึ้นอย่างชัดเจน ในปีคัมโปที่ 1 (ค.ศ.1741) หน่วยงานบริหารของท้องถิ่นนี้ ""คาเมะดะบันโชะ"" ของแคว้นมัตสึมาเอะ ถูกย้ายไปยังที่ตั้งเดิมของ ""โคโนะตาเตะ"" เป็นการวางรากฐานสู่ความเจริญรุ่งเรือง ในปีคันเซที่ 11 (ค.ศ.1799) รัฐบาลบากุฟุเข้าปกครองฝั่งตะวันออกของภูมิภาคเอโสะ ปีเคียววะที่ 2 (ค.ศ.1802) ตั้งฮาโกดาเตะบุเกียว และสร้างอาคารฮาโกดาเตะบุเกียว พร้อมกับที่ทาคาดะยะ คะเฮ ประสบความสำเร็จ จึงทำให้พัฒนาอย่างมาก ที่ที่เคยเป็น ""โคโนตาเตะ"" นี้ เป็นจุดศูนย์กลางของการปกครองฮาโกดาเตะ หลังจากเปิดทำการอาคารฮาโกดาเตะบุเกียว หลังจากเข้าสู่ยุคเมจิ ได้เปิดอาคารสำนักงานบริหารฮาโกดาเตะอาคารสำหรับผู้บุกเบิก และอาคารสำนักงานเทศบาลจังหวัดฮอกไกโด สำนักงานสาขาฮาโกดาเตะเดิม ","日本, 〒040-0056 北海道函館市弥生町2",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%ae%87%e9%a0%88%e5%b2%b8%e6%b2%b3%e9%87%8e%e9%a4%a8%e8%b7%a1,0 564,旧アメリカ領事館跡,キュウアメリカリョウジカンアト,,2015年11月9日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/564,,函館市,西部地区,函館市弥生町4番,,明治||大正,未分類,41.7680969,140.7089233,"旧アメリカ領事館跡 安政元年(1854年)に締結された日米和親条約を端緒に、伊豆下田とともに箱館は諸外国との窓口として翌年開港された。 安政4年(1857年)の春、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが鯨猟船に乗って来港し、ここ弥生小学校あたり、当時の第1大区1小区富岡町14番地の別堂を浄玄寺から 借り受け、星条旗を掲げ貿易事務所を開設した。 以来、ライスは箱館に出入港する米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・取り締まりにあたり、日米間の融和を計り、のち元治2年(1865年)に初代米国領事に任命された。 明治9年(1876年) 、領事館は一時閉鎖されて横浜領事館の管轄となり、その後、現在の元町4番の遺愛幼稚園 (ハリストス正教会の北隣)、さらに現在の船見町3番(咬菜園跡東側)に移転し、それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが自宅を領事館として執務した。 アメリカ領事館が函館における役割を終え、大正7年(1918年)11月15日、正式に閉鎖された。 函館市 ","旧美国领事馆遗迹 安政元年(1854年)由于缔结了日美和亲条约,函馆与伊豆下田作为与各国对接的窗口一同在隔年开港。 安政4年(1857年)春天,合众国贸易事务官以利沙・E・莱斯(Elisha E. Rice)乘坐猎鲸船来港,就在弥生小学这个地方,与净玄寺借用当时第1大区1小区富冈町14番地的别堂,挂上星条旗并开设了贸易事务所。 而后莱斯一边守护着出入箱馆美国船舶的利益,一边保护并管理著居留在此的美国国民,为日美之间的融合鞠躬尽瘁,在元治2年(1865年)被任命为初代美国领事。 明治9年(1876年),领事馆暂时关闭并改由横滨领事馆管辖。在此之后,传教士与商人们被任命为领事代理,并以他们的住家为领事馆。如今元町4番的遗爱幼稚园 (哈利斯特斯正教堂的北侧)以及现在的船见町3番(咬菜园遗迹东侧)就曾经是当时的领事馆。 美国领事馆在函馆的任务告终,大正7年(1918年)11月15日时正式关闭。 函馆市","舊美國領事館遺跡 安政元年(1854年)由於締結了日美和親條約,函館與伊豆下田作為與各國對接的窗口一同在隔年開港。 安政4年(1857年)春天,合眾國貿易事務官以利沙・E・萊斯(Elisha E. Rice)乘坐獵鯨船來港,就在彌生小學這個地方,與淨玄寺借用當時第1大區1小區富岡町14番地的別堂,掛上星條旗並開設了貿易事務所。 而後萊斯一邊守護著出入箱館美國船舶的利益,一邊保護並管理著居留在此的美國國民,為日美之間的融合鞠躬盡瘁,在元治2年(1865年)被任命為初代美國領事。 明治9年(1876年),領事館暫時關閉並改由橫濱領事館管轄。在此之後,傳教士與商人們被任命為領事代理,並以他們的住家為領事館。如今元町4番的遺愛幼稚園 (哈利斯特斯正教堂的北側)以及現在的船見町3番(咬菜園遺跡東側)就曾經是當時的領事館。 美國領事館在函館的任務告終,大正7年(1918年)11月15日時正式關閉。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นสถานกงสุลสหรัฐอเมริกาเดิม จากการทำสนธิสัญญาสันติภาพระหว่างญี่ปุ่น - สหรัฐอเมริกาในปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) ฮาโกดาเตะและอิซึชิโมดะก็พร้อมกันเปิดท่าเรือในปีถัดมา เพื่อให้เป็นทางเข้าออกสำหรับต่างประเทศ ในฤดูใบไม้ผลิของปีอันเซที่ 4 (ค.ศ.1857) เลขานุการการค้าของสหรัฐอเมริกา เอลิชา อี ไรซ์ นั่งเรือล่าวาฬมาที่ท่าเรือ และเช่าอาคารที่ตั้งอยู่บ้านเลขที่ 14 ตำบลโทมิโอกะ เขตใหญ่ที่ 1 เขตเล็กที่ 1 แถวๆ โรงเรียนประถมศึกษายาโยอิ จากวัดโจเก็นจิ เพื่อเปิดสำนักงานการค้า ปักธงชาติสหรัฐ ตั้งแต่นั้นมา ไรซ์ได้เข้าทำหน้าที่รักษาผลประโยชน์ของเรือสัญชาติสหรัฐที่เข้าออกฮาโกดาเตะ และปกป้อง และดูแลพลเมืองสหรัฐอมเริกาที่อยู่ในญี่ปุ่น รักษาความปรองดองระหว่างสหรัฐอเมริกากับญี่ปุ่น ภายหลังได้รับการแต่งตั้งให้เป็นกงสุลสหรัฐเป็นคนแรกในปีเก็นจิที่ 2 (ค.ศ.1865) ปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) สถานกงสุลถูกปิดชั่วคราว และอยู่ภายใต้การดูแลของสถานกงสุลที่โยโกฮามา หลังจากนั้น เหล่ามิชชันนารีและพ่อค้าได้รับการแต่งตั้งให้เป็นตัวแทนกงสุล พวกเขาจึงใช้บ้านของตนเองเป็นสถานกงสุล สถานที่เหล่านั้นอยู่ที่โรงเรียนอนุบาลอิไอ ที่บ้านเลขที่ 4 ตำบลโมโตะมาจิ และ บ้านเลขที่ 3 ของตำบลฟุนามิในปัจจุบัน (ด้านตะวันออกของซากสวนโคไซเอ็น) หลังจากที่สถานกงสุลสหรัฐอเมริกาหมดบทบาทที่ฮาโกดาเตะ จึงถูกปิดอย่างเป็นทางการเมื่อวันที่ 15 พฤศจิกายน ปีไทโชที่ 7 (ค.ศ.1918)","日本, 〒040-0056 北海道函館市弥生町4",,"安政元年(1854)に締結された日米和親条約を端緒に、伊豆下田とともに箱館は諸外国との窓口として翌年開港されました。 安政4年の春、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが鯨猟船に乗って来港し、浄玄寺(現在の元町公園の下辺からここ弥生小学校あたり、当時の第1大区1小区富岡町14番地)の別堂を借り受け、星条旗を掲げ貿易事務所を開設しました。 以来、ライスは箱館に出入港する米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・取り締まりにあたり、日米間の融和を計り、のち1865年にライスは、初代米国領事に任命されました。 明治9年(1876)領事館は一時閉鎖されて横浜領事館の管轄となり、その後、現在の元町4番の遺愛幼稚園(ハリストス正教会の北隣)、さらに現在の船見町3番(咬菜園跡東側)に移転し、それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが自宅を領事館として執務しました。 アメリカ領事館が函館における役割を終え、正式に閉鎖されたのは、大正7年(1918)11月15日でありました。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e9%a0%98%e4%ba%8b%e9%a4%a8%e8%b7%a1,0 566,ペリー提督来航記念碑,ペリーテイトクライコウキネンヒ,"■案内版
黒船つつじ
ペリー提督像の背後にある「つつじ」は、日本名を黒船つつじ」といい、アジア東北部が原産で、日本へは1668年に渡来したものです。 ここに植えた「黒船つつじ」は、1854年5月17日、箱館港に来港した5隻の黒船(函館山に向かって右からマセドニアン号・バンダリア号・ポーハタン号(旗艦)・ミシシッピ号・サウザンプトン号)に因んで植栽したものです。
2002年5月17日 函館市 ペリー提督来港記念碑建立協議会
(英文) Black Ship Azalea
The azaleas planted right behind the statue of Commodore Perry are of kind called in Japanese Black Ship Azalea. Originated in Northern Asia, it was first introduced to Japan in 1668. These azaleaa symboize each of Commodore Perrys 5 black ships that visited Hakodate on 17th of May 1854. Macedonian, Vandalia, his flagship Powhatan, Mississippi, and Southampton respectively from the right toward Mt.Hakodateyama.
May17, 2002 City of Hakodate Committee for the Establishment of the Memorial Statue of the Visit of Commodore Mattew C. Perry to Hakodate
ペリー広場 Perry's Square
ペリー提督函館来港150周年を記念して、このペリー提督像の立つ敷地の一画を「ペリー広場」(愛称)と命名します。(正式名称「函病跡地緑地広場)
平成16年5月17日 函館日米協会
(英文) WE hereby name this area ""Prrry's Square"" to commemoratr the 150th anniversary of Commodore Mattew Perry's arrival on the shores of Hakodate.
May 17, 2004 The Japan-America Society of Hakodate
",2015年11月9日,2021年7月7日,http://donan-museums.jp/archives/566,2453,函館市,西部地区,北海道函館市弥生町2-1,平成,近世,"歴史,碑・像",41.7661819,140.7099152,"ペリー提督 来航記念碑 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、安政元年(1854年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。 滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。 函館市 函館市黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。 2002年(平成14年)5月17日 ペリー提督来航記念碑建立協議会","培里提督 来航纪念碑 与日本缔结和亲条约的美国海军提督马修·卡尔布莱斯·培理(Matthew Calbraith Perry)在安政元年(1854年)5月17日,为了即将开港的箱馆港的事前检查而率领5艘舰船来航。 滞留期间除了制作箱馆湾的海图之外,还有首度展示银版摄影术以及吹奏西洋音乐等活动,当时人们惊讶的模样做为纪录被保留至今。 以培里来航作为契机,为了将统治虾夷地(北海道)的箱馆奉行所迁址而修建了五棱郭之外,作为开港地而受到欧美文化的影响,也成为了本市向国际观光都市发展的基础。 函馆市 在函馆市黑船来航150周年(2004年)来临之际,为了向后世传达日美和平友好的精神,并永世彰显培里提督,在函馆这处具有历史的地点建了“培里提督来航纪念碑”。 2002年(平成14年)5月17日 培里提督来航纪念碑建立协议会","培里提督 來航紀念碑 與日本締結和親條約的美國海軍提督馬修·卡爾布萊斯·培理(Matthew Calbraith Perry)在安政元年(1854年)5月17日,為了即將開港的箱館港的事前檢查而率領5艘艦船來航。 滯留期間除了製作箱館灣的海圖之外,還有首度展示銀版攝影術以及吹奏西洋音樂等活動,當時人們驚訝的模樣做為紀錄被保留至今。 以培里來航作為契機,為了將統治蝦夷地(北海道)的箱館奉行所遷址而修建了五稜郭之外,作為開港地而受到歐美文化的影響,也成為了本市向國際觀光都市發展的基礎。 函館市 在函館市黑船來航150周年(2004年)來臨之際,為了向後世傳達日美和平友好的精神,並永世彰顯培里提督,在函館這處具有歷史的地點建立了「培里提督來航紀念碑」。 2002年(平成14年)5月17日 培里提督來航紀念碑建立協議會",,,"อนุสาวรีย์รำลึกการมาของพลเรือเอกเพอร์รี่ พลเรือเอก M.C เพอร์รี่ ของกองทัพเรือสหรัฐอเมริกา ทำสนธิสัญญาสันติภาพกับญี่ปุ่น ได้นำเรือรบ 5 ลำ มาที่ญี่ปุ่น เมื่อวันที่ 17 พฤษภาคม ปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) เพื่อมาสำรวจท่าเรือฮาโกดาเตะที่กำลังจะเปิด ในระหว่างที่พักอาศัยอยู่ที่ญี่ปุ่น นอกจากทำแผนที่ทะเลของอ่าวฮาโกดาเตะ ยังเปิดตัวเทคโนโลยีการถ่ายภาพแผ่นเงิน (ดาแกริโอไทป์) และการเล่นเครื่องเป่าดนตรีตะวันตก มีบันทึกไว้ด้วยว่าผู้คนสมัยนั้นตกใจกับเทคโนโลยีเหล่านี้ จากผลของการมาเยือนของนายพลเพอร์รี่ในครั้งนี้ นอกจากป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุที่ถูกสร้างขึ้นเพื่อเป็นสถานที่สำหรับย้ายฮาโกดาเตะบุเกียวโชะ เพื่อใช้ในการปกครองภูมิภาคเอโสะ (ฮอกไกโด) กลายเป็นรากฐานในการพัฒนาเมืองนี้เป็นเมืองแห่งการท่องเที่ยวนานาชาติ ที่ได้รับอิทธิพลจากวัฒนธรรมตะวันตกเมื่อเปิดท่าเรือ เพื่อเป็นการระลึกถึงวันครบรอบ 150 ปีของเรือดำมาที่ฮาโกดาเตะ (ค.ศ. 2004) เพื่อถ่ายทอดความปรารถนาของญี่ปุ่นและสหรัฐอเมริกาให้คนรุ่นต่อไปในอนาคต และเพื่อยกย่องพลเรือเอกเพอร์รี่ จึงสร้างอนุสาวรีย์รำลึกพลเรือเอกเพอร์รี่ขึ้นที่ฮาโกดาเตะ ซึ่งเป็นสถานที่เหมาะสม 17 พฤษภาคม ค.ศ. 2002 (ปีเฮเซที่ 14) สภาจัดสร้างอนุสาวรีย์พลเรือเอกเพอร์รี่","日本, 〒040-0056 北海道函館市弥生町2","(台座) ペリー提督像 (台座裏) 二〇〇二年五月 小寺真知子","日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。 滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。 函館市 黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。 2002年(平成14年)5月17日 ペリー提督来航記念碑建立協議会",,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako297-e1471228836866.jpg,hako297-e1471228836866.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako297-e1471228836866.jpg,2453,hako297,,,,%e3%83%9a%e3%83%aa%e3%83%bc%e6%8f%90%e7%9d%a3%e6%9d%a5%e8%88%aa%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 569,旧寺町界隈,キュウテラマチカイワイ,,2015年11月9日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/569,,函館市,西部地区,函館市弥生町4-16,,近世||明治||大正||昭和,未分類,41.7685623,140.7085266,"旧寺町界隈 江戸時代から明治初期まで、このあたりは浄玄寺(現真宗大谷派函館別院)、称名寺、実行寺が建ち並び、参拝客で賑わったので寺町と呼ばれた。開港後の一時期、これらの寺はアメリカ、イギリス、ロシア領事の仮住居として使用された。また、浄玄寺は、明治5年(1872年)に邏卒本営(警察)が置かれたり、同9年(1876年)、明治天皇巡幸の際には、行在所として用いられたこともあった。 明治12年(1879年)、大火はこの一帯を焼き尽くし、これらの寺は新たな場所に再建された。浄玄寺と称名寺の跡地には、同15年(1882年)に弥生小学校が建てられた。石川啄木が 代用教員となったり、文芸評論家の亀井勝一郎が通った学校である。現在の校舎は平成23年(2011年)に、旧校舎の外壁を一部利用して新築された。 函館市","旧寺町周边 江户时代到明治初期为止,这个区域净玄寺(现真宗大谷派函馆别院)、称名寺以及实行寺等鳞次栉比,香客众多而香火繁盛,故被称作寺町。开港后有一段时期,这片区域的寺庙被作为美国、英国、俄罗斯领事的暂时居住所使用。另外,净玄寺在明治5年(1872年)时设置了逻卒本营(警察),明治9年(1876年)在明治天皇巡行到此地时被作为行宫使用。 明治12年(1879年),这一带被一场大火付之一炬,这些寺庙各自在新的位置重建。净玄寺跟称名寺的旧地在明治15年(1882年)建造弥生小学。石川啄木曾经在此担任实习教师,文艺评论家龟井胜一郎也在此校就读过。现在的校舍是平成23年(2011年)时留存部分旧校舍的外墙新建而成。 函馆市","舊寺町周邊 江戶時代到明治初期為止,這個區域淨玄寺(現真宗大谷派函館別院)、稱名寺以及實行寺等鱗次栉比,香客眾多而香火繁盛,故被稱作寺町。開港後有一段時期,這片區域的寺廟被作為美國、英國、俄羅斯領事的暫時居住所使用。另外,淨玄寺在明治5年(1872年)時設置了邏卒本營(警察),明治9年(1876年)在明治天皇巡行到此地時被作為行宮使用。 明治12年(1879年),這一帶被一場大火付之一炬,這些寺廟各自在新的位置重建。淨玄寺跟稱名寺的舊地在明治15年(1882年)建造彌生小學。石川啄木曾經在此擔任實習教師,文藝評論家龜井勝一郎也在此校就讀過。現在的校舍是平成23年(2011年)時留存部分舊校舍的外牆新建而成。 函館市",,,"ย่านเทระมาจิเก่า ตั้งแต่ยุคเอโดะจนถึงช่วงต้นของยุคเมจิ แถบนี้ถูกเรียกว่าเทระมาจิ (เมืองแห่งวัด) ที่คลาคล่ำไปด้วยผู้ที่มาไหว้พระตามวัดต่างๆ ที่ตั้งเรียงรายอยู่ในย่านนี้ อาทิ วัดโจเก็นจิ (สายชินชู โอทานิ ฮาโกดาเตะเบตสึอินในปัจจุบัน) วัดโชเมียวจิ วัดจิทสึเกียวจิ ช่วงหนึ่งหลังจากเปิดท่าเรือ วัดเหล่านี้ ถูกใช้เป็นที่พักชั่วคราวของกงสุลสหรัฐอเมริกา, อังกฤษ, รัสเซีย นอกจากนี้ วัดโจเก็นจิ ยังถูกใช้เป็น สำนักงานใหญ่ของระเซ็ตสึ (ตำรวจ) ในปีเมจิที่ 5 (ค.ศ.1872) และในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) ตอนที่จักรพรรดิเมจิเสด็จประพาสหัวเมือง ก็เคยถูกใช้เป็นที่ประทับด้วย ในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) เกิดไฟไหม้ครั้งใหญ่เผาแถบนี้ทั้งหมด วัดเหล่านี้จึงถูกย้ายไปสร้างใหม่ที่อื่น ในปีเมจิที่ 15 (ค.ศ.1882) ได้สร้างโรงเรียนประถมศึกษายาโยอิขึ้นในที่ดินเดิมของวัดโจเก็นจิและวัดโชเมียวจิ อิชิคาวะ ทาคุโบะคุ เข้าไปเป็นครูชั่วคราว เป็นโรงเรียนที่นักวิจารณ์วรรณกรรม คาเมอิ คัตสึอิจิโร เคยเรียน อาคารเรียนในปัจจุบัน สร้างขึ้นใหม่ในปีเฮเซที่ 23 (ค.ศ.2011) โดยใช้กำแพงด้านนอกส่วนหนึ่งของอาการเรียนเดิม","日本, 北海道函館市 弁天末広通",,"江戸時代から明治初期まで、このあたりは浄玄寺(現真宗大谷派函館別院)、称名号、実行寺が立ち並び、参拝客で賑わったので寺町と呼ばれた。開港後の一時期、これらの寺はアメリカ、イギリス、ロシア領事の仮住居として使用された。また、浄玄寺は、明治5(1872)年に羅卒本営(警察)が置かれたり、同9年、明治天皇巡幸の際には、行在所として用いられたこともあった。 明治12年の大火はこの一帯を焼き尽くし、これらの寺は新たな場所に再建された。浄玄寺と称名寺の跡地には、同15年に弥生小学校が建てられた。石川啄木が、代用教員となったり、文芸評論家の亀井勝一郎が通った学校である。現在の校舎は昭和13年に新築された。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e5%af%ba%e7%94%ba%e7%95%8c%e9%9a%88,0 571,鯨族供養塔,ゲイゾククヨウトウ," ",2015年11月9日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/571,1217,函館市,西部地区,函館市弥生町9-4,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,41.7693520,140.7029877,"鯨族供養塔 函館は、幕末から捕鯨との縁は深く、安政4年(1857年)幕府が中浜万次郎(ジョン万次郎)を箱 館に派遣して捕鯨の指導をさせたり、また、ドイツ(当時プロシヤ)船などから捕鯨を学んだ事跡がある。この供養塔は、昭和32年(1957年)9月に遠洋捕鯨会社の捕鯨船船長兼砲手の「天野太輔」が、それまでに捕獲した多くの鯨を供養するために建てたもので、上部には背美鯨の模型が据えられているほか、裏面には鯨の説明が詳細に刻まれている。天野翁83歳の時のことである。また、碑文には「明治四十年以来捕鯨ニ従事セシコト 二十六年ノ長キニ及ビ其ノ間ニ於ケル捕鯨頭数実ニ二千数百頭ニ達セリ・・・」と刻まれ、大洋漁業、日本水産ほかの捕鯨会社が賛助員として名を連ねている。 函館市","鲸族供养塔 函馆与补鲸的渊源早从幕府末年就已开始,安政4年(1857年)幕府派遣中滨万次郎(约翰万次郎)到函馆指导补鲸,除此之外还有向德国(当时的普鲁士)船只学习捕鲸方面的事迹。这座供养塔是昭和32年(1957年)9月时由远洋捕鲸公司的捕鲸船船长兼砲手“天野太辅”为了供养被捕获的众多鲸鱼而建,除了上部设有背美鲸的模型之外,背面还刻了鲸鱼的详细说明。这是天野先生83岁时的事情。另外碑文还刻有“明治四十年以来从事捕鲸事业长达二十六年在这期间捕获鲸鱼头数达两千数百多・・・”,还有大洋渔业、日本水产等其他捕鲸公司的赞助者名字也并列其中。 函馆市","鯨族供養塔 函館與補鯨的淵源早從幕府末年就已開始,安政4年(1857年)幕府派遣中濱萬次郎(約翰萬次郎)到函館指導補鯨,除此之外還有向德國(當時的普魯士)船隻學習捕鯨方面的事跡。這座供養塔是昭和32年(1957年)9月時由遠洋捕鯨公司的捕鯨船船長兼砲手「天野太輔」為了供養被捕獲的眾多鯨魚而建,除了上部設有背美鯨的模型之外,背面還刻了鯨魚的詳細說明。這是天野先生83歲時的事情。另外碑文還刻有「明治四十年以來從事捕鯨事業長達二十六年在這期間捕獲鯨魚頭數達兩千數百多・・・」,還有大洋漁業、日本水產等其他捕鯨公司的贊助者名字也並列其中。 函館市",,,"หออนุสรณ์เกอิโซคุ ฮาโกดาเตะ ผูกพันกับการล่าปลาวาฬมาตั้งแต่ช่วงปลายสมัยเอโดะ มีร่องรอยว่า ในปีอันเซที่ 4 (ค.ศ.1857) รัฐบาลบากุฟุ ส่งนาคาฮามะ มันจิโร (จอห์น มันจิโร) ไปที่ฮาโกดาเตะ เพื่อสอนการล่าปลาวาฬ และเรียนการล่าปลาวาฬจากเรือเยอรมัน (ปรัสเซียในสมัยนั้น) หออนุสรณ์นี้ เดือนกันยายน ปีโชวะที่ 32 (ค.ศ.1957) กัปตันเรือล่าปลาวาฬของบริษัทล่าปลาวาฬในทะเลไกลและมือปืน ""อามาโนะ ทะสึเกะ"" สร้างขึ้นเพื่ออุทิศส่วนกุศลให้กับปลาวาฬที่จับได้จำนวนมาก ด้านบนมีรูปปั้นวาฬไรต์ วาฬแห่งน้ำแข็ง แอตแลนติก ด้านหลังสลักคำอธิบายอย่างละเอียดเกี่ยวกับปลาวาฬ ซึ่งเป็นตอนที่อามาโนะ อายุ 83 ปี และประโยคที่ไว้อาลัย สลักไว้ว่า ""ตั้งแต่ปีเมจิที่ 40 เป็นต้นมา เป็นระยะเวลา 26 ปี เราจับปลาวาฬทั้งสิ้นกว่า 2 พันกว่าตัว"" บริษัทประมงไทโย, นิฮงซุยซัง และบริษัทล่าปลาวาฬอื่น ลงชื่อร่วมสนับสนุน","日本, 〒040-0056 北海道函館市弥生町9−4","(鯨模型) 背美鯨 SEMIKUZIRA (表) 明治四十年以来捕鯨事業ニ従事センコト二十六年ノ長キニ及ビ其ノ間ニ於ケル捕鯨頭数実ニ貳阡数百頭ニ達セリ 此多数ノ鯨族中ニ親子連レノモノアリ此ヲ捕獲セシ事数度ニ及ビ 尊キ鯨族ノ生命ヲ奪ヒタル其ノ罪誠ニ慚愧ニ堪エズ 是ニ報ユル道ヲ講ゼザルベカラズ カネテヨリ考慮セシ折妻ノ死ニ遭ヒ一層其ノ感ヲ深クセリ サキニ吾子三人ヲ失ヒ当時何等痛惜ノ情感ゼザリシモ年老イシ今日痛切ニ人世ノ無情ヲ感ズルニ至レリ 此ニ老於テ此等諸精霊ノ菩提ヲ弔ワントスル意志勃然トシテ起リソレラ達成セシメント此所ニ鯨族供養塔建立ヲ思ヒ立チ鯨族ノ冥福ヲ祈願セントス 昭和三十二年九月建之時八十有三歳 (右側) 賛助員芳名 大洋漁業株式会社殿 日本水産株式会社殿 極洋捕鯨株式会社殿 日本近海捕鯨株式会社殿 日東捕鯨株式会社殿 (左側) 背美鯨ハ日本沿岸ニ相当数回游シ来リシモ外国捕鯨船ニヨル酷捕乱獲ノ結果遂ニ殆ド其ノ姿ヲ認ムル事能ハザルニ至レリ然ルニ日本ニ於テ汽船ニヨル捕鯨方法ヲ採用後吾レ此絶滅ニ近キ背美鯨ヲ我国沿岸ニ於テ第二頭目ニ捕獲セリ当時会社側ニ於テ大イニ其ノ功績ヲ激賞シ其ノ褒章トシテ金側懐中時計一個ヲ贈與セラル其ノ時計ノ両蓋裏面ニ左ノ如ク刻印シアリ 明治四十四年五月十七日背美鯨捕獲記念 贈 砲子兼船長天野君 紀伊水産株式会社 (裏) 背美鯨は 鯨族中食用として肉の美味なるを以て最も適当なるが故に捕鯨家の垂涎措く能わざる所なりと雖も今や絶滅に近く日本捕鯨家で僅かに数頭而己の捕獲なり現今にては背美鯨捕獲は絶対禁止到しあり此後数年間は背美鯨の姿を見る事能はざるに到る是を 思い此供養塔の頂上に背美鯨の模型を造り 安置到せしなり 背美鯨は 長さ参十尺より六十尺位に至る(此模型は八尺なり)体躯圓潤にして旦長大頭部 亦 大にして少々 隆起す 噴水孔二箇あり 頭上に位す 背上に鰭なく頬に沿って左右二葉の鰭あり是れを 立羽と称す 全身黒色にして口辺に髭を有す 此髭は 上頭の中央より出口の両側に列し頗る長し其教一列に三百を 起ゆ 尾は魚の如縦扁ならずして地平に開帳し新月形をなす 其性強猛にして海岸近寄らす 体重量五十尺標準壱万参阡五百貫位 (台座) 鯨族供養塔 遠洋捕鯨会社船長 兼 天野大輔建立 捕鯨船鯨洋丸砲手 昭和三十二年九月","函館は、幕末から捕鯨との縁は深く、安政4年(1857年)幕府が中浜万次郎(なかはままんじろう、ジョン万次郎)を函館に派遣して捕鯨の指導をさせたり、またドイツ(当時プロシヤ)船などから捕鯨を学んだ事跡がある。この供養塔は、昭和32年9月に遠洋捕鯨会社の捕鯨船船長兼砲手の「天野太輔(あまのたすけ)」がそれまでに捕獲した多くの鯨を供養するために建てたもので、上部には背美鯨の模型が据えられているほか、裏面には鯨の説明が詳細に刻まれている。天野翁83歳の時の所業である。また碑文には「明治四十年以来捕鯨ニ従事セシコト 二十六年ノ長キニ及ビ其ノ間ニ於ケル捕鯨頭数実ニ二千数百頭ニ達セリ……」と刻まれ大洋漁業、日本水産ほか捕鯨会社が賛助員として名を連ねている。 函館市 ■追加解説 函館(箱館)と捕鯨の縁は古く幕末期に遡る。幕末期、諸外国への対応のため蝦夷地(北海道)は2度にわたって幕府直轄地とされたが、このときから幕府の捕鯨業への関心は高く、平戸藩に協力を依頼してエトロフ方面で調査などが行われた。 安政元年(1854年)、箱館が開港され、再び幕府直轄地になると、幕府は改めて捕鯨業に関心を示すようになった。箱館開港の大きな要因となったアメリカの捕鯨船が、活発に活動し、箱館にも盛んに入港していたことが示すように、北太平洋の捕鯨業の経済性が顕在化したためである。度重なる入港で、西洋式の捕鯨技術なども伝えられようになった。 その後も、捕鯨に関する調査は続けられ、アメリカ式捕鯨を経験してきた中浜万次郎(ジョン万次郎)を招いて指導をさせるを計画やプロシヤ船から技術を学ぶなど、試行錯誤が続けられたが、1859年(安政6年)にアメリカのペンシルバニア州で石油が発見されて、鯨油の価格が低下、捕鯨業が国際的に退潮期に入ったので、結局、この時に西洋式捕鯨が実現することはなかった。",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、『函館市史』通説編第2巻(函館市 1990年)、昭和34年2月15日付「道新」,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako029.jpg,hako029.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako029.jpg,1217,hako029,,,,%e9%af%a8%e6%97%8f%e4%be%9b%e9%a4%8a%e5%a1%94,0 573,ペリー会見所跡,ペリーカイケンジョアト,,2015年11月10日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/573,,函館市,西部地区,函館市弁天町15,,近世,未分類,41.7712517,140.7076721,"ペリー会見所跡 安政元年(1854年)3月、アメリカ海軍提督M.C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後、5隻の艦船を引きつれて箱館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老・松前勘解由らと会見し、市中の調査や、港内測量などを行って箱館を去った。 この図は、ペリー著「日本遠征記」の挿し絵のなかの一つで、会見の模様を描いたものである。 函館市","培里会见所遗迹 安政元年(1854年)3月,美国海军提督马修·卡尔布莱斯·培理(Matthew Calbraith Perry)与幕府之间缔结日美和亲条约,在这之后,5艘船舰一同于箱馆入港。培里在这区的大商人山田屋寿兵卫宅邸与中松前藩家老・松前勘解由等人会面,并调查市区及测量港口后离开箱馆。 这张图片是培里的著作《日本远征记》中的一副插图,描绘了当时会见的模样。 函馆市","培里會見所遺跡 安政元年(1854年)3月,美國海軍提督馬修·卡爾布萊斯·培理(Matthew Calbraith Perry)與幕府之間締結日美和親條約,在這之後,5艘船艦一同於箱館入港。培里在這區的大商人山田屋壽兵衛宅邸與中松前藩家老・松前勘解由等人會面,並調查市區及測量港口後離開箱館。 這張圖片是培里的著作「日本遠征記」中的一副插圖,描繪了當時會見的模樣。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นที่แถลงข่าวของเพอร์รี่ เดือนมีนาคม ปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) นายพลเรือเอก M. C. เพอร์รี่ ของกองทัพเรือสหรัฐอเมริกา ได้ทำสนธิสัญญาสันติภาพระหว่างรัฐบาลบากุฟุและสหรัฐอเมริกา หลังจากนั้นทันที ก็นำเรือ 5 ลำมาจอดที่ฮาโกดาเตะ เพอร์รี่ได้จัดแถลงข่าวกับมัตสึมาเอะ คาเงะยุ หัวหน้าข้ารับใช้แห่งแคว้นมัตสึมาเอะ ฯลฯ ขึ้นที่บ้านของยามาดายะ จุเบ พ่อค้าที่มีอำนาจในถิ่นนี้ และไปสำรวจภายในตัวเมือง, รังวัดภายในท่าเรือ แล้วจึงออกจากฮาโกดาเตะ แผนที่นี้ เป็นภาพที่วาดเกี่ยวกับการแถลงข่าว เป็นภาพประกอบภาพหนึ่งใน ""บันทึกการเดินทางไปญี่ปุ่น"" ที่เขียนโดยเพอร์รี่","日本, 〒040-0051 北海道函館市弁天町15",,"安政元年(1854年)3月、アメリカ海軍提督M.C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後、5隻の艦船を引きつれて箱館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老松前勘解由らと会見し、市中の調査や、港内測量などを行って箱館を去った。 この図は、ペリー著「日本遠征記」の挿し絵のなかの一つで、会見の模様を描いたものである。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%83%9a%e3%83%aa%e3%83%bc%e4%bc%9a%e8%a6%8b%e6%89%80%e8%b7%a1,0 575,厳島神社,イツクシマジンジャ,,2015年11月10日,2021年6月4日,http://donan-museums.jp/archives/575,,函館市,西部地区,函館市弁天町9,,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7727585,140.7046356,"厳島神社 この神社は、江戸前期に創建された神社で以前は弁天社と称された。場所は何度か移され、現在地には慶応2年(1866年)に移ってきた。現在の建物は明治40年(1907年)の大火後、大正4年(1915年)に建てられたものである。 弁天社は明治4年(1871年)に市杵島神社と改められ、明治35年(1902年)に厳島神社と改称された。 境内には寄進された貴重な遺物が多く、文政6年(1823年)の手水石鉢を始め、天保8年(1837年)に加賀の廻船主たちが寄進した鳥居や、嘉永7年(1854年)に海上安全のため奉納された方位石など、古い建造物がある。この神社は古くから海の守護神として、地元漁業者のみならず、松前をはじめ遠くは北陸、大阪などの商人の尊信を得ていたことが、これらの遺物でわかる。 函館市","严岛神社 此神社前身被称为弁天社,创建于江户前期。经过几次迁址,于庆应2年迁至此地。现建筑建于明治40年(1907年)大火之后的大正4年(1915年)。 弁天社于明治4年(1871年)改为市杵岛神社,明治35年(1902年)改称为严岛神社。 内有众多贵重的捐献遗物,包括文政6年(1823年)的手水石钵(进入神社前净手之用)、天保8年(1837年)加贺货运船主等人捐赠的鸟居、嘉永7年(1854年)祈祷出海安全的方位石,古建筑。此神社自古以来作为大海的守护神,不仅当地渔业渔民,还得到远至松前以及北陆、大阪等地的商人的信奉,可以从这些遗物中窥知。 函馆市","嚴島神社 此神社前身被稱為弁天社,創建於江戶前期。經過幾次遷址,於慶應2年遷至此地。現建築建於明治40年(1907年)大火之後的大正4年(1915年)。 弁天社於明治4年(1871年)改為市杵島神社,明治35年(1902年)改稱為嚴島神社。 內有眾多貴重的捐獻遺物,包括文政6年(1823年)的手水石鉢(進入神社前淨手之用)、天保8年(1837年)加賀貨運船主等人捐贈的鳥居、嘉永7年(1854年)祈禱出海安全的方位石,古建築。此神社自古以來作為大海的守護神,不僅當地漁業漁民,還得到遠至松前以及北陸、大阪等地的商人的信奉,可以從這些遺物中窺知。 函館市",,,"ศาลเจ้าอิตสึคุชิมะ ศาลเจ้านี้ เป็นศาลเจ้าที่สร้างขึ้นในช่วงแรกของสมัยเอโดะ ก่อนหน้านี้ถูกเรียกว่า เบ็นเต็นชะ สถานที่ถูกย้ายหลายครั้ง และย้ายมาอยู่ที่ปัจจุบันในปีเคโอที่ 2 (ค.ศ.1866) อาคารปัจจุบันถูกสร้างขึ้นในปีไทโชที่ 4 (ค.ศ.1915) หลังจากเกิดเพลิงไหม้ครั้งใหญ่ในปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) เบ็นเต็นชะ ถูกเปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าอิจิคิชิมะ ในปีเมจิที่ 4 (ค.ศ.1871) และเปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าอิตสึคุชิมะ ในปีเมจิที่ 35 (ค.ศ.1902) ภายในศาลเจ้า มีโบราณวัตถุมีค่ามากมายที่ถูกบริจาคมา อ่างน้ำหินในปีบุนเซที่ 6 (ค.ศ.1823), ประตูโทริอิที่เจ้าของเรือสำราญที่คะงะบริจาคในปีเทมโปะที่ 8 (ค.ศ.1837), หินบอกทิศทางที่ถูกมอบเพื่อความปลอดภัยในท้องทะเล ในปีคะเอที่ 7 (ค.ศ.1854) ฯลฯ และสิ่งปลูกสร้างเก่าแก่ ศาลเจ้าแห่งนี้ นอกจากชาวประมงในท้องถิ่นแล้ว ยังมีพ่อค้าจากมัตสึมาเอะ โฮะคุริคุ โอซากา ในฐานะที่เป็นเทพเจ้าปกป้องท้องทะเล เราทราบได้จากมรดกที่เหลืออยู่ในปัจจุบัน","日本, 〒040-0051 北海道函館市弁天町 西部環状線",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8e%b3%e5%b3%b6%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 579,中華会館,チュウカカイカン," ",2015年11月10日,2021年6月30日,http://donan-museums.jp/archives/579,,函館市,西部地区,函館市大町1-12,明治,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7679939,140.7094421,"中華会館 中華会館は純中国様式の建築として日本に現存する唯一の貴重な建物である。 函館から中国への海産物貿易の盛んな頃に、在函華商が信仰する三国時代(魏・呉・蜀)の蜀の武将として活躍した関羽=関帝を奉祀する聖所として、中国から大工・彫刻師・漆工らを招き、煉瓦・祭壇・什器等資材も中国から取り寄せ、約3年の工期と巨費を投じて明治43年(1910年)12月に竣工した。 内部は金色燦然たる関帝壇を中心として周囲に小部屋を配し、装飾、調度品は壮麗を極めている。 建物は社団法人函館中華会館の所有である。 函館市","中华会馆 中华会馆作为纯中式建筑是目前日本唯一仅存的珍贵建筑。 在函馆向中国进行海产物资贸易兴盛时期,由居住在函馆的华商出资兴建,供俸了三国时期的蜀国名将关羽=关公。不仅工匠、雕刻师、漆匠等皆从中国招聘,炼瓦、祭坛、器具等也都来自中国,花费了约3年的工期以及庞大的资金终于在明治43年(1910年)12月完工。 内部以金光璀璨的关帝坛为中心搭配周围的小房间,不论是装饰或日常用品都极尽奢华壮丽。 建筑物属社团法人函馆中华会馆所有。 函馆市","中華會館 中華會館作為純中式建築是目前日本唯一僅存的貴重建築物。 在函館向中國進行海產物資貿易興盛時期,由居住在函館的華商出資興建,供俸了三國時期的蜀國名將關羽=關聖帝君。不僅工匠・雕刻師・漆匠等皆從中國招聘,煉瓦・祭壇・器具等物也都來自中國,花費了約3年的工期以及龐大的資金終於在明治43年(1910年)12月完工。 內部以金光璀璨的關帝壇為中心搭配周圍的小房間,不論是裝飾或日常用品都極致奢華壯麗。 建築物屬社團法人函館中華會館所有。 函館市",,,"อนุสรณ์สถานจีน ชูกะไคคัง อนุสรณ์สถานจีน เป็นอาคารที่มีคุณค่ามากในฐานะที่เป็นสถาปัตยกรรมแบบจีนแท้ แห่งเดียวที่ยังหลงเหลืออยู่ในประเทศญี่ปุ่นจนถึงปัจจุบัน ในช่วงที่ธุรกิจส่งออกอาหารทะเลจากฮาโกดาเตะไปประเทศจีน พ่อค้าชาวจีนในฮาโกดาเตะ ได้เชิญช่างไม้, ช่างแกะสลัก, ช่างลงรัก และสั่งนำเข้าอิฐ แท่นบูชา เฟอร์นิเจอร์ ฯลฯ มาจากประเทศจีน ทุ่มทุนสร้างมหาศาล ใช้เวลาสร้างทั้งสิ้น 3 ปี แล้วเสร็จเดือนธันวาคม ปีเมจิที่ 43 (ค.ศ. 1910) ข้างในอาคาร มีตำหนักเทพเจ้ากวนอู สีทองอร่าม รายรอบด้วยห้องเล็กๆ ตกแต่งประดับประดาอย่างวิจิตรงดงาม อาคารแห่งนี้ถือครองโดยสมาคมอนุสรณ์สถานจีนฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0052 北海道函館市大町1−12",,"中華会館は純中国様式の建築として日本に現存する唯一の貴重な建物である。 函館から中国への海産物質易の盛んな頃に在函華商が信仰する三国時代(魏・呉・蜀)の蜀の武将として活躍した関羽=関帝を奉祀する聖所として中国から大工・彫刻師・漆工らを招き、煉瓦・祭壇・什器等資材も中国から取り寄せ、約3年の工期と巨費を投じて明治43年(1910年)12月に竣工した。 内部は金色燦然たる関帝壇を中心として周囲に小部屋を配し、装飾、調度品は壮麗を極めている。 建物は社団法人函館中華合館の所有である。 函館市 中華会館是純中国様式的建築、為日本現存唯一的貴重建築物。 由函館向中国進行海産物貿易的最盛時期、在函華商由於信仰三国時代(魏・呉・蜀)蜀的武将関羽而修建祭祀関帝的聖地、由中国招聘木匠・彫刻師・漆工等専家、並由中国採購磚瓦・祭壇・什器等資材、約費三年的工期、投以巨款、於明治43(1910)年12月竣工。 内部以金碧輝煌的関帝壇為中心、周囲配有小房間、装飾・家具都極為壮麗。 建築物為社団法人函館中華会館所有。",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e4%b8%ad%e8%8f%af%e4%bc%9a%e9%a4%a8,0 582,擬洋風建築物群,ギヨウフウケンチクブツグン,,2015年11月10日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/582,,函館市,西部地区,函館市大町2,明治||大正||昭和,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7672539,140.7111511,"擬洋風建築物群 函館は、安政6年(1859年)6月、横浜、長崎とともに日本で最初の貿易港として開港したことにより、西欧文化の影響を直接受けた。 このため、建物や街並みに今もその面影をとどめており、とくに、山の手にある元町周辺は、各国の様式を備えた洋風の建物が多く見られる。その代表的な建物は、旧函館区公会堂(重要文化財)、旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財)や相馬株式会社社屋(函館市伝統的建造物)などであり、また、洋風の窓など一部洋式を取り入れた和風建物としては、太刀川家住宅店舗(重要文化財)や旧金森洋物店(北海道指定有形文化財)などがある。 最も函館らしい建物は和洋折衷型の擬洋風建築物で、この辺りに多く見られる。これらの擬洋風建築物は1階が和風で2階が洋風、またその逆の場合や左右に分けられているほか、装飾をした縦長の窓や1階と2階の間の胴蛇腹、それにひさしの下にある装飾用コンソールが共通して見られる。 当時、函館の大工が領事館や教会など外国の建築様式を見て、独特のスタイルを生んだものと言われている。 函館市","拟洋风建筑物群 函馆在安政6年(1859年)6月时与横滨、长崎一同作为日本最早的贸易港口开港,并直接受到西欧文化的影响。 为此,建筑物跟街道至今都还可见当时风貌,特别是位于山手的元町周边,可以看到不少各国风情的洋风建筑物。其中的代表建筑物有旧函馆区公会堂(重要文化财产)、旧北海道厅函馆支厅厅舍(北海道指定有形文化财产)以及相马株式会社社屋(函馆市传统建筑)等等,另外,装有西式窗户等采用局部洋式的和风建筑则有太刀川家住宅店铺(重要文化财产)以及旧金森洋物店(北海道指定有形文化财产)等。 最具有函馆特色的建筑物就属这周围常常可以看到的日西折衷型拟洋风建筑物。这种拟洋风建筑物是1楼日式2楼西式,又或者相反或以左右区分,用来装饰的纵长型窗户或是1楼跟2楼之间的带状装饰,又或是屋檐下方的装饰都可以感受到。 据说是当时函馆的工匠参考领事馆与教会等外国建筑样式后所发想出的独特造型。 函馆市","擬洋風建築物群 函館在安政6年(1859年)6月時與橫濱、長崎一同作為日本最早的貿易港口開港,並直接受到西歐文化的影響。 為此,建築物跟街道至今都還可見當時風貌,特別是位於山手的元町周邊,可以看到不少各國風情的洋風建築物。其中的代表建築物有舊函館區公會堂(重要文化財產)、舊北海道廳函館支廳廳舍(北海道指定有形文化財產)以及相馬株式會社社屋(函館市傳統建造物)等等,另外,裝有西式窗戶等採用局部洋式的和風建築則有太刀川家住宅店鋪(重要文化財產)以及舊金森洋物店(北海道指定有形文化財產)等。 最具有函館特色的建築物就屬這周圍常常可以看到的日西折衷型擬洋風建築物。這種擬洋風建築物是1樓日式2樓西式,又或者相反或以左右區分,用來裝飾的縱長型窗戶或是1樓跟2樓之間的帶狀裝飾,又或是屋簷下方裝飾都可以感受到。 據說是當時函館的工匠參考領事館與教會等外國建築樣式後所發想出的獨特造型。 函館市",,,"กลุ่มอาคารสไตล์ตะวันตกเทียม ในเดือนมิถุนายน ปีอันเซที่ 6 (ค.ศ.1859) ฮาโกดาเตะ ได้เปิดท่าเรือเป็นท่าเรือการค้าแห่งแรกของญี่ปุ่น พร้อมกับ โยโกฮามา และนางาซากิ ทำให้ได้รับอิทธิพลจากวัฒนธรรมตะวันตกโดยตรง ด้วยเหตุนี้ ในตอนนี้อาคารและบ้านเมืองก็ยังคงรักษารูปลักษณ์นั้นอยู่ โดยเฉพาะบริเวณตำบลโมโตะมาจิที่อยู่ที่ยามาโนะเทะ มีอาคารแบบตะวันตกหลายแห่งที่รับวัฒนธรรมจากแต่ละประเทศ อาคารที่เป็นตัวแทนได้แก่ ศาลาว่าการฮาโกดาเตะเดิม (มรดกทางวัฒนธรรมสำคัญ), สำนักงานเทศบาลจังหวัดฮอกไกโด สำนักงานสาขาฮาโกดาเตะเดิม (มรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ของฮอกไกโด) อาคารบริษัทโซมะจำกัด (อาคารแบบดั้งเดิมของอำเภอฮาโกดาเตะ) ฯลฯ และอาคารสไตล์ญี่ปุ่นที่นำรูปแบบตะวันตกบางส่วนมาใช้ เช่น หน้าต่างแบบตะวันตก ได้แก่ ร้านและบ้านของตระกูลทาจิคาวะ (มรดกทางวัฒนธรรมสำคัญ) และอดีตร้านขายสินค้าตะวันตกคานะโมริ (มรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ของฮอกไกโด) อาคารที่เป็นสไตล์ฮาโกดาเตะมากที่สุดคือ อาคารสไตล์ตะวันตกเทียม ซึ่งเป็นอาคารแบบญี่ปุ่นผสมตะวันตก ซึ่งสามารถเห็นได้ในแถบนี้ อาคารสไตล์ตะวันตกเทียมเหล่านี้ ชั้นหนึ่งเป็นแบบญี่ปุ่น และชั้นสองเป็นแบบตะวันตก หรือไม่ก็สลับกัน หรือแบ่งแบบซีกซ้ายและขวา หน้าต่างแนวตั้งแบบยาวที่ตกแต่งสวยงาม หรือแถบคิ้วที่นูนจากผนังระหว่างชั้นหนึ่งและชั้นสอง และมักจะเห็นเหมือนกันกับคอนโซลสำหรับใช้ประดับใต้ชายคาบ้าน ในเวลานั้น กล่าวกันว่า ช่างไม้ในฮาโกดาเตะ ดูรูปแบบสถาปัตยกรรมต่างประเทศ เช่นสถานกงสุล หรือโบสถ์ และสร้างเป็นสไตล์ที่เป็นเอกลักษณ์เฉพาะตัวขึ้นมา","日本, 〒040-0052 北海道函館市大町2",,"函館は、安政6年(1859年)6月、横浜、長崎とともに日本の最初に貿易港として開港したことにより、西欧文化の影響を直接受けた。このため、建物や街並みに今もその面影をとどめており、とくに、山の手にある元町周辺は、各国の様式を備えた洋風の建物が多く見られる。その代表的な建物は、旧函館区公会堂(重要文化財)、旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財)や相馬株式会社社屋(後方の緑の建物)などであり、また、洋風の窓など一部様式を取り入れた和風建物としては、太刀川家住宅店舗(重要文化財)や旧金森洋物店(北海道指定有形文化財)などがある。 最も函館らしい建物は和洋折衷型の擬洋風建築物で、この辺りに多く見られる。これらの擬洋風建築物は一階が和風で二階が洋風、またその逆の場合や左右に分けられているほか、装飾をした縦長の窓や一階と二階の間の胴蛇腹、それにひさしの下にある装飾用コンソールが共通して見られる。 当時、函館の大工が領事館や教会など外国の建築様式を見て独特のスタイルを生んだものと言われている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%93%ac%e6%b4%8b%e9%a2%a8%e5%bb%ba%e7%af%89%e7%89%a9%e7%be%a4,0 584,箱館運上所跡,ハコダテウンジョウショアト,,2015年11月12日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/584,,函館市,西部地区,函館市大町10,,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7679520,140.7123566,"箱館運上所跡 欧米5か国との通商条約に基づき、安政6年(1859年)、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。 これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は、商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であった。貿易では、輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が4分の1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。 明治5年(1872年)、運上所は税関と改称された。昭和43年(1968年)、海岸町中央埠頭に港湾合司庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年(1911年)に新築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47年(1972年)に取り壊された。 函館市","箱馆运上所遗迹 基于与欧美5国所签订的通商条约,安政6年(1859年)时箱馆与横滨、长崎一同开港成为国际贸易港。 随此作为税关前身的运上所也应运而生。开港隔年的入港外国船只计有商船30只、捕鲸船21只、军舰13只共64只。几乎没有进口贸易,出口至中国的昆布占全体的4分之1,除此之外,沙丁鱼干、乌贼干、鲍鱼干等海产也位列前茅。 明治5年(1872年)运上所更名为税关。昭和43年(1968年)位于海岸町中央埠头的港湾合同厅舍完工后,税关也随即搬迁进去。另外,明治44年(1911年)新建的厅舍是木造的文艺复兴风格西式建筑,在昭和47年(1972年)时拆毁。 函馆市","箱館運上所遺跡 基於與歐美5國所簽訂的通商條約,安政6年(1859年)時箱館與橫濱、長崎一同開港成為國際貿易港。 隨此,作為稅關前身的運上所也應運而生。開港隔年的入港外國船隻計有商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻共64隻。幾乎沒有進口貿易,出口至中國的昆布占全體的4分之1,除此之外,沙丁魚乾、烏賊乾、鮑魚乾等海產也位列前茅。 明治5年(1872年)運上所更名為稅關。昭和43年(1968年)位於海岸町中央埠頭的港灣合同廳舍完工後,稅關也隨即搬遷進去。另外,明治44年(1911年)新建的廳舍是木造的文藝復興風格西式建築,在昭和47年(1972年)時拆毀。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นสำนักงานการขนส่งฮาโกดาเตะ อ้างอิงตามสนธิสัญญาการค้ากับประเทศแถบยุโรปและอเมริกา 5 ประเทศ ปีอันเซที่ 6 (ค.ศ.1859) ฮาโกดาเตะ กลายเป็นเมืองท่าที่ทำการค้าระหว่างประเทศ พร้อมกับโยโกฮามา และ นางาซากิ นอกจากนี้ ยังมีการจัดตั้งสำนักงานการขนส่ง ซึ่งเป็นต้นกำเนิดของศุลกากร จำนวนเรือต่างประเทศที่เข้ามาในท่าเรือ ในปีถัดมาหลังจากเปิดท่าเรือ มีเรือพาณิชย์ 30 ลำ เรือล่าปลาวาฬ 21 ลำ และเรือประจัญบาน 13 ลำ ทั้งหมด 64 ลำ ในแง่ของการค้า แทบจะไม่มีการนำเข้า ส่วนการส่งออก ได้แก่ สาหร่ายคมบุที่ส่งไปประเทศจีนคิดเป็นหนึ่งในสี่ ในขณะที่อาหารทะเล เช่น อิริโกะ ปลาหมึก และหอยเป๋าฮื้อตากแห้ง ก็เป็นสินค้าอันดับต้นๆ ปีเมจิที่ 5 (ค.ศ.1872) สำนักงานขนส่งถูกเปลี่ยนชื่อเป็นสำนักงานศุลกากร ปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) อาคารรัฐบาลท่าเรือที่ตำบลไคงัน จูโอฟุโต สร้างเสร็จสมบูรณ์ สำนักงานศุลกากรก็ย้ายไปอยู่ในอาคารเดียวกัน อาคารของรัฐบาลที่สร้างขึ้นใหม่ในปีเมจิที่ 44 (ค.ศ.1911) เป็นอาคารสไตล์ตะวันตกสมัยเรอเนซองส์ที่ทำด้วยไม้ แต่ถูกรื้อถอนไปในปีโชวะที่ 47 (ค.ศ.1972)","日本, 北海道函館市 基坂通",,"欧米5か国との通商条約に基づき、安政6(1859)年、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は、商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であった。貿易では、輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が4分の1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。 明治5(1872)年、運上所は税関と改称された。昭和43年、海岸町中央埠頭に港湾合同庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年に新築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47(1972)年に取り壊された。(写真) 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e9%81%8b%e4%b8%8a%e6%89%80%e8%b7%a1,0 586,新島襄海外渡航の地碑,ニイジマジョウカイガイトコウノチヒ," ",2015年11月12日,2021年6月24日,http://donan-museums.jp/archives/586,1127,函館市,西部地区,函館市大町11,昭和,近世,"歴史,碑・像",41.7690811,140.7121887,"新島襄海外渡航の地碑 新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選んだ。 元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の官立気候測量所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功した。 上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)に帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立した。 この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら苦辛を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年(1865年)香港での作である。 渡航前の名前は新島七五三太であったが、航海中に船長から「ジョセフ」の名をもらい、略して「襄」の字をあてた。 明治23年(1890年)48歳で没。 函館市","新岛襄海外渡航地碑 新岛襄为了到海外学习新的知识,考虑到吉田松阴的航海失败经历,选择了箱馆作为出发地。 元治元年(1864年)从江户来到此处,一边教尼古拉主教(哈利斯特斯正教会2代主教)日文一边等待离开的机会,同年6月14日(国历7月17日)深夜,在福士成丰(日本最早的官立气候测量所开设者)的帮助下,从此处违反国禁成功出航前往海外。 从上海前往美国的新岛襄在10年苦读后于明治7年(1874年)归国,明治8年时在京都创立同志社大学的前身同志社英学校。 碑上所刻“男児决志驰千里 自尝苦辛岂思家 却笑春风吹雨夜 枕头尚梦故园花”的汉诗是新岛襄的亲笔创作,于元治2年(1865年)时在香港所写。 在前往海外之前本名叫做新岛七五三太,航海中由船长帮忙取名“Joseph”,而后简略成一个“襄”字。 殁于明治23年(1890年)享年48岁。 函馆市","新島襄海外渡航地碑 新島襄為了到海外學習新的知識,考慮到吉田松陰的航海失敗經歷,選擇了箱館作為出發地。 元治元年(1864年)從江戶來到此處,一邊教尼古拉主教(哈利斯特斯正教會2代主教)日文一邊等待離開的機會,同年6月14日(國曆7月17日)深夜,在福士成豐(日本最早的官立氣候測量所開設者)的幫助下,從此處違反國禁成功出航前往海外。 從上海前往美國的新島襄在10年苦讀後於明治7年(1874年)歸國,明治8年時在京都創立同志社大學的前身同志社英學校。 碑上所刻「男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花」的漢詩是新島襄的親筆創作,於元治2年(1865年)時在香港所寫。 在前往海外之前本名叫做新島七五三太,航海中由船長幫忙取名「Joseph」,而後簡略成一個「襄」字。 歿於明治23年(1890年)享年48歲。 函館市",,,"อนุสาวรีย์เดินเรือไปต่างประเทศของนีจิมะ โจ นีจิมะ โจ ต้องการไปหาความรู้ใหม่ๆ ในต่างประเทศ จึงเลือกฮาโกดาเตะเป็นเป้าหมาย โดยคำนึงถึงความล้มเหลวในการเดินทางไปของโยชิดะ โชอิน นีจิมะมาจากเอโดะ ในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864) เขารอโอกาสที่จะหลบหนี โดยการสอนภาษาญี่ปุ่นให้บิชอปนิโคไล (เป็นอธิการคนที่สองของโบสถ์ออธอดอกซ์) และกลางดึกของวันที่ 14 เดือนมิถุนายน ปีเดียวกัน (ปฏิทินใหม่ วันที่ 17 กรกฎาคม) จากความช่วยเหลือของฟุคุชิ นาริโทโยะ (ผู้ก่อตั้งสถานีสำรวจสภาพภูมิอากาศสาธารณะแห่งแรกของญี่ปุ่น) ทำให้เขาฝ่าฝืนคำสั่งห้ามของชาติและสามารถเดินทางไปต่างประเทศได้สำเร็จ นีจิมะ โจเดินทางไปสหรัฐอเมริกาผ่านทางเซี่ยงไฮ้ และกลับไปญี่ปุ่นในปีเมจิที่ 7 (ค.ศ.1874) หลังจากศึกษาวิชาเป็นเวลา 10 ปี และได้ก่อตั้งโรงเรียนสอนภาษาอังกฤษโดชิชะขึ้นที่เกียวโตในปีเมจิที่ 8 ปีต่อมา ซึ่งเป็นจุดเริ่มต้นของมหาวิทยาลัยโดชิชะ บทกวีอักษรจีนที่สลักบนอนุสาวรีย์นี้ที่ว่า ""ชายหนุ่มหลบหนีเป็นระยะทางพันๆไมล์ ด้วยความมุ่งมั่นของตนเอง เขาไม่สามารถละสายตาออกจากบ้านของตนเองโดยไม่รู้สึกขมขื่น จากไปด้วยรอยยิ้มในคืนที่มีลมและฝนในฤดูใบไม้ผลิ และยังคงนอนหลับฝันถึงดอกไม้ที่บ้านเกิด"" เป็นผลงานของนีจิมะ โจเอง เขียนที่ฮ่องกงในปีเก็นจิที่ 2 (ค.ศ.1865) ชื่อของเขาก่อนไปต่างประเทศคือ นีจิมะ ชิเมตะ แต่ตอนที่อยู่บนเรือ กัปตันตั้งชื่อใหม่ให้ว่า ""โจเซฟ"" จึงย่อสั้นๆและใช้ตัวคันจิพ้องเสียงมาตั้งใหม่ว่า ""โจ"" เขาเสียชีวิตเมื่ออายุ 48 ปี ในปีเมจิที่ 23 (ค.ศ.1890)","日本, 〒040-0052 北海道函館市大町11−1","(表)
男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花 明治十六年一月一日録旧作 新襄
IN MEMORY OF JOSEPH HARDY NEESIMA 1843-1890 FOUNDER OF DOSHISHA UNIVERSITY 元治元年1864AD七月十七日旧暦六月十四日夜半 新島襄 海外渡航 乗舩之處 昭和廿七年 七月二日建之 函館市 1952AD 同志社 (裏)新島襄ハ天保十四年二月十二日江戸ニ生ル 元治元年七月十七日箱館ヨリ乗船シ北米新英洲ニ渡リ修学十年明治七年皈國 八年同志社ヲ創立 二十三年一月二十三日歿ス 享年四十八 明治二十九年七月十七日建之 同志社 函館市
","新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松蔭の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を蝦夷地に選びました。 元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ司教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。 上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。 この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので元治2年(1865年)香港での作です。 渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄」の字をあてました。 明治23年(1890年)48歳で没。 函館市",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)、昭和25年11月25日・昭和27年6月17日・同年6月30日・同年7月3日付け「北海道新聞」、昭和27年7月3日・昭和29年8月21日付け「函館新聞」,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako024.jpg,hako024.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako024.jpg,1127,hako024,,,新島襄海外渡航の地碑,%e6%96%b0%e5%b3%b6%e8%a5%84%e6%b5%b7%e5%a4%96%e6%b8%a1%e8%88%aa%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 589,沖之口番所跡,オキノクチバンショアト,,2015年11月12日,2021年6月23日,http://donan-museums.jp/archives/589,,函館市,西部地区,函館市大町13-1,,,未分類,41.7706985,140.7098999,"沖之口番所跡 江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。その後、江差と箱館(18世紀のはじめ頃)にも設けられ、文政4年(1821年)沖之口役所と改められた。 明治2年(1869年)に「海官所」、さらに翌年に「海関所」と改称された。同8年に北海道諸産物出港規則が制定され、出港税徴収が開始されると、「船改所」と改称され、その徴収業務を担当したが、同20年、出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。 明治18年(1885年)から構内に配置されていた函館水上警察署は、船改所閉鎖後も存続し、大正15年(1926年)には建物が新築された。現在の建物は、平成18年(2006年)に当時の外観を忠実に復元したものである。 (水上警察署は昭和27年に西警察署と改称し、昭和59年に新築移転した。) 函館市","冲之口番所遗迹 江户时代,作为松前藩支撑藩财政的政策之一,在福山创设了(现松前)对船舶、货物、旅客进行检查并征收税金的“冲之口番所”。而后,在江差跟箱馆(18世纪初期)也随之设立,文政4年(1821年)时改称为冲之口役所。 明治2年(1869年)改称“海官所”,隔年再度改为“海关所”。明治8年时制定北海道各物产的出港规则,开始了出港税的征收,并将称呼改为“船改所”负责征收税务,到了明治20年由于出港税的废止船改所也随之关闭。 明治18年(1885年)开始设置于占地内的函馆水上警察署在船改所关闭后仍然保留着,大正15年(1926年)时建筑物经过重建。现在的建筑物是平成18年(2006年)时将当时的样貌忠实复原。","沖之口番所遺跡 江戶時代,作為松前藩支撐藩財政的政策之一,在福山創設了(現松前)對船舶、貨物、旅客進行檢查並徵收稅金的「沖之口番所」。而後,在江差跟箱館(18世紀初期)也隨之設立,文政4年(1821年)時改稱為沖之口役所。 明治2年(1869年)改稱「海官所」,隔年再度改為「海關所」。明治8年時制定北海道各物產的出港規則,開始了出港稅的徵收,並將稱呼改為「船改所」負責徵收稅務,到了明治20年由於出港稅的廢止船改所也隨之關閉。 明治18年(1885年)開始設置於占地內的函館水上警察署在船改所關閉後仍然保留著,大正15年(1926年)時建築物經過重建。現在的建築物是平成18年(2006年)時將當時的樣貌忠實復原。 (水上警察署在昭和27年時更名為西警察署,昭和59年遷移到新址並重建。) 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นโอคิโนะกุจิบันโชะ(ที่ว่าการสาขา) ในสมัยเอโดะ แคว้นมัตสึมาเอะ ก่อตั้ง ""โอคิโนะกุจิบันโชะ"" ขึ้นที่ฟุคุยามะ (มัตสึมาเอะในปัจจุบัน) เพื่อตรวจสอบนักท่องเที่ยว, สินค้า และเรือและเก็บภาษีกับตามที่กำหนด เป็นหนึ่งในมาตรการเพื่อสนับสนุนทางการเงินของแคว้น หลังจากนั้น ก็ก่อตั้งขึ้นที่เอซาชิและฮาโกดาเตะ (ช่วงต้นศตวรรษที่ 18) และเปลี่ยนชื่อเป็นสำนักงานรัฐบาลโอคิโนะกุจิในปีบุนเซที่ 4 (ค.ศ.1821) ในปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) มันถูกเปลี่ยนชื่อเป็น ""ไคคังโชะ (สำนักงานทางทะเล)"" และในปีต่อมาก็เปลี่ยนชื่อเป็น ""ไคเซคิโชะ (สำนักงานศุลกากรทางทะเล)"" ในปีเมจิที่ 8 มีการออกระเบียบท่าเรือสำหรับผลิตภัณฑ์ต่างๆ ของฮอกไกโด และเมื่อเริ่มเก็บภาษีเดินทางออกจากท่าเรือ ก็เปลี่ยนชื่อเป็น ""ฟุนะอาราทาเมะโชะ"" และรับผิดชอบการเก็บภาษีตลอดมา จนกระทั่งในปีเมจิที่ 20 ฟุนะอาราทาเมะโชะถูกปิดพร้อมกับการยกเลิกการเก็บภาษีเดินทางออกจากท่าเรือ ตั้งแต่ปีเมจิที่ 18 (ค.ศ.1885) สถานีตำรวจน้ำฮาโกดาเตะที่ตั้งอยู่ภายในบริเวณ หลังจากฟุนะอาราทาเมะโชะถูกปิดแล้ว ก็ยังดำเนินงานอยู่ ปีไทโชที่ 15 (ค.ศ.1926) อาคารถูกสร้างขึ้นใหม่ อาคารในปัจจุบัน ถูกสร้างขึ้นมาใหม่ในปีเฮเซที่ 18 (ค.ศ.2006) โดยสร้างให้ภายนอกเหมือนในสมัยนั้น (สถานีตำรวจน้ำ เปลี่ยนชื่อเป็น สถานีตำรวจตะวันตก ในปีโชวะที่ 27 และย้ายไปสร้างในที่ใหม่เมื่อปีโชวะที่ 59)","日本, 〒040-0052 北海道函館市大町13−1",,"江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。その後江差と箱館(18世紀のはじめ頃)にも設けられ、文政4(1821)年沖之口役所と改められた。 明治2(1869)年に「海官所」、さらに翌年に「海関所」と改称された。同8年に北海道諸産物出港規則が制定され、出港税徴収が開始されると、「船改所」と改称され、その徴収業務を担当したが、同20年、出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。 なお、明治18年に船改所構内に函館水上警察署が置かれたが、船改所閉鎖後も存続し、大正15(1926)年に建てられた建物が現存している。(水上警察署は昭和27年に西警察署と改称し、昭和59年に新築移転した。) 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%b2%96%e4%b9%8b%e5%8f%a3%e7%95%aa%e6%89%80%e8%b7%a1,0 591,函館港と倉庫群・日本最初の気候測量所跡,ハコダテコウトソウコグン・ニホンサイショノキコウソクリョウジョアト,"■観光説明板 函館港と倉庫群 安政元年(1854年)4月、米国のペリー提督が5隻の艦船を率いてこの港に姿を現わし、箱館の住民を大いに驚かせたが、ペリー著「日本遠征記」に”世界の最良港の一つ”と記されているように、舟が出入りしやすく、安全な港として国際的に名を知られた港である。箱館港は、北海道の玄関口であるばかりでなく、安政6年(1859年)長崎、横浜とともに日本最初の貿易港として開港され、欧米文化が上陸した港である。また、江戸時代後期に高田屋嘉兵衛が国後、択捉両島の漁場を開拓して以来、北洋漁業の根拠地として発達した港でもある。 この赤レンガの金森倉庫は、明治40年(1907年)頃の建築。レンガを2枚半の厚さに積み上げた外壁、木骨の柱で、函館港の歴史を語り継ぐシンボル的存在であり、時折り、テレビ、映画のロケーションの場にもなっている。 日本最初の気候測量所跡 この辺りは、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊(日本で最初に西洋型の船を造った続豊治の次男)が明治5年(1872年)ブラキストンの機械を譲り受け、日本で最初の気象観測をする「函館気候測量所」を開設した所である。函館市
HAKODATE'S PORT AND WAREHOUSES In 1854 an American Commander Perry saild in to this port with 5 ships. It surprised the people of Hakodate very much.As in ""Nippon Enseiki"" (Expedition in Japan) written by Perry Hakodate port was said to be one of the best ports in the world.It was known internationally to be a safe port for the ships to sail in and out. Hakodate port is not only the entry point of Hokkaido but also a historic one opened at the same time as Nagasaki and Yokohama. These were the first Japanese treading ports opened in 1859,European and American culture also entered at this port at this time. In the end of the Edo perriod since Kahei Takadaya developed fishing grounds in Kunashiri and Etorofu Island,this port has also been developed as a base of the northernsea fishery. The red brick Kanemori Warehouse were built around 1967.These Timber-Framed brick cons tractions with walls two and a halfbrics thick,are symboric of its history,television and cinema crews often come here to film on location. THE REMAlNS OF THE FIRST WEATHER STATION This is the place where Naritoyo Fukushi opened HakodateWeather station in 1872.It be came the first meteorological observations in Japan. Incidentally he received instruments from Blakiston to help him with his work.He was the second son of Toyoji Tsuzuki who built the first Western style ship.The City of Hakodate
",2015年11月12日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/591,,函館市,西部地区,函館市末広町13,,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7666550,140.7164154,,,,,,,"日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町13",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e6%b8%af%e3%81%a8%e5%80%89%e5%ba%ab%e7%be%a4%e3%83%bb%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9c%80%e5%88%9d%e3%81%ae%e6%b0%97%e5%80%99%e6%b8%ac%e9%87%8f%e6%89%80%e8%b7%a1,0 593,日本最古のコンクリート電柱,ニホンサイコノコンクリートデンチュウ,,2015年11月12日,2021年6月23日,http://donan-museums.jp/archives/593,,函館市,西部地区,函館市末広町15,,,未分類,41.7650642,140.7165375,"日本最古のコンクリート電柱 この電柱は、大正12年(1923年)10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が建てたもので、日本最古のコンクリート電柱である。 高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで、角錐形という珍しいものである。 火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあらわれであり、木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役として街の移り変わりを見守っている。 また、後に同形の電柱(昭和46年に撤去し,平成8年に再建)が建物をはさんで建てられたため、「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった。 函館市","日本最古老的水泥电线杆 这座电线杆是大正12年(1923年)10月时由当时的函馆水电会社(现北海道电力)所建造,是日本最古老的混凝土电线杆。 这根高度10公尺的电线杆使用现场打造的方法,底长47公分的四方体,上部19.5公分长钢筋混凝土的四方柱,角锥状的设计相当少见。 当时函馆火灾频繁,耐火建筑也开始增加,这座电线杆是代表那个时代的变迁,不使用普通常用的木柱,时至今日虽已超过耐用年限,但仍然坚守岗位守护着城市。 而后又在建筑物的另一端建造了相同外型的电线杆(昭和46年撤下,平成8年再建),被市民称做“夫妇电线杆”。 函馆市","日本最古老的水泥電線桿 這座電線桿是大正12年(1923年)10月時由當時的函館水電會社(現北海道電力)所建造,是日本最古老的混凝土電線桿。 這根高度10公尺的電線桿使用現場打造的方法,底長47公分的四方體,上部19.5公分長鋼筋混凝土的四方柱,角錐狀的設計相當少見。 當時函館火災頻繁,耐火建築也開始增加,這座電線桿是代表那個時代的變遷,不使用普通常用的木柱,時至今日雖已超過耐用年限,但仍然堅守崗位守護著城市。 而後又在建築物的另一端建造了相同外型的電線桿(昭和46年撤下,平成8年再建),被市民稱做「夫婦電線桿」。 函館市",,,"เสาไฟฟ้าคอนกรีตที่เก่าที่สุดในญี่ปุ่น เสาไฟฟ้าต้นนี้ สร้างขึ้นในเดือนตุลาคม ปีไทโชที่ 12 (ค.ศ.1923) โดยบริษัทฮาโกดาเตะซุยเด็นในสมัยนั้น (การไฟฟ้าฮอกไกโดในปัจจุบัน) และเป็นเสาไฟฟ้าคอนกรีตที่เก่าแก่ที่สุดของญี่ปุ่น เสาไฟฟ้าที่มีความสูง 10 เมตรต้นนี้ เป็นเสาที่หล่อที่หน้างาน โครงสร้างคอนกรีตเสริมเหล็ก มีฐานขนาด 47 ตร.ซม. และด้านบนขนาด 19.5 ตร.ซม. เป็นรูปปิระมิดถือว่ามีรูปร่างแปลก ในฮาโกดาเตะในสมัยนั้นเกิดไฟไหม้บ่อยครั้ง และเริ่มมีสถาปัตยกรรมที่ทนไฟเพิ่มขึ้นตั้งแต่ช่วงนี้ และเสาต้นนี้ก็เป็นตัวอย่างหนึ่ง เพราะในสมัยนั้นส่วนใหญ่จะเป็นเสาไม้ จนถึงตอนนี้แม้ว่าเสาต้นนี้จะเกินอายุการใช้งานไปแล้ว แต่มันก็ยังทำงานได้อยู่ และเฝ้าดูการเปลี่ยนแปลงของบ้านเมืองตลอดมา ต่อมามีเสารูปร่างเดียวกันสร้างขึ้นขนาบกับตึก (ถูกถอนออกในปีโชวะที่ 46 และสร้างขึ้นใหม่ในปีเฮเซที่ 8) จึงถูกเรียกว่า ""เสาไฟฟ้าคู่สามีภรรยา"" ทำให้กลายเป็นหัวข้อทอล์กออฟเดอะทาวน์ในหมู่ชาวเมือง","日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町15",,"この電柱は、大正12年(1923年)10月、当時の函館水電会社(現 北海道電力)が建てたもので、現存するコンクリート電柱では日本最古のものである。 高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで角錐形という珍しいものである。 火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあらわれである。 後に、同形の電柱が建物をはさんで建てられたため、「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった。 本柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を超えてもなお現役として街の移り変わりを見守っている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9c%80%e5%8f%a4%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%88%e9%9b%bb%e6%9f%b1,0 596,明治天皇上陸記念碑,メイジテンノウジョウリクキネンヒ," ",2015年11月12日,2021年6月23日,http://donan-museums.jp/archives/596,1132,函館市,西部地区,函館市末広町21,昭和,明治,"歴史,碑・像",41.7675629,140.7117920,"明治天皇上陸記念碑 赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰 が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9年(1876年)、東北・北海道巡幸で来函の際の、旧税関桟橋への上陸を記したものである。同14年(1881年) に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向かった。 明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で 、計3回となることから、三蹤碑とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家・梁川剛一の作で、昭和10年(1935年)9月7日に除幕された。同16年(1941年) に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年(1876年)の巡幸の際、7月18日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8年(1996年)から国民の祝日「海の日」となった。 函館市","明治天皇上陆纪念碑 这座赤御影石地球仪上青铜凤凰展翅的碑,记录了明治天皇在明治9年(1876年)巡视东北・北海道时来到函馆,在旧税关栈桥登陆时的事蹟。明治14年(1881年)再度来北海道之际,从小樽经由陆路来函,并从此处乘船前往青森。 明治9年上下船与14年的上船之际共计3次,故被称做三踪碑。这座碑由函馆出身的雕刻家梁川刚一所作,昭和10年(1935年)9月7日揭幕。昭和16年(1941年)订立7月20日为“海之纪念日”就是为了纪念明治天皇在明治9年(1876年)巡视之际,从7月18日离开函馆、20日抵达横滨之事。平成8年(1996年)成为了国民节假日“海之日”。 函馆市","明治天皇上陸紀念碑 這座赤御影石地球儀上青銅鳳凰展翅的碑,記錄了明治天皇在明治9年(1876年)巡視東北・北海道時來到函館,在舊稅關棧橋登陸時的事蹟。明治14年(1881年)再度來北海道之際,從小樽經由陸路來函,並從此處乘船前往青森。 明治9年上下船與14年的上船之際共計3次,故被稱做三蹤碑。這座碑由函館出身的雕刻家梁川剛一所作,昭和10年(1935年)9月7日揭幕。昭和16年(1941年)訂立7月20日為「海之紀念日」就是為了紀念明治天皇在明治9年(1876年)巡視之際,從7月18日離開函館、20日抵達橫濱之事。平成8年(1996年)成為了國民節假日「海之日」。 函館市",,,"อนุสาวรีย์รำลึกการเสด็จประพาสของจักรพรรดิเมจิ อนุสาวรีย์ที่มีนกฟีนิกซ์สีบรอนซ์กางปีกอยู่บนลูกโลกหินแกรนิตสีแดง เป็นอนุสาวรีย์ที่ระลึกเมื่อครั้งที่เสด็จประพาสเยือนโทโฮคุ, ฮอกไกโด และเสด็จขึ้นที่สะพานศุลกากรเดิมมาที่ฮาโกดาเตะ ในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) และเมื่อเสด็จมาที่ฮอกไกโดอีกครั้งในปีเมจิที่ 14 (ค.ศ.1881) เสด็จพระราชดำเนินทางรถยนต์จากโอตารุมาที่ฮาโกดาเตะ แล้วจึงประทับเรือมุ่งหน้าสู่อาโอโมริ จากการเสด็จลงจากเรือ และขึ้นเรือในปีเมจิที่ 9 และเสด็จขึ้นเรือในปีเมจิที่ 14 นับรวมเป็น 3 ครั้ง จึงถูกเรียกว่า ""อนุสาวรีย์ซันโจฮิ"" อนุสาวรีย์แห่งนี้ สร้างโดย ยานางาวะ โกอิจิ นักแกะสลักชาวฮาโกดาเตะ ถูกเปิดผ้าคลุมเมื่อวันที่ 7 กันยายน ปีโชวะที่ 10 (ค.ศ 1935) และที่กำหนดให้วันที่ 20 กรกฎาคม ปีเมจิที่ 16 (ค.ศ.1941) เป็น ""วันที่ระลึกถึงทะเล"" ก็เพื่อระลึกถึงวันที่จักรพรรดิเมจิเสด็จกลับถึง โยโกฮามา ตอนที่เสด็จประพาสต้นในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) โดยทรงออกจากฮาโกดาเตะวันที่ 18 กรกฎาคม และเสด็จกลับถึง โยโกฮามาในวันที่ 20 และกลายเป็น ""วันแห่งทะเล"" เป็นวันหยุดราชการ ตั้งแต่ปีเฮเซที่ 8 (ค.ศ.1996)","日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町21","(表)
明治天皇御上陸記念碑
(右側)昭和十年七月十六日建立
(裏)蝦夷開拓ハ 皇威隆替ノ関スル所 一日モ忽ニス可ラス汝直正深ク国家ノ重 ヲ荷ヒ身ヲ以テ之ニ任センコトヲ請フ其憂 国済民ノ至情朕嘉納ニ堪ヘス独恐ル 汝高年遂ニ殊方ニ赴クコトヲ然レトモ 朕之ヲ汝ニ委ス始テ北顧ノ憂ナカラン仍 テ督務ヲ命ス他日 皇威ヲ北彊ニ宣 ル汝方寸ノ間ニアルノミ汝直正懋哉 明治二年己巳六月四日
","赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9(1876)年、東北・北海道巡幸で来函の際、旧税関桟橋への上陸を記念したものである。同14年に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向かった。 明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから、三蹤碑(さんしょうひ)とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家梁川剛一の作で、昭和10(1935)年9月7日に除幕された。同16年に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年の巡幸の際、7月18日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8(1996)年から国民の祝日「海の日」となった。 函館市■追加解説
昭和10年(1935年)7月16日には、地鎮祭が開催されている。
",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、昭和10年6月19日・7月17日・9月7日付け「函館新聞」、「目で見る函館のうつりかわり」(函館市 1972年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako025-2.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako025.jpg,hako025-2.jpg||hako025.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako025-2.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako025.jpg,1132||1131,hako025-2||hako025,,,明治天皇御上陸記念碑||明治天皇御上陸記念碑,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e4%b8%8a%e9%99%b8%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 598,北海道第一歩の地碑,ホッカイドウダイイッポノチヒ," ",2015年11月12日,2021年6月30日,http://donan-museums.jp/archives/598,1203,函館市,西部地区,函館市末広町24,昭和,明治,碑・像,41.7673798,140.7133331,"北海道第一歩の地碑 明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋(旧桟橋) である。 青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。 連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の拠点などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。平成30年度から架け替え工事を実施。 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して、昭和43年(1968年)9月に建立されたものである。 函館市","北海道第一步的地碑 明治维新后,函馆成为了名副其实的北海道大门,第一步踏上北海道土地的印记就位于东滨栈桥(旧栈桥)。 青函航路在明治6年(1873年)由开拓使的弘明丸号开始一般运输,明治12年(1879年)时三菱会社从开拓使手中接下青函航路,而后由日本邮船铁道会社等接手营运,明治41年(1908年)作为国有铁道的航线,比罗夫丸号、田村丸号也开始投入营运。 当时的联络船是停泊在距离陆地尚有段距离的海面上,乘客再搭乘船舟来往栈桥。这座东滨栈桥造于明治4年(1871年)。 联络船的栈桥虽在明治43年(1910年)2月时新建并移转到若松埠头,但在这之后这座栈桥仍然继续使用,作为北洋渔业的据点等重要用途,特别是在战前北洋渔业进出入时相当热闹繁荣。平成30年度开始实施修缮工程。 这座纪念碑采熊与锚的设计,除了纪念开道100年来过往先人的足迹之外,还代表北海道未来的发展志向,于昭和43年(1968年)9月时建立。 函馆市","北海道第一步的地碑 明治維新後,函館成為了名副其實的北海道大門,第一步踏上北海道土地的印記就位於東濱棧橋(舊棧橋)。 青函航路在明治6年(1873年)由開拓使的弘明丸號開始一般運輸,明治12年(1879年)時三菱會社從開拓使手中接下青函航路,而後由日本郵船鐵道會社等接手營運,明治41年(1908年)作為國有鐵道的航線,比羅夫丸號、田村丸號也開始投入營運。 當時的聯絡船是停泊在距離陸地尚有段距離的海面上,乘客再搭乘船舟來往棧橋。這座東濱棧橋造於明治4年(1871年)。 聯絡船的棧橋雖在明治43年(1910年)2月時新建並移轉到若松埠頭,但在這之後這座棧橋仍然繼續使用,作為北洋漁業的據點等重要用途,特別是在戰前北洋漁業進出入時相當熱鬧繁榮。平成30年度開始實施修繕工程。 這座紀念碑採熊與錨的設計,除了紀念開道100年來過往先人的足跡之外,還代表北海道未來的發展志向,於昭和43年(1968年)9月時建立。 函館市",,,"อนุสาวรีย์รำลึกก้าวแรกของฮอกไกโด หลังจากการปฏิรูปสมัยเมจิ, ฮาโกดาเตะกลายเป็นประตูของฮอกไกโดทั้งโดยชื่อและความเป็นจริง คนที่มาเหยียบแผ่นดินฮอกไกโด จะเริ่มประทับเท้าที่แรก ณ สะพานฮิงาชิฮามะ (สะพานที่ยื่นออกไปในทะเล) เส้นทางเซคัง (เส้นทางระหว่างอาโอโมริและฮาโกดาเตะ) ในปีเมจิที่ 6 (ค.ศ.1873) ผู้บุกเบิกเริ่มการขนส่งทั่วไปโดยใช้เรือโคเมมารุ ต่อมาในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) บริษัทมิตซูบิชิได้ช่วงต่อในการเดินเรือเส้นทางเซคังจากพวกผู้บุกเบิก หลังจากนั้น บริษัทนิฮนยูเซ็นเท็ตสึโด รับช่วงต่ออีก จนกระทั่งปีเมจิที่ 41 (ค.ศ.1908) เรือฮิราฟุมารุ และ เรือทามุระมารุ เริ่มประจำการ ในฐานะที่เป็นเส้นทางเดินเรือของบริษัทรถไฟแห่งชาติ ในเวลานั้น เรือข้ามเกาะจะจอดอยู่นอกฝั่ง และผู้โดยสารก็จะเดินทางไปมาระหว่างสะพานกับเรือโดยใช้เรือท้องแบน สะพานฮิงาชิฮามะแห่งนี้สร้างขึ้นในปีเมจิที่ 4 (ค.ศ.1871) สะพานสำหรับเรือข้ามเกาะ ถูกย้ายไปสร้างขึ้นใหม่ที่วาคามัตสึฟุโต ในเดือนกุมภาพันธ์ ปีเมจิที่ 43 (ค.ศ.1910) หลังจากนั้น สะพานแห่งนี้ก็ยังคงถูกใช้ประโยชน์ และมีบทบาทสำคัญในการเป็นฐานสำหรับการประมงทางเหนือ โดยเฉพาะอย่างยิ่งก่อนสงคราม ตอนเรือเข้าและออกจากฝั่งจะครึกครึ้นมาก และได้เริ่มสร้างสะพานใหม่แทนในปีเฮเซที่ 30 อนุสาวรีย์รำลึกนี้ สร้างขึ้นในเดือนกันยายน ปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) เพื่ออุทิศให้กับอนาคตของการพัฒนาฮอกไกโด พร้อมกับรอยเท้าของบรรพบุรุษที่มาฮอกไกโดเพื่อบุกเบิก โดยประดับหมีกับสมอเรือไว้ เนื่องในโอกาสครบรอบ 100 ปีของการเปิดฮอกไกโด","日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町21","(表) 北海道第一歩の地 明治維新後 函館は 名実共に北海道の門戸と なった。そして北海道の 地を踏む者が その 第一歩を印したのは この東浜桟橋である。 後に若松町に鉄道桟橋 ができてからは旧桟橋と も呼ばれた。国道四号線 が認定されるや 北海道 の道路の基点として ここに道路元標が 建てられた。 明治百年を迎えるに 当り 此地に記念碑を たてて 開拓に渡道した 先人の足跡をしのぶ。 昭和四十三年十一月三日 寄贈 日本中央競馬会 碑文 阿部龍夫 設計 明石信道 彫刻 根本土龍 施行 大成建設株式会社","明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋である。 青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。 連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して昭和43年(1868年)9月建立されたものである。 函館市 ■追加解説 東浜桟橋は、明治11(1878)年に作られ、明治22(1889)年に掛替え工事を実施、昭和4(1929)年には改修工事が実施された。名称は、明治5(7872)年に成立、昭和40(19)年の住居表示まであった東浜町に因むもので(現在は末広町の一部)、 現在のように桟橋がコンクリート化されたのは、昭和34(1959)年のことである 明治43(1910)年12月、連絡船の桟橋が函館駅に接する若松ふ頭に新設されてからは、利用者は連絡船へ直接乗り降りできるようになったが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地としても重要な役割を果たした。",,■「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「はこだて市史編さん室だより」第4号(函館市史編さん室 2005年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako026.jpg,hako026.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako026.jpg,1203,hako026,,,北海道第一歩の地,%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e7%ac%ac%e4%b8%80%e6%ad%a9%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 600,函館の上水道,ハコダテノジョウスイドウ,,2015年11月12日,2021年6月23日,http://donan-museums.jp/archives/600,,函館市,西部地区,函館市元町1,,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7609329,140.7138214,"函館の上水道 函館の水道は、明治22年(1889年)に完成した日本で二番目の近代水道である。日本最初の水道は横浜で、これは外国人の設計監督により明治20年(1887年)に完成した。日本人の工事監督によるものとしては、函館の水道が日本で最初のものであり全国的に知られている。函館は昔から水利の便が悪く、また津軽海峡に突き出た地形のため、年間を通して風が強く、火災が発生するとたちまち大火となり、多くの犠牲者が出たこと、さらに明治19年(1886年) 、市内でコレラが大流行し、842人に及ぶ市民が死亡したことなどが契機となって、水道建設の要望が一層高まり、明治21年(1888年)念願の一大事業が着工された。 ここは、創設の時つくられた配水池がある「元町配水場」で、市街地北側にある赤川の高区浄水場から11kmの送水管によりこの配水場に送られてきた水を、市内西部地区に供給している。 函館の水道施設は、創設から6回にわたる拡張工事を行い、函館市民に清浄な水を供給している。 函館市","函馆的自来水 函馆的自来水系统完成于明治22年(1889年),是日本的第二个近代上下水道。日本最早的水道位于横滨,是由外国人设计监督并于明治20年(1887年)完工。函馆的水道因为是日本最早由日本人进行工程监督因此在国内声名远播。函馆从前由于水利不便以及津轻海峡的突出地形全年风势强劲,一旦发生火灾往往蔓延成大火,牺牲人数众多。再加上明治19年(1886年)时霍乱在市内流行,市民死亡人数达到842人,对于自来水建设的需求高涨,明治21年(1888年)时期盼已久的大项目终于开工。 此处是创设时所设立的“元町配水场”,从位于市街地北侧赤川的高区净水场的送水管输送11公里来到此地,提供市内西部地区的用水。 函馆的水道设施从创设以来一共进行了6次扩大工程,如今仍在为函馆市民提供洁净的用水。 函馆市","函館的自來水 函館的自來水系統完成於明治22年(1889年),是日本的第二個近代上下水道。日本最早的水道位於橫濱,是由外國人設計監督並於明治20年(1887年)完工。函館的水道因為是日本最早由日本人進行工程監督因此在國內聲名遠播。函館從前由於水利不便以及津輕海峽的突出地形全年風勢強勁,一旦發生火災往往蔓延成大火,犧牲人數眾多。再加上明治19年(1886年)時霍亂在市內流行,市民死亡人數達到842人,對於自來水建設的需求高漲,明治21年(1888年)時期盼已久的大項目終於開工。 此處是創設時所設立的「元町配水場」,從位於市街地北側赤川的高區淨水場的送水管輸送11公里來到此地,提供市內西部地區的用水。 函館的水道設施從創設以來一共進行了6次擴大工程,如今仍在為函館市民提供潔淨的用水。 函館市",,,"น้ำประปาของฮาโกดาเตะ น้ำประปาของฮาโกดาเตะ เป็นน้ำประปาสมัยใหม่ลำดับที่สองในญี่ปุ่นที่สร้างเสร็จในปีเมจิที่ 22 (ค.ศ.1889) น้ำประปาที่แรกในญี่ปุ่นคือ โยโกฮามา ออกแบบและกำกับการก่อสร้างโดยชาวต่างชาติ สร้างเสร็จเมื่อปีเมจิที่ 22 (ค.ศ.1887) หากเป็นน้ำประปาที่กำกับการก่อสร้างโดยชาวญี่ปุ่น ก็เป็นที่รู้กันดีทั่วประเทศว่าฮาโกดาเตะนั้นเป็นที่แรก ตั้งแต่อดีต ฮาโกดาเตะประสบปัญหาเรื่องน้ำ และยังมีลักษณะแผ่นดินที่ยื่นลงไปในช่องแคบทสึงารุ ทำให้ลมพัดแรงตลอดปี เมื่อเกิดไฟไหม้ ก็จะลุกลามเป็นวงกว้างได้ง่าย ทำให้มีผู้เสียชีวิตจำนวนมาก ยิ่งไปกว่านั้น ในปีเมจิที่ 19 (ค.ศ.1886) ในเมืองได้เกิดโรคห่าระบาดครั้งใหญ่ ทำให้ชาวเมืองเสียชีวิตถึง 842 คน จึงเป็นเหตุให้ความต้องการสาธารณูปโภคเกี่ยวกับน้ำประปาเพิ่มสูงขึ้น ในปีเมจิที่ 21 (ค.ศ.1888) โปรเจคใหญ่ที่รอคอยจึงเริ่มลงมือก่อสร้าง ที่นี่คือ ""ที่ส่งน้ำโมโตะมาจิ"" ที่มีบ่อส่งน้ำที่สร้างขึ้นตอนที่เริ่มก่อตั้ง ดำเนินการจ่ายน้ำไปยังเขตตะวันตกของเมือง โดยใช้น้ำที่ถูกส่งมาจากที่ส่งน้ำแห่งนี้ ด้วยท่อส่งน้ำยาว 11 กิโลเมตร จากโรงผลิตน้ำสะอาดโคคุของแม่น้ำอาคางาวะที่อยู่ทางด้านเหนือของตัวเมือง โรงงานผลิตน้ำประปาฮาโกดาเตะ ดำเนินการก่อสร้างขยายถึงหกครั้ง นับตั้งแต่เริ่มก่อตั้งขึ้น และกำลังจัดหาน้ำสะอาดให้แก่ประชาชนในฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町1",,"函館の水道は、明治22年(1889年)に完成した日本で二番目の近代水道である。日本最初の水道は横浜で、これは外国人の設計監督により明治20年(1887年)に完成した。日本人の工事監督によるものとしては、函館の水道が日本で最初のものであり全国的に有名である。函館は昔から水利の便が悪く、また津軽海峡に突き出た地形のため年間を通して風が強く、火災が発生するとたちまち大火となり、多くの犠牲者がでたこと、さらに明治19年(1886年)市内にコレラが大流行し、842人に及ぶ市民が死亡したことなどが契機となって、水道建設の要望が一層高まり、明治21年(1888年)念願の一大事業が着工された。 ここは、創設の時つくられた配水池がある「元町配水場」で、市街地北側にある赤川の高区浄水場から11kmの送水管によりこの配水場に送られてきた水を市内西部地区に供給している。 函館の水道施設は、創設から6回にわたる拡張工事を行い、現在30万人の函館市民に清浄な水を供給している。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e3%81%ae%e4%b8%8a%e6%b0%b4%e9%81%93,0 602,日本聖公会函館聖ヨハネ教会,ニホンセイコウカイハコダテセイヨハネキョウカイ,,2015年11月13日,2021年6月12日,http://donan-museums.jp/archives/602,,函館市,西部地区,函館市元町3,昭和,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7627296,140.7130737,"日本聖公会函館聖ヨハネ教会 この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874年)英国聖公会海外伝道教会の宣教師W.デニングが函館に来て伝道を開始したのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であった。 明治11年(1878年)、末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。現在 の地に再建されたのは大正10年(1921年)の大火後である。 この間、教育(アイヌ学校を始め靖和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行った。現在の建物は、昭和54年(1979年)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世紀のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ、近代的なデザインとしたものである。 函館市","函馆日本圣约翰教堂 这个函馆圣约翰教堂目前属于世界圣公会中的日本圣公会。明治7年(1874年)英国圣公会海外传教会的宣教师W. 丹宁(W. Denning)来到函馆传教成为日本圣公会在北海道传教的开端,此处也成为同派在北海道内传教活动的根据地。 明治11年(1878年),在末广町盖了最早的圣堂,却在隔年被火灾波及,在这之后也因为火灾等原因几度迁移。目前所在地的圣堂重建于在大正10年(1921年)的大火之后。 在这段期间,积极从事教育(开始创立靖和女学校等阿依奴学校)、医疗奉献活动等。现在的建筑物完成于昭和54年(1979年),从上空可见十字形状,这种借鉴了中世纪欧洲教会的建筑样式,可说是相当具有近代感的设计。 函馆市","函館日本聖約翰教堂 這個函館聖約翰教堂目前屬於世界聖公會中的日本聖公會。明治7年(1874年)英國聖公會海外傳教會的宣教師W. 丹寧(W. Denning)來到函館傳教成為日本聖公會在北海道傳教的開端,此處也成為同派在北海道內傳教活動的根據地。 明治11年(1878年),在末廣町蓋了最早的聖堂,卻在隔年被火災波及,在這之後也因為火災等原因幾度遷移。目前所在地的聖堂重建於在大正10年(1921年)的大火之後。 在這段期間,積極從事教育(開始創立靖和女學校等阿伊努學校)、醫療奉獻活動等。現在的建築物完成於昭和54年(1979年),從上空可見十字形狀,這種借鑒了中世紀歐洲教會的建築樣式,可說是相當具有近代感的設計。 函館市 ",,,"โบสถ์เซนต์จอห์นฮาโกดาเตะสังกัดคริสตจักรแองกลิกันแห่งญี่ปุ่น โบสถ์เซนต์จอห์นฮาโกดาเตะแห่งนี้ ปัจจุบันสังกัดคริสตจักรแองกลิกันญี่ปุ่นหนึ่งในคริสตจักรแองกลิกันโลก ปีเมจิที่ 7 (ค.ศ.1874) นักเผยแผ่ศาสนาของโบสถ์ในต่างประเทศชาวอังกฤษ W.เดนนิง ของคริสตจักรแองกลิกันแห่งประเทศอังกฤษ มาที่ฮาโกดาเตะ การเผยแผ่ศาสนาที่ฮอกไกโดของคริสตจักรแองกลิกันญี่ปุ่น เป็นจุดเริ่มต้นในการเผยแผ่ศาสนา ซึ่งเป็นรากฐานของกิจกรรมสอนศาสนาภายในฮอกไกโด ในปีเมจิที่ 11 (ค.ศ.1878) สร้างโบสถ์คริสต์แห่งแรกที่ตำบลซึเอฮิโร แต่ถูกไฟไหม้ครั้งใหญ่ในปีต่อมา หลังจากนั้น ก็ย้ายที่หลายครั้งเนื่องจากไฟไหม้ หลังที่ถูกสร้างขึ้นใหม่ในที่ปัจจุบัน สร้างขึ้นหลังจากเกิดไฟไหม้ครั้งใหญ่ในปีไทโชที่ 10 (ค.ศ.1921) ในช่วงเวลานี้ มีส่วนร่วมอย่างแข็งขันในด้านการศึกษา (เปิดโรงเรียนไอนุและโรงเรียนสตรีเซวะ ฯลฯ) และกิจกรรมการบริการทางการแพทย์ อาคารในปัจจุบันสร้างเสร็จในปีโชวะที่ 54 (ค.ศ.1979) และเมื่อมองจากด้านบนจะเห็นเป็นรูปไม้กางเขน โบสถ์หลังนี้ถูกออกแบบอย่างทันสมัย รวมเอารูปแบบสถาปัตยกรรมที่พบในโบสถ์ในยุโรปในศตวรรษที่ผ่านมา","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町3",,"この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874年)英国聖公会海外伝導教会の宣教師W・デニングが函館に来て伝導を開始したのが日本聖公会の北海道伝導の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であった。 明治11年(1878年)末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。 度重なる火災による類焼の後、現在の地に再建されたのは大正10年(1921年)の大火後である。 この間、教育(アイヌ学校を始め靖和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行った。現在の建物は、昭和54年(1979年)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世期のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ近代的なデザインとしてのものである。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%81%96%e5%85%ac%e4%bc%9a%e5%87%bd%e9%a4%a8%e8%81%96%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e6%95%99%e4%bc%9a,0 604,ハリストス正教会,ハリストスセイキョウカ,,2015年11月13日,2021年6月12日,http://donan-museums.jp/archives/604,,函館市,西部地区,函館市元町3-13,大正,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7631416,140.7125092,"函館ハリストス正教会 安政7年(1860年)、初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりである。正しくは「函館ハリストス正教会復活聖堂」と言う。 文久元年(1861年)青年だった聖ニコライがロシアから付属聖堂付司祭として来函し、その後日本で最初に正教会(キリスト教の教派の一つ、東方正教会とも言う)を伝えた。彼は明治5年(1872年)に東京に移り、日本全国で正教会の伝道を始めた。 ""初代聖堂は明治40年(1907年)に函館大火で焼失したが、大正5年 (1916年)に二代目となる現聖堂が再建された。聖堂内部では、高い丸天井や当時ロシアからもたらされたイコン(聖像)やイコノスタス(聖障)が、聖堂外部では真白な漆喰壁や鐘楼と聖堂の緑青をふいた屋根に独特の装飾で据えられた十字架などが特徴である。 "" 再建当時の大鐘(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)の関東大震災で大破した東京神田のニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個の鐘が贈られた。これらの鐘がリズムと共にメロディを奏でたことから「ガンガン寺」として市民に親しまれた。当時の鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は昭和58年(1983年)6月に三重県桑名市在住の美術鋳造家から献納されたものである。 昭和58年(1983年)6月、国の重要文化財に指定された。 函館市","函馆哈里斯特斯东正教堂 最早于安政7年(1860年)时作为初代俄罗斯领事馆的附属圣堂而建立。正确称呼为“函馆哈利斯特斯正教会复活圣堂”。 文久元年(1861年)时青年圣尼古拉作为附属圣堂付司祭从俄罗斯来到函馆,而后传入日本最早的正教会(基督教派分支,又称作东方正教会)。他在明治5年(1872年)时前往东京,并开始了对日本全国的正教会传教活动。 初代圣堂在明治40年(1907年)时烧毁于函馆大火当中,大正5年(1916年)第二代也就是现在的圣堂重建。圣堂内部有挑高的圆形天花板、当时从俄罗斯带来的圣像与圣障(分隔教堂内殿用的屏帏),圣堂外部的特征是纯白的漆喰墙面(以石灰为主成分的建筑材料)与钟楼跟青绿色的圣堂屋顶以及搭配独特装饰的十字架等。 再建当时的大钟(重量约2顿)于大正12年(1923年)时转移给在关东大震灾中灾情惨重的东京神田尼古拉堂复兴所用,对方则回赠了6个大小不一的钟。这些钟所演奏出的美丽音色被市民亲切的称为“当当寺”。当时的钟在战时被征收,现在的钟则是昭和58年(1983年)6月时由居住在三重县桑名市的美术铸造家所献。 昭和58年(1983年)6月时被指定为国家的重要文化财。 函馆市","函館哈利斯特斯東正教堂 最早於安政7年(1860年)時作為初代俄羅斯領事館的附屬聖堂而建立。正確稱呼為「函館哈利斯特斯正教會復活聖堂」。 文久元年(1861年)時青年聖尼古拉作為附屬聖堂付司祭從俄羅斯來到函館,而後傳入日本最早的正教會(基督教派分支,又稱作東方正教會)。他在明治5年(1872年)時前往東京,並開始了對日本全國的正教會傳教活動。 初代聖堂在明治40年(1907年)時燒毀於函館大火當中,大正5年(1916年)第二代也就是現在的聖堂重建。聖堂內部有挑高的圓形天花板、當時從俄羅斯帶來的聖像與聖障(分隔教堂內殿用的屏幃),聖堂外部的特徵是純白的漆喰牆面(以石灰為主成分的建築材料)與鐘樓跟青綠色的聖堂屋頂以及搭配獨特裝飾的十字架等。 再建當時的大鐘(重量約2頓)於大正12年(1923年)時轉移給在關東大震災中災情慘重的東京神田尼古拉堂復興所用,對方則回贈了6個大小不一的鐘。這些鐘所演奏出的美麗音色讓市民幫聖堂取了「噹噹寺」的稱號。當時的鐘在戰時被徵收,現在的鐘則是昭和58年(1983年)6月時由居住在三重縣桑名市的美術鑄造家所獻。 昭和58年(1983年)6月時被指定為國家的重要文化財。 函館市",,,"มหาวิหารออร์โธดอกซ์ฮาโกดาเตะ เริ่มจากโบสถ์หลังนี้ ถูกสร้างขึ้นครั้งแรกในปีอันเซที่ 7 (ค.ศ.1860) โดยเป็นโบสถ์คริสต์ที่สังกัดสถานกงสุลรัสเซีย ชื่อเรียกอย่างถูกต้องคือ ""มหาวิหารออร์โธดอกซ์ฮาโกดาเตะ"" ปีบุงคิวที่ 1 (ค.ศ.1861) เซนต์นิโคไลชายหนุ่มมาที่ฮาโกดาเตะจากรัสเซียในฐานะนักบวชที่สังกัดโบสถ์ออร์โธดอกซ์ที่สังกัดสถานกงสุลรัสเซีย หลังจากนั้นได้ถ่ายทอดต่อไปว่าเป็นโบสถ์ออร์โธดอกซ์แห่งแรกในญี่ปุ่น (ยังเรียกว่าเป็นโบสถ์ออร์โธดอกซ์ตะวันออก เป็นนิกายหนึ่งของศาสนาคริสต์) เขาย้ายไปอยู่โตเกียวในปีเมจิที่ 5 (ค.ศ.1872) และเริ่มเผยแผ่ศาสนาคริสต์นิกายออร์โธด็อกซ์ไปทั่วประเทศญี่ปุ่น มหาวิหารหลังแรกถูกเผาเมื่อครั้งไฟไหม้ครั้งใหญ่ในฮาโกดาเตะ ในปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) มหาวิหารหลังที่สองหลังปัจจุบันถูกสร้างขึ้นใหม่ ในปีไทโชที่ 5 (ค.ศ.1916) ภายในมหาวิหาร มีเพดานโค้งสูงและไอคอน (รูปปั้นเซนต์) และสัญลักษณ์ทางศาสนา (Iconostasis) ที่นำมาจากรัสเซียในเวลานั้น ด้านนอกของมหาวิหารเป็นผนังปูนสีขาว, หอระฆังและหลังคาที่ปูกระเบื้องสีเขียวอมฟ้า การตกแต่งและไม้กางเขนที่มีลักษณะเด่นเฉพาะตัว ระฆังใบใหญ่ ตอนที่สร้างใหม่ (น้ำหนักประมาณ 2 ตัน) นั้น ถูกย้ายไปไว้ที่วิหารนิโคไลที่คันดะในโตเกียว เมื่อตอนที่ฟื้นฟูวิหารหลังจากเสียหายจากแผ่นดินไหวครั้งใหญ่ในภูมิภาคคันโตในปีไทโชที่ 12 (ค.ศ.1923) และนำระฆังขนาดใหญ่เล็ก 6 ลูกส่งไปแทน และจากการที่ระฆังเหล่านี้บรรเลงเป็นจังหวะทำนอง ชาวเมืองจึงคุ้นกับวิหารนี้ในฐานะที่เป็น ""วัดระฆัง"" ซึ่งระฆังในขณะนั้น ถูกบังคับให้ส่งไปหลอมใช้ในช่วงสงคราม ระฆังที่ใช้อยู่ปัจจุบัน ได้รับบริจาคจากช่างหล่อที่อาศัยอยู่ที่อำเภอะคุวานะ จังหวัดมิเอะ ในเดือนมิถุนายน ปีโชวะที่ 58 (ค.ศ.1983) ในเดือนมิถุนายนปีโชวะที่ 58 (ค.ศ.1983) ได้รับการยกย่องให้เป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่สำคัญของชาติ","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町3−13",,"安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の附属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは「函館復活聖堂」という。 文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシャ正教を布教した。<明治5年(1872年)東京転任> 明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。 この聖堂内部に、円天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架とその装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅板屋根は昭和43年に改装され、緑青を科学的に熟成したものである。 再建当時の大鏡(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鐘と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この鐘も戦時中供出した。 現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。 昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%83%8f%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%82%b9%e6%ad%a3%e6%95%99%e4%bc%9a,0 606,船魂神社,フナダマジンジャ,,2015年11月13日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/606,,函館市,西部地区,函館市元町7,昭和,中世||近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7642212,140.7106171,"船魂神社 融通念仏宗を広めるため、良忍という高僧がこの地に来て、「ここは観音菩薩の霊跡である。」といい、保延元年(1135年)観音堂を建てたのがこの神社の始まりとされ、北海道最古ともいわれているが明らかではない。 また、「源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事上陸した」などの伝説もあるが、もともとは観音菩薩を祀る観音堂と呼ばれていたらしい。 江戸時代末期に船魂大明神と称し、明治12年(1879年)に村社になり、船魂神社と改称した。 明治25年(1892年)に改築された社殿は、同40年(1907年)の大火で消失した後、一時、谷地頭町の函館八幡宮に神体を移していたが、昭和7年(1932年)に、この地に本殿を築いた。現在の建物は、同37年(1962年)に改築したものである。 函館市","船魂神社 为了弘扬融通念佛宗,叫做良忍的高僧来到此地并声称这里有观音菩萨的灵迹。保延元年(1135年)建立的观音堂是这座神社的开端,相传是北海道最古老但并无查证。 除此之外,虽然有源义经从津轻渡海而来之际差点遭遇船难,由于船魂明神的保佑才能平安上岸等传说存在,但似乎还是被叫做祭祀观音菩萨的观音堂。 江户时代末期被称为船魂大明神,明治12年(1879年)时成为村社,称呼也改成船魂神社。 明治25年(1892年)时经过改建的社殿在明治40年(1907年)被大火烧毁后,神体曾经先暂时移到谷地头町的函馆八幡宫,直到昭和7年(1932年)时在此地建立本殿。现在的建筑物是明治37年(1962年)时所改建的。 函馆市","船魂神社 為了弘揚融通念佛宗,叫做良忍的高僧來到此地並聲稱「這裡有觀音菩薩的靈跡。」保延元年(1135年)建立的觀音堂是這座神社的開端,相傳是北海道最古老但並無查證。 除此之外,雖然有「源義經從津輕渡海而來之際差點遭遇船難,由於船魂明神的保佑才能平安上岸」等傳說存在,但似乎還是被叫做祭祀觀音菩薩的觀音堂。 江戶時代末期被稱為船魂大明神,明治12年(1879年)時成為村社,稱呼也改成船魂神社。 明治25年(1892年)時經過改建的社殿在明治40年(1907年)被大火燒毀後,神體曾經先暫時移到谷地頭町的函館八幡宮,直到昭和7年(1932年)時在此地建立本殿。現在的建築物是明治37年(1962年)時所改建的。 函館市",,,"ศาลเจ้าฟุนะดามะ เพื่อที่จะเผยแผ่ศาสนาพุทธนิกายสุขาวดีแขนงหนึ่งชื่อว่ายูซือเน็มบุตสึชู กล่าวกันว่ามีพระรูปหนึ่งนามว่าเรียวนิน มาที่นี่และพูดว่า ""ที่นี่เป็นดินแดนศักดิ์สิทธิ์ของมหาโพธิสัตว์กวนอิม"" และสร้างวิหารมหาโพธิสัตว์กวนอิมขึ้นในปีโฮเอ็นที่ 1 (ค.ศ.1135) ถือเป็นจุดเริ่มต้นของศาลเจ้าแห่งนี้ และเป็นศาลเจ้าที่เก่าแก่ที่สุดในฮอกไกโด แต่ก็ไม่มีการยืนยันที่ชัดเจน นอกจากนี้ ยังมีตำนาน เช่น ""เมื่อมินาโมโตะโนะ โยชิทสึเนะ เดินทางจากทสึงารุ (จังหวัดอาโอโมริ) มาที่นี่ เรือที่นั่งมาเกือบจะล่ม แต่เทพเจ้าฟุนะดามะคุ้มครองให้เข้าจอดโดยสวัสดิภาพ"" ดูเหมือนว่าถูกเรียกว่า ""คันนงโด"" หรือวิหารเจ้าแม่กวนอิม ที่ประดิษฐานมหาโพธิสัตว์กวนอิม ในตอนปลายสมัยเอโดะ ถูกเรียกว่าฟุนาดามะ ไดเมียวจิน และในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ. 1879) กลายเป็นศาลเจ้าประจำหมู่บ้าน และเปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าฟุนะดามะ ศาลเจ้าหลังที่ปรับปรุงใหม่ในปีเมจิที่ 25 (ค.ศ.1892) หลังจากที่ถูกเผาตอนไฟไหม้ครั้งใหญ่ในปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) ก็ได้ย้ายเทพเจ้าไปไว้ที่ฮาโกดาเตะฮาจิมังในตำบลยาจิกาชิระชั่วคราว ในปีโชวะที่ 7 (ค.ศ.1932) จึงสร้างศาลเจ้าหลังใหม่ขึ้นที่นี่ อาคารหลังปัจจุบัน เป็นอาคารที่ได้รับการปรับปรุงในปีโชวะที่ 37 (ค.ศ.1962)","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町7",,"融通念仏宗を広めるため、良忍という高僧がこの地に来て、「ここは観音菩薩の霊跡である。」といい、保延元年(1135年)観音堂を建てたのがこの神社の始まりとされ、北海道最古ともいわれているが明らかではない。 また、源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事上陸したなどの伝説もあるが、もともとは観音菩薩を祭る観音堂と呼ばれていたらしい。 江戸時代末期に船魂大明神と称し、明治12年(1879年)に村社になり、船魂神社と改称した。 明治25年(1892年)に改築された社殿は、同40年(1907年)の大火で消失した後、一時、谷地頭町の函館八幡宮に神体を移していたが、昭和7年(1932年)この地に本殿を築いた。現在の建物は、同37年に改築したものである。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%88%b9%e9%ad%82%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 608,旧函館区公会堂,キュウハコダテクコウカイドウ,,2015年11月13日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/608,,函館市,西部地区,函館市元町11-13,明治,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7651978,140.7091827,"旧函館区公会堂 明治40年(1907年)8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りが焼失した。 この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の寄付を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。 当時、函館の豪商、初代相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。 この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で、左右対称形になっており、2階にはバルコニーを配しているほか、屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表わしている。 昭和49年(1974年)5月、国の重要文化財に指定され、同55年(1980年)から約3年を費やして修復、平成30年(2018年)10月からは耐震補強を含めた保存修理工事を実施。 函館市","旧函馆区公会堂 明治40年(1907年)8月的大火中函馆区约有一半共12,000户左右被烧毁。 由于区民用于集会的町会所也在大火中烧毁,故而组织公会堂建设协议会向区民募集建设基金,但大火后的原因导致结果不如预期。 当时函馆的富商初代相马哲平不顾自己的店舖也多有烧毁,捐赠了5万日元的巨款,如今的公会堂才得以在明治43年(1910年)时完成。 这座建筑是北海道代表性的明治洋风建筑物,左右对称的外型,除了2楼设有露台之外屋顶窗的设置跟玄关、左右入口的突出式圆柱搭配柱头装饰等样式都具有相当明显的特征。 昭和49年(1974年)5月被指定为国家重要文化财,昭和55年(1980年)开始花费约3年时间修复,平成30年(2018年)10月开始实施包含耐震补强的保存修理工程。 函馆市","舊函館區公會堂 明治40年(1907年)8月的大火中函館區約有一半共12,000戶左右被燒毀。 由於區民用於集會的町會所也在大火中燒毀,故而組織「公會堂建設協議會」向區民募集建設基金,但大火後的原因導致結果不如預期。 當時函館的富商初代相馬哲平不顧自己的店舖也多有燒毀,捐贈了5萬日元的巨款,如今的公會堂才得以在明治43年(1910年)時完成。 這座建築是北海道代表性的明治洋風建築物,左右對稱的外型,除了2樓設有露臺之外屋頂窗的設置跟玄關、左右入口的突出式圓柱搭配柱頭裝飾等樣式都具有相當明顯的特徵。 昭和49年(1974年)5月被指定為國家重要文化財,昭和55年(1980年)開始花費約3年時間修復,平成30年(2018年)10月開始實施包含耐震補強的保存修理工程。 函館市",,,"ศาลาประชาคมเก่าของฮาโกดาเตะ จากไฟไหม้ครั้งใหญ่ในเดือนสิงหาคม ปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) มีบ้านเรือนกว่า 12,000 หลังหรือประมาณครึ่งหนึ่งของเขตฮาโกดาเตะ ถูกไฟไหม้ ศาลาประชาคมของเมือง ซึ่งใช้เป็นสถานที่รวมตัวกันของชาวเมือง ก็ถูกไฟไหม้ไปด้วย จึงมีการจัดตั้ง ""สภาการก่อสร้างศาลาประชาคม"" และขอบริจาคเงินจากชาวเมือง เพื่อเป็นทุนในการก่อสร้าง แต่ได้เงินบริจาคน้อย เพราะชาวเมืองก็ลำบากจากไฟไหม้ใหญ่ในครั้งนี้เช่นกัน ในเวลานั้น นายโซมะ เท็ปเป รุ่นแรก พ่อค้าผู้ร่ำรวยของฮาโกดาเตะ แม้ว่าร้านค้าของตนจะถูกไฟไหม้ได้รับความเสียหาย แต่ก็บริจาคเงินจำนวน 50,000 เยน ทำให้ใช้เงินจำนวนนี้ สร้างศาลาประชาคมหลังปัจจุบันเสร็จใน ปีเมจิที่ 43 (ค.ศ.1910) อาคารนี้ เป็นอาคารที่ถือว่าเป็นตัวแทนของสไตล์ยุโรปในสมัยเมจิของฮอกไกโด ด้านซ้ายและขวามีความสมมาตรกัน ชั้นสองมีระเบียง และมีหน้าต่างที่หลังคา ในบริเวณหน้าประตูทางเข้าด้านซ้ายและขวา มีเสากลม และมีประดับหัวเสา แสดงถึงสไตล์ที่เป็นลักษณะเฉพาะ เดือนพฤษภาคม ปีโชวะที่ 49 (ค.ศ.1974) ได้ถูกกำหนดให้เป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่สำคัญของชาติ และได้รับการบูรณะใช้เวลาประมาณ 3 ปี นับตั้งแต่ ปีโชวะที่ 55 (ค.ศ.1980) และได้ทำการซ่อมแซมเพื่ออนุรักษ์รวมถึงการเสริมให้ทนต่อแผ่นดินไหวตั้งแต่เดือนตุลาคมปีเฮเซที่ 30 (ค.ศ.2018)","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町11−13 旧函館区公会堂",,"明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、9,000戸近くを焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建築資金として区民の浄財を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。 当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗など多くを消失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したためこれをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。 この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対象形になっており、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入り口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表している。 昭和49年5月国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%8c%ba%e5%85%ac%e4%bc%9a%e5%a0%82,0 611,旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財),キュウホッカイドウチョウハコダテシチョウチョウシャ,,2015年11月13日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/611,,函館市,西部地区,函館市元町12,明治,明治,未分類,41.7653580,140.7095337,"旧北海道庁函館支庁庁舎 旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982年)に修復整備されたもの 。特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が、柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられている。 明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年(1985年)北海道有形文化財に指定されている。 なお、江戸時代、ここ元町公園には松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱館奉行所が置かれた。安政元年(1854年)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行所が再置されたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年(1864年)に亀田の地(五稜郭)に移転した。 函館市","旧北海道厅函馆支厅厅舍 旧北海道厅函馆支厅厅舍建于明治42年(1909年),昭和57年(1982年)时在兴建公园的同时修复重整 。特征之一为柱廊玄关跟2楼突出式的屋顶,柱上装饰(哥林式)跟中央部突起(卷杀风)是由4根巨大的柱子所支撑。 由于从明治末期的函馆所流传下的洋风建筑物在北海道开拓史上相当具有历史价值,故而在昭和60年(1985年)时被指定为北海道有形文化财产。 另外,江户时代这个元町公园设置有松前藩的龟田番所(设于交通要地对通行者与货物征收税金的设施),19世纪初幕府直接管辖时则设有箱馆奉行所。安政元年(1854年)时基于日美和亲条约箱馆决定开港,原来归附于松前藩的土地又回复成幕府的直辖,虽然再度设置了箱馆奉行所,但由于靠近港湾不利于防守等原因,元治元年(1864年)时移转到了龟田地(五棱郭)。 函馆市","舊北海道廳函館支廳廳舍 舊北海道廳函館支廳廳舍建於明治42年(1909年),昭和57年(1982年)時在興建公園的同時修復重整 。特徵之一為柱廊玄關跟2樓突出式的屋頂,柱上裝飾(哥林式)跟中央部突起(卷殺風)是由4根巨大的柱子所支撐。 由於從明治末期的函館所流傳下的洋風建築物在北海道開拓史上相當具有歷史價值,故而在昭和60年(1985年)時被指定為北海道有形文化財。 另外,江戶時代這個元町公園設置有松前藩的龜田番所(設於交通要地對通行者與貨物徵收稅金的設施),19世紀初幕府直接管轄時則設有箱館奉行所。安政元年(1854年)時基於日美和親條約箱館決定開港,原來歸附於松前藩的土地又回復成幕府的直轄,雖然再度設置了箱館奉行所,但由於靠近港灣不利於防守等原因,元治元年(1864年)時移轉到了龜田地(五稜郭)。 函館市",,,"สำนักงานเทศบาลจังหวัดฮอกไกโด สำนักงานสาขาฮาโกดาเตะเดิม สำนักงานเทศบาลจังหวัดฮอกไกโด สำนักงานสาขาฮาโกดาเตะเดิม สร้างขึ้นในปีเมจิที่ 42 (ค.ศ.1909) และได้รับการบูรณะและซ่อมแซมในปีโชวะที่ 57 (ค.ศ.1982) พร้อมกับการสร้างสวนสาธารณะ หนึ่งในลักษณะเด่นคือ ทางเข้าที่มีหลังคาที่ยื่นออกมาจากชั้นสอง โดยมีเสาขนาดใหญ่สี่ต้นรับน้ำหนักหลังคาไว้ มีประดับหัวเสา (แบบคอรินเทียน) และตรงกลางนูน (สไตล์ entasis) อาคารสไตล์ตะวันตกที่สื่อถึงฮาโกดาเตะช่วงปลายสมัยเมจินั้น ถูกกำหนดให้เป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ของฮอกไกโดในปีโชวะที่ 60 (ค.ศ.1985) เนื่องจากมีคุณค่าสูงทางประวัติศาสตร์ของการบุกเบิกพัฒนาฮอกไกโด ในสมัยเอโดะ ที่สวนสาธารณะโมโตะมาจิแห่งนี้ เป็นที่ตั้งของคาเมดะบันโชะของแคว้นมัตสึมาเอะ ช่วงต้นศตวรรษที่ 19 ที่รัฐบาลบากุฟุเข้าปกครอง ก็เป็นที่ตั้งของฮาโกดาเตะบุเกียว ในปีอันเซที่ 1 (ค.ศ.1854) เมื่อทำสนธิสัญญาสันติภาพระหว่างญี่ปุ่นและสหรัฐอเมริกา พอกำหนดจะเปิดท่าเรือฮาโกดาเตะ ที่บริเวณนี้ที่ถูกคืนให้แก่แคว้นมัตสึมาเอะ ก็กลับสู่การปกครองโดยรัฐบาลบากุฟุอีกครั้ง และมีการตั้งฮาโกดาเตะบุเกียวขึ้นอีกครั้งหนึ่ง แต่จากทำเลที่เสียเปรียบในการป้องกันเนื่องจากอยู่ใกล้ท่าเรือ จึงย้ายไปที่คาเมดะ (ป้อมรูปดาว โกะเรียวคาคุ) ในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864)","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町12−18",,"旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982年)に修復整備されたものです。特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられています。 明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年(1985年)北海道有形文化財に指定されています。 現在は、1を元町観光案内所として利用し、2階は「写真歴史館」として“北海道写真発祥の地 函館”の歴史を伝える貴重な写真機器や資料を展示しています。 また、ここ元町公園は、江戸時代には松前藩の藩所や箱館奉行所が、明治維新後は開拓使函館出張所や函館県庁函館区役所等が置かれ、常に行政府の中心となっていたところです。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e5%ba%81%e5%87%bd%e9%a4%a8%e6%94%af%e5%ba%81%e5%ba%81%e8%88%8e,0 613,カトリック元町教会,カトリックモトマチキョウカイ,,2015年11月13日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/613,,函館市,西部地区,函館市元町15,大正,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7631798,140.7132111,"力トリック元町教会 安政6年(1859年)フランスの宣教師メルメ・ド・カション(パリ外国宣教会司祭)が仮聖堂を建てたのに始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として、横浜の山手、長崎の大浦と共に最も古い歴史をもつ教会である。 明治元年(1868年)同宣教会司祭ムニクー、アンブルステル両氏が現地に仮聖堂を建て、その後、明治10年(1877年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。 以後3回の大火で類焼したのち、大正13年(1924年)現在の大聖堂が完成した。この大聖堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁十四景の十字架道行の壁像は、イタリアのチロル地方の木彫で、時のローマ教皇ベネディクト十五世から贈られた由緒あるものである。 函館市","元町罗马天主教堂 安政6年(1859年)法国传教师梅尔梅卡琼(Mermet-Cachon)(巴黎外国传教会祭司)开始创建临时圣堂,作为德川幕府对基督教徒下追放令之后再度开始基督教传教的先驱,与横滨的山手跟长崎的大浦并列为历史最古老的教会。 明治元年(1868年)与同传教会祭司莫尼克(Mounicou)、安布鲁斯特(Ambruster)两人一起在现在的地方建立临时圣堂,之后于明治10年(1877年)由同传教会祭司马兰(Marin)建立了最早的圣堂。 之后经历了3次大火延烧后,大正13年(1924年)时完成现在的大圣堂。这座大圣堂是哥德式的耐火建筑,中央祭坛、左右两壁十四景的十字架耶稣受难立体壁像是义大利提洛尔的木头所雕,是由当时的罗马教皇本笃十五世所赠。 函馆市","元町羅馬天主教堂 安政6年(1859年)法國傳教師梅爾梅卡瓊(Mermet-Cachon)(巴黎外國傳教會祭司)開始創建臨時聖堂,作為德川幕府對基督教徒下追放令之後再度開始基督教傳教的先驅,與橫濱的山手跟長崎的大浦並列為歷史最古老的教會。 明治元年(1868年)與同傳教會祭司莫尼克(Mounicou)、安布魯斯特(Ambruster)兩人一起在現在的地方建立臨時聖堂,之後於明治10年(1877年)由同傳教會祭司馬蘭(Marin)建立了最早的聖堂。 之後經歷了3次大火延燒後,大正13年(1924年)時完成現在的大聖堂。這座大聖堂是哥德式的耐火建築,中央祭壇、左右兩壁十四景的十字架耶穌受難立體壁像是義大利提洛爾的木頭所雕,是由當時的羅馬教皇本篤十五世所贈。 函館市",,,"โบสถ์โรมันคาทอลิกโมโตะมาจิ เริ่มต้นขึ้นในปีอันเซที่ 6 (ค.ศ.1859) เมื่อมิชชันนารีชาวฝรั่งเศสชื่อ แมร์เม เดอ กาชง (นักบวชคณะมิสซังต่างประเทศแห่งกรุงปารีส) สร้างโบสถ์ชั่วคราวขึ้น เป็นโบสถ์ที่มีประวัติเก่าแก่ที่สุดพร้อมกับยามาโนะเทะในโยโกฮามา และโออุระที่นางาซากิ ในฐานะที่เป็นไพโอเนียร์ในการเริ่มเผยแผ่ศาสนาคริสต์อีกครั้งในญี่ปุ่น หลังจากที่รัฐบาลบากุฟุตระกูลโทกุงาวะขับไล่ชาวคริสเตียนออกไปจากประเทศ ในปีเมจิที่ 1 (ค.ศ.1868) นักบวชคณะมิสซังต่างประเทศแห่งกรุงปารีสชื่อ มุนีคและอัมเบรสแตร์ ได้สร้างโบสถ์ชั่วคราวขึ้นในบริเวณปัจจุบัน และในปีเมจิที่ 10 (ค.ศ.1877) โบสถ์แห่งแรกก็ถูกสร้างขึ้นโดยนักบวชคณะมิสซังต่างประเทศแห่งกรุงปารีสชื่อ มาแรงค์ หลังจากที่ถูกไฟไหม้อีกสามครั้งต่อมา ปีไทโชที่ 13 (ค.ศ.1924) มหาวิหารหลังปัจจุบันก็เสร็จสมบูรณ์ มหาวิหารแห่งนี้เป็นอาคารที่ทนไฟสไตล์โกธิค แต่แท่นบูชากลางและภาพวาดพระเยซูแบกไม้กางเขน 14 ภาพบนผนังด้านซ้ายและขวา เป็นงานแกะสลักไม้ของแคว้นทิโรลของอิตาลี และมีระบุว่าสมเด็จพระสันตะปาปาเบเนดิกต์ที่15 พระราชทานให้","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町15",,"元町教会は、安政6年(1859年)フランスの宣教師メルメ・ドゥ・カション(パリー外国宣教会司祭)が仮聖堂を建てたのに始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として横浜の山手、長崎の大浦と共に最も古い歴史をもつ教会である。 明治元年(1868年)同宣教会司祭ムニクー、アンブルステル両氏が現地に仮聖堂を建て、その後、明治10年(1877年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。 以降、3回の大火で類焼したのち、大正13年(1924年)現在の大聖堂が完成した。この大聖堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁一四景の十字架道行の聖像は、イタリーのチロル地方の木彫で、時のローマ教皇ベネディクト十五世から贈られた由緒あるものである。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%82%ab%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e5%85%83%e7%94%ba%e6%95%99%e4%bc%9a,0 616,亀井勝一郎生誕の地,カメイカツイチロウセイタンノチ," ",2015年11月14日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/616,1069,函館市,西部地区,函館市元町15,,明治||大正||昭和,碑・像,41.7630463,140.7133026,"亀井勝一郎生誕の地 亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。 昭和12年(1937年)「人間教育」、同18年(1943年)「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、同40年(1965年)日本芸術院会員に推挙された。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年(1966年)11月14日病により永眠し、末完に終わったのが惜しまれる。 勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイ力の刺身を好んだという。 なお、青柳町の函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。 函館市","龟井胜一郎的诞生地 龟井胜一郎在明治40年(1907年)2月6日出生于元町,是父亲喜一郎的长子,曾经就读弥生小学、函馆中学、山形高中、东京帝国大学文学部,后来成为文艺评论家与思想家。 不朽名著有昭和12年(1937年)的《人间教育》以及昭和18年的(1943年)《大和古寺风物诗》等,昭和40年(1965年)被推举为日本艺术院会员。 晚年的大作《日本精神史研究》集龟井文学之大成得到相当高的评价,但昭和41年(1966年)11月14日因病长眠,并未完成令人唏嘘。 胜一郎终生都只说函馆家乡话,爱吃函馆的鲑鱼寿司跟乌贼生鱼片。 另外,在青柳町的函馆公园附近有刻着胜一郎笔迹的文学碑,内容是「人生邂逅し 开眼し 瞑目す」(人生邂逅 开眼界 终瞑目)的短句。 函馆市","龜井勝一郎的誕生地 龜井勝一郎在明治40年(1907年)2月6日出生於元町,是父親喜一郎的長子,曾經就讀彌生小學、函館中學、山形高中、東京帝國大學文學部,後來成為文藝評論家與思想家。 不朽名著有昭和12年(1937年)的「人間教育」以及昭和18年的(1943年)「大和古寺風物詩」等,昭和40年(1965年)被推舉為日本藝術院會員。 晚年的大作「日本精神史研究」集龜井文學之大成得到相當高的評價,但昭和41年(1966年)11月14日因病長眠,並未完成令人唏噓。 勝一郎終生都只說函館家鄉話,愛吃函館的鮭魚壽司跟烏賊生魚片。 另外,在青柳町的函館公園附近有刻著勝一郎筆跡的文學碑,內容是「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」(人生邂逅 開眼界 終瞑目)的短句。 函館市",,,"สถานที่เกิดของคาเมอิ คัตสึอิจิโร คาเมอิ คัตสึอิจิโร เกิดเมื่อวันที่ 6 กุมภาพันธ์ ปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) ที่โมโตะมาจินี้ ในฐานะลูกชายคนแรกของคิอิจิโร เขาเรียนที่โรงเรียนประถมศึกษายาโยอิ โรงเรียนมัธยมต้นฮาโกดาเตะ โรงเรียนมัธยมปลายยามากาตะ และคณะอักษรศาสตร์ มหาวิทยาลัยโตเกียวเทโคคุ และต่อมากลายเป็นนักวิจารณ์วรรณกรรมและนักคิด เขาทิ้งงานเขียนชิ้นเอก ""การศึกษาของมนุษย์"" ปีโชวะที่ 12 (ค.ศ.1937) และ ""ยามาโตะโคะจิ ฟูบุตสึชิ"" ปีโชวะที่ 18 (ค.ศ.1943) ฯลฯ และในปีโชวะที่ 40 (ค.ศ.1965) ได้รับการแนะนำให้เป็นสมาชิกของ Japan Art Academy ผลงานชิ้นเอกตอนปลายของเขา ""การวิจัยประวัติศาสตร์จิตวิญญาณของญี่ปุ่น"" ได้รับการยกย่องอย่างสูงว่าเป็นสุดยอดของวรรณคดีคาเมอิ แต่เขาเขียนไม่จบ เพราะล้มป่วยและเสียชีวิตเมื่อวันที่ 14 เดือนพฤศจิกายน ปีโชวะที่ 41 (ค.ศ.1966) คัตสึอิจิโร ใช้ภาษาถิ่นของฮาโอดาเตะตลอดชีวิต และชอบกินซูชิปลาแซลมอนและซาชิมิปลาหมึกจากฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町15","(石柱) 亀井勝一郎生誕之地 武者小路実篤書 (碑文・表) 私の家のすぐ隣は、フランスの神父のい るローマカソリック教会堂であった その 隣はロシヤ系のハリストス正教会である。 この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メー トルほどの塔をもっているので、船で港へ はいるとすぐ目につく。 ハリストス正教会の前には、イギリス系の 聖公会があり やや坂を下ったところには アメリカ系のメソヂスト教会がある。 私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願 寺は、坂道をへだててわが家の門前にある また同じ町内の小高いところには、この港 町の守護神である船魂神社が祭られ、そこ から一直線に下ったところには、中国領事 館があって、ここは道教の廟堂を兼ねてい た。要するに世界中の宗教が私の家を中心 に集まっていたようなもので、私は幼少年 時代を、これら教会や寺院を遊び場として 過ごしたのである。 ″東海の小島の思い出″の一節より","亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。 昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。 勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。 函館市「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako021.jpg,hako021.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako021.jpg,1069,hako021,,,亀井勝一郎生誕之地,%e4%ba%80%e4%ba%95%e5%8b%9d%e4%b8%80%e9%83%8e%e7%94%9f%e8%aa%95%e3%81%ae%e5%9c%b0,0 618,東本願寺函館別院,ヒガシホンガンジハコダテベツイン,,2015年11月14日,2021年6月4日,http://donan-museums.jp/archives/618,,函館市,西部地区,函館市元町16,大正,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7633057,140.7145996,"東本願寺函館別院 この寺院は、宝永6年(1709年)木古内町泉沢に建てられた堂宇が移され、浄玄寺と称したのが始まりで、安政5年(1858年)本願寺の掛所となった。その後、幾度かの火災に見舞われたが、明治9年(1876年)に東本願寺函館別院となり、現在地に移転したのは明治12年(1879年)のことである。 その後、明治40年(1907年)の大火に見舞われ、耐火建築により再建することになった。大正4年(1915年)完成した現在の本堂は、わが国最初の鉄筋コンクリート寺院として知られておリ、コンクリート造りではあるが、伝統的な本堂の形式を踏まえた造りになっている。建築当初、人々に踏まれた土砂で寺院が建てられるとは、ご先祖様に申し訳ないとか、大きな屋根が鉄筋やコンクリートでもつだろうかと不安の声が上がり、寄付金が思うように集まらなかった。そのため、芸者を高床に上げて手踊りをさせ、安心させたなどのエピソードもあり、苦心の末、完成にこぎつけたという。平成19年(2007年)12月4日、国の重要文化財に指定された。 函館市 ","东本愿寺函馆別院 本寺院始于宝永6年(1709年),建于木古内町泉泽的殿堂搬迁至此,当时被称为净玄寺。安正5年(1858年)成为本愿寺的别院住处。之后虽然经历几次火灾明治9年成为东本愿寺函馆别院,并且于明治12年(1879年)迁至此地。 之后在明治40年(1907年)遭受大火,防火建筑开始重建,大殿完成于大正4年(1915年),是日本最早的钢筋混凝土寺院。大殿虽然是钢筋混凝土建造,但是依然遵循着传统的大殿样式。修建当初人们认为使用被踩在脚下的土砂修建寺院是对先祖的不敬,对于是否可以承受硕大的钢筋混凝土屋顶的重量也很不安,所以并没有募集到预想的捐款数额。为了安抚人们的心情,还曾有请艺妓来表演的轶事,经过一番辛苦终于建成。平成19年(2007年)被指定为国家重要文化财产。 函馆市","東本願寺函館別院 本寺院始於寶永6年(1709年),建於木古内町泉澤的殿堂搬遷至此,當時被稱為淨玄寺。安正5年(1858年)成為本願寺的別院住處。之後雖然經歷幾次火災明治9年成為東本願寺函館別院,並且於明治12年(1879年)遷至此地。 之後在明治40年(1907年)遭受大火,防火建築開始重建,大殿完成於大正4年(1915年),是日本最早的鋼筋混凝土寺院。大殿雖然是鋼筋混凝土建造,但是依然遵循著傳統的大殿樣式。修建當初人們認為使用被踩在腳下的土砂修建寺院是對先祖的不敬,對於是否可以承受碩大的鋼筋混凝土屋頂的重量也很不安,所以並沒有募集到預想的捐款數額。為了安撫人們的心情,還曾有請藝妓來表演的軼事,經過一番辛苦終於建成。平成19年(2007年)被指定為國家重要文化財產。 函館市",,,"วัดฮิงะชิฮงกันจิ ฮาโกดาเตะเบ็ตสึอิน วัดแห่งนี้ เริ่มจากการย้ายวิหารที่ถูกสร้างขึ้นที่อิซูมิซาวะ ตำบลคิโคะไน เมื่อปีโฮเอที่ 6 (ค.ศ.1709) และถูกเรียกว่าโจเก็นจิ และกลายเป็นคาเคะโชของวัดฮงกันจิในปีอันเซที่ 5 (ค.ศ.1858) หลังจากนั้น เกิดไฟไหม้หลายครั้ง จนในปีเมจิที่ 9 (ค.ศ.1876) ได้กลายเป็นวัดฮิงะชิฮงกันจิฮาโกดาเตะเบ็ตสึอิน และย้ายมาตั้งในที่ปัจจุบันในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) หลังจากนั้น ถูกไฟไหม้ครั้งใหญ่เมื่อปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) และถูกสร้างขึ้นใหม่โดยมีโครงสร้างที่ทนไฟ โบสถ์ในปัจจุบันที่สร้างเสร็จในปีไทโชที่ 4 (ค.ศ.1915) เป็นที่รู้จักในนามวัดคอนกรีตเสริมเหล็กแห่งแรกของญี่ปุ่น สร้างแบบคอนกรีต แต่ยังคงรูปแบบดั้งเดิมของโบสถ์ไว้ ในช่วงเริ่มต้นของการก่อสร้าง การสร้างวิหารด้วยดินและทรายที่ผู้คนเหยียบย่ำ เป็นเรื่องที่ผิดต่อบรรพบุรุษ และมีเสียงห่วงว่าทำหลังคาขนาดใหญ่ขนาดนั้นด้วยคอนกรีตเสริมเหล็กจะทนได้หรือไม่ ด้วยเหตุนี้จึงไม่สามารถรวบรวมเงินบริจาคได้ ดังนั้นจึงมีเรื่องเล่าว่า มีการยกพื้นสูง ให้เกอิชาขึ้นไปรำ เพื่อทำให้ชาวบ้านสบายใจ จนสร้างเสร็จได้ด้วยความยากลำบาก ในวันที่ 4 ธันวาคม ปีเฮเซที่ 19 (ค.ศ.2007) วัดนี้ถูกกำหนดให้เป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่สำคัญของชาติ","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町16",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%9d%b1%e6%9c%ac%e9%a1%98%e5%af%ba%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%88%a5%e9%99%a2,0 622,南部藩陣屋跡,ナンブジンヤアト,,2015年11月15日,2021年6月10日,http://donan-museums.jp/archives/622,,函館市,西部地区,函館市元町18,昭和,近世||明治,未分類,41.7614212,140.7146149,"南部藩陣屋跡 幕府が蝦夷地(北海道)を初めて直轄した時代(1799年~1821年)、幕府の命により南部藩が蝦夷地を警備するための陣屋跡で、敷地は当初16,200㎡ほどであったが、19,800㎡増やして、36,000㎡以上となった。 建物は極めて粗末で、ここには相当な人数が勤務し越冬していたが、病人がたくさん出た。(文化4年(1807年)には342人勤務、うち150人越冬) 後の幕領時代(1854年~1867年)にもここを陣屋として再建し、約300人が勤務していた。 明治元年(1868年)戊辰戦争が東北地方に及び、国元を守備するため、同年8月11日夜、イギリス人ブラキストンから調達した汽船に乗って箱館を引き揚げ、南部へ帰った。 この碑は昭和29年(1954年)7月30日、岩手県南部会が建立した。 函館市","南部藩兵营遗迹 幕府首次将虾夷地(北海道)作为直辖地的时代(1799年-1821年),由幕府下令所设立的南部藩为了警备虾夷地所设的兵营遗迹,最初占地有16,200平方公尺左右,后来增设19,800平方米,规模达36,000平方米以上。 因为建筑物相当粗陋,很多人在寒冬值勤时患病。(文化4年(1807年)有342人值勤,其中150人度过寒冬) 而后的幕领时代(1854年-1867年)又在此重建兵营,约有300人在此执勤。 明治元年(1868年)戊辰战争蔓延东北地方,为了守护乡里,同年8月11日夜,搭乘向英国人(Blakiston)借用的汽船离开箱馆回到南部。 这个碑在昭和29年(1954年)7月30日建于岩手县南部会。 函馆市","南部藩兵營遺跡 幕府首次將蝦夷地(北海道)作為直轄地的時代(1799年~1821年),由幕府下令所設立的南部藩為了警備蝦夷地所設的兵營遺跡,最初占地有16,200平方公尺左右,後來增設19,800平方公尺,規模達36,000平方公尺以上。 因為建築物相當粗陋,很多人在寒冬值勤時患病。(文化4年(1807年)有342人值勤,其中150人度過寒冬) 而後的幕領時代(1854年~1867年)又在此重建兵營,約有300人在此執勤。 明治元年(1868年)戊辰戰爭蔓延東北地方,為了守護鄉里,同年8月11日夜,搭乘向英國人(Blakiston)借用的汽船離開箱館回到南部。 這個碑在昭和29年(1954年)7月30日建於岩手縣南部會。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นจินยะ(จวน ที่ว่าการ) ของแคว้นนัมบุ ในสมัยที่รัฐบาลบากุฟุ เข้าปกครองภูมิภาคเอโสะ (ฮอกไกโด) เป็นครั้งแรก (ค.ศ.1799 - ค.ศ.1821) เป็นที่ที่เคยเป็นจินยะของแคว้นนัมบุ ทำหน้าที่รักษาความปลอดภัยของภูมิภาคเอโสะ โดยคำสั่งของรัฐบาลบากุฟุ ช่วงเริ่มต้นมีเนื้อที่ประมาณ 16,200 ตร.ม. ภายหลังเพิ่มอีก 19,800 ตร.ม. ทำให้มีพื้นที่มากกว่า 36,000 ตร.ม. ตัวอาคารมีความเรียบง่าย แต่มีคนปฏิบัติงานที่นี่จำนวนมากจนพ้นฤดูหนาว ทำให้มีคนล้มป่วยจำนวนมาก (ปีบุงคะที่ 4 (ค.ศ.1807) มีคนปฏิบัติงาน 342 คน พ้นฤดูหนาว 150 คน) ในยุคบาคุเรียวต่อมา (ค.ศ. 1854 - ค.ศ. 1867) ก็ได้สร้างที่นี่ขึ้นใหม่ให้เป็นจินยะ และมีคนมาปฏิบัติงานประมาณ 300 คน ในปีเมจิที่ 1 (ค.ศ.1868) สงครามโบชินได้แพร่กระจายไปยังภูมิภาคโทโฮคุ และเพื่อปกป้องแคว้นตน ในคืนวันที่ 11 สิงหาคมของปีเดียวกัน เขาได้ขึ้นเรือกลไฟที่ซื้อมาจากชาวอังกฤษชื่อแบรกซ์ตัน ออกจากฮาโกดาเตะกลับไปนัมบุ (จังหวัดอีวาเทะ) อนุสาวรีย์นี้ สร้างโดยสมาคมนัมบุจังหวัดอีวาเทะ เมื่อวันที่่ 30 กรกฎาคม ปีโชวะที่ 29 (ค.ศ.1954)","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町18",,"幕府が蝦夷地(北海道)を初めて直轄した時代(1799年~1821年)、幕府の命により南部藩が蝦夷地を警備するための陣屋跡で、敷地は、当初16,200㎡ほどであったが、19,800㎡増して36,000㎡以上となった。 建物は極めて粗末で、ここには相当な人数が勤務し越冬していたが、病人がたくさん出た。(文化4年には342人勤務、うち150人越冬) 後の幕領時代(1854年~1867年)にもここを陣屋として再建し、約300人が勤務していた。 明治元年戊辰戦が東北に及び国元を守備する為、同年8月11日夜、イギリス人ブラキストンから雇入れた汽船に乗って箱館を引き揚げ、南部へ帰った。 この碑は昭和29年7月30日、岩手県南部会が建立した。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8d%97%e9%83%a8%e8%97%a9%e9%99%a3%e5%b1%8b%e8%b7%a1,0 624,日本基督教団函館教会,ニホンキリストキョウダンハコダテキョウカイ,,2015年11月15日,2021年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/624,,函館市,西部地区,函館市元町31,昭和,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7646942,140.7135925,"日本基督教団函館教会 明治6年(1873年)12月に、アメリカからメソジスト派の宣教師M.C.ハリスが来日し、翌年1月に函館で伝道を始めた。「函館美以教会」と名付けられたこの教会は、プロテスタント教会では国内で3番目に古いものである。来函当時は、ドイツ人代弁領事殺害事件が起きるなど、不穏な世情であったが、ハリスは恐れることなく布教に身を捧げた。また彼は札幌でも伝道し、内村鑑三や新渡戸稲造など札幌農学校(現北海道大学)の学生の指導にあたり、洗礼を授けた。 一方ハリス夫人は女子教育に尽力し、これがカロライン・ライト・メモリアル女学校(遺愛学院)設立の契機となった。 教会堂は、明治10年(1877年)に建てられたが、火災により焼失するなどの後、昭和6年 (1931年)に現在の教会堂「ハリス監督記念礼拝堂」が建った。昭和16年(1941年)に、プロテスタントの教派の合流があり、現在の教会名となっている。 函館市","日本基督教团函馆教会 明治6年(1873年)12月,来自美国的卫理公会教派传教师M. C.哈里斯(M. C. Harris)来到日本,隔年1月开始在函馆传教。被命名为“函馆美以教会”的这座教会是日本国内第3久远的新教教会。来函之际正逢德国的代理领事杀害事件发生,情势紧张,哈里斯仍不畏困难为了宣扬教派前来。他也曾在札幌传教,指导内村鉴三与新渡户稻造等札幌农学校(现北海道大学)的学生并为他们洗礼。 另一边哈里斯的夫人也为了女子教育不遗余力,成为了凯洛琳莱特(Caroline Wright)纪念女校(遗爱学院)设立的契机。 教会堂建于明治10年(1877年),经历火灾烧毁等祸事以后,昭和6年 (1931年)兴建了现在的教会堂“哈里斯监督纪念礼拜堂”。昭和16年(1941年)由于发生了新教教派合并,教会也改成了如今的名称。 函馆市","日本基督教團函館教會 明治6年(1873年)12月,來自美國的衛理公會教派傳教師M. C.哈里斯(M. C. Harris)來到日本,隔年1月開始在函館傳教。被命名為「函館美以教會」的這座教會是日本國內第3久遠的新教教會。來函之際正逢德國的代理領事殺害事件發生,情勢緊張,哈里斯仍不畏困難為了宣揚教派前來。他也曾在札幌傳教,指導內村鑑三與新渡戶稻造等札幌農學校(現北海道大學)的學生並為他們洗禮。 另一邊哈里斯的夫人也為了女子教育不遺餘力,成為了凱洛琳萊特(Caroline Wright)紀念女校(遺愛學院)設立的契機。 教會堂建於明治10年(1877年),經歷火災燒毀等禍事以後,昭和6年 (1931年)興建了現在的教會堂「哈里斯監督紀念禮拜堂」。昭和16年(1941年)由於發生了新教教派合併,教會也改成了如今的名稱。 函館市",,,"อดีตสถานกงสุลอังกฤษประจำฮาโกดาเตะ (หอรำลึกการเปิดท่าเรือ) ที่ฮาโกดาเตะ เริ่มตั้งสถานกงสุลอังกฤษขึ้นในปีอันเซที่ 6 (ค.ศ.1859) เป็นตอนที่ญี่ปุ่นเปิดท่าเรือเพื่อเป็นท่าเรือทำการค้ากับต่างประเทศเป็นครั้งแรก ที่ฮาโกดาเตะ นับเป็นสถานกงสุลอันดับที่ 3 ต่อจาก สหรัฐอเมริกา และรัสเซีย ฮอดจ์สัน ซึ่งเป็นกงสุลคนแรก ได้เปิดที่วัดโชเมียวจิ ปีบุงคิวที่ 3 (ค.ศ.1863) สร้างสถานกงสุลขึ้นใหม่ทางทิศตะวันตกติดกับโบสถ์ออธอดอกซ์ ที่ตำบลโมโตะมาจิ แต่ก็เกิดไฟไหม้ขึ้นสองสามครั้ง อาคารหลังนี้ ออกแบบโดยกรมก่อสร้างเซี่ยงไฮ้ กระทรวงการก่อสร้างของรัฐบาลอังกฤษ สร้างเสร็จในปีไทโชที่ 2 (ค.ศ. 1913) และถูกใช้เป็นสถานกงสุลจนกระทั่งปิดตัวลงในปีโชวะที่ 9 (ค.ศ.1934) ตั้งแต่เดือนสิงหาคม ปีเฮเซที่ 4 (ค.ศ.1992) หอประชุมที่ระลึกการเปิดท่าเรือ ห้องจัดนิทรรศการเพื่อถ่ายทอดประวัติศาสตร์การเปิดท่าเรือ เปิดคาเฟ่ที่สามารถจะเพลิดเพลินกับชาและขนม ในบรรยากาศทางการทูต และเปิดให้บุคคลทั่วไปเข้าชม","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町31",,"明治6(1874)年12月に、アメリカからメソジスト派の宣教師M.C.ハリスが来日し、翌年1月に函館で伝道を始めた。「函館美以教会」と名付けられたこの教会は、プロテスタント教会では国内で3番目に古いものである。来函当時は、ドイツ人代弁領事殺害事件が起きるなど、不穏な世情であったが、ハリスは恐れることなく布教に身を捧げた。また彼は札幌にも伝道し、内村鑑三や新渡戸稲造など札幌農学校(現北海道大学)の学生の指導にあたり、洗礼を授けた。 一方ハリス夫人は女子教育に尽力し、これがカロライン・ライト・メモリアル女学校(現遺愛学院)設立の契機となった。 教会堂は、明治10年に建てられたが、火災により焼失し、数度の変遷を経て、昭和6(1931)年に現在の教会堂「ハリス監督記念礼拝堂」が建った。 昭和16年に、プロテスタントの教派の合流があり、現在の教会名となっている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%9f%ba%e7%9d%a3%e6%95%99%e5%9b%a3%e5%87%bd%e9%a4%a8%e6%95%99%e4%bc%9a,0 626,旧イギリス領事館(開港記念館),キュウイギリスリョウジカン(カイコウキネンカン),,2015年11月15日,2021年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/626,,函館市,西部地区,函館市元町33-14,大正,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7661057,140.7104797,"旧イギリス領事館(開港記念館) 箱館にイギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリ力、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年(1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。 この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913年)に竣工したものであり、昭和9年(1934年)の閉鎖まで領事館として使用されていた。 平成4年(1992)8月からは、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、旧外国公館の雰囲気の中でお茶やお菓子を楽しめるカフェを設け、一般公開している。 函館市","旧英国领事馆 箱馆在安政6年(1859年)作于日本最早的贸易港口在开港之际设置了英国领事馆,是继美国、俄罗斯之后设立的第3个领事馆,初代领事霍奇森(Hodgson)将领事馆开设在了称名寺。文久3年(1863年)在现在元町的哈利斯特斯东正教堂西侧新建领事馆,却数度遭遇火灾。 这座建筑物是由英国政府工务省上海工程局所设计,大正2年(1913年)时完工,直到昭和9年(1934年)关闭之前都作为领事馆使用。 平成4年(1992年)8月开始,设立了开馆纪念厅、开港历史的展示室以及可以沉浸在旧外国公馆氛围中享受茶跟点心的咖啡厅,开放给一般民众使用。 函馆市","舊英國領事館(開港紀念館) 箱館在安政6年(1859年)作於日本最早的貿易港口在開港之際設置了英國領事館,是繼美國、俄羅斯之後設立的第3個領事館,初代領事霍奇森(Hodgson)將領事館開設在了稱名寺。文久3年(1863年)在現在元町的哈利斯特斯東正教堂西側新建領事館,卻數度遭遇火災。 這座建築物是由英國政府工務省上海工程局所設計,大正2年(1913年)時完工,直到昭和9年(1934年)關閉之前都作為領事館使用。 平成4年(1992年)8月開始,設立了開館紀念廳、開港歷史的展示室以及可以沉浸在舊外國公館氛圍中享受茶跟點心的咖啡廳,開放給一般民眾使用。 函館市",,,"อดีตสถานกงสุลอังกฤษประจำฮาโกดาเตะ (หอรำลึกการเปิดท่าเรือ) ที่ฮาโกดาเตะ เริ่มตั้งสถานกงสุลอังกฤษขึ้นในปีอันเซที่ 6 (ค.ศ.1859) เป็นตอนที่ญี่ปุ่นเปิดท่าเรือเพื่อเป็นท่าเรือทำการค้ากับต่างประเทศเป็นครั้งแรก ที่ฮาโกดาเตะ นับเป็นสถานกงสุลอันดับที่ 3 ต่อจาก สหรัฐอเมริกา และรัสเซีย ฮอดจ์สัน ซึ่งเป็นกงสุลคนแรก ได้เปิดที่วัดโชเมียวจิ ปีบุงคิวที่ 3 (ค.ศ.1863) สร้างสถานกงสุลขึ้นใหม่ทางทิศตะวันตกติดกับโบสถ์ออธอดอกซ์ ที่ตำบลโมโตะมาจิ แต่ก็เกิดไฟไหม้ขึ้นสองสามครั้ง อาคารหลังนี้ ออกแบบโดยกรมก่อสร้างเซี่ยงไฮ้ กระทรวงการก่อสร้างของรัฐบาลอังกฤษ สร้างเสร็จในปีไทโชที่ 2 (ค.ศ. 1913) และถูกใช้เป็นสถานกงสุลจนกระทั่งปิดตัวลงในปีโชวะที่ 9 (ค.ศ.1934) ตั้งแต่เดือนสิงหาคม ปีเฮเซที่ 4 (ค.ศ.1992) หอประชุมที่ระลึกการเปิดท่าเรือ ห้องจัดนิทรรศการเพื่อถ่ายทอดประวัติศาสตร์การเปิดท่าเรือ เปิดคาเฟ่ที่สามารถจะเพลิดเพลินกับชาและขนม ในบรรยากาศทางการทูต และเปิดให้บุคคลทั่วไปเข้าชม","日本, 〒040-0054 北海道函館市元町33−14",,"函館に各国の領事が置かれたのは、安政6年(1859年)に貿易港として開港する前後からで、イギリスにおいては、初代領事ホジソンがこの年の9月に着任し、称名寺を宿舎として執務を行ったことに始まる。 文久3年(1863年)、大工町(現元町)に領事館が建てられたが、慶応元年(1865年)に火事で焼失し、以後2回建て直すが、いずれも大火で焼失した。 この建物は、大正元年(1912年)頃に新築されたもので、昭和9年(1934年)の閉館まで領事館として使われた。 設計は上海から呼んだイギリス人のキーツによるといわれ、全般にシンブルな意匠で明治の洋風建築としては非常に洗練された建物である。 昭和54年、函館市有形文化財に指定された。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e3%82%a4%e3%82%ae%e3%83%aa%e3%82%b9%e9%a0%98%e4%ba%8b%e9%a4%a8%ef%bc%88%e9%96%8b%e6%b8%af%e8%a8%98%e5%bf%b5%e9%a4%a8%ef%bc%89,0 628,護国神社,ゴコクジンジャ," ",2015年11月15日,2021年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/628,,函館市,西部地区,函館市青柳町9,昭和,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7599602,140.7145538,"函館護國神社 明治2年(1869年)、箱館戦争が終わって、兵部省は新政府側の戦没者を慰霊するために、招魂場を造営した。 境内に「招魂場」という大石があるのは、その時のものである。 同7年(1874年)に招魂社となり、昭和14年(1939年)に函館護國神社となった。 現在の社殿は昭和17年(1942年)に完成したものである。 ここには、箱館戦争以降、西南の役、日清戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者の霊が祀られている。 境内には新政府側戦没者の墓や慰霊碑などがある。 函館市","函馆护国神社 明治2年(1869年),箱馆战争告终,兵部省新政府侧打造招魂场以慰战时亡灵。里面被称作“招魂场”的大石是从那时就有的。 明治7年(1874年)改为招魂社,昭和14年(1939年)变成函馆护国神社。 现在的社殿完成于昭和17年(1942年)。 这里供奉著箱馆战争之后包含西南之役、日清战争到第二次世界大战为止的战争阵亡者。 里面还设有新政府一侧战争阵亡者的墓地和慰灵碑等。 函馆市","函館護國神社 明治2年(1869年),箱館戰爭告終,兵部省新政府側打造招魂場以慰戰時亡靈。裡面被稱作「招魂場」的大石是從那時就有的。 明治7年(1874年)改為招魂社,昭和14年(1939年)變成函館護國神社。 現在的社殿完成於昭和17年(1942年)。 這裡供奉著箱館戰爭之後包含西南之役、日清戰爭到第二次世界大戰為止的戰爭陣亡者。 裡面還設有新政府一側戰爭陣亡者的墓地跟慰靈碑等。 函館市",,,"ศาลเจ้าฮาโกดาเตะโกะโคคุ ""ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ. 1869) หลังจากสงครามฮาโกดาเตะสิ้นสุดลง กระทรวงกิจการทหารได้สร้างศาลขึ้นเพื่อไว้ทุกข์ให้กับทหารฝ่ายรัฐบาลใหม่ที่เสียชีวิต ในบริเวณศาลเจ้า มีหินก้อนใหญ่ที่เรียกว่า """"โชคงโจ"""" เป็นหินที่มีมาตั้งแต่ในสมัยนั้น "" ปีเมจิที่ 7 (ค.ศ. 1874) เปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าโชคง และเปลี่ยนชื่อเป็น ศาลเจ้าฮาโกดาเตะโกะโคคุ ในปีโชวะที่ 14 (ค.ศ.1939) ศาลเจ้าหลังปัจจุบัน สร้างเสร็จในปีโชวะที่ 17 (ค.ศ.1942) วิญญาณทหารผู้เสียชีวิตในสงคราม ตั้งแต่สงครามฮาโกดาเตะ สงครามตะวันตกเฉียงใต้ สงครามญี่ปุ่น-ชิง ไปจนถึงสงครามโลกครั้งที่ 2 ถูกอัญเชิญมาสิงสถิตย์อยู่ที่นี่ ในบริเวณศาลเจ้า มีสุสานและอนุสรณ์เพื่อไว้ทุกข์ให้แก่ผู้เสียชีวิตฝ่ายรัฐบาลใหม่ในสงคราม","日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町9 日暮し通",,"明治2(1869)年、箱館戦争が終わって、兵部省は新政府側の戦没者を慰霊するために、招魂場を造営した。境内に「招魂場」という大石があるのは、その時のものである。 同7年に招魂社となり、昭和14(1939)年に護国神社となった。 現在の社殿は昭和17年に完成したものである。 ここには、箱館戦争以降、西南の役、日清戦争から第二次世界大戦に至るまでの、戦没者の霊が祀られている。境内には新政府側戦没者の墓や慰霊碑などがある。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%ad%b7%e5%9b%bd%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 630,石川啄木居住地跡,イシカワタクボクキョジュウチアト," ",2015年11月15日,2021年6月4日,http://donan-museums.jp/archives/630,,函館市,西部地区,函館市青柳町15,,明治,未分類,41.7588539,140.7170105,"石川啄木居住地跡 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」 「わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」 薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地にある。岩手県渋民村(現盛岡市)で貧しい暮らしを味わった啄木は、明治40年(1907年)5月初め、一家離散を余儀なくされた。 啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家・堀合家に預け、母カツは知人宅に託して妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹は、そのまま小樽の義兄のもとへ向かった。) 啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社」の同人達であった。 啄木の日記に「四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」は、のちに啄木が主筆となり、一切の編集を任されることとなる。その苜蓿社は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。 7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4ヶ月余りで終わりを告げたのである。 函館市","石川啄木居住地遗迹 「函馆の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」(函馆的青柳町时代令人难忘。倾听友人恋歌的彼时美好时光,与周遭屋外芬芳盛开的矢车菊。) 「わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」(追随吾之脚步到来此地,无亲无故,住于这偏僻之地的母与妻。) 搏命诗人石川啄木与家人层居于青柳町的租房遗迹就在这附近的小巷里。曾经在岩手县涉民村(现盛冈市)经历贫寒生活的啄木在明治40年(1907年)迫于无奈不得不与家人分开。 啄木为寻求新天地,将妻子节子和长女京子托付给盛冈老家---堀合家,把老母亲也托付给友人,与妹妹一起5月5号渡过津軽海峡来至函馆。(其妹随后去往小樽的义兄家了。) 欢迎啄木前来的是函馆文学爱好家团体“苜蓿社 ”的同道中人。 石川啄木的日记中写道“虽然是四十页的小杂志,但是北海道唯一最认真的文学杂志”,之后啄木成为了这家文艺杂志社红苜蓿的主笔,并被委任做所有的编辑。上述苜蓿社就在左手边青柳小学校的上面一带,啄木曾在那里暂住。 7月7日啄木把妻子从盛冈叫来,在这附近的巷子深处租借了一处房子安顿下来,8月将母亲和妹妹也接来,开始了新的家族生活。但是很不幸8月25日夜里发生了火灾,将弥生寻常小学以及函馆日日新闻社焚烧殆尽。 失去了工作之处的啄木为了寻求新的工作9月13号去往札幌,函馆的生活仅仅4个月便宣告结束。 函馆市","石川啄木居住地遺跡 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」(函館的青柳町時代令人難忘。傾聽友人戀歌的彼時美好時光,與周遭屋外芬芳盛開的矢車菊。) 「わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」(追隨吾之腳步到來此地,無親無故,住於這偏僻之地的母與妻。) 搏命詩人石川啄木與家人層居於青柳町的租房遺跡就在這附近的小巷裡。曾經在岩手縣涉民村(現盛岡市)經歷貧寒生活的啄木在明治40年(1907年)迫於無奈不得不與家人分開。 啄木為尋求新天地,將妻子節子和長女京子託付給盛岡老家---堀合家,把老母親也託付給友人,與妹妹一起5月5號渡過津軽海峡來至函館。(其妹隨後去往小樽的義兄家了。) 歡迎啄木前來的是函館文學愛好家團體「苜蓿社 」的同道中人。 石川啄木的日記中寫道「雖然是四十頁的小雜誌,但是北海道唯一最認真的文學雜誌」,之後啄木成為了這家文藝雜誌社「紅苜蓿 」的主筆,並被委任做所有的編輯。上述「苜蓿社 」就在左手邊青柳小學校的上面一帶,啄木曾在那裡暫住。 7月7日啄木把妻子從盛岡叫來,在這附近的巷子深處租借了一處房子安頓下來,8月將母親和妹妹也接來,開始了新的家族生活。但是很不幸8月25日夜裡發生了火災,將彌生尋常小學以及函館日日新聞社焚燒殆盡。 失去了工作之處的啄木為了尋求新的工作9月13號去往札幌,函館的生活僅僅4個月便宣告結束。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นบ้านของอิชิคาวะ ทาคุโบะคุ ""ตำบลอาโอยางิของฮาโคดาเตะนั่นแหละเศร้า กลอนรักของเพื่อน คอร์นฟลาวเวอร์"" ""ตามเรามา คงเป็นแม่และเมียอาศัยอยู่ในดินแดนที่ไม่มีใครรู้จัก"" บ้านเช่าที่ตำบลอาโอยางิ ที่อิชิคาวะ ทาคุโบะคุ กวีผู้อับโชค พาครอบครัวมาอาศัยอยู่ อยู่ในซอยแถวนี้ ทาคุโบะคุที่ได้ลิ้มรสความเป็นอยู่ที่ยากจนในหมู่บ้านชิบุทามิ จังหวัดอีวาเทะ (อำเภอโมริโอกะในปัจจุบัน) ต้นเดือนพฤษภาคม ปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) ครอบครัวแตกกระสานซ่านเซ็นโดยไม่เต็มใจ ทาคุโบะคุออกเดินทางไปหาที่ใหม่ โดยฝากเซ็ตสึโกะภรรยาและเคียวโกะลูกสาวคนโตไว้ที่บ้านโฮริไอ ซึ่งเป็นบ้านของพ่อแม่ที่โมริโอกะ และฝากคัตสึผู้เป็นแม่ไว้ที่บ้านคนรู้จัก และเดินทางข้ามช่องแคบทสึงารุพร้อมกับมิตสึโกะน้องสาว มาถึงฮาโกดาเตะวันที่ 5 พฤษภาคม (น้องสาว ไปหาพี่เขยที่โอตารุ) ผู้ที่ต้อนรับทาคุโบะคุอย่างอบอุ่นคือ ""โบะคุชุคุชะ"" กลุ่มผู้รักวรรณคดีของฮาโกดาเตะ วารสารวรรณกรรม ""เบนิมาโกยาชิ"" ที่ถูกบันทึกไว้ในสมุดบันทึกของทาคุโบะคุว่า ""เป็นวารสารเล่มเล็กเพียง 40 หน้า แต่จัดว่าเป็นวารสารฉบับเดียวที่เอาจริงเอาจังของฮอกไกโด"" ภายหลัง ทาคุโบะคุกลายเป็นผู้เขียนหลัก และได้รับมอบหมายให้รับหน้าที่บรรณาธิการ โบะคุชุคุชะนั้น อยู่ด้านซ้ายมือของโรงเรียนประถมอาโอยางิ เป็นที่พักชั่วคราวของทาคุโบะคุ วันที่ 7 กรกฏาคม ทาคุโบะคุ เรียกภรรยาและลูกมาจากโมริโอกะ และพาไปอาศัยอยู่ที่บ้านเช่าที่เคยมีอยู่ข้างในซอยละแวกนี้ เดือนสิงหาคม ก็รับแม่และน้องสาวมาอยู่ด้วย เริ่มสร้างครอบครัวขึ้นมาใหม่ แต่วันที่ 25 สิงหาคม เกิดไฟไหม้ครั้งใหญ่ โรงเรียนประถมยาโยอิจินโจและบริษัทหนังสือพิมพ์ฮาโกดาเตะนิจินิจิ ถูกเผาวอดหมด เมื่อสูญเสียที่ทำงาน ทาคุโบะคุ จึงออกเดินทางไปยังซับโปโร ในวันที่ 13 กันยายน เพื่อหางานทำ ทำให้การใช้ชีวิตที่ฮาโกดาเตะสิ้นสุดลงแค่เพียงสี่เดือนเศษ ","日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町15",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e7%9f%b3%e5%b7%9d%e5%95%84%e6%9c%a8%e5%b1%85%e4%bd%8f%e5%9c%b0%e8%b7%a1,0 632,ハーバー遭難記念碑,ハーバーソウナンキネンヒ," ",2015年11月15日,2021年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/632,1521,函館市,西部地区,函館市青柳町17(函館公園内),明治||大正,明治||大正,碑・像,41.7557716,140.7143097,"ハーバー遭難記念碑 ドイツの代弁領事ルードヴィッヒ・ハーバーは、明治7年 (1874年)2月に函館に着任したが、同年8月11日、排外思想を抱き外国人殺害の目的で来函していた旧秋田藩士田崎秀親に、この碑の近くで斬殺された。 犯人は直後に自首、9月に処刑され、ドイツ公使館が単独犯であることや適切な事後処理に理解を示したので、幸い重大な外交問題にならずにすんだ。 遺体は、事件の翌日、ブラキストンらにより外国人墓地に埋葬された。 この碑は、大正13年(1924年)、甥のフリッツ・ハーバー(ノーベル賞受賞者)を迎えて没後50年祭を執り行ったときに、旧墓 碑を遭難地に移し記念碑としたもので、外国人墓地には同型の新墓碑が建立されている。昭和19年(1944年)には日本軍に持ち去られ一時行方不明になっていたが、昭和24年(1949年)に土中より発見され、ここに建てられた。","哈伯遭难纪念碑 德国的代理领事路德维希哈伯 (Ludwig Haber)于明治7年 (1874年)2月在函馆就任,却在同年8月11日被抱有排外思想的旧秋田藩士田崎秀亲特地来函杀害,位置就在这座碑的附近。 犯人在犯后自首,9月被处刑,德国大使馆表示能够理解这是单一事件并且已经得到妥善处里,所幸没有酿成重大的外交问题。 遗体在事发隔日由布莱基斯顿(Blakiston)等人葬在外国人墓地。 这座碑在大正13年(1924年)时为了迎接诺贝尔奖得主的甥子弗里茨哈伯(Fritz Haber)来函,而举行逝后50年祭典之际将旧墓碑作为纪念碑迁移到遇难地点,并在外国人墓地建立同型的新墓碑。但在昭和19年(1944年)被日本军带走后消失,昭和24年(1949年)在土中发现后建于此处。 函馆市","哈伯遭難紀念碑 德國的代理領事路德維希哈伯 (Ludwig Haber)於明治7年 (1874年)2月在函館就任,卻在同年8月11日被抱有排外思想的舊秋田藩士田崎秀親特地來函殺害,位置就在這座碑的附近。 犯人在犯後自首,9月被處刑,德國大使館表示能夠理解這是單一事件並且已經得到妥善處裡,所幸沒有釀成重大的外交問題。 遺體在事發隔日由布萊基斯頓(Blakiston)等人葬在外國人墓地。 這座碑在大正13年(1924年)時為了迎接諾貝爾獎得主的甥子弗里茨哈伯(Fritz Haber)來函,而舉行逝後50年祭典之際將舊墓碑作為紀念碑遷移到遇難地點,並在外國人墓地建立同型的新墓碑。但在昭和19年(1944年)被日本軍帶走後消失,昭和24年(1949年)在土中發現後建於此處。 函館市",,,"อนุสาวรีย์รำลึกการประสบภัยของฮาร์เบอร์ ตัวแทนกงสุลเยอรมัน ลุดวิก ฮาร์เบอร์ ได้มาเข้ารับหน้าที่ที่ฮาโกดาเตะ ในเดือนกุมภาพันธ์ ปีเมจิที่ 7 (ค.ศ. 1874) และถูกทะซากิ ฮิเดจิกะ ชาวแคว้นอาคิตะ ผู้มีแนวคิดกำจัดชาวต่างชาติ และเดินทางมาฮาโกดาเตะโดยมีจุดประสงค์ในการสังหารชาวต่างชาติใช้ดาบฟันเสียชีวิตใกล้ๆ อนุสาวรีย์แห่งนี้ เมื่อวันที่ 11 สิงหาคมของปีเดียวกัน ผู้ก่อเหตุ มอบตัวหลังจากนั้นทันที และถูกประหารชีวิตในเดือนกันยายน สถานทูตเยอรมันแสดงความเข้าใจว่าคดีนี้มีอาชญากรเพียงคนเดียว และการจัดการหลังเกิดเหตุก็ดำเนินไปอย่างเหมาะสม จึงถือเป็นโชคดีที่ไม่ได้ลุกลามจนเป็นปัญหาทางการทูต ศพของฮาร์เบอร์ ถูกทำพิธีฝังในวันรุ่งขึ้นหลังจากเกิดเหตุ ในสุสานต่างประเทศ โดยแบล็กซ์ตัน และพวก อนุสาวรีย์รำลึกนี้ สร้างขึ้นในปีไทโชที่ 13 (ค.ศ.1924) เมื่อตอนที่ทำพิธีครบรอบ 50 ปีของการเสียชีวิต ได้ต้อนรับหลานชายของฮาร์เบอร์ ชื่อฟลิทซ์ ฮาร์เบอร์ (ผู้ได้รับรางวัลโนเบล) ได้ย้ายหินที่หลุมฝังศพเก่า ไปไว้ที่จุดเกิดเหตุเพื่อให้เป็นอนุสาวรีย์รำลึก และตั้งหินหลุมฝังศพแบบเดียวกันขึ้นใหม่ที่สุสานชาวต่างชาติ ปีโชวะที่ 19 (ค.ศ.1944) ถูกกองทัพญี่ปุ่นยกออก หายไปชั่วคราว แต่พบอยู่ในดิน ปีโชวะที่ 24 (ค.ศ.1949) จึงมาตั้งไว้ที่นี่","日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17","(表) HEIR RUHT UNSERER THEURER BRUDER DER CONSULATS-VERWESER LUDWIG HABER. GEB:ZU BRIEG,SCHLESIEN DEN 15 MAERZ 1843 GEST:DEN 11TEN AUGUST 1874. FRIDE SEINER ASCHE (台座銅板) 前函館駐箚独逸領事ルウトヰック、ハァバァ氏は同国シレジア州の人明治七年二月当地に着任せり当時開交日猶ほ浅く人心未た定らす秋田藩士田崎秀親なる者 皇学の不振は洋学の侵入にあり做し外人を排せんとし開港場なる函館に来り市内彷徨中隅々ハァバァ氏の散策するを認め追跡して遂に此所に斬殺す実に同年八月十一日の事なり遺骸は英人ブレキストン氏棺槨に納めて翌日之を山背泊に葬る行年三十二歳犯人秀親直に自訴して九月二十六日斬に処せられ纔に事無きを得たり 爾来星霜五十年会々ハァバァ領事の旧墓碑を市中に捜り之を遭難の地に移し礎石に当時の事を刻し永く当地開港の犠牲者を追憶するの因便となす 大正十三年八月三十一日 函館図書館","ドイツの代弁領事ルードヴィッヒ・ハーバーは、明治7(1854)年2月に着任したが、同年8月11日、排外思想を抱き外国人殺害の目的で来函していた旧秋田藩士田崎秀親に、この碑の向い側で斬殺された。 犯人は直後に自首、9月に処刑された。幸いドイツ公使館が、単独犯であることや適切な事後処理に理解を示したので重大な外交問題にならずにすんだ。 遺体は、事件の翌日、ブラキストンらにより外国人墓地に埋葬された。 この碑は、大正13(1924)年、甥のフリッツ・ハーバー(ノーベル賞受賞者)を迎えて没後50年祭を開催したときに、旧墓碑を遭難地に移し記念碑としたもので、外国人墓地には同型の新墓碑が建立されている。昭和19(1944)年には日本軍に持ち去られ一時行方不明になっていたが、昭和24年に土中より発見され、ここに建てられた。 函館市 ■追加解説 ドイツ語碑文の意味は、「我々の優れている兄弟代理領事ルードウェッヒ・ハァバーは此処に眠っている。1843年3月15日シェレシーンのブリーグに生れ、1874年8月11日に死去した。彼の骸に平和あれ ペーボーム(1、2か所の誤彫がある)」(「函館市史資料集」第27集)である。 1924年(大正13年)11月8日、ベルリンであったガイザルウィルヘルム研究所の物理化学部長フリッツ・ハーバー夫妻(故人の甥)と駐日ドイツ大使ゾルフ氏の臨席をもと、山背泊の外人墓地にあった墓碑を遭難地に移し遭難記念碑として市立函館図書館が主催のもとに除幕式を挙行した。",,「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「函館の史蹟と名勝」,,okuno.s,旧谷地頭二番地に建つ,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako084.jpg,hako084.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako084.jpg,1521,hako084,,,,%e3%83%8f%e3%83%bc%e3%83%90%e3%83%bc%e9%81%ad%e9%9b%a3%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 634,函館博物館のあゆみ,ハコダテハクブツカンノアユミ," ",2015年11月15日,2021年7月8日,http://donan-museums.jp/archives/634,,函館市,西部地区,函館市青柳町17(函館公園内),明治||昭和,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7558594,140.7141266,"函館博物館のあゆみ 函館の博物館の歴史は、明治12年(1879年)に開拓使函館支庁仮博物場として開場したのが始まりである。 これは、開拓使顧問であるアメリカ人ホーレス・ケプロンが、北海道の開拓政策推進のために博物館・図書館の設立を提言したことによるものであった。函館公園内にある旧函館博物館1号の建物は、現存する洋風木造の博物館建築としては日本で最も古く、昭和38年(1963年)に北海道有形文化財に指定されている。 現在の市立函館博物館は、昭和41年(1966年)に総合博物館として開館し、創立時の資料も継承して現在に至っている。 函館市","函馆博物馆的发展进程 函馆博物馆的历史开始于明治12年(1879年),其前身是开拓使函馆支厅的临时博物馆。 在美国开拓使顾问开普伦(Horace Capron)的提议下,为推进北海道开拓政策的博物馆兼图书馆因而设立。函馆公园里的旧函馆博物馆1号建筑,是现存日本最古老的西式木造博物馆。昭和38年(1963年)指定为北海道有形文化财产。 现在的市立函馆博物馆作为综合博物馆于昭和41年(1966年)开馆,创立当时的资料一直传承至今。 函馆市","函館博物館的發展進程 函館博物館的歷史開始於明治12年(1879年),其前身是開拓使函館支廳的臨時博物館。 在美國開拓使顧問開普倫(Horace Capron)的提議下,為推進北海道開拓政策的博物館兼圖書館因而設立。函館公園裡的舊函館博物館1號建築,是現存日本最古老的西式木造博物館。昭和38年(1963年)指定為北海道有形文化財產。 現在的市立函館博物館作為綜合博物館於昭和41年(1966年)開館,創立當時的資料一直傳承至今。 函館市",,,"ความเป็นมาของพิพิธภัณฑ์ฮาโกดาเตะ ประวัติความเป็นมาของพิพิธภัณฑ์ที่ฮาโกดาเตะ เริ่มจากเปิดเป็นพิพิธภัณฑ์ชั่วคราวสาขาผู้บุกเบิกฮาโกดาเตะ ในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) ซึ่งเป็นกิจกรรมที่ ที่ปรึกษาผู้บุกเบิกชาวอเมริกันชื่อ โฮเรส เคปรอน เสนอแนะให้ตั้งหอสมุดและพิพิธภัณฑ์ เพื่อสนับสนุนมาตรการการบุกเบิกฮอกไกโด อาคารพิพิธภัณฑ์ฮาโกดาเตะเก่าหลังที่ 1 ที่อยู่ในสวนสาธารณะฮาโกดาเตะ เป็นสถาปัตยกรรมพิพิธภัณฑ์โครงสร้างไม้แบบตะวันตกที่เหลืออยู่ในปัจจุบันที่เก่าแก่ที่สุดในญี่ปุ่น ถูกกำหนดให้เป็นมรดกทางวัฒนธรรมที่จับต้องได้ในปีโชวะที่ 38 (ค.ศ.1963) พิพิธภัณฑ์เมืองฮาโกดาเตะในปัจจุบัน เปิดเป็นพิพิธภัณฑ์ทั่วไป เมื่อปีโชวะที่ 41 (ค.ศ.1966) เอกสารตอนที่ก่อตั้งพิพิธภัณฑ์ก็ถูกสืบทอดมาจนถึงปัจจุบัน ","日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17 日暮し通",,"函館の博物館の歴史は、明治12(1879)年に開拓使函館支庁仮博物場として開場したのが始まりである。 これは、開拓使顧問であるアメリカ人ホーレス・ケプロンが北海道の開拓政策推進のために博物館・図書館の設立を提言したことによるものであった。 公園内にある旧函館博物館の建物は、現存する地方博物館として日本で最も古く、昭和38(1963)年に北海道有形文化財に指定されている。 現在の市立函館博物館は、昭和41(1966)年に総合博物館として開館し、創立時の資料も継承して現在に至っている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%8d%9a%e7%89%a9%e9%a4%a8%e3%81%ae%e3%81%82%e3%82%86%e3%81%bf,0 636,亀井勝一郎文学碑,カメイカツイチロウブンガクヒ," ",2015年11月15日,2021年7月2日,http://donan-museums.jp/archives/636,1065,函館市,西部地区,函館市青柳町(青柳町緑地内),昭和,昭和,碑・像,41.7597389,140.7173157,"亀井勝一郎文学碑 亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きい。昭和12年(1937年)の「人間教育」、昭和18年(1943年)の「大和古寺風物詩」等は、不朽の名著として、長く人々の心を豊かにしている。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わった。 亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌となっていたと思われる。 亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日、函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年(1965年)11月日本芸術院会員となり、翌41年(1966年)11月14日病により永眠した。 この碑は昭和44年(1969年)10月14日、人々の善意によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」が刻まれている。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。 函館市","龟井胜一郎文学碑 龟井胜一郎是一位著名的思想家、文艺评论家。用现代的眼光审视并发掘古代日本的美学与精神,承前启后发扬光大,业绩卓著。昭和12年(1937年)的《人类教育》、昭和18年(1943年)的《大和古寺风物诗》等都是不朽的著作,长存人们心中。 晚年大作《日本精神史研究》作为龟井文学的总汇得到了很高的评价,但遗憾的是因其逝世而未能最终完成。 龟井胜一郎年轻时,不知道是因为一度思想激进,还是生来就腼腆,虽然没怎么回过函馆,但是终其一生都说著函馆家乡话,任何美食都逊于他对故乡味道的喜爱。可以看出其思想的根源就是故乡函馆的风土人情与人心,根深蒂固无可取代。 龟井胜一郎出生于明治40年(1907年)2月6日,函馆元町的喜一郎的长子。其父亲当时是函馆储蓄银行的经理。先后就读于弥生小学、函馆中学、山形高中、和东京帝国大学文学部,作为评论家及思想家相当活跃,昭和40年(1965年)11月成为日本艺术院会员。隔年41年(1966年)11月14日因病逝世。 此碑建于昭和44年(1969年)10月14日,是人们自发的善意捐赠。镌刻着胜一郎真迹格言「人生邂逅し 开眼し 瞑目す」(人生邂逅 开眼界 终瞑目)。元町地区有武者小路实笃写的“诞生地碑”。 函馆市","龜井勝一郎文學碑 龜井勝一郎是一位著名的思想家、文藝評論家。用現代的眼光審視並發掘古代日本的美學與精神,承前啓後發揚光大,業績卓著。昭和12年(1937年)的《人類教育》、昭和18年(1943年)的《大和古寺風物詩》等都是不朽的著作,長存人們心中。 晚年大作《日本精神史研究》作為龜井文學的總匯得到了很高的評價,但遺憾的是因其逝世而未能最終完成。 龜井勝一郎年輕時,不知道是因為一度思想激進,還是生來就靦腆,雖然沒怎麼回過函館,但是終其一生都說著函館傢鄉話,任何美食都遜於他對故鄉味道的喜愛。可以看出其思想的根源就是故鄉函館的風土人情與人心,根深蒂固無可取代。 龜井勝一郎出生於明治40年(1907年)2月6日,函館元町的喜一郎的長子。其父親當時是函館儲蓄銀行的經理。先後就讀於彌生小學、函館中學、山形高中、和東京帝國大學文學部,作為評論家及思想家相當活躍,昭和40年(1965年)11月成為日本藝術院會員。隔年41年(1966年)11月14日因病逝世。 此碑建於昭和44年(1969年)10月14日,是人們自發的善意捐贈。鐫刻著勝一郎真跡格言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」(人生邂逅 開眼界 終瞑目)。元町地區有武者小路實篤寫的“誕生地碑”。 ",,,"อนุสาวรีย์รำลึกวรรณคดี คาเมอิ คัตสึอิจิโร คาเมอิ คัตสึอิจิโร มีชื่อเสียงในฐานะนักคิดและนักวิจารณ์วรรณกรรม การค้นพบความงามและหัวใจของญี่ปุ่นโบราณในเชิงยุคปัจจุบัน และนำมาพัฒนาต่อเป็นผลงานที่ยอดเยี่ยมของเขา ""การศึกษาของมนุษย์"" ในปีโชวะที่ 12 (ค.ศ.1937), ""ยามาโตะโคะจิ ฟูบุตสึชิ"" ปีโชวะที่ 18 (ค.ศ.1943) ฯลฯ เป็นผลงานชิ้นเอกที่ทำให้หัวใจของคนดีขึ้นมาอย่างยาวนาน ผลงานชิ้นเอกในช่วงปลายของเขา ""การวิจัยประวัติศาสตร์จิตวิญญาณของญี่ปุ่น"" ได้รับการยกย่องอย่างสูงว่าเป็นสุดยอดของวรรณคดีคาเมอิ แต่น่าเสียดายที่เขาเสียชีวิตก่อนจะเขียนจบ สมัยคาเมอิ คัตสึอิจิโรหนุ่มๆ เขาไม่ค่อยได้กลับไปที่ฮาโกดาเตะ อาจเป็นเพราะเขามีความคิดที่ต่างไปจากเดิมอย่างสิ้นเชิง หรือเป็นเพราะนิสัยตามธรรมชาติของเขา แต่เขาใช้ภาษาถิ่นของฮาโกดาเตะตลอดชั่วชีวิต และแม้จะดูที่ข้อเท็จจริงที่ว่า เขาชอบกินอาหารจากบ้านเกิด ฮาโกดาเตะ มากกว่าอาหารอร่อยใดๆ ดูเหมือนว่าที่รากความคิดของเขา วัฒนธรรมและหัวใจของคนฮาโคดาเตะ จะเป็นดินที่ไม่อาจหาอะไรมาทดแทนได้ คาเมอิ คัตสึอิจิโร เกิดที่โมโตะมาจิ ฮาโกดาเตะ เมื่อวันที่ 6 กุมภาพันธ์ ปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) ในฐานะลูกชายคนโตของคิอิจิโร พ่อของเขา เป็นผู้จัดการธนาคารออมทรัพย์ฮาโกดาดาเตะในเวลานั้น เขาศึกษาที่โรงเรียนประถมศึกษายาโยอิ, โรงเรียนมัธยมต้นฮาโกดาเตะ, โรงเรียนมัธยมปลายยามากาตะและคณะอักษรศาสตร์มหาวิทยาลัยโตเกียวเทโคคุ ต่อมากลายเป็นนักวิจารณ์วรรณกรรมและนักคิด เดือนพฤศจิกายน ปีโชวะที่ 40 (ค.ศ.1965) เข้าเป็นสมาชิกของ Japan Art Academy เขาล้มป่วยและเสียชีวิตเมื่อวันที่ 14 พฤศจิกายน ปีโชวะที่ 41 (ค.ศ.1966) อนุสาวรีย์รำลึกนี้ สร้างขึ้นเมื่อวันที่ 14 ตุลาคม ปีโชวะที่ 44 (ค.ศ.1969) ด้วยความตั้งใจดีของประชาชน และถูกจารึกสโลแกนที่เขียนโดยคัตสึอิจิโรว่า ""เจอหลายคนในชีวิต เปิดตา และทำสมาธิ"" อนึ่ง ที่โมโตะมาจิ มี ""อนุสาวรีย์รำลึกการเกิด"" เขียนโดยมุชะโนะโคจิ ซะเนะอัตสึ","日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町15−16","(表)
人生 邂逅し 開眼し 瞑目す 亀井勝一郎
","亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きく、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物誌」等は、不朽の名著として、ながく人々の心を豊かにし、そして導いて行くであろう。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わったのは残念である。 亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという身近な事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌ととなっていたことは、疑いのない事実であろう。 亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年11月日本芸術院会員となり、翌41年11月14日病により永眠した。 この碑は昭和44年10月14日、心ある人々によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し暝日す」が刻まれている。石は日高産の名石。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。 函館市■追加解説
亀井勝一郎(1907~1966)は、大学入学直後に「新人会」の会員となり、共産主義に傾倒して政治活動にも従事して、昭和3年には大学を中退する。同年、治安維持法違反で検挙された。獄中生活では文学に親しみ、保釈の後、日本プロレタリア作家同盟に参加、昭和7年にはデビュー作「創作活動に於ける当面の諸問題」を発表した。 勝一郎は、著作活動を行うなかで古美術や仏教への関心を深めて、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物誌」等は、不朽の名著として、ながく人々に愛されている。晩年、未完の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されている。 函館にはあまり帰らなかったが、終生、函館弁を使い、故郷の味を好んだという。その思想の根底には、函館の風土と人心が影響を与えていた。",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako020.jpg,hako020.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako020.jpg,1065,hako020,,,亀井勝一郎文学碑,%e4%ba%80%e4%ba%95%e5%8b%9d%e4%b8%80%e9%83%8e%e6%96%87%e5%ad%a6%e7%a2%91,0 639,柳川熊吉翁の碑(柳川熊吉翁之寿碑),ヤナガワクマキチオウノヒ(ヤナガワクマキチオウノジュヒ),"",2015年11月17日,2021年7月8日,http://donan-museums.jp/archives/639,776,函館市,西部地区,函館市谷地頭町1(碧血碑側),大正,明治||大正,碑・像,41.7515488,140.7088470,碑文の訓読は、「前逓信大臣・正三位・勲一等・伯爵林董篆額す。翁の名は熊吉、姓は野村にして、後に故有りて柳川と改む。江戸の人なり。少(わか)くして侠客の新門辰五郎に属し、夙(つと)に名有り。始めて北海に来るや、函館奉行堀織部正の知る所と為り、侠名愈(いよ)いよ顕われり。戊辰之役、東軍の来りて函館に拠(よ)るや、巨帥榎本武揚君の親信を受く。蓋(けだ)し曩(さき)に榎本君年十六、七、奉行織部君の家に在りし時、面識有るを以ての故なり。後東軍の五稜郭に敗るるや、遺骸野に横たわり、復之を顧る者無し。翁深く之を惻(いた)み、当山十六世日隆師と相謀り、収めて之れを谷地頭の西丘に葬り、而して歳時焉(これ)を祀(まつ)れり。後に有志の者、石を建て題して碧血碑と曰う。翁は今茲(ことし)齢八十八、猶矍鑠(かくしゃく)たり。因りて翁の義挙を不朽に伝えんと欲し、今其の梗概(こうがい)を記し、諸(これ)を血碑の傍らに建つと云う。」(「道南の碑」)で、碑の裏面には建設賛成人の氏名が彫られている。,"柳川熊吉翁之碑 柳川熊吉在安政3年(1856年)时从江户前来经营承包业。在建造五棱郭时为招募劳工做出了贡献。 明治2年(1869年)箱馆战争一结束,战败的旧幕府脱走军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队)的遗体就因为“不可为贼军慰灵”的命令,被搁置在市区各处。熊吉对新政府军的这项措施深感义愤,便与实行寺的僧侣一起收集遗体并安葬于同寺内。受到其精神感动的新政府军田岛圭藏给予特殊照顾,赦免了熊吉的罪。 明治4年(1871年)熊吉在函馆山山腹处购买了土地来改葬遗体,同8年(1875年)建“碧血碑”以安慰旧幕府脱走军战死者的灵魂。大正2年(1913年)、熊吉88歳大寿之际,有志者为传颂其义举,在此处建立寿碑。 函馆市","柳川熊吉翁之碑 柳川熊吉在安政3年(1856年)時從江戶前來經營承包業。在建造五稜郭時為招募勞工做出了貢獻。 明治2年(1869年)箱館戰爭一結束,戰敗的舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)的遺體就因為“不可為賊軍慰靈”的命令,被擱置在市區各處。熊吉對新政府軍的這項措施深感義憤,便與實行寺的僧侶一起收集遺體並安葬於同寺內。受到其精神感動的新政府軍田島圭藏給予特殊照顧,赦免了熊吉的罪。 明治4年(1871年)熊吉在函館山山腹處購買了土地來改葬遺體,同8年(1875年)建「碧血碑」以安慰舊幕府脫走軍戰死者的靈魂。大正2年(1913年)、熊吉88歳大壽之際,有誌者為傳頌其義舉,在此處建立壽碑。 函館市",,,"อนุสาวรีย์รำลึก ยานะงาวะ คุมะคิจิ ยานะงาวะ คุมะคิจิ มาจากเอโดะ ในปีอันเซที่ 3 (ค.ศ.1856) และทำงานเป็นผู้รับเหมาและมีส่วนร่วมในการจัดวางคนงานในระหว่างการก่อสร้างป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ เมื่อสงครามฮาโกดาเตะสิ้นสุดลงในปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869) ศพของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิมที่พ่ายแพ้ ก็ถูกทิ้งไว้ในเมืองตามคำสั่งที่ว่า ""ห้ามไว้ทุกข์ให้กองทัพโจร"" คุมะคิจิรู้สึกถึงความไม่พอใจต่อการกระทำนี้ของรัฐบาลใหม่ จึงได้รวบรวมศพร่วมกับพระในวัดจิทสึเกียวจิและนำไปฝัง และคุมะคิจิได้ยกเว้นโทษ จากการช่วยเหลือของทาจิมะ เคโซ ของรัฐบาลใหม่ผู้ซึ่งเข้าใจความรู้สึกนี้ ในปีเมจิที่ 4 (ค.ศ.1871) คุมะคิจิ ได้ซื้อที่ดินบนเนินเขาฮาโกดาเตะ และทำพิธีศพใหม่ ในปีเมจิที่ 8 (ค.ศ.1875) คุมะคิจิสร้าง ""อนุสาวรีย์เฮกเคตสึ"" เพื่อไว้ทุกข์ให้ทหารกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิมที่เสียชีวิต ในปีไทโชที่ 2 (ค.ศ.1913) เมื่อคุมะคิจิ อายุ 88 ปี อาสาสมัครสร้างอนุสาวรีย์ฉลองขึ้นที่นี่ เพื่อถ่ายทอดความกล้าหาญนั้น","日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町1","(表) 柳川翁之壽碑 前逓信大臣正三位勲一等 伯爵林 董篆額 翁名熊吉姓野村後有故改柳川江戸人少属侠 客新門辰五郎夙有名始来北海為函館奉行堀 織部正所知侠名愈顕戊辰之役東軍来據函館 也受巨師榎本武揚君之親信蓋曩榎本君年十 六七以在奉行織部君之家之時有面識故也後 東軍之敗于五稜郭也遺骸横野而無復顧也者 翁深惻之與當山十六世日隆師相謀収葬之於 谷地頭之西丘而歳時祀焉後有志者建石題曰 碧血碑翁今茲齢八十八猶矍鑠因欲傳翁之義 擧于不朽今記其梗概建諸血碑之傍云 大正二年癸丑六月 日蓮宗一乗山實行寺十九世 權僧正望月日謙誌 羽陰 龍湖 石川重友書 石工 吉田辰己刻 (裏) 賛成人 函館碧血會 一瀬勇三郎 早川重倫 黒住成章 松尾潮圓 池上三郎 菅谷叶 藤村駒吉 岡島勘右エ門 和田惟一 古川金兵衛 品田彌一 立石財三郎 澤田源光 兵頭榮作 間半四郎 佐々木浅吉 小川廣龍 坂井義夫 小熊幸一郎 大澤卓郎 横山吉四郎 新田ルイ 大庭彦平 林寅吉 大窪榮妙 細川伊吉 佐藤槌之丞 齊藤又右門 廣谷源治 加藤文五郎 江口淡 小阪弥三郎 吉岡憲 長谷川淑夫 高橋文五郎 西原林次郎 河毛三郎 鈴木錬榮 梅津八重子 駒井弥兵衛 梅津福次郎 曲山端照 志賀ハヤ子 石塚弥太郎 八木橋榮吉 平出喜三郎 折原浅吉 遠藤辰次郎 安井重三 金澤彦作 上田大法 新庄幸次郎 入交好雄 北守政直 三坂亥吉 木村鹿造 渋谷金次郎 横山軫 橋谷甚右エ門 吉田善次郎 尾崎榮三郎 宮坂清造 速見辨輔 吉田辰己 大條敬吉 田中浩 飯田信三 中畑重次郎 發起人 望月日謙 世話人 宮坂清造","柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した。 明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。 明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。函館市
","MONUMENT OF YANAGAWA KUMAKICHI Yanagawa Kumakichi came to Hakodate from Edo in 1856 to run an employment agency and helped to supply laborers to build Goryokaku. At the close of the Hakodate Battle in 1869,the bodies of the warriors of the Tokugawa Shogunate were left where they lay.The Imperial Forces ordered that the rebels should not be buried nor should any religious services be held for them.Kumakichi feeling righteous anger about this order,buried the dead in Jitsugyoii temple with the help of one of its priests.His actions were absolved through the good offices of Tajima Keizo,who was moved by Kunakichi's courage. In 1871 he bought a piece of land halfway up Mt.Hakodate and reburied them.In 1875 he built the monument entitled Hekketsu-hi in memory of the exiles of the Tokugava Shogunate.In 1913 in celebration of Yanagawa's 88th birthday,the people who respected his work built a monument in honor of his worthy action.CITY OF HAKODATE
",「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年),cc-by,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako10.jpg,hako10.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako10.jpg,776,hako10,,,柳川熊吉翁之寿碑,%e6%9f%b3%e5%b7%9d%e7%86%8a%e5%90%89%e7%bf%81%e3%81%ae%e7%a2%91,0 641,碧血碑,ヘッケツヒ,"",2015年11月17日,2021年7月9日,http://donan-museums.jp/archives/641,752,函館市,西部地区,函館市谷地頭町1(函館山中腹),明治,明治,"歴史,碑・像",41.7515678,140.7088318,"鳥羽伏見の戦いからはじまった戊辰戦争は、函館が最後の舞台となり、1869(明治2)年5月、五稜郭の開城でその幕を閉じた。この戦いによる官軍の戦死者は靖国神社をはじめ各地の招魂社(護国神社)へ手厚くまつられているが、旧幕府脱走軍の陣没者は賊軍の汚名を受けて弔う人もいなかった。 この碑は1875(明治8)年5月の7回忌に、箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助をはじめ、北関東から東北各地で戦死した旧幕府脱走軍約800人の霊を弔うために、東京の碧血会により建立されたもので、伊豆産の石を使って東京霊岸島で造られ、海路函館へ運ばれた。四角い石の祠の上に「碧血碑」と刻まれた碑が建てられている。題字は箱館戦争当時、陸軍奉行だった大鳥圭介の書といわれているが定かではない。 「碧血」とは「義に殉じて流した武士の血は3年経つと碧に変る」という中国の故事(荘子・外篇)による。さらに、台座裏側には建立の由来を記した次のような碑文(上記 碑文(台座裏)参照)が刻まれている。 明治辰己(しんし)実に此の事あり 石を山上に立て以てその志を表す 函館にも、函館碧血会ができ、柳川熊吉や旧会津藩の人々が中心になって、毎年慰霊祭を行っていた。昔は毎年定まった日に催されていなかったが、近年は毎年6月25日(千代ヶ岡の決戦の日で、千代ヶ岡陣屋の守将中島三郎助父子らが討死した旧暦の5月16日にあたる)には碑前祭が行われている。","碧血碑 这座碧血碑是用来祭奠箱馆战争中战死的土方岁三、中岛三郎助父子以及来自北关东到东北各地的旧幕府脱走军亡灵。据说碑石是在7周年忌辰之际的明治8年(1875年),得到大鸟圭介与榎本武扬等人的赞助,从东京船运而来,碑石上的题字是由战争当时陆军奉行大鸟圭介所书。 另外,碧血是从“为正义而死之士的鲜血,三年后化为碧”的中国典故而来。","碧血碑 這座碧血碑是用來祭奠箱館戰爭中戰死的土方歲三、中島三郎助父子以及來自北關東到東北各地的舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)亡靈。據說碑石是在7周年忌辰之際的明治8年(1875年),得到大鳥圭介與榎本武揚等人的讚助,從東京船運而來,碑石上的題字是由戰爭當時陸軍奉行大鳥圭介所書。 碑石底座後面鐫刻著表示建碑由來的16字,從其表達方式可以推斷出當時不便公然祭祀幕府脫走軍亡靈的實情。 另外,碧血是從“為正義而死之士的鮮血,三年後化為碧”的中國典故而來。",,,"อนุสาวรีย์เฮกเคตสึ อนุสาวรีย์เฮกเคตสึแห่งนี้ ได้อัญเชิญวิญญาณของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม รวมถึงฮิจิคาตะ โทชิโซ และ นาคาจิมะ ซาบุโรสุเกะและบุตร ที่เสียชีวิตในสงครามฮาโกดาเตะ ตั้งแต่ทางตอนเหนือของภูมิภาคคันโต แต่ละจังหวัดในภูมิภาคโทโฮคุ และฮาโคดาเตะ หินที่ทำอนุสาวรีย์ส่งทางเรือมาจากโตเกียวด้วยการสนับสนุนของโอโทริ เคสุเกะ และเอโนะโมโตะ ทาเคะอากิ ในปีเมจิที่ 8 (ค.ศ.1875) ตรงกับการครบรอบ 7 ปีแห่งการเสียชีวิต และตัวอักษรบนอนุสาวรีย์ กล่าวกันว่า เป็นลายมือของโอโทริ เคสุเกะที่เป็นทหารบกตอนสงคราม ด้านหลังของแท่นนั้นสลักตัวอักษรคันจิ 16 ตัว ซึ่งบ่งบอกถึงที่มาของอนุสาวรีย์ จากการแสดงออกนั้น แสดงให้เห็นว่ามีอุปสรรคในการอัญเชิญวิญญาณของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิมมาสิงสถิตย์ที่นี่ อนึ่ง เฮกเคตสึ หมายถึง ""เลือดของนักรบที่ไหลหลังด้วยความชอบธรรม จะกลายเป็นสีน้ำเงินเขียวเมื่อผ่านไป 3 ปี"" นำมาจากเหตุการณ์จริงในประวัติศาสตร์ของประเทศจีน","日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町1−2","(表) 碧血碑
(台座裏) 明治辰己実有此事 立石山上以表厥志 明治八年五月","箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本式場らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。函館市
","HEKKETSU-HI MONUMENT This monument was raised to the souls of Hijjkata Toshizo,Nakajima Saburosuke and his sons who were killed in the Hakodate Battle,and the other fallen Tokugawa Shogunate Warriors who died somewhere between the Northern Kanto district and the Tohoku region during the war.On the 7th anniversary of their death in 1875,with the support of Otori Keisuke and Enomoto Takeaki,this stone was brought from Tokyo by ship. The epigraph on the stone is ascribed to Otori Keisuke,who served as Army Bugyo during the war. Inscribed on the back of the pedestal is a 16-letter classical Chinese poem,which explains the purpose of the monument.Its expression suggests that the people in those days couldn't offer prayers for the souls of the fallen Tokugawa Shogunate Warriors openly. The name of this monument ""Hekketsu"" derives from an old Chinese saying,""The blood of warriors who die for their lord turns blue after three years.""CITY OF HAKODATE
","「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年) 、「函館市史資料集」第26集・第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「函館の史蹟と名勝」、「北海道の歌碑総覧」
",cc-by,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/006.jpg,006.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/006.jpg,752,006,,,,%e7%a2%a7%e8%a1%80%e7%a2%91,0 643,函館八幡宮,ハコダテハチマングウ,,2015年11月17日,2021年6月5日,http://donan-museums.jp/archives/643,,函館市,西部地区,函館市谷地頭町2,大正,中世||近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7540779,140.7115936,"函館八幡宮 「社伝」によれば、文安2年(1445年)、河野政通公が蝦夷地に渡来し、現在の元町公園辺りに館を築いた時、その東南のすみに八幡神を鎮祭したのが始まりといわれる。この八幡神は永正9年(1512年)、アイヌの蜂起により赤川村(現市内赤川町)に移ったが、慶安年間(1648年~1651年)に再びもとの地に移された。寛政11年(1799年)幕府の東蝦夷地直轄にあたり、蝦夷地奉行(後に箱館奉行と改める)が置かれることになり、八幡宮がある河野館跡地を奉行所用地としたため、文化元年(1804年)会所町(現八幡坂の上)に移された。 その後、明治11年(1878年)の大火で社殿を焼失し、翌12年にも仮殿を焼失したため、同13年(1880年)この地に移った。 大正4年(1915年)に完成した現在の社殿の形式は聖帝八棟造りで、藤原時代に発達した日吉造りと権現造りの様式を併せた、大正式八幡造りの代表作と云われる優雅で壮麗な建物である。 函館市","函馆八幡宫 根据“社传”记载,文安2年(1455年),河野政通来到虾夷地,在现在元町公园附近建造公馆时,在东南角落镇祭八幡神为开端。这尊八幡神在永正9年(1512年)因为阿伊努族的暴动,转移到了赤川村(现市内赤川町),庆安年间(1648年-1651年)再次转移他处。寛政11年(1799年)伴随着幕府对东虾夷地的直接管辖,设立虾夷地奉行(之后改为箱馆奉行),有八幡宫河野馆旧址被选为奉行所用地,文化元年(1804年)迁至会所町(现八幡坂上)。 在之后的明治11年(1878年)的火灾中大殿被烧毁,第二年的12年临时大殿也被烧毁,同13年(1880年)迁至此地。 大正4年(1915年)完成的大殿采用的是圣帝八栋造形式,兼具了藤原时代盛行的日吉造和権现造样式,这栋优雅壮丽的建筑被誉为大正式八幡造的代表作。 函馆市","函館八幡宮 根據「社傳」記載,文安2年(1455年),河野政通來到蝦夷地,在現在元町公園附近建造公館時,在東南角落鎮祭八幡神為開端。這尊八幡神在永正9年(1512年)因為阿伊努族的暴動,轉移到了赤川村(現市内赤川町),慶安年間(1648年-1651年)再次轉移他處。寛政11年(1799年)伴隨著幕府對東蝦夷地的直接管轄,設立蝦夷地奉行(之後改為箱館奉行),有八幡宮河野館舊址被選為奉行所用地,文化元年(1804年)遷至会所町(現八幡坂上)。 在之後的明治11年(1878年)的火災中大殿被燒毀,第二年的12年臨時大殿也被燒毀,同13年(1880年)遷至此地。 大正4年(1915年)完成的大殿採用的是聖帝八棟造形式,兼具了藤原時代盛行的日吉造和権現造樣式,這棟優雅壯麗的建築被譽為大正式八幡造的代表作。 函館市 ",,,"ศาลเจ้าฮาจิมัง ฮาโกดาเตะ อ้างอิงจาก ""บันทึกของศาลเจ้า"" กล่าวกันว่าเริ่มขึ้นเมื่อปืบุงอันที่ 2 (ค.ศ.1445) ตอนที่โคโนะ มาซามิจิ ได้เดินทางมาที่ภูมิภาคเอโสะ และสร้างคฤหาสน์ขึ้นแถวๆ สวนสาธารณะโมโตะมาจิในปัจจุบัน และประดิษฐานเทพเจ้าฮาจิมังที่มุมด้านตะวันออกเฉียงใต้ ซึ่งเทพเจ้าฮาจิมังนี้ ได้ย้ายไปที่หมู่บ้านอะคะงาวะ (ตำบลอะคะงาวะในอำเภอฮาโกดาเตะในปัจจุบัน) โดยการลุกฮือของชาวไอนุ ในปีเอโชที่ 9 (ค.ศ.1512) แต่ในช่วงปีเคอัน (ค.ศ.1648 - ค.ศ.1651) ได้ถูกอัญเชิญกลับมาที่เดิมอีกครั้ง ในปีคันเซที่ 11 (ค.ศ.1799) เมื่อภูมิภาคเอโสะ ฝั่งตะวันออก ตกอยู่ใต้การปกครองของรัฐบาลบากุฟุ ที่ดินของคฤหาสน์โคโนะเดิม ที่มีศาลเจ้าฮาจิมังกู ถูกเตรียมให้เป็นที่สร้างบุเกียวของภูมิภาคเอโสะ (ต่อมาเปลี่ยนเป็น ฮาโกดาเตะบุเกียว) ในปีบุงคะที่ 1 (ค.ศ.1804) จึงถูกย้ายไปที่ตำบลไคโชะมาจิ (บนฮาจิมังซากะในปัจจุบัน) หลังจากนั้น ในปีเมจิที่ 11 (ค.ศ.1878) วิหารของศาลเจ้าถูกไฟไหม้ และปีเมจิ 12 ปีถัดมา วิหารชั่วคราวก็ถูกไฟไหม้อีก ปีเมจิที่ 13 (ค.ศ.1880) จึงย้ายมาที่นี่ รูปร่างของวิหารในปัจจุบันที่สร้างเสร็จในปีไทโชที่ 4 (ค.ศ.1915) เป็นการสร้างแบบโชเทฮาจิมุเนะ โดยผสมผสานระหว่างการสร้างแบบฮิเอะกับการสร้างแบบกงเก็นในสมัยฟุจิวาระ ว่ากันว่าเป็นผลงานที่เป็นตัวแทนของการสร้างแบบฮาจิมังสไตล์ยุคไทโช เพราะมีความสวยวิจิตรงดงามมาก เว็บไซต์ที่เกี่ยวข้อง","日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町2",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%85%ab%e5%b9%a1%e5%ae%ae,0 645,石川啄木一族の墓,イシカワタクボクイチゾクノハカ," ",2015年11月17日,2021年6月10日,http://donan-museums.jp/archives/645,1054,函館市,西部地区,函館市住吉町16(住吉墓地内),大正,明治,碑・像,41.7470856,140.7198486,"石川啄木一族の墓 明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40年(1907年)5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社 (文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年(1912年)4月病魔におかされ、27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913年)3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月、彼の後を追うかのようにこの世を去った。 大正15年(1926年)8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、現在は啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。 函館市","石川啄木一族之墓 享誉明治诗歌界的石川啄木与函馆有着颇深的渊源。石川啄木仅仅在明治40年(1907年)5月至9月居住了短短数月,但是在此期间受到了苜蓿社(文艺结社)同道中人士们热情温暖的支持,得以与分离已久的家人重聚,生活是明快温馨的。他非常喜爱函馆的风土人情,曾经说“死后葬于函馆”。明治45年(1912年)4月受到病魔侵蚀,享年27岁的他在东京逝世。大正2年(1913年)3月其遗骨遂未亡人节子的愿迁至函馆,而他的妻子也在同年5月追随啄木离世而去。 大正15年(1926年)8月藉其义弟歌人宫崎郁雨以及当时函馆图书馆长冈田健藏之手,建了现在的墓碑,现在石川啄木和他的妻子、三个孩子及双亲都听着津轻海峡的潮汐声在此永眠。 函馆市","石川啄木一族之墓 享譽明治詩歌界的石川啄木與函館有著頗深的淵源。石川啄木僅僅在明治40年(1907年)5月至9月居住了短短數月,但是在此期間受到了苜蓿社(文藝結社)同道中人士們熱情溫暖的支持,得以與分離已久的家人重聚,生活是明快溫馨的。他非常喜愛函館的風土人情,曾經說“死後葬於函館”。明治45年(1912年)4月受到病魔侵蝕,享年27歲的他在東京逝世。大正2年(1913年)3月其遺骨遂未亡人節子的願遷至函館,而他的妻子也在同年5月追隨啄木離世而去。 大正15年(1926年)8月藉其義弟歌人宮崎郁雨以及當時函館圖書館長岡田健藏之手,建了現在的墓碑,現在石川啄木和他的妻子、三個孩子及雙親都聽著津輕海峽的潮汐聲在此永眠。 函館市",,,"สุสานของครอบครัวอิชิคาวะ ทาคุโบะคุ ความสัมพันธ์ระหว่างฮาโกดาเตะและอิชิคาวะ ทาคุโบะคุ ผู้ที่ประดับวงการกวีนิพนธ์ของสมัยเมจินั้นลึกซึ้ง ทาคุโบะคุอาศัยอยู่ในฮาโกดาเตะตั้งแต่เดือนพฤษภาคมถึงกันยายน ปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) นับเป็นระยะเวลาสั้นๆ แต่ชีวิตของเขาในช่วงเวลานี้ มีความร่าเริง เพราะได้เรียกรวมครอบครัวที่กระจัดกระจายมาอยู่ด้วยกัน ในขณะที่ได้รับการสนับสนุนด้วยมิตรภาพอันอบอุ่นของเพื่อนร่วมอาชีพที่บริษัทโบคุชุคุชะ ทาคุโบะคุ รักคนและวัฒนธรรมของฮาโกดาเตะเป็นชีวิตจิตใจ ถึงขนาด ""เวลาตายขอตายที่ฮาโกดาเตะ..."" แต่ในเดือนเมษายนปีเมจิที่ 45 (ค.ศ.1912) เขาล้มป่วยและเสียชีวิตที่โตเกียวด้วยวัยเพียง 27 ปี เดือนมีนาคม ปีไทโชที่ 2 (ค.ศ.1913) กระดูกของทาคุโบะคุถูกย้ายไปที่ฮาโกดาเตะ ตามความต้องการของเซ็ตสึโกะผู้เป็นภรรยา และเธอเองก็จากโลกนี้ตามเขาไปในเดือนพฤษภาคม ปีเดียวกัน ในเดือนสิงหาคมปีไทโชที่ 15 (ค.ศ.1926) มีการตั้งหินหลุมศพ ณ สถานที่ปัจจุบันโดยน้องเขยซึ่งเป็นกวี ชื่อมิยาซากิ อิคุอุ และผู้อำนวยการหอสมุดฮาโกดาเตะในขณะนั้น ชื่อโอคาดะ เคนโซ ปัจจุบัน ทาคุโบะคุและภรรยา รวมทั้งลูกๆ อันเป็นที่รักทั้ง 3 คน และพ่อแม่ของเขา ฯลฯ นอนหลับฟังเสียงคลื่นกระทบฝั่งในช่องแคบทสึงารุอย่างมีความสุขตลอดไป","日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町16","(表) 啄木一族墓 啄木 東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる (裏) これは嘘いつはりもなく正直にいうのだ 「大丈夫だよしよしおれは死ぬ時は函館 へ行って死ぬ」その時斯う思ったよ何 処で死ぬかは元より解った事ではないが 僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいよう に思う君 僕はどうしても僕の思想が時代 より一歩進んでいるという自惚をこのご ろ捨てる事が出来ない 明治三十四年十二月二十一日 東京本郷弓町二の十八 石川啄木 郁雨兄","明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月後の後を追うかのようにこの世を去った。 大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。 函館市",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第26集・第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年)、「函館の史蹟と名勝」、「北海道の歌碑総覧」,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako017.jpg,hako017.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako017.jpg,1054,hako017,,,石川啄木一族の墓,%e7%9f%b3%e5%b7%9d%e5%95%84%e6%9c%a8%e4%b8%80%e6%97%8f%e3%81%ae%e5%a2%93,0 649,宮崎郁雨の歌碑,ミヤザキイクウノカヒ," ",2015年11月18日,2021年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/649,795,函館市,西部地区,函館市住吉町16(住吉墓地内宮崎家一族の墓隣),昭和,明治||大正||昭和,碑・像,41.7470169,140.7198792,"宮崎郁雨の歌碑 宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年(1906年)に文芸結社苜蓿社 ができると、その同人となった。翌40年(1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続け、明治42年(1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。 郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年(1962年)に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年(1968年)に函館図書裡会が建立した。","宫崎郁雨之歌碑 宫崎郁雨(本名:大四郎)明治18年(1885年)生于新泻县。之后举家来到函馆,其父亲从事味噌制造业。明治39年(1906年)文艺结社苜蓿社一成立,便加入成为其一员, 隔年40年(1907年)石川啄木来到函馆,宫崎郁雨在精神和物质两方面都一直给予石川啄木援助,并在明治42年(1909年)与石川啄木妻子的妹妹成婚。 宫崎郁雨继承家业衣钵的同时,也继续著诗歌创作,故于昭和37年(1962年) 。此诗歌收录于其故后刊载于《郁雨歌集》的《自问自答》中 ,歌碑是昭和43年(1968年)由函馆图书里会所建。","宮崎郁雨之歌碑 宮崎郁雨(本名:大四郎)明治18年(1885年)生於新瀉縣。之後舉家來到函館,其父親從事味噌製造業。明治39年(1906年)文藝結社苜蓿社一成立,便加入成為其一員, 隔年40年(1907年)石川啄木來到函館,宮崎郁雨在精神和物質兩方面都一直給予石川啄木援助,並在明治42年(1909年)與石川啄木妻子的妹妹成婚。 宮崎郁雨繼承傢業衣缽的同時,也繼續著詩歌創作,故於昭和37年(1962年) 。此詩歌收錄於其故後刊載於《郁雨歌集》的《自問自答》中 ,歌碑是昭和43年(1968年)由函館圖書裡會所建。",,,"อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนของมิยาซากิ อิคุอุ มิยาซากิ อิคุอุ (ชื่อจริงไดชิโร) เกิดที่จังหวัดนีกาตะในปีเมจิที่ 18 (ค.ศ.1885) หลังจากนั้นก็ย้ายมาฮาโกดาเตะทั้งครอบครัว พ่อของเขาทำธุรกิจการผลิตมิโสะ เมื่อบริษัทวรรณกรรม โบคุชุคุชะ ก่อตั้งขึ้นในปีเมจิที่ 39 (ค.ศ.1906) เขาก็เข้าไปทำงาน ที่นั่น ตั้งแต่ที่ทาคุโบะคุ มาที่ฮาโกดาเตะ ในปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) ก็ได้ให้ความช่วยเหลือทั้งทางด้านสิ่งของและด้านจิตใจมาโดยตลอด ปีเมจิที่ 42 (ค.ศ.1909) อิคุอุ ได้แต่งงานกับฟุคิโกะ ซึ่งเป็นน้องสาวของเซ็ตสึโกะ ผู้เป็นภรรยาของทาคุโบะคุ อิคุอุ รับช่วงต่อธุรกิจของครอบครัว แต่ก็ยังคงเขียนกลอนสั้นต่อเนื่องเรื่อยมา เขาเสียชีวิตในปีโชวะที่ 37 (ค.ศ.1962) กลอนบทนี้ถูกตีพิมพ์เป็น ""รวมกลอนของอิคุอุ"" หลังจากเขาเสียชีวิต เป็นสิ่งที่บันทึก ""คำถามที่ตอบด้วยตนเอง"" อนุสาวรีย์จารึกบทกลอน ตั้งขึ้นในปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) โดยชมรมหอสมุดฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町16","郁雨 蹣跚(まんさん)と 夜道をたどる 淋しさよ 酒はひとりし 飲むものならず","宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885)年に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。 郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に図書裡会が建立した。 函館市",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako015.jpg,hako015.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako015.jpg,795,hako015,,,宮崎郁雨の歌碑,%e5%ae%ae%e5%b4%8e%e9%83%81%e9%9b%a8%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 651,函館市民憲章碑(函館公園内),ハコダテシミンケンショウヒ(ハコダテコウエンナイ),"■碑文
(表)
函館市民憲章
わたくしたちは 北海道の文化の 発祥の地函館に住む市民です 山と海にかこまれた美しい自然を 誇り すぐれた市民性をはぐくんで きた函館を いっそう住みよい都市 に発展させるため わたくしたち市 民とまちの理想像をかかげ ここに 市民憲章を定めます 1 真心あふれる函館市民 あたたかいまち 1 健康で働く函館市民 にぎわうまち 1 文化を誇る函館市民 はぐくむまち 1 自然を生かす函館市民 きれいなまち 1 郷土を愛する函館市民 のびゆくまち (昭和52年5月3日制定)(裏)
「こどものくに」開園二十五周年記念 一九八一年四月 寄贈者 加藤進一
■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年11月18日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/651,1060,函館市,西部地区,函館市青柳町17(函館公園内中央広場),昭和,昭和,碑・像,41.7573280,140.7163086,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町16−16",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako019.jpg,hako019.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako019.jpg,1060,hako019,,,函館市民憲章碑(函館公園内),%e7%a0%82%e5%b1%b1%e5%bd%b1%e4%ba%8c%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 653,与謝野寛・晶子の歌碑,ヨサノヒロシ・アキコノカヒ," ",2015年11月18日,2021年6月12日,http://donan-museums.jp/archives/653,791,函館市,西部地区,函館市住吉町16,昭和,昭和,碑・像,41.7463264,140.7207184,"与謝野寛・晶子の歌碑 昭和31年(1956年)、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年(1957年)、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年(1931年)に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を立待岬に建立した。 晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。 また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。 函館市","与谢野宽・晶子之歌碑 昭和31年(1956年)举行市立函馆图书馆创立者兼馆长冈田健藏第十三次忌日之际,结成了以他的雅号命名的图书里会。第二年的32年(1957年)同会得到棒二森屋百货店的资助,包含彰显冈田健藏功绩的意图,在立待岬建了于昭和6年(1931年)来到函馆的与谢野宽・晶子之歌碑。 晶子短歌中的冈田先生指的就是健藏。 出现了健藏的好友宫崎郁雨名字的短歌,也被选入了与谢野宽的作品之中。 函馆市","與謝野寬・晶子之歌碑 昭和31年(1956年)舉行市立函館圖書館創立者兼館長岡田健藏第十三次忌日之際,結成了以他的雅號命名的圖書裡會。第二年的32年(1957年)同會得到棒二森屋百貨店的資助,包含彰顯岡田健藏功績的意圖,在立待岬建了於昭和6年(1931年)來到函館的與謝野寬・晶子之歌碑。 晶子短歌中的岡田先生指的就是健藏。 出現了健藏的好友宮崎郁雨名字的短歌,也被選入了與謝野寬的作品之中。 函館市",,,"อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนของโยซาโนะ ฮิโรชิ และ อากิโกะ ในปีโชวะที่ 31 (ค.ศ.1956) มีการจัดงานครบรอบ 13 ปีของการเสียชีวิตของผู้ก่อตั้งและผู้อำนวยการหอสมุดเมืองฮาโกดาเตะ โอกาดะ เคนโซ ในตอนนั้นมีการรวมกันตั้งชมรมหอสมุดตามนามปากกาของเขา ปีโชวะที่ 32 (ค.ศ.1957) เพื่อเป็นการยกย่องโอกาดะ เคนโซด้วย ชมรมได้สร้างอนุสาวรีย์จารึกบทกลอนของโยซาโนะ ฮิโรชิ และ อากิโกะ ที่มาที่ฮาโกดาเตะเมื่อปีโชวะที่ 6 (ค.ศ.1931) ขึ้นที่แหลมทาชิมาชิ โดยได้รับการสนับสนุนจากห้างสรรพสินค้าโบนิโมริยะ อาจารย์โอกาดะในกลอนสั้นของอากิโกะ ก็คือเคนโซ นอกจากนี้ กลอนสั้นที่ปรากฏชื่อของมิยาซากิ อิคุอุ ผู้ซึ่งเป็นเพื่อนสนิทของเคนโซ ถูกเลือกมาในฐานะที่เป็นผลงานของฮิโรชิ","日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町15−23","(左) 浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立 待岬の岩かげの土 寛 啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ はこだてのこと 晶子
(右) 此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子 夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊し た時の詠草の中から選んだもので、歌 の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木 石川一、図書裡岡田健蔵である。 昭和三十二年八月十五日建立 計画 図書裡会 賛助 棒二森屋","昭和31(1956)年、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を建立した。 晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。 また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。 函館市",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako014.jpg,hako014.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako014.jpg,791,hako014,,,,%e4%b8%8e%e8%ac%9d%e9%87%8e%e5%af%9b%e3%83%bb%e6%99%b6%e5%ad%90%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 655,高橋掬太郎歌碑,タカハシキクタロウカヒ," ",2015年11月21日,2021年6月12日,http://donan-museums.jp/archives/655,2445,函館市,西部地区,北海道函館市宝来町7(グリーンベルト内),昭和,大正||昭和,"碑・像,美術・芸能",41.7613602,140.7195129,"高橋掬太郎歌碑 高橋掬太郎は、大正11年(1922年)年函館日日新聞社に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら、詩や小説、脚本などを手がけていた。 昭和6年(1931年)「酒は涙か溜息か…」の歌詞をコロムビアレコードに投稿して採用され、古賀政男が作曲、藤山一郎が歌って大ヒットした。昭和8年(1933年)、コロムビアレコード専属作詞家となり、のちにキングレコードに移り、昭和45年(1970年)4月、69歳で他界するまでに約3千の作詩をしている。 作品には「啼くな小鳩よ」「並木の雨」「ここに幸あり」「高原の宿」「雨に咲く花」など数々の名作がある。 この碑は、函館で生まれた「酒は涙か溜息か...」を永く記念するため、昭和36年(1961年)有志により同じ宝来町内にあった温泉敷地内に建てられたが、平成10年(1998年)4月に現在の場所に移設されたもので、碑文は掬太郎の真筆である。 函館市","高桥掬太郎歌碑 高桥掬太郎在大正11年(1922年)年入职函馆日日报社,任职社会部长兼学艺部长的同时,也进行诗歌小说和脚本的创作。 昭和6年(1931年)《酒は涙か霤息か…》的歌词被哥伦比亚唱片录用,古贺政男作曲、籐山一郎演唱风靡一时。昭和8年(1933年)成为哥伦比亚唱片的专属作词家,之后改签约国王唱片,昭和45年(1970年)4月,至其享年69岁离世,一共创作了大约3千首歌词。 作品有《啼くな小鸠よ》,《并木の雨》《ここに幸あり》《高原の宿》「雨に咲く花」等众多名作。 这座碑是为了永久纪念诞生在函馆的《酒は涙か溜息か…》这首歌,昭和36年(1961年)由有志之士建于宝来町温泉院内,后来移到现地,碑文是掬太郎的真迹。 函馆市","高橋掬太郎歌碑 高橋掬太郎在大正11年(1922年)年入職函館日日報社,任職社會部長兼學藝部長的同時,也進行詩歌小說和腳本的創作。 昭和6年(1931年)「酒は涙か霤息か…」的歌詞被哥倫比亞唱片錄用,古賀政男作曲、籐山一郎演唱風靡一時。昭和8年(1933年)成為哥倫比亞唱片的專屬作詞傢,之後改簽約國王唱片,昭和45年(1970年)4月,至其享年69歲離世,一共創作了大約3千首歌詞。 作品有「啼くな小鳩よ」「並木の雨」「ここに倖あり」「高原の宿」「雨に咲く花」等眾多名作。 這座碑是為了永久紀念誕生在函館的「酒は涙か霤息か...」這首歌,昭和36年(1961年)由有志之士建於寶來町溫泉院內,後來移到現在地點,碑文是掬太郎的真跡。 函館市",,,"อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนของทาคาฮาชิ คิคุทาโร ทาคาฮาชิ คิคุทาโร เข้าทำงานในบริษัทหนังสือพิมพ์ฮาโกดาเตะ นิจินิจิชิมบุน ในปีไทโชที่ 11 (ค.ศ.1922) และทำงานเป็นหัวหน้าฝ่ายข่าวสังคมและศิลปะ และเขียนบทกวีนวนิยายและบทภาพยนตร์ไปด้วย ในปีโชวะที่ 6 (ค.ศ.1931) เขาส่งเนื้อเพลง ""ซาเกะวะ นามิดะคะ ทาเมะอิคิคะ..."" ไปที่โคลัมเบีย เรคคอร์ด และได้รับเลือก โคงะ มาซาโอแต่งทำนอง ฟูจิยามะ อิจิโรขับร้อง ได้รับความนิยมเป็นอย่างมาก ปีโชวะที่ 8 (ค.ศ.1933) เข้าเป็นนักแต่งเพลงสังกัดโคลัมเบีย เรคคอร์ด ซึ่งต่อมาย้ายไปคิง เรคคอร์ด และแต่งบทกวีประมาณ 3,000 บท ก่อนที่จะเสียชีวิตเมื่ออายุ 69 ปี ในเดือนเมษายน ปีโชวะที่ 45 (ค.ศ.1970) เขามีผลงานเพลงชิ้นเอกมากมาย เช่น ""นะคุนะ โคะบาโตะโยะ"", ""นามิคิ โนะ อาเมะ"", ""โคะโคะนิ ซาชิ อาริ"", ""โคเง็น โนะ ยาโดะ"", ""อาเมะ นิ ซาคุฮานะ"" ฯลฯ อนุสาวรีย์แห่งนี้ ถูกสร้างขึ้นในเขตน้ำพุร้อนในตำบลโฮไร โดยอาสาสมัครในปีโชวะที่ 36 (ค.ศ.1961) เพื่อรำลึกถึงเพลง ""ซาเกะวะ นามิดะคะ ทาเมะอิคิคะ..."" ที่ถือกำเนิดที่ฮาโกดาเตะ แต่เมื่อเดือนเมษายน ปีเฮเซที่ 10 (ค.ศ.1998) ก็ถูกย้ายมาที่ที่ตั้งปัจจุบันเนื้อความที่จารึก เป็นลายมือจริงของคิคุทาโร","日本, 〒040-0043 北海道函館市宝来町7","(表) 掬太郎 酒は涙か 溜息か 心のうさの 捨てどころ","高橋掬太郎は、大正11(1922)年函館日日新聞社に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら、詩や小説、脚本などを手がけていた。 昭和6年「酒は涙か溜息か…」の歌詞をコロムビアレコードに投稿して採用され、古賀政男が作曲、藤山一郎が歌って大ヒットした。昭和8年、コロムビアレコード専属作詞家となり、のちにキングレコードに移り、昭和45年4月、69歳で他界するまでに約3千の作詩をしている。 作品には「啼くな小鳩よ」「並木の雨」「ここに幸あり」「高原の宿」「雨に咲く花」など数々の名作がある。 この碑は、函館で生まれた「酒は涙か溜息か…」を永く記念するため、昭和36年有志により同町内にあった温泉敷地内に建てられたが、平成10年4月に現在の場所に移設されたもので、碑文は掬太郎の真筆である。 函館市 ■追加解説 高橋掬太郎が函館日日新聞として務めていた頃の銀座通り界隅は函館の歓楽街の中心であった。旧蓬莱町には東見番、町見番、中央見番の三見番が、その四囲には料亭が軒を並べ、銀座通りはバーやカフェーが密集地しており、夜の帷がおりると、ネオンの色が美しく夜空を染めていた。 数年後、函館日日新聞社を退社して上京、作詞者として生活することになった。掬太郎の「酒は涙か」の歌詞は、幸い当時の新進作曲家古賀政男の認められ、その曲を得て世に発表されると、レコードは目覚しい売上げを記録して一世を風靡した。 このデビュー曲を契機にして作詞に専念した結果、推しも推されもせぬ一流の作詞家となって活躍したが、「酒か涙か」のヒントは新聞記者時代に函館の銀座界遇のネオン街で得たもの、と伝えられている。 1934年(昭和9年)3月、函館に未曾有の大火があり、蓬莱町も銀座通りも一望の焼野原となってしまった。災害後復旧はしたものの街の様相は全く一変してしまった。大火の影響で歓楽街は、東の松風町に移っていった。 1961年(昭和36年)9月21日の除幕式には、掬太郎本人を招いて除幕式が挙行された。",,「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会),,okuno.s,"(裏碑文) 高橋掬太郎先生■昭和のはじめ函館■銀座新聞記者たり当時の人心を歌ひて酒は涙かの名作の これを出世作として後先生が歌界の第一人者たるは■く人之知るところ今■かの■■町の人に 詩碑を建て永くこれを記念する 昭和三十六年■■ 函館市長吉谷一次 発起人 函館商工会 ■ 加藤昇 函館市公民■ 高木實 函館■ 萩原政勝 函館■ 中村清右衛明 ■ 金子寅一 ■ 小松常治 協賛 函館市役所 渡邊邦雄 函館商工会議所 木立晴雄 函館文化会 ■吉岡君子 (株)レンカ堂 函館映画協会 杉浦司郎 及川哲夫 ■ヤマコ楽器店 函館蓬莱温泉(株) ■(マルイ)今井函館支店 萩原武 中瀬弥太郎 ■(ヤマキ)小林銅鉄店 十次隊商盛会 (株)大北商会 川口恭正 萩原精治 ■池田佑吉 ■小■義次郎 丸山久一 森川基明 ■(ボーニ)森屋 西野吉一 ■彩華 鈴木石太郎 外崎泰善 函館観光協会 昭和三十六年九月 建立 ■■ 一、 酒は泪か ためいきか こころのうさの 捨てどころ 二、 とおいえにしの かの人に 夜毎の夢の 切なさよ 三、 酒は泪か ためいきか かなしい恋の 捨てどころ 四、 忘れた筈の かの人に のこる心を なんとしょう (古賀政男著 ギター独習書から) 高橋掬太郎は函館日日新聞の三面記者であった。函館に来て初めて若松町にあった白尾宏経営の函館日日新聞社に入社したが其後経営者が太刀川善吉に移り、鉄筋コンクリートの新社屋を銀座に建てて市街の中央に進出した。当時の銀座(旧高田屋通り)界隅は函館に於ける歓楽街の中心地で東見番、町見番、中央見番の三見番が蓬莱町にあり、その四囲には料亭が軒を並べ、又銀座通りはバーやカフェーの密集地で夜の帷が下るとネオンの色が美しく夜空を染めていた。掬太郎は附近に居を求めて銀座通りにあった函館日日新聞社に勤務し、編集局長林濁川の下で軟派記者として大いに活躍されてた。その後、妻を娶って一家を営み、数年程経て社を退き上京して作詞者として生活することになった。彼の作った「酒は泪か」の歌詞は幸い当時の新進作曲家古賀政男の認めるところとなり、その作曲を得て世に発表されると、甘いメロデーが歌詞に溶け合って美しい「夢ニ画集」の絵のようなムードが醸し出され、幾分頽廃的な香りはするにしてもその情緒が若い男女の胸を打ち、たちまちこの歌謡曲が一世を風靡することになって、レコードの売上げも目覚しい程であった。こうして彼はこのデビュー曲を契機にしてそれから作詞に専念した結果、今では推しも推されもせぬ一流の歌謡曲の作詞者となって活躍されているが、この「酒か泪か」のヒントは新聞記者時代函館の銀座界遇のネオン街で得られ、作詞されたものだと伝えられている。 昭和九年三月函館に未曾有の大火があり、蓬莱町も銀座通りも一望の焼野原となってしまった。災害後復旧はしたものの街の様相は全く一変してしまった。今では盛り場が東に移って松風町が中心となり、銀座付近は昔の殷脈を取戻す術もない有様である。たまたま昭和三十六年蓬莱町の海岸寄り手に蓬莱温泉が堀繋され、同名の会館建設された。それで過ぎ去った蓬莱町を忍ぶよすがにもと掬太郎の名作「酒は泪か」の詩碑を建てよと計画が進められ、彼の筆になるその詩の第一節を自然石に刻み、彼を招いて蓬莱温泉会館前のロータリーで除幕式が挙行されたのはその年の九月二十一日であった。今この碑は函館蓬莱温泉株式会社に属しているという。(「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会))",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako130.jpg,hako130.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako130.jpg,2445,hako130,,,,%e9%ab%98%e6%a9%8b%e6%8e%ac%e5%a4%aa%e9%83%8e%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 657,高田屋嘉兵衛銅像,タカダヤカヘイドウゾウ," ",2015年11月21日,2021年7月1日,http://donan-museums.jp/archives/657,1073,函館市,西部地区,函館市宝来町7(グリーンベルト内),昭和,近世,"歴史,碑・像",41.7611427,140.7188110,"高田屋嘉兵衛銅像 この銅像は、高田屋嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33年(1958年)に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。 嘉兵衛は明和6年(1769年)に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元年(1818年)に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、今日の函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。 さらに、日露国家間に起こった「ゴロヴニン事件」を民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が、日本に捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。 函館市","高田屋嘉兵卫铜像 本铜像是为了歌颂高田屋嘉兵卫的功绩,以及纪念函馆港开放港口100周年,于昭和33年(1958年)修建的。制作者是函馆出身的彫刻家梁川刚一。 嘉兵卫明和6年(1769年)出生于淡路岛,28岁时来到函馆。他功勋卓著,直到文政元年(1818年)回归故乡之前,一直将函馆作为基地,经营造船、海运和渔业,先后开发了国后岛的航线和渔场,为今天函馆的发展奠定了基础。 另外,他还因为以一位民间人士的立场引导顺利解决日俄间发生的“戈洛文(golovnik)事件”而名声远播。这座铜像是文化10年(1813年),俄罗斯军舰狄安娜号来迎接被捕于日本的戈洛文(golovnik)船长进入函馆港口时,嘉兵卫在场当时的形象。右手拿的是松前奉行的谕书,左手拿的是去往舰艇内著正装而换下来的衣服。身穿仙台绫的和服裙裤、白袜、麻底草鞋并带着珮刀。 函馆市","(台座表)
高田屋嘉兵衛像
(台座裏)高田屋嘉兵衛(明和六年~文政十年一七六九~一八二七)は淡路の人二十八歳の時 渡来し五十歳の時帰国するまで箱館を基地としエトロフ島を開発経営して北洋漁業を営み奉行所松前移転後も本店を大町に 屋敷を蓬来町に構えて大船十余・蔵四十余をもち大いに箱館の繁栄を築いた。又ゴローイン拘因のとき沈着剛胆よく、日露の間を奔走してその釈放につとめ、永く露国に感謝せられた。今年箱館開港百年に当り、本市出身の梁川剛一氏に嘱しこの銅像を建立して、永くその功績を記念する。 昭和三十三年七月十五日 函館市長 吉谷一次
","この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。 嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。 さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。 函館市 ■追加解説1958年(昭和33年)7月10日、函館市によって建立された。 昭和3年(1928年)に、梁川が東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)を卒業して、函館に戻ってきた頃、近江政太郎が、当時の教育長斉藤與一郎、図書館長の岡田健蔵と銅像建設の相談をして梁川剛一に模型の制作を依頼したことがあった。この時は日魯漁業会社で宇田事件(昭和4年、島徳蔵・宇田貫一郎らによる日魯漁業株式会社の露領漁区高値落札、会社の乗っ取り事件。日魯株が暴落し政財界を揺るがした)が起こり経費を負担できなくなったので、銅像の建立は実現しなかったが、模型は市立図書館へ引き継がれ、現在は市立函館博物館で保存されている。 この像は、昭和31年、嘉兵衛の130年忌を機に銅像建立の機運が盛り上がり、再び梁川剛一に制作を依頼して建立されたもので、各方面からの絶大な協力と近江政太郎氏等の協力があった。 市内にはほかに高田屋屋敷跡や、大町の高田屋本店跡標柱があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や高田屋嘉兵衛顕彰碑がある。
",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第37集(函館市史編纂委員会)、市立函館博物館館報「SARANIP」No.36(市立函館博物館 1997),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako022_2.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako022_1.jpg,hako022_2.jpg||hako022_1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako022_2.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako022_1.jpg,1073||1072,hako022_2||hako022_1,,,||高田屋嘉兵衛銅像,%e9%ab%98%e7%94%b0%e5%b1%8b%e5%98%89%e5%85%b5%e8%a1%9b%e9%8a%85%e5%83%8f,0 659,高田屋屋敷跡,タカダヤヤシキアト," ",2015年11月21日,2021年6月9日,http://donan-museums.jp/archives/659,1076,函館市,西部地区,函館市宝来町24(グリーンベルト内),昭和,近世,"歴史,碑・像",41.7619286,140.7209167,"高田屋屋敷跡 今日の函館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。 明和6年(1769年)兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元年 (1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。 嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。 高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを継いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。 市内にはほかに、宝来町の高田屋嘉兵衛の銅像や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。 函館市","高田屋屋敷跡 函馆有今天的发展,要说是高田屋嘉兵卫为之奠定了基础也不为过。 明和6年(1769年)出生于兵库县淡路岛的嘉兵卫于寛政8年(1796年)28岁之时来到函馆,直至文政元年 (1818年)回归故里之前,一直以函馆为中心经营船运业以及渔场成为一代豪商。 嘉兵卫不仅开拓了国后以及择捉两岛的渔场,作为北洋渔业的先驱名留史册,而且在公共事业以及慈善事业中也功绩卓著。 高田屋的全盛时期是寛政13年(1801年),继嘉兵卫之后的金兵卫(嘉兵卫之弟)在幕府的许可下,曾经在此租借了5万坪土地,并在其一角建设豪宅。宅邸占地面积大约2町(四周边长各约220米),院内造山砌池,还曾摆放过贵重的观赏石。 市区内在宝来町还有高田屋嘉兵卫的铜像,以及大町的高田屋本店遗迹(标识柱),和船见町称名寺中的高田屋一族之墓以及嘉兵卫彰显碑。 函馆市","高田屋宅邸遺跡 函館有今天的發展,要說是高田屋嘉兵衛為之奠定了基礎也不為過。 明和6年(1769年)出生於兵庫縣淡路島的嘉兵衛於寛政8年(1796年)28歲之時來到函館,直至文政元年 (1818年)回歸故里之前,一直以函館為中心經營船運業以及漁場成為一代豪商。 嘉兵衛不僅開拓了國後以及擇捉兩島的漁場,作為北洋漁業的先驅名留史冊,而且在公共事業以及慈善事業中也功績卓著。 高田屋的全盛時期是寛政13年(1801年),繼嘉兵衛之後的金兵衛(嘉兵衛之弟)在幕府的許可下,曾經在此租借了5万坪土地,並在其一角建設豪宅。宅邸占地面積大約2町(四週邊長各約220公尺),院內造山砌池,還曾擺放過貴重的觀賞石。 市區內在寶來町還有高田屋嘉兵衛的銅像,以及大町的高田屋本店遺跡(標識柱),和船見町稱名寺中的高田屋一族之墓以及嘉兵衛彰顯碑。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นคฤหาสน์ของทาคาดะยะ รากฐานของการพัฒนาของฮาโกดาเตะในวันนี้นั้น ถูกวางโดยทาคาดะยะ คะเฮ ก็คงจะไม่ถือว่าเป็นการกล่าวเกินความจริง คะเฮ เกิดที่เกาะอะวาจิ จังหวัดเฮียวโกะ ในปีเมวะที่ 6 (ค.ศ.1769) เขาย้ายไปอยู่ฮาโกดาเตะเมื่อตอนอายุ 28 ปี ในปีคันเซที่ 8 (ค.ศ.1796) และตั้งแต่นั้นมาเขาอาศัยอยู่ในฮาโกดาเตะ จนกระทั่งกลับไปที่บ้านเกิดของเขาในบุนเซที่ 1 (ค.ศ.1818) ในระหว่างนั้น เขาทำเงินจำนวนมากจากธุรกิจการขนส่งและการจัดการพื้นที่ประมง คะเฮ เป็นผู้บุกเบิกพื้นที่ประมงทั้งที่เกาะคุนะชิริ และเกาะเอโทโรฟุ และไม่เพียงแต่สร้างชื่อให้ตัวเองในฐานะผู้บุกเบิกการประมงในทะเลทางเหนือ แต่ยังประสบความสำเร็จอย่างมากในงานสาธารณะและโครงการการกุศล ช่วงที่รุ่งเรืองที่สุดของทาคาดะยะคือ ปีคันเซที่ 13 (ค.ศ.1801) คิมเบ (น้องชายของคะเฮ) เข้ามารับช่วงธุรกิจต่อจากคะเฮ ได้รับอนุญาตจากรัฐบาลบากุฟุ เช่าที่ 50,000 ทสึโบะ (1ทสึโบะ ประมาณ 3.3 ตารางเมตร) และสร้างคฤหาสน์ที่มุมหนี่งในที่ผืนนั้น พื้นที่บ้านมีขนาดถึง 220m×220m=ประมาณ 48,400 ตารางเมตร ภายในสร้างภูเขา สระน้ำ และวางหินราคาแพงไว้ด้วย ในเมืองฮาโกดาเตะ นอกจากนี้ยังมีรูปปั้นทองสัมฤทธิ์ของทาคาดะยะ คะเฮ ที่ตำบลโฮไร และที่ที่เคยเป็นสำนักงานใหญ่ของทาคาดะยะที่โอมาจิ (หลักที่ปักไว้เพื่อเป็นจุดสังเกต) ที่วัดโชเมียวจิที่ตำบลฟุนะมิโจ มีสุสานของตระกูลทาคาดะยะ และอนุสาวรีย์ทาคาดายะ คะเฮ","日本, 〒040-0043 北海道函館市宝来町 高田屋通","石柱 (表)
高田屋屋敷跡
(裏)昭和三十一年八月 高田屋嘉兵衛百三十年祭記念 函館市
石碑 (表)高田屋嘉兵衛(一七六九~一八一七)淡路国都 志本村の人 若くして函館に渡り千島 エトロフの漁場開発日露事件の和平 解決等、各方面に活躍して自ら豪冨を なすと共に土地を繁栄せしめた。一族 の墓は称名寺にある
(裏)昭和三十一年八月
","箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。 明和6年(1769年)兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元年(1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。 嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。 高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。 市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。 函館市■追加解説
高田屋邸宅内には、米倉数棟を建てて蝦夷地の凶作に備え、長屋を建て雇傭者を住まわせ、屋敷には池や築山、庭木、奇石、石灯籠などを配し、泉水に橋を架けた中の島には大きな亀石(形が亀に似ている巨石)が据えられていた。 文政6年(1823年)・天保元年(1830年)には、松前藩主を迎えて歓待するなど、「高田屋御殿」と呼ばれていたという。 嘉兵衛が、日本に幽閉されていたロシア人ゴロウニンの釈放に尽力したことは広く知られているが、ロシアはこれに報いるため、高田屋の船舶からは強奪などをせずに海上で遭遇した場合、それぞれ小旗を掲げて応じるという旗合せの密約が結ばれていた。天保2年(1831年)、高田屋の船舶からロシア船が食料を強奪する事件が発生したときに、この旗合せの密約が発覚、密貿易の嫌疑をかけられた。財政の窮迫によって、有力商人に御用金調達を命じては、取りつぶすという松前藩の動きもあったようで、結局これが発端となって、高田屋は没落することとなった。 この石柱は花崗岩、鈴木石太郎から寄贈されたもので、石碑は台座・碑石とも函館山の安山岩である。いずれも昭和31年(1956年)の高田屋嘉兵衛130年祭を記念して建立された。 市内にはほかに高田屋嘉兵衛銅像や、大町の高田屋本店跡標柱があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や高田屋嘉兵衛顕彰碑がある。",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第26集・第27集(函館市史編纂委員会)、『函館市史』通説編第1巻(函館市 1980年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako023.jpg,hako023.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako023.jpg,1076,hako023,,,高田屋屋敷跡,%e9%ab%98%e7%94%b0%e5%b1%8b%e5%b1%8b%e6%95%b7%e8%b7%a1,0 661,旧函館郵便局舎,キュウハコダテユウビンキョクシャ,,2015年11月21日,2021年6月9日,http://donan-museums.jp/archives/661,,函館市,西部地区,函館市豊川町12,明治,明治||大正||昭和,未分類,41.7663498,140.7187653,"旧函館郵便局舎 北海道に郵便制度が発足したのは、明治5年(1872年)であり、北海道で最初の函館郵便役所が現大町の海関所(出入りの船舶、旅人、積荷の検査などを行った役所)内に開設された。 その後、大町に庁舎が建設され、同8年(1875年)函館郵便局と改称後、幾度か移転し、この建物は明治44年(1911年)に完成したもので、約50年にわたりこの庁舎で業務が行われた。 昭和37年(1962年)には民間に払い下げられたが、明治の洋風建築として函館に残る代表的な建物の一つとなっている。 函館市","旧函馆邮局 北海道的邮局制度开始于明治5年(1872年),第一家邮局""函馆邮便役所""就开设于现在位于大町的海关内(检查出入港口船只、游客、货物的政府机关)。 之后在大町建立厅舍,并于明治8年(1875年)更名为""函馆邮便局"",之后几次迁址,现此建筑完工于明治44年(1911年),在此持续办理了50年之久的邮局业务。 昭和37年(1962年)转让给民间,是函馆存留的非常具有代表性的明治时期洋风建筑之一。 函馆市","舊函館郵局 北海道的郵局制度開始於明治5年(1872年),第一家郵局""函館郵便役所""就開設於現在位於大町的海關內(檢查出入港口船隻、遊客、貨物的政府機關)。 之後在大町建立廳舍,並於明治8年(1875年)更名為""函館郵便局"",之後幾次遷址,現此建築完工於明治44年(1911年),在此持續辦理了50年之久的郵局業務。 昭和37年(1962年)轉讓給民間,是函館存留的非常具有代表性的明治時期洋風建築之一。 函館市",,,"อาคารที่ทำการไปรษณีย์ฮาโกดาเตะเก่า ระบบไปรษณีย์ก่อตั้งขึ้นในฮอกไกโดในปีเมจิที่ 5 (ค.ศ.1872) และที่ทำการไปรษณีย์ฮาโกดาเตะแห่งแรกในฮอกไกโด ถูกเปิดขึ้นในด่านศุลกากรทางทะเลที่โอมาจิในปัจจุบัน (สถานที่ตรวจสอบ เรือ นักท่องเที่ยว พัสดที่เข้าและออกท่าเรือ ฯลฯ ) หลังจากนั้น อาคารรัฐบาลถูกสร้างขึ้นที่โอมาจิ หลังจากเปลี่ยนชื่อเป็นที่ทำการไปรษณีย์ฮาโกดาเตะในปีเมจิที่ 8 (ค.ศ.1875) อาคารได้ถูกย้ายไปหลายครั้ง อาคารหลังนี้สร้างเสร็จในปีเมจิที่ 44 (ค.ศ.1911) ใช้อาคารหลังนี้ทำงานเป็นระยะเวลาประมาณ 50 ปี แม้ว่าอาคารหลังนี้ จะถูกถ่ายโอนให้กับภาคเอกชนในปีโชวะที่ 37 (ค.ศ.1962) แต่ก็เป็นหนึ่งในอาคารที่เป็นตัวแทนของสถาปัตยกรรมสไตล์ตะวันตกของสมัยเมจิที่หลงเหลืออยู่ในฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0065 北海道函館市豊川町12",,"北海道に郵便制度が発足したのは、明治5年(1872年)であり、北海道で最初の函館郵便役所が現大町の海関所(出入りの船舶、旅人、積荷の検査などを行った役所)内に開設されました。 その後、大町に庁舎が建設され、同8年(1875年)函館郵便局と改称後、幾度か移転し、現代の建物は明治44年(1911年)に完成したもので、約50年にわたりこの庁舎で業務が行われました。 昭和37年(1962年)には民間に払い下げられましたが、明治の洋風建築として函館に残る代表的な建物の一つです。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e5%87%bd%e9%a4%a8%e9%83%b5%e4%be%bf%e5%b1%80%e8%88%8e,0 663,豊川稲荷神社,トヨカワイナリジンジャ," ",2015年11月22日,2021年6月9日,http://donan-museums.jp/archives/663,,函館市,西部地区,函館市豊川町13,昭和,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7664185,140.7200623,"豊川稲荷神社 文久年間(1861年~1864年)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。 昭和9年(1934年)の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年(1940年)に建てられたもので、海に向いて建っていた当時とは向きが逆である。 古くから商売繁盛の神様として多くの人々から崇められ、魚市場や蓬莱町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などがそれを物語っている。 函館市","丰川稻荷神社 文久年间(1861年-1864年),有志之士为了祈愿此地之繁盛而建。当时此地被称为新筑岛,神社建成后改为了丰川町。 昭和9年(1934年)神社第四次遭受火灾波及延烧,现今的神社重建于昭和15年(1940年),与最初面海而建的原神社朝向正好相反。 自古以来作为保佑生意繁荣的神明而香火繁盛,鱼市场及蓬来町(现在的宝来町)见番艺妓(艺妓管理办公室)一起捐奉的石灯笼似乎还在讲述著那些往事。 函馆市","豐川稻荷神社 文久年間(1861年-1864年),有志之士為了祈願此地之繁盛而建。當時此地被稱為新築島,神社建成後改為了豐川町。 昭和9年(1934年)神社第四次遭受火災波及延燒,現今的神社重建於昭和15年(1940年),與最初面海而建的原神社朝向正好相反。 自古以來作為保佑生意繁榮的神明而香火繁盛,魚市場及蓬來町(現在的寶來町)見番藝妓(藝妓管理辦公室)一起捐奉的石燈籠似乎還在講述著那些往事。 函館市",,,"ศาลเจ้าโทโยคาวะอินาริ ช่วงปีบุงคิว (ค.ศ.1861- ค.ศ.1864) เป็นศาลเจ้าที่มีอาสาสมัครสร้างขึ้นเพื่ออธิษฐานให้ละแวกนั้นเจริญรุ่งเรือง ในขณะนั้น ที่ในละแวกนั้น ถูกเรียกว่า ชินทสึคิชิมะ เมื่อศาลเจ้าสร้างเสร็จ จึงถูกเรียกว่าตำบลโทโยคาวะ จนกระทั่งไฟไหม้ครั้งใหญ่ในปีโชวะที่ 9 (ค.ศ.1934) ศาลเจ้าถูกไฟไหม้สี่ครั้ง ศาลเจ้าหลังปัจจุบัน สร้างขึ้นในสมัยโชวะที่ 15 (ค.ศ.1940) ซึ่งตรงข้ามศาลเจ้าในขณะนั้นที่หันหน้าไปทางทะเล ศาลเจ้าแห่งนี้ ได้รับการเคารพสักการะในฐานะที่เป็นเทพเจ้าแห่งความเจริญรุ่งเรืองในทางธุรกิจมาตั้งแต่สมัยโบราณ และโคมไฟหินที่ตลาดปลา, บรรดาบ้านเกอิชาของเมืองโฮไร (ตำบลโฮไรในปัจจุบัน) บริจาค คงเป็นเครื่องยืนยันได้อย่างดี","日本, 〒040-0065 北海道函館市豊川町13",,"文久年間(1861~1864)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。 昭和9年の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年に建てられたもので、当時とは向きが逆である。 古くから商売繁盛の神様として崇められ、魚市場や蓬莢町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などが信者層を語っている。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%b1%8a%e5%b7%9d%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 665,北海道写真発祥の地碑,ホッカイドウシャシンハッショウノチヒ," ",2015年11月22日,2021年6月9日,http://donan-museums.jp/archives/665,1220,函館市,西部地区,函館市豊川町16(グリーンベルト内),昭和,近世,碑・像,41.7652626,140.7213898,,"北海道写真发祥之地碑 此碑由社团法人日本写真文化协会北海道联合会建于昭和39年(1964年)。 碑文中记载道""从俄罗斯领事学到照片拍摄技术的木津孝吉(幸吉)于元治元年(1864年)为纪念写真场开业百年纪念而建"",但是木津的开业年分至今仍是个谜。 虽说如此,但开业于明治之前是毋庸置疑的,仅仅比文久2年(1862年)长崎的上野马和横滨的下岗莲杖晚了数年。 北海道写真发祥之地之所以会在函馆,是因为这里是开港之地,西欧新技术最早传入而致的必然结果。 除了木津幸吉之外,田本研造和横山松三郎也是函馆写真界初期的重要人物。 函馆市","北海道寫真發祥之地碑 此碑由社團法人日本寫真文化協會北海道聯合會建於昭和39年(1964年)。 碑文中記載道""從俄羅斯領事學到照片拍攝技術的木津孝吉(幸吉)於元治元年(1864年)為紀念寫真場開業百年紀念而建"",但是木津的開業年分至今仍是個謎。 雖說如此,但開業於明治之前是毋庸置疑的,僅僅比文久2年(1862年)長崎的上野馬和橫濱的下崗蓮杖晚了數年。 北海道寫真發祥之地之所以會在函館,是因為這裡是開港之地,西歐新技術最早傳入而致的必然結果。 除了木津幸吉之外,田本研造和橫山松三郎也是函館寫真界初期的重要人物。 函館市",,,"อนุสาวรีย์ถิ่นกำเนิดภาพถ่ายฮอกไกโด อนุสาวรีย์แห่งนี้สร้างขึ้นในปีโชวะที่ 39 (ค.ศ.1964) โดยสมาคมวัฒนธรรมภาพถ่ายแห่งญี่ปุ่น สหพันธ์ฮอกไกโด ตามคำจารึก ""สร้างขึ้นเพื่อเป็นที่ระลึกครบรอบ 100 ปี นับตั้งแต่คิซึ โคคิจิ (โค(幸)คิจิ(吉)) ที่ศึกษาการถ่ายภาพจากกงสุลรัสเซีย เปิดสตูดิโอถ่ายภาพ ในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864)"" แต่ไม่ปรากฏชัดเจนว่าคิซึเปิดกิจการในปีใด อย่างไรก็ตาม เขาเปิดกิจการก่อนสมัยเมจิอย่างแน่นอน และเปิดช้ากว่าเพียงไม่กี่ปีต่อจาก อุเอะโนะ ฮิโคะมะของนางาซากิ และ ชิโมะโอกะ เรนโจของโยโกฮามา ที่เปิดกิจการครั้งแรกในญี่ปุ่น ในปีบุงคิวที่ 2 (ค.ศ.1862) การที่ฮาโกดาเตะเป็นถิ่นกำเนิดของการถ่ายภาพของฮอกไกโด ก็เพราะที่นี่เป็นที่เปิดท่าเรือ และรับเข้าเทคโนโลยีใหม่ๆ ของตะวันตกได้เร็วกว่าที่อื่น อนึ่ง นอกจากคิซึ โคคิจิแล้ว ทะโมโตะ เคนโซ และ โยโกยามะ มัตสึซาบุโร ก็เป็นบุคคลที่มีบทบาทสำคัญในวงการภาพถ่ายของฮาโกดาเตะในชั่วแรกเช่นกัน ","日本, 〒040-0065 北海道函館市豊川町16 海峡通","(表)
北海道写真発祥之地
(裏)
木津幸吉翁は越後新発田の人 安政の末函館に来り仕立屋を業としたがロシヤ領事より写真の術を学び 元治元年(一八六四)その頃新地新町と呼んだ船見町九十番地に北海道最初の写真場を開いた 我が国最初の写真師上野彦馬の創業に遅れること僅か二年であった 今年は恰も百年に当るのでこの碑を建てこれを記念する 昭和三十九年六月一日 青木肇 社団法人 日本写真文化協会北海道連合会
","この碑は、昭和39(1964)年に、社団法人日本写真文化協会北海道連合会が建てたものである。碑文によれば、ロシア領事から写真術を学んだ木津孝吉(幸吉)が、元治元(1864)年に写真場を開いてから百年目を記念して建てたとあるが、木津の開業年はいまだ詳らかではない。 とはいえ、明治以前に開業していたことは間違いなく、文久2年(1862)年に日本で初めて開業した長崎の上野彦馬や横浜の下岡蓮杖から遅れること、わずか数年である。 北海道写真発祥の地が函館だったのは、ここが開港場であり、西欧の新技術をいち早く取り入れられたからに他ならない。 なお、木津幸吉のほか、四本研造と横山松三郎も初期の函館写真界にとって、重要な役割を果たした人物である。 函館市",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)、『函館市史』通説編第1巻(函館市 1980年)、「函館写真史考(上)」(桑嶋洋一)『地域史研究はこだて』第17号(函館市 1993年)所収,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako30.jpg,hako30.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako30.jpg,1220,hako30,,,北海道写真発祥の地碑,%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e5%86%99%e7%9c%9f%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 668,亀田八幡宮,カメダハチマングウ,"■観光説明板 社伝によれば、明徳元(1390)年、河野加賀守森幸が越前敦賀(福井県〉の気比神宮から、祭神の八幡大神(応神天皇)を勧請したのが始まりという。本殿と拝殿は慶長8(1603)年に建立されたと伝えられている。 17世紀に入って亀田川河口は、このあたり一帯の中心地となり、神社・仏閣が整備された。亀田八幡宮には、延宝2(1674)年の棟札が現存している。 現在の社殿は昭和39(1954)年に造られたものである。それまであった社殿は現在でも神輿殿として残されているが、文久3(1863)年に改築された市内で最も古い木造建築である。箱館戦争時に受けたという銃弾の跡が残っている。 また、第一の鳥居は、弘化4(1874)年に松前藩最後の箱館奉行となった工藤茂五郎が奉納したものである。函館市
KAMEDA HACHIMANGU SHRINE According to the archives of the shrine,Kameda Hachimangu Shrine dates back to 1390 when it was dedicated to the spirit of Hachiman Okami (The Emperor Ojin) from the mother Kehi Shrine in Tsuruga Echizen.(Fukui Prefecture) It is said that the main shrine and the hall of worship were built in 1603. In the 17th century the area around the mouth of Kameda River became the center of this district and shrines and temples were built.The Munefuda (a wooden plate on which the name of the deity and the date of the foundation are written) of 1674 is still kept in Kameda Hachimangu Shrine. The present shrine was built in 1954.The former one which stands next to it was renovated in 1863 and is one of the oldest wooden buildings in Hakodate.This former shrine is still used to house a portable shrine.You can find some bullet marks on the building made during the Hakodate Battle. The first Torii was dedicated in 1874 by Kudo Mogoro who was the last Hakodate Bugyo in the Matsumae clan.CITY OF HAKODATE
",2015年11月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/668,,函館市,中央部地区,函館市八幡町3,昭和,中世||近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7907333,140.7368774,,,,,,,"日本, 〒040-0083 北海道函館市八幡町3",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e4%ba%80%e7%94%b0%e5%85%ab%e5%b9%a1%e5%ae%ae,0 670,中島三郎助父子最後之地,ナカジマサブロウスケサイゴノチ," ",2015年11月23日,2021年6月9日,http://donan-museums.jp/archives/670,1368,函館市,中央部地区,函館市中島町36-12,昭和,近世||明治,"歴史,碑・像",41.7872238,140.7431793,"中島三郎助父子最後の地 中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2年(1855年)に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。 維新後、明治元年(1868年)10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。 新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、明治2年(1869)5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く思い哉」という辞世の句を残した。 昭和6年(1931年)に、中島父子にちなんで、千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。 函館市","中岛三郎助父子最后之地 中岛三郎助曾是浦贺奉行所属的官员,但于安政2年(1855年)成为幕府创设的长崎海军传习所的第一期学生,并于三年后成为了军舰操练所的教授。 维新之后,明治元年(1868年)10月,他与榎本武扬共进退,率领八艘军舰来到北海道。在箱馆战争中作为五棱郭前线基地千代冈兵营的队长,与浦贺时代的伙伴一起担任守备之责。 新政府军控制函馆之后曾经劝降中岛,但他拒绝投降仍继续迎战。明治2年(1869年)5月16日中岛与长子恒太郎和次子英次郎共同战死沙场,并留下“ほととぎす われも血を吐く思い哉 (杜鹃鸟 吾欲呕血与君同哉)”的辞世金句。 昭和6年(1931年)为了纪念中岛父子,给千代冈兵营附近的因缘之地取名为中岛町。 函馆市","中島三郎助父子最後之地 中島三郎助曾是浦賀奉行所屬的官員,但於安政2年(1855年)成為幕府創設的長崎海軍傳習所的第一期學生,並於三年後成為了軍艦操練所的教授。 維新之後,明治元年(1868年)10月,他與榎本武揚共進退,率領八艘軍艦来到北海道。在箱館戰爭中作為五稜郭前線基地千代岡兵營的隊長,與浦賀時代的夥伴一起擔任守備之責。 新政府軍控制函館之後曾經勸降中島,但他拒絕投降仍繼續迎戰。明治2年(1869年)5月16日中島與長子恒太郎和次子英次郎共同戰死沙場,並留下""ほととぎす われも血を吐く思い哉 (杜鵑鳥 吾欲嘔血與君同哉)""的辭世金句。 昭和6年(1931年)為了紀念中島父子,給千代岡兵營附近的因緣之地取名為中島町。 函館市",,,"สถานที่สุดท้ายของนากาจิมะ ซาบุโรสุเกะและบุตร นากาจิมะ ซาบุโรสุเกะ เป็นเจ้าหน้าที่สังกัดอุรางะบุเกียว แต่กลายเป็นบัณฑิตคนแรกของสถาบันฝึกอบรมทหารเรือนางาซากิ ที่ก่อตั้งโดยรัฐบาลบากุฟุ ในปีอันเซที่ 2 (ค.ศ.1855) และสามปีให้หลัง ก็กลายเป็นอาจารย์ด้านการฝึกอบรมการบังคับเรือรบ หลังการปฎิรูปเมจิ ในเดือนตุลาคม ปีเมจิที่ 1 (ค.ศ.1868) เขาทำงานร่วมกับเอโนะโมโตะ ทาเคะอากิ นำเรือรบ 8 ลำมาที่ฮอกไกโด ในช่วงสงครามฮาโกดาเตะ เขารับหน้าที่คุ้มกันร่วมกับเพื่อนๆ ของเขาในสมัยอุรางะ ในหัวหน้าทีมจินยะ(จวน ที่ว่าการ) ชิโยะงาโอกะ ที่ฐานทัพแนวหน้าของป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ เมื่อกองกำลังรัฐบาลใหม่เข้ายึดครองฮาโกดาเตะ พวกเขาจึงต้องยอมจำนน แต่นากาจิมะปฏิเสธและทำสงครามต่อไป จนกระทั่งเสียชีวิตพร้อมกับลูกชายคนโต โคทาโร และคนรอง เอจิโร ในวันที่ 16 พฤษภาคม ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ. 1869) ทิ้งกลอนลาโลกไว้ว่า ""โฮโทโทงิสึ วาเระโมะ จิ โอะ ฮาคุ โอะโมอิ นาริ (เจ้านกโฮโทโทงิสึ ข้าก็รู้สึกเหมือนแทบจะกระอักเลือด)"" ในปีโชวะที่ 6 (ค.ศ.1931) ตั้งชื่อสถานที่ที่เคยเป็นจินยะ(จวน ที่ว่าการ) ชิโยะงาโอกะ ว่าตำบลนากาจิมะ ตามชื่อพ่อลูกตระกูลนากาจิมะ","日本, 〒040-0014 北海道函館市中島町36−12","(表) 中島三郎助父子最後之地 函館市長 矢野康書 (裏) 昭和四十九年五月十六日 記念碑建立期成会 大釜仙蔵 藤野藤太郎 相沢勝三郎 木村清満","中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。 維新後、明治元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。 新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残した。 昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。 函館市",,「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako045.jpg,hako045.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako045.jpg,1368,hako045,,,,%e4%b8%ad%e5%b3%b6%e4%b8%89%e9%83%8e%e5%8a%a9%e7%88%b6%e5%ad%90%e6%9c%80%e5%be%8c%e4%b9%8b%e5%9c%b0,0 672,千代ヶ岡陣屋跡,チヨガオカジンヤアト,,2015年11月23日,2021年6月6日,http://donan-museums.jp/archives/672,,函館市,中央部地区,函館市千代台町22,近世,近世||明治,未分類,41.7854118,140.7440033,,"千代冈兵营遗迹 最早设立兵营是在文化5年(1808年),仙台藩受命于幕府守备虾夷地(北海道),作为择捉岛等地的外派兵营的大本营,在现在的中岛小学附近至千代台公园棒球场一带的丘陵地带,构筑了东西约130公尺、南北约150公尺的土垒设立了兵营。 安政2年(1855年),幕府对津轻藩下达守备命令,西侧从乙部至神威岬,东侧从箱馆至慧山岬,津轻藩将外派兵营驻扎于寿都,并将其作为本部掌管,所以叫做津轻兵营,又或取其地名称之为千代冈兵营。 明治元年(1868年)10月,掌管北海道南部一带的榎本武扬率领旧幕府脱走军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队),以五棱郭作为根据地,派军进驻了弁天砲台以及津轻藩撤退后的千代冈兵营。但是在第二年的5月16日,遭受新政府军的总攻,守将中岛三郎助等人英勇战死,兵营也就此沦陷。 函馆市","千代岡兵營遺跡 最早設立兵營是在文化5年(1808年),仙台藩受命於幕府守備蝦夷地(北海道),作為擇捉島等地的外派兵營的大本營,在現在的中島小學附近至千代台公園棒球場一帶的丘陵地帶,構築了東西約130公尺、南北約150公尺的土壘設立了兵營。 安政2年(1855年),幕府對津輕藩下達守備命令,西側從乙部至神威岬,東側從箱館至慧山岬,津輕藩將外派兵營駐紮於壽都,並將其作為本部掌管,所以叫做津輕兵營,又或取其地名稱之為千代岡兵營。 明治元年(1868年)10月,掌管北海道南部一帶的榎本武揚率領舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍),以五稜郭作為根據地,派軍進駐了弁天砲台以及津輕藩撤退後的千代岡兵營。但是在第二年的5月16日,遭受新政府軍的總攻,守將中島三郎助等人英勇戰死,兵營也就此淪陷。 函館市",,,"ที่ที่เคยเป็นจินยะ(จวน ที่ว่าการ) ชิโยะงาโอกะ ในปีบุงคะที่ 5 (ค.ศ.1808) แคว้นเซนไดได้รับคำสั่งจากรัฐบาลบากุฟุ ให้เข้ารักษาความปลอดภัยภูมิภาคเอโสะ (ฮอกไกโด) จึงสร้างจินยะ (จวน,ที่ว่าการ) โดยสร้างกำแพงดินประมาณ 130 เมตรจากตะวันออกไปตะวันตกและ 150 เมตรจากเหนือจรดใต้ ที่พื้นที่ภูเขา บริเวณตั้งแต่โรงเรียนประถมศึกษานากาจิมะจนถึงสนามเบสบอลสวนสาธารณะชิโยะไดในปัจจุบัน ให้เป็นฐานจินยะของสาขาจินยะที่เกาะเอโทโรฟุ ในปีอันเซที่ 2 (ค.ศ.1855) รัฐบาลบากุฟุมีคำสั่งให้แคว้นทสึงารุ (จังหวัดอาโอโมริ) เข้ารักษาความปลอดภัย ทางตะวันตกตั้งแต่โอโตเบะถึงแหลมคามุย ทางตะวันออกตั้งแต่ฮาโกดาเตะถึงแหลมเอะซัง แคว้นทสึงารุ จึงตั้งสาขาจินยะขึ้นที่ซุทสึ และใช้ที่นี่เป็นฐานจินยะ จึงถูกเรียกว่า จินยะทสึงารุ หรือเรียกตามชื่อสถานที่ว่า จินยะชิโยะงาโอกะ ในเดือนตุลาคม ปีเมจิที่ 1 (ค.ศ.1868) กองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม นำโดยเอโนะโมโตะ ทาเคะอากิ เข้ายึดพื้นที่ทางใต้ของฮอกไกโด ได้ใช้ป้อมรูปดาว โกะเรียวคาคุเป็นที่มั่น ส่งกองกำลังไปประจำที่เบ็นเต็นไดบะ และที่ชิโยะกาโอกะที่ว่างลงเพราะแคว้นทสึงารุถอนกำลังออกไป อย่างไรก็ตามในวันที่ 16 พฤษภาคม ปีเมจิที่ 2 จินยะแห่งนี้ถูกตีแตก และแม่ทัพนากาจิมะ ซาบุโรสุเกะและคนอื่น ๆ ได้จบชีวิตลง จากการบุกโจมตีของรัฐบาลใหม่","日本, 〒040-0013 北海道函館市千代台町22",,"文化5年(1808年)、幕府から蝦夷地(北海道)の警備を命じられた仙台藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯に、東西約130m、南北約150mの土塁を築き陣屋を置いたのが最初である。 安政2年(1855年)には、幕府が津軽藩に対して、西は乙部から神威岬まで、東は箱館から恵山岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、ここを元陣屋として受け持ったので、津軽陣屋、あるいは、このあたりの地名を取って千代ヶ岡陣屋とも呼ばれた。 明治元年(1868年)10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍が、五稜郭を本拠に弁天台場や津軽藩が引き揚げて空塁になっていた千代ヶ岡に兵を配置したが、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助らは壮烈な最期を遂げ、この陣屋は陥落した。 函館市",,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8d%83%e4%bb%a3%e3%83%b6%e5%b2%a1%e9%99%a3%e5%b1%8b%e8%b7%a1,0 674,啄木小公園,タクボクショウコウエン," ■観光説明板 この辺りは、かつて砂丘があって、ハマナスが咲き乱れていた。啄木が好んで散歩した所であり、歌集「一握の砂」に「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」と歌われている。詩集「あこがれ」を左手に持ち、もの思いにふける啄木の座像(本郷新作)は、昭和33(1958)年に建てられた。隣の石碑は、後年啄木の墓を訪れた詩人西条八十が啄木に捧げた自筆の歌碑である。 啄木が函館に来たのは明治40(1907)年5月のことで、7月には離散していた妻子を呼び寄せ、久しぶりに親子水入らずの生活を営んだ。弥生小学校の代用教員を経て、函館日日新聞の記者となって間もなくの8月25日、函館は未曾有の大火に襲われた。新聞社も焼失し、啄木は職を求めて、妻子を残したまま函館を去った。 函館滞在の4か月余りは、彼の一生のうちで、最も楽しい期間であったといわれている。函館市
TAKUBOKU PARK In days gone by this area used to be a dune where many Hamanasu (a family of roses) bloomed wild.Takuboku enjoyed taking walks here.While walking around here he wrote the following Tanka (31-syllable Japanese poem) which is now in his collection of Tanka,""A Handful of Sand."" ""Lying on the dune sand,this day I recall,remotely,the anguish of my first love."" The statue of Takuboku who sits lost in thought while holding his poetry collection,""A Longing,"" was carved in 1958 by Hongo Shin.The stone monument which stands beside him was offered by Saijyo Yaso,a poet,when he visited Takuboku's grave.On the surface his own handwriting was engraved. It was in May 1907 that Takuboku arrived in Hakodate.Then in July,Takuboku had his family join him.He had lived separate from his family for a long time and so he enjoyed being together again.After teaching as a substitute teacher at Yayoi Elementary School,he worked at the Hakodate Nichi-nichi Newspaper Company as a journalist.However,as soon as Takuboku began to work there,on August 25 a great fire destroyed Hakodate.The company building was burnt down and so leaving his family in Hakodate Takuboku left Hakodate to look for work. It is said that his short stay in Hakodate for four odd months,was the most pleasant time in his life.CITY OF HAKODATE
",2015年11月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/674,1351,函館市,中央部地区,北海道函館市日乃出町25,昭和,明治,その他,41.7725754,140.7544250,,,,,,,"日本, 〒040-0022 北海道函館市日乃出町 漁火通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako039-2.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako039.jpg,hako039-2.jpg||hako039.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako039-2.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako039.jpg,1351||1347,hako039-2||hako039,,,,%e5%95%84%e6%9c%a8%e5%b0%8f%e5%85%ac%e5%9c%92,0 676,箱館戦争と特別史跡五稜郭跡,ハコダテセンソウトトクベツシセキゴリョウカクアト," ",2015年11月23日,2021年7月9日,http://donan-museums.jp/archives/676,1393,函館市,中央部地区,函館市五稜郭町38(五稜郭公園内),近世,近世||明治,"歴史,碑・像",41.7954788,140.7544708,"箱館戦争と特別史跡五稜郭跡 江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことだった。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げ、日本の新しい時代が始まった。","箱馆战争与特别历史遗迹五棱郭 与江户湾的八艘军舰一其逃走的榎本武扬,率领旧幕府脱走军来到函馆,并于明治元年(1868年)10月占领五棱郭。仅仅在7个月后战败并向新政府军投降,被迫将五陵郭交与新政府军,这里成为了戊辰战争最后的战役之地。伴随着箱馆战争的结束,长期以来的封建制度也就此终结,日本开始迎来崭新的时代。","箱館戰爭與特別歷史遺跡五稜郭 與江戶灣的八艘軍艦一其逃走的榎本武揚,率領舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)來到函館,並於明治元年(1868年)10月佔領五稜郭。僅僅在7個月後戰敗並向新政府軍投降,被迫將五陵郭交與新政府軍,這裡成為了戊辰戰爭最後的戰役之地。伴隨著箱館戰爭的結束,長期以來的封建制度也就此終結,日本開始迎來嶄新的時代。",,,"สงครามฮาโกดาเตะและโบราณสถานพิเศษ ป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ กองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม นำโดยเอโนะโมโตะ ทาเคะอากิ ผู้ซึ่งหนีออกจากอ่าวเอโดะพร้อมเรือรบ 8 ลำ มาที่ฮาโกดาเตะ และเข้ายึดครองป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ ในเดือนตุลาคม ปีเมจิที่ 1 (ค.ศ. 1868) เขาแพ้การรบกับกองทัพรัฐบาลใหม่ และยอมจำนนภายหลังจากนั้นเพียง 7 เดือน ป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ ถูกส่งคืนให้กองทัพรัฐบาลใหม่ เมื่อสงครามฮาโกดาเตะซึ่งเป็นการต่อสู้ครั้งสุดท้ายของสงครามโบชินสิ้นสุด ระบบศักดินาที่มีมายาวนานก็สิ้นสุดลง และยุคใหม่ของญี่ปุ่นก็เริ่มขึ้น","日本, 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町38","特別史跡 五稜郭跡 史跡指定 大正一一年一〇月一二日 史跡地域一部追加指定 昭和四年四月二日 特別史跡指定 昭和二七年三月二九日","江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました。日本の新しい時代が始まったのです。 特別史跡 五稜郭跡(五稜郭公園) 箱館奉行が、蝦夷地(北海道)を統治するために、役所を新築する敷地として整備した洋式の城郭です。5つの突角をもつ星型であるところから五稜郭と呼ばれています。蘭学者武田斐三郎の設計で安政4年(1857年)着工。元治元年(1864年)完成。昭和27年3月、国の特別史跡に指定されました。 榎本武揚 天保7年~明治41年(1836年~1908年)。江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。慶応4年(1868年)旧幕府脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占拠しました。 土方歳三 天保6年~明治2年(1835年~1869年)。武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、脱走軍では陸軍奉行並となります。 明治2年5月11日箱館の一本木関門(現若松町)付近で戦死。 箱館奉行所 当初、箱館奉行所は函館山山麓にありましたが、開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築き奉行所を移転させました。写真は慶応年間(1865年~1868年)のものです。",,「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「五稜郭公園」(公園育成会 1989年),,okuno.s,旧看板情報は掲載していない=新たな看板等未調査、写真は別に用意する,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako050-1.jpg,hako050-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako050-1.jpg,1393,hako050-1,,,,%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%a8%e7%89%b9%e5%88%a5%e5%8f%b2%e8%b7%a1%e4%ba%94%e7%a8%9c%e9%83%ad%e8%b7%a1,0 678,湯の川温泉発祥の地碑,ユノカワオンセンハッショウノチヒ," ",2015年11月23日,2021年6月6日,http://donan-museums.jp/archives/678,2441,函館市,東央部地区,北海道函館市湯川町2丁目28,昭和,近世||明治||大正||昭和||平成,"歴史,碑・像",41.7813301,140.7912750,"湯の川温泉発祥の地碑 全国的に名高い湯の川温泉の起源は古く、湯倉神社に残る「元和3年(1617年)より湯座あり、薬師仏を祀っていた......」という言い伝えにはじまる。 承応2年(1653年)松前藩主・氏広の子、千勝丸(のちの9代藩主・高広)が不治の病にかかったとき、母の清涼院が夢告でこの地に温泉があることを知り、千勝丸を湯治させ、全快したという。喜んだ清涼院は、翌年、このお礼に薬師仏を祀る社殿(現在の湯倉神社)を改造し、知内産の黄金で造った薬師尊像と唐金造りの鰐口を奉納している。 箱館戦争の時、五稜郭を占拠した榎本軍は、傷病兵をこの温泉で療養させ、また、榎本自身も時々入湯したという。 湯の川の語源は、アイヌ語で「ユペツ」といい、「ユ」は湯、「ペツ」は川の意味で、「湯の流れる川」のことである。 泉質は、ナトリウム・カルシウム-塩化物泉で、神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果があるとされる。 この碑は、湯の川温泉の発祥を記念して昭和22年(1947年)に建てられた。 函館市","汤之川温泉发祥地碑 全国闻名的汤之川温泉起源古老,可以从汤仓神社中的记载“元和3年(1617年)七有汤座,曾供奉药师佛......”窥知一二。 据传闻承应2年(1653年)松前藩主・氏广之子,千胜丸 (之后的第9代藩主・高广)患不治之症时,其母清凉院梦中得知此地有温泉,千胜丸经温泉治疗后痊愈,喜出望外的清凉院第二年为谢恩改建了供奉药师佛的大殿(现在的汤仓神社),并供奉了用产自知内的黄金打造的药师佛像和青铜鳄嘴铃。 箱馆战争时,占领五棱郭的榎本军的伤病兵士曾在此温泉疗养,榎本本人也不时泡过汤呢。 汤之川的名字来源于阿依努语“yupetu”“yu”意为汤,“petu”意为川,全意为流淌热水之河。 泉水为氯化钠钙泉,对神经痛、风湿和肠胃病有很好的疗效。 此碑为纪念汤之川发祥,建于昭和22年(1947年)。 函馆市","湯之川溫泉發祥地碑 全國聞名的湯之川溫泉起源古老,可以從湯倉神社中的記載「元和3年(1617年)七有湯座,曾供奉藥師佛......」中窺知一二。 據傳聞承應2年(1653年)松前藩主・氏廣之子,千勝丸 (之後的第9代藩主・高廣)患不治之症時,其母清涼院夢中得知此地有溫泉,千勝丸經溫泉治療後痊癒,喜出望外的清涼院第二年為謝恩改建了供奉藥師佛的大殿(現在的湯倉神社),並供奉了用產自知內的黃金打造的藥師佛像和青銅鱷嘴鈴。 箱館戰爭時,佔領五稜郭的榎本軍的傷病兵士曾在此溫泉療養,榎本本人也不時泡過湯呢。 湯之川的名字來源於阿依努語「yupetu」,「yu」意為湯,「petu」意為川,全意為流淌熱水之河。 泉水為氯化鈉鈣泉,對神經痛、風濕和腸胃病有很好的療效。 此碑為紀念湯之川發祥,建於昭和22年(1947年)。 函館市",,,"อนุสาวรีย์ถิ่นกำเนิดยุโนะคาวะออนเซ็น ต้นกำเนิดของยุโนะคาวะออนเซ็น ซึ่งมีชื่อเสียงไปทั่วประเทศนั้นเก่าแก่ และเริ่มต้นด้วยตำนานที่หลงเหลืออยู่ในศาลเจ้ายุคุระ กล่าวกันสืบมาว่า ""มียุสะ (น้ำพุร้อนรักษาโรค) และประดิษฐานพระพุทธรูปยาคุชิ (พระไภษัชยคุรุพุทธเจ้า บรมครูแห่งยารักษาโรค) ตั้งแต่ปีเก็นนะที่ 3 (ค.ศ.1617) ..."" ปีโจโอที่ 2 (ค.ศ.1653) เมื่อบุตรของหัวหน้าแคว้นมัตสึมาเอะ อุจิฮิโระ ชื่อชิคัตสึมารุ (ต่อมาเป็นหัวหน้าแคว้นรุ่นที่ 9 ชื่อทาคาฮิโระ) ป่วยเป็นโรคที่รักษาไม่หาย เซเรียวอิน ผู้เป็นมารดา ฝันว่าที่นี่มีน้ำพุร้อน จึงให้ชิคัตสึมารุไปแช่น้ำร้อนเพื่อรักษาจนหายดีเป็นปกติ เซเรียวอินดีใจมาก จึงปรับปรุงศาลเจ้าที่ประดิษฐานพระพุทธรูปยาคุชิ (ปัจจุบันคือศาลเจ้ายูคุระ) เพื่อเป็นการขอบคุณ และได้ถวายรูปปั้นพระพุทธรูปยาคุชิที่ทำจากทองคำในตำบลชิริอุจิ และวะนิคุจิ (ฆ้องโลหะที่แขวนไว้หน้าวิหาร) ที่ทำจากบรอนซ์ ในช่วงสงครามฮาโกดาเตะ กองทัพเอโนะโมโตะที่เข้ายึดครองป้อมรูปดาวโกะเรียวคาคุ ให้ทหารที่ป่วยและบาดเจ็บ แช่ในน้ำพุร้อนแห่งนี้เพื่อรักษาตัว และเอโนะโมโตะเองก็ลงแช่น้ำเป็นบางครั้งด้วย ต้นกำเนิดของคำยุโนะคาวะ มาจากภาษาไอนุว่า ""ยุเพตสึ"" ซึ่ง ""ยุ"" หมายถึงน้ำร้อน และ ""เพตสึ"" หมายถึงแม่น้ำ มีความหมายรวมว่า ""แม่น้ำที่มีน้ำร้อนไหล"" คุณภาพของน้ำพุร้อน ประกอบด้วย โซเดียม / แคลเซียมคลอไรด์ กล่าวกันว่า มีสรรพคุณช่วยรักษาโรคเจ็บเส้นประสาท, โรครูมาตอยด์, โรคระบบทางเดินอาหาร ฯลฯ อนุสาวรีย์แห่งนี้ สร้างขึ้นในปีโชวะที่ 22 (ค.ศ.1947) เพื่อรำลึกต้นกำเกิดของยุโนะคาวะออนเซ็น","日本, 〒042-0932 北海道函館市湯川町2丁目29−28 グリーンハウス湯の川",,,,,,okuno.s,湯川には、温泉業者や旅館が沢山あって、それぞれ温泉のお陰を祟っている。昔始めて温泉の湧いた処を記念して「湯川温泉発祥之地」という碑を組合で建てた。(「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako129.jpg,hako129.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako129.jpg,2441,hako129,,,,%e6%b9%af%e3%81%ae%e5%b7%9d%e6%b8%a9%e6%b3%89%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 680,厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院,ゲンリツシトーカイテンシノセイボトラピスチヌシュウドウイン,"■観光説明板 天使の聖母トラピスチヌ修道院は、明治31(1898)年、フランスのウプシーにある修道院から8名の修道女が来たのが始まりである。キリスト教伝道のためには、修道院の精神的援助が必要であると、函館教区長ベルリオーズ司教が要請していたものであった。 草創期の修道女たちの生活は困難を極め、それを見かねたフランスから、引き揚げが伝えられるほどであった。 現在の建物は大部分が大正14(1925)年の火災後、昭和2(1927)年に再建されたものである。函館市
THE TRAPPISTlNE CONVENT organized by Citeaux Order Our Lady of the Angels' Convent,The Trappistine Convent,was founded in 1898 by eight French nuns who came from the convent in Ubexy (France).Bishop Berlioz of the Hakodate diocese asked them to come because he felt there was a great need to spread Christianity. The nun's living conditions at the beginning were very poor,so much so,that the headquarters in France was considering to recall their nuns. Most of the present building was reconstructed in 1927 after being burnt down in 1925.CITY OF HAKODATE
",2015年11月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/680,,函館市,東央部地区,函館市上湯川町346,大正,明治||大正||昭和||平成,未分類,41.7871513,140.8208618,,,,,,,"日本, 〒042-0914 北海道函館市上湯川町346",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8e%b3%e5%be%8b%e3%82%b7%e3%83%88%e3%83%bc%e4%bc%9a%e5%a4%a9%e4%bd%bf%e3%81%ae%e8%81%96%e6%af%8d%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%94%e3%82%b9%e3%83%81%e3%83%8c%e4%bf%ae%e9%81%93%e9%99%a2,0 683,大円寺,ダイエンジ,"■観光説明板 大円寺は浄土宗称名寺の末寺で、享保7年(1722年)の創設といわれ、寛保2年(1742年)称名号から本尊阿弥陀如来の木像を移して、初めは無量庵と称したが、大正9年(1920年)大円寺と改称した。 門前にある「無縁塚」は、安政4年(1857年)に着工された五稜郭の築造工事のとき、けがや病気で死亡した人たちを供養する碑で、碑の裏面には建てられた年号「文久四年甲子春」(元治元年に改元)と、「棟梁喜三郎一同」と刻まれている。喜三郎とは、備前(岡山県)の石工井上喜三郎のことで、五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当するなど、秀でた技術を持つ石工として知られた。 寺院の墓地には、最後の箱館奉行、杉浦誠の娘の墓や五稜郭が舞台となった箱館戦争で戦死した新政府軍と旧幕府脱走軍の兵士の墓があるなど、幕末から明治にかけての箱館の歴史が刻まれている寺院です。函館市
Daienji Temple
Daienji Temple,a branch of Shomyoji Temple of the jodo sect,is said to have been built in 1722.In 1742 a wooden statue of Amitabha Buddha was moved here from Shomyoji Temple.At that time the temple was named Muryoan.Later,in 1920,it was renamed Daienji Temple. In front of the gate there is ""Muen Mound,"" erected in 1864 in memory of the souls of those who died of illness or injury while engaged in the construction work of Goryokaku Fort (which started in 1857 and completed in 1864).The names of Chief Kizaburo and all of his men are inscribed on the back of the monument. Kizaburo refers to Kizaburo Inoue,an excellent stonemason from Bizen (now Okayama Prefecture) who supervised the construction of the stone walls of Goryokaku Fort and Benten Battery. In the graveyard there are tombstones for the daughter of Makoto Sugiura,the last administrator of the old Hakodate Government office,and those who died in the Hakodate battle at Goryokaku Fort including officers and men of the new Meiji government and deserters of the old shogunate.The city of Hakodate
",2015年11月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/683,,函館市,北東部地区,函館市神山町3丁目4,,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.8140640,140.7645569,,,,,,,"日本, 〒041-0832 北海道函館市神山3丁目3−19",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a4%a7%e5%86%86%e5%af%ba,0 685,旧東照宮と権現台場跡,キュウトウショウグウトゴンゲンダイバアト,"■観光説明板 東照宮は、元治元年(1864年)五稜郭が完成した時、その鬼門(東北)の守護神とするため、日光東照宮から分祀された日高様似(ひだかさまに)の等澍院(とうじゅいん)から東照大権現を分霊して、上山村(現市内神山町)に建てたのが始まりである(以後上山村は神山村と改められた)。 明治元年(1868年)五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、翌2年五稜郭北面守備のため四稜郭を急造、さらに五稜郭との重要な結節点にあたる東照宮に砲台(権現台場といわれている。)を設けた。しかし、同年この砲台は新政府軍の攻撃を受け、東照宮も社殿を消失した。 東照官は、その後、箱館の大祐庵(てんゆうあん 現在の青柳町天祐寺)などを転々としたが、明治12年(1879年)宝来町に移り、平成3年(1991年)に陣川町に移転して北海道東照宮と改称した。 この大鳥居は、五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当した石工の作で、箱館戦争の砲火にも壊されずこの地に残った。函館市
Remains of Old Thshogu Shrine and Gongen Battery Toshogu Shrine was originally built at Kamiyama village (now Kamiyama-cho) as the spiritual guardian of the land to the northeast of Goryokaku Fort when it was completed in 1864.At the same time,the meaning of the name ""Kamiyama"" was altered from ""village which is located by the side of the mountain"" to ""village by the side of the mountain where a god dwells"".The shrine is dedicated to Tosho Daigongen separated from the Tojuin in Samani,Hidaka,which is a branch of Nikko Toshogu Shrine. In 1868,deserters from the former shogunate's forces occupied Goryokaku Fort.The next year they hastily built Shiryokaku Fort to defend the area to the north of Goryokaku Fort and also a battery at Toshogu Shrine,which was strategically located between Goryokaku and Shiryokaku Forts.(The battery was called Gongen Daiba.)That same year,however,the battery was attacked by the new government forces and Toshogu Shrine was also burned down. Toshogu Shrine was moved to Tenyu-an (presently Tenyu-ji Temple in Aoyagi-cho),and thence to Horai-cho in 1879.In 1991,it was finally moved here and its name was changed to Hokkaido Toshogu Shrine. The large torii,which was built by a stonemason who worked on the stone walls of Goryokaku Fort and Benten Battery,escaped damage during the Hakodate War and has remained here since.City of Hakodate
",2015年11月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/685,,函館市,北東部地区,北海道神山3丁目18,平成,近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.8178177,140.7661896,,,,,,,"日本, 〒041-0832 北海道函館市神山3丁目18",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e6%9d%b1%e7%85%a7%e5%ae%ae%e3%81%a8%e6%a8%a9%e7%8f%be%e5%8f%b0%e5%a0%b4%e8%b7%a1,0 688,シャルトル聖パウロ修道女会墓地/函館市の社会福祉事業の先駆者、スール・マリ・オネジムここに眠る,ハコダテシノシャカイフクシジギョウノセンクシャ、スール・マリ・オネジムココニネムル,,2015年11月24日,2021年6月6日,http://donan-museums.jp/archives/688,,函館市,西部地区,函館市船見町23,,明治,未分類,41.7672310,140.6960297,"函館市の社会福祉事業の先駆者、スール・マリ・オネジムここに眠る 明治11年(1878)5月、スール・マリ・オネジムは2人のスール(修道女)と共にフランスのシャルトル聖パウロ修道女会から派遣され、元町にて孤児院・医療院・子女の学校を始め、社会福祉事業のために貢献した。 多くの孤児を養育し困窮者を救った功績に対し、昭和3年(1928年)5月にはフランス大統領から銀製賞牌が授けられた。 スール・マリ・オネジムは全国の白百合学園の発祥の地、函館白百合学園の創設者でもある。 この墓地には他に8人のスールが永眠している。 函館市","函馆市社会福利事业的先驱者玛丽奥内吉(Marie Onesime)修女永眠于此 明治11年(1878年)5月,玛丽奥内吉修女和其他两位修女经法国的S.P.C.派遣到此,先后在元町开设孤儿院、医院和学校,为社会福利事业做出了很大的贡献。 因为养育众多孤儿救助穷困者,昭和3年(1928年)5月被法国大统领授予银质奖牌。 玛丽奥内吉修女是全国白百合学园的发祥地---函馆白百合学园的创立者。 此墓地中另有八名修女永眠于此。 函馆市","函館市社會福利事業的先驅者瑪麗奧內吉修女(Marie Onesime)永眠於此 明治11年(1878年)5月,瑪麗奧內吉修女和其他兩位修女經法國的S.P.C.派遣到此,先後在元町開設孤兒院、醫院和學校,為社會福利事業做出了很大的貢獻。 因為養育眾多孤兒救助窮困者,昭和3年(1928年)5月被法國大統領授予銀質獎牌。 瑪麗奧內吉修女是全國白百合學園的發祥地---函館白百合學園的創立者。 此墓地中另有八名修女永眠於此。 函館市",,,"ซิสเตอร์ มารี โอเนซิม ผู้บุกเบิกบริการสวัสดิการสังคมในฮาโกดาเตะหลับอยู่ที่นี่อย่างสงบสุข เดือนพฤษภาคม ปีเมจิที่ 11 (ค.ศ.1878) ซิสเตอร์ มารี โอเนซิมและซิสเตอร์อีกสองคน ถูกส่งมาจากคณะภคินีเซนต์ปอล เดอ ชาร์ตรในฝรั่งเศส พวกเขาก่อตั้งสถานเลี้ยงเด็กกำพร้า คลินิกการแพทย์และโรงเรียนสำหรับเด็กที่โมโตะมาจิ และมีส่วนร่วมในการให้บริการสวัสดิการสังคม จากการเลี้ยงเด็กกำพร้าและช่วยเหลือผู้ยากจนหลายๆ คน ทำให้พวกเขาได้รับ Legion d 'honneur (เหรียญเกียรติยศ) จากประธานาธิบดีฝรั่งเศส ในเดือนพฤษภาคมปีโชวะที่ 3 (ค.ศ.1928) ซิสเตอร์ มารี โอเนซิม เป็นผู้ก่อตั้งสถาบันการศึกษาชิรายูริฮาโกดาเตะ ซึ่งเป็นต้นกำเนิดสถาบันการศึกษาชิรายูริทั่วประเทศ สุสานแห่งนี้ มีซิสเตอร์อีก 8 คนหลับอยู่ที่นี่อย่างสงบสุข","日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%88%e3%83%ab%e8%81%96%e3%83%91%e3%82%a6%e3%83%ad%e4%bf%ae%e9%81%93%e5%a5%b3%e4%bc%9a%e5%a2%93%e5%9c%b0%ef%bc%8f%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e3%81%ae%e7%a4%be%e4%bc%9a,0 709,八幡坂,ハチマンザカ,"■坂名説明標柱 基坂上の箱館奉行所付近にあった八幡宮が、文化元年(1804年)奉行所の拡張工事に伴い、この坂の上に移されたことからこの名が付いた。八幡宮は明治11年(1878年)の火災によって焼失し、明治13年に現在の谷地頭町に移った。 HACHIMAN ZAKA SLOPE Hachimangu,a Shinto shrine once built at the top of Motoizaka slope where Hakodate Bugyo's (commissioner's) building was located,had to be moved to the top of Hachimanzaka slope due to the expansion of the Bugyo Office in 1804,so they named the slope ""Hachiman Zaka."" Hachimangu Shrine,however,was destructed by fire in 1878 and the shrine was moved again to Yachigashira cho in 1880.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/709,,函館市,西部地区,函館市末広町/元町,,,未分類,41.7638283,140.7115631,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町32−26 函館八幡坂Story",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%85%ab%e5%b9%a1%e5%9d%82,0 711,大三坂,ダイサンザカ,"■坂名説明標柱 昔、坂の入口に大三という家印の郷宿(ゴウヤド)があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の家があったので、「木下の坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。 DAISAN ZAKA SLOPE Long ago,at the base of this slope,there was a goyado (inn) called ""Daisan"",which was the name of a family crest.The inn served local villagers who came to the city on official business.Earlier,a house named KINOSHITA was there,and this slope had been called ""Kinoshita's Slope."" In 1987 this slope was designated as one of the ""Hundred Representative Roads of Japan.""CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/711,,函館市,西部地区,函館市末広町/元町,,,未分類,41.7629967,140.7130432,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市 大三坂",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a4%a7%e4%b8%89%e5%9d%82,0 713,チャチャ登り,チャチャノボリ,"■坂名説明板 函館では珍しいアイヌ語の坂名で、幕末頃ついた名前らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。 CHACHANOBORI SLOPE The name of this slope is one of few in Hakodate which is derived from the Ainu language.It was probably named in the last days of the Tokugawa Shogunate. ""Chacha"" in Ainu means an aged man.Since this slope is very steep,those who ascend the slope looked like an old man with a stoop.This gives us an image of an aged person.So the slope was named duly.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/713,,函館市,西部地区,函館市元町,,,未分類,41.7628555,140.7128906,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%81%e3%83%a3%e7%99%bb%e3%82%8a,0 715,二十間坂,ニジュッケンザカ,"■坂名説明標柱 かつて、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。函館は大火が多く、明治12年(1879年)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間(約36m)あるので「二十間坂」と呼ばれた。 NIJUKKEN ZAKA SLOPE Once there lived many carpenters and craftsmen around here,and this slope was also called ""Daiku machi Zaka"" (meaning a slope in a carpenters'town). Hakodate has had numerous disastrous fires and after the great fire of 1879 this slope was designed as a fire prevention belt,and thus was widened by nijukken (about thirty-six meters). This name is thus derived from the width of the slope and has been called such by Hakodate citizens since then.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/715,,函館市,西部地区,函館市末広町/元町,,,未分類,41.7635002,140.7154846,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e4%ba%8c%e5%8d%81%e9%96%93%e5%9d%82,0 717,南部坂,ナンブザカ,"■坂名説明標柱 幕府は、外国船の蝦夷地(北海道)近海への出没や、ロシアの南下など多難になってきたため、寛政11年(1799年)蝦夷地を直轄し、防衛のため奥羽諸藩に警備を命じた。日高海岸以東の警備にあたった南部藩の元陣屋がこの坂上にあったので「南部坂」と呼ばれた。NAMBU ZAKA SLOPE As foreign affairs became difficult,for example,unknown vessels often came and went off the coast of Hokkaido,and Russia tried to expand its sphere of influence by heading south,the Tokugawa Shogunate decided to take direct control of Hokkaido in 1799 and ordered several clans in the northern districts of Honshu (mailand Japan) to defend the area.One such clan,the Nambu clan,was made responsible to protect the eastern areas beyond the Hidaka coast line.They set up their headquarters at the top of this slope.This is why it is called ""Nambuzaka slope.""
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",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/717,,函館市,西部地区,函館市末広町/元町,,,未分類,41.7610474,140.7139740,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8d%97%e9%83%a8%e5%9d%82,0 719,谷地坂,ヤチザカ,"■坂名説明標柱 この坂と道路は昭和9年の大火などでいくらか変わってこそいるが、大体においでほぼ同じ位置で江戸時代からあったもの。谷地頭は昔、遊興地として有名になったので、そこに行く坂として付けられたものらしい。 YACHI ZAKA SLOPE Though this slope and the road were slightly altered by the great fire in 1934,they have remained almost at the same site since the Edo period.The area Yachigashira once thrived as a pleasure quarter,and the slope that leads to this area was given this name.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/719,,函館市,西部地区,函館市末広町/元町/宝来町,,,未分類,41.7623596,140.7189789,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%b0%b7%e5%9c%b0%e5%9d%82,0 721,護国神社坂,ゴコクジンジャザカ,"■坂名説明板 別名「汐見坂」ともいい、昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ、その町名からとったもの。招魂社の坂は明治2年(1869年)に建立された招魂社(現護国神社)に登る坂ということから呼ばれ、現在の名になった。倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって”かまど”がつぶれるといわれ、昔は門を坂に面しないようにした。 GOKOKUJINJA ZAKA SLOPE Another name for this slope is ""Shiomi Zaka."" In days gone by this slope was called ""Shokonsha no Saka"" and ""Tosan Zaka."" It was once named ""Shiomi Zaka"" because the area at the upper part of this slope is cal1ed Shiomi cho.It was also once cal1ed ""Shokonsha no Saka"" because at the top of this slope is a shrine Shokonsha (now called ""Gokoku Jinja,or a shrine for the war dead"") which was established in 1869. ""Tosan (bankruptcy) Zaka"" came from the saying that if anyone erected a gate facing this slope,he would be destined to go bankrupt because of God's punishment.Therefore,people tried to observe this tradition.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/721,,函館市,西部地区,函館市元町/宝来町/青柳町,,,未分類,41.7613258,140.7195892,,,,,,,"日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%ad%b7%e5%9b%bd%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%9d%82,0 723,あさり坂,アサリザカ,"■坂名説明標柱 明治11年( 1 8 7 8年)、英人ジョン・ミルン、米人エドワード・モースらが来函し、函館在住の英人ブラキストンと協力して貝塚などを発掘したが、この坂の付近から古代人が食べたアサリ貝の殻が数多く発見されたので、「あさり坂」と命名された。ASARI ZAKA SLOPE In 1878 John Milne from the U.K. and Edward Morse from the U.S.A. came to Hakodate,and excavated shellmounds around this slope with the cooperation of Blakiston,a British resident in Hakodate.In these mounds they found many shells of short-necked clams (asari) which people long ago had eaten.Therefore it was named ""Asari Zaka.""
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",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/723,,函館市,西部地区,函館市宝来町/青柳町,,,未分類,41.7606354,140.7199249,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%81%82%e3%81%95%e3%82%8a%e5%9d%82,0 725,青柳坂,アオヤギザカ,"■坂名説明標柱 昔はこの坂を「聖天坂(しょうでんざか)」といった。聖天とは大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)という仏教の守護神のことで、坂の途中にある天台宗天祐寺にまつられている。昭和40年まで坂上に春日町があったため「春日坂」ともいわれた。現在は、青柳町の方へ向かつて登ることから「青柳坂」と呼ばれている。 AOYAGI ZAKA SLOPE In days gone by this slope was called ""Shoden Zaka."" Shoden is an abbreviation of ""Daisho Kangi ten."" a guardian deity of Buddhism,dedicated at Tenyuji Temple (Tendai Sect) which is about halfway up the slope. It was also called ""Kasuga Zaka"" since before 1965 an area named ""Kasuga cho"" was at the head of this slope.At present,however,its name was changed to ""Aoyagi Zaka"" because the slope ascends toward Aoyagi cho.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/725,,函館市,西部地区,函館市宝来町/青柳町,,,未分類,41.7594147,140.7206116,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e9%9d%92%e6%9f%b3%e5%9d%82,0 727,東坂,アズマザカ,"■坂名説明標柱 明治12年( 1879年)の大火までは弥生小学校の東半分に浄玄寺(現東本願寺別院)があり、その下に坂が二本あった。西側の坂を「浄玄寺坂」。東側の坂を「東の坂」または「白鳥坂」ともいった。大火後、坂は一本になり上まで通された。いまの「東坂」はその名残りである。 AZUMA ZAKA SLOPE (""Azuma"" means ""East"") Up until the great fire in 1879,on the eastern half of the present Yayoi Elementary School,used to be located Jogenji Temple (now called ""Annex to Higashi Honganji Temp"" ) with two slopes below the temple.The western-side slope was called ""Jogenji Temple Saka Slope"" and the eastern-side one was called ""Higashi no Saka Slope"" or ""Shiratori Zaka Slope."" After the fire,these two slopes were combined and extended into a longer one.The present name ""Azuma Zaka Slope"" is based on this history.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/727,,函館市,西部地区,函館市大町/弥生町,,,未分類,41.7684250,140.7103271,,,,,,,"日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%9d%b1%e5%9d%82,0 729,基坂,モトイザカ,"■坂名説明標柱 かつては、函館から札幌ヘ向かう函館本道の起点で、坂下に里数を計る元標が建てられていたので「基坂」といった。坂の上は箱館奉行所があった中心地で、江戸時代には「お役所坂」、「御殿坂」とも呼ばれた。 MOTOI ZAKA SLOPE This slope was once the starting point of the main road heading from Hakodate for Sapporo.At the foot of the slope there was a post designated as the starting point.This is why this slope was called ""Motoi (Basis) Zaka"".The upper part of this slope was considerd the city center,and this was where the Hakodate Bugyo (Hakodate City government) was located.In the Edo era,this slope was called ""Oyakusho Zaka"" literally meaning ""Government slope"" or ""Goten Zaka"" meaning ""Palace slope.""CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/729,,函館市,西部地区,函館市末広町/大町/弥生町/元町,,,未分類,41.7670631,140.7114563,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%9f%ba%e5%9d%82,0 731,日和坂,ヒヨリザカ,"■坂名説明標柱 坂の上から港の景色を一望でき、空模様をよく判断できるということからこの名が付いた。また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。日和もトビも共に天気に関係がある。 HIYORI ZAKA SLOPE (""Hiyori"" means""Weather"") From the top of the slope,one can command a sweeping view of the port,so this was an excellent spot for weather observation.That is why this slope was called ""Hiyori Zaka."" Likewise,many kites could often be seen from Funadama Jinja Shrine,which is located at the top of the slope.The upper part of the slope was called ""Tobi (meaning the bird ""Kite"") Zaka”.Both words,Hiyori and Tobi are closely related with weather.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/731,,函館市,西部地区,函館市末広町/元町,,,未分類,41.7657509,140.7118683,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町 日和坂",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%97%a5%e5%92%8c%e5%9d%82,0 733,幸坂,サイワイザカ,"■坂名説明標柱 昔、坂の中ほどに神社があり、これを神明社(しんめいしゃ)といったので、この坂も「神明坂」と呼ばれた。神明社は明治7年(1874年)山上大神宮(やまのうえだいじんぐう)と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ、幸多かれと幸町(現弁天町)ができたので、町名に従い「幸坂」となった。 SAIWAI ZAKA SLOPE Long ago,there used to be a shrine called ""Shinmeisha"" in the middle of the slope.Therefore,this slope had been called ""Shinmei Zaka"". Later,in 1874 the name ""Shinmeisha"" was changed into ""Yamanoue Dai Jingu,"" literally meaning ""A Big Shrine on the Top of the Mountain."" when the shrine was moved to the top of the slope.The next year,in 1875,the seashore at the foot of this slope was reclaimed and was named ""Saiwai cho"" wishing ""Happiness for all."" (It's now called ""Benten cho."") So,the slope was renamed ""Saiwai zaka.""CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/733,,函館市,西部地区,函館市弁天町/弥生町/船見町,,,未分類,41.7716408,140.7065125,,,,,,,"日本, 〒040-0052 北海道函館市大町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%b9%b8%e5%9d%82,0 735,姿見坂,スガタミザカ,"■坂名説明標柱 かつて、坂の上にあった遊廓に因む名で、遊女達のあで姿が見られたことからこの名がついた。遊廓は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれて賑わいを見せたが、明治4年( 1871年)の大火で焼失し、蓬莱町(現宝来町)へ移った。 SUGATAMI ZAKA SLOPE (literally means ""Looking at an Appearan"") This slope was named after the red-light district located at the upper part of the slope,where harlots (prostitutes) in fascinating,showy costumes were often seen on the streets.This area imitated Yoshiwara Yukaku,the licensed quarter in the Edo era.In this area along with the neighborhood called ""Chaya cho"" (literally meaning ""Tea Room Town""),the brothels were a thriving business.However,this whole area was burnt down by the great fire in 1871,and as a result the red-1ight district was moved to Horai cho.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/735,,函館市,西部地区,函館市弁天町/弥生町/船見町,,,未分類,41.7710686,140.7074432,,,,,,,"日本, 〒040-0051 北海道函館市弁天町 姿見坂",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a7%bf%e8%a6%8b%e5%9d%82,0 737,常盤坂,トキワザカ,"■坂名説明標柱 江戸時代後期、この坂の上に大石忠次郎の屋敷があり、そこに奥州の「義経腰掛けの松」と称された名木の種を植えたという大きな松があったので、常盤の松に因みこの名が付いた。 また昔、坂の中ほど一帯に遊廓があって、遊女と別れを惜しんだ客が坂を見返るということから「見返り坂」といわれ、上に芝居小屋があったことから「芝居町の坂」ともいわれた。 TOKIWA ZAKA SLOPE During the latter part of the Edo era,there was a residence of a man named Oishi Chujiro.On the premises,a huge pine tree had been planted whose seeds were taken from an old pine tree of historical interest called ""Yoshitsune Koshikake no Matsu"",meaning a pine tree under which Yoshitsune,(a noted Samurai Warrior of the Genji clan in the 12th century) sat.The slope was named after this evergreen tree. This slope was also called ""Mikaeri Zaka"" literally meaning ""Looking Over Ones Shoulder Slope"",because customers who were reluctant to part from prostitutes would look over their shoulders when they came down to the middle of the slope.It was also called ""Shibaimachi no Saka"". (""Shibai"" means ""Plays"" ) because there were theaters at the top of the slope.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/737,,函館市,西部地区,函館市大町/弁天町/弥生町/船見町,,,未分類,41.7704773,140.7083893,,,,,,,"日本, 〒040-0052 北海道函館市大町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%b8%b8%e7%9b%a4%e5%9d%82,0 739,魚見坂,ウオミザカ,"■坂名説明標柱 函館で一番西にある坂で、坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだったのでこの名が付いたといわれている。この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。 UOMI ZAKA SLOPE This slope is located in the westernmost part of Hakodate.The name originates from the fact that this slope is the best location to observe fish movement coming toward the shore.Since the upper part of the slope had been called ""Daimachi,"" another name for this slope was ""Daimachi Slope.""CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/739,,函館市,西部地区,函館市弁天町/入舟町/弥生町/船見町,,,未分類,41.7729034,140.7042084,,,,,,,"日本, 〒040-0051 北海道函館市弁天町9 寺町通",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e9%ad%9a%e8%a6%8b%e5%9d%82,0 741,船見坂,フナミザカ,"■坂名説明標柱 港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873年)坂上を船見町と名付け、その町に通じる坂なので「船見坂」と呼んだ。また、称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。戦後、上が校地となり坂は途中までとなった。 FUNAMI ZAKA SLOPE The upper part of the slope was named ""Funami cho"" in 1873,because from here one can gain a clear view of all ship movement in the bay.The slope leading to ""Funami cho"" was named ""Funami Zaka"".This slope was also called ""Shomyoji Temple Zaka"",because it is situated at the foot of Shomyoji Temple.After World War Ⅱ,an elementary school was built at the upper part of the slope and consequently the length of slope was reduced.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/741,,函館市,西部地区,函館市弁天町/弥生町,,,未分類,41.7724571,140.7051239,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%88%b9%e8%a6%8b%e5%9d%82,0 743,千歳坂,チトセザカ,"■坂名説明標柱 明治12年(1879年)の大火以後にできた坂で、昔、坂の東側に神社があり、ここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東脇に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであった。 CHITOSE ZAKA SLOPE This slope was built after the great fire in 1879.A long time ago,a shrine was located on the eastern part of this slope and in its precincts,there stood a great pine tree named ""Chitose."" Therefore,the slope was named after this pine tree.Another name for this slope was ""Matsukage Zaka"",literally meaning ""The Slope with the Shade of a Pine Tree."" Before it was called Matsukage ZaKa,this slope had been called ""Kagura Zaka"" associated with the Kagura Den (Shinto music dance) in the shrine.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/743,,函館市,西部地区,函館市弁天町/,,,未分類,41.7720604,140.7057800,,,,,,,"日本, 〒040-0051 北海道函館市弁天町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8d%83%e6%ad%b3%e5%9d%82,0 745,弥生坂,ヤヨイザカ,"■坂名説明標柱 明治12年(1879年)の大火後改良された坂で、それまでは浄玄寺(現東本願寺別院)、称名寺、実行寺が並び、「寺町の坂」といわれた。「弥生」とは、「春」を意味し、発展を祈念して付けられたといわれている。明治15年(1882年)、坂の横に小学校ができ、坂名に因んで弥生小学校と名付けられた。 YAYOI ZAKA SLOPE This slope was remodeled after the big fire in 1879.Up until the fire,it had been called ""Teramachi no Saka"" (""Tera"" means ""Temples""),because Jogenji Temple (now called ""Annex to Higashi Honganji Temple""),Shomyoji Temple and Jitsugyoji Temple were located on this slope.""Yayoi"" means ""Spring"", therefore people named the slope ""Yayoi Zaka Slope,"" wishing for further development.In 1882,an elementary school was founded beside the slope and was named ""Yayoi Elementary School"" after the slope.CITY OF HAKODATE
",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/745,,函館市,西部地区,函館市大町/弥生町/船見町,,,未分類,41.7697830,140.7092743,,,,,,,"日本, 〒040-0056 北海道函館市弥生町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%bc%a5%e7%94%9f%e5%9d%82,0 747,サイベ沢埋立道路開通記念碑,サイベザワウメタテドウロカイツウキネンヒ,"■碑文 (表) サイベ沢埋立道路開通記念 この地は安政6年(1856年)東本願寺の開拓による処で薄紫の花桔梗が咲き乱れいたことから桔梗野と称し先人は艱難辛苦を克服して今日の郷ができた 凡そ5千年前先住民族がこの沢で縄文土器を造り当時の文化の中心地を形成した考古学上貴重な遺跡であるが時代の進展に伴ない機械化と交通スピード化が要請され1964年町道桔梗上磯線より1400米を渡島平野土地改良区の事業として受益者が農道工事組合を結成之が促進を図り更に1965年サイベ沢を埋立て道々上磯湯の川線までの全長2673米総工事費650万円の受益者負担について亀田町は多額の助成をし茲に完成した 本道路が広く地域の開発に裨益することを祈念してこの碑を建立する 昭和41年(1966年)7月27日 建之 渡島平野土地改良区 (裏) 協賛 桔梗道路工事組合 施工 亀田建設",2015年11月24日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/747,748,函館市,北部地区,函館市桔梗町,昭和,,未分類,41.8343697,140.7236633,,,,,,,"日本, 〒041-0801 北海道函館市桔梗町34",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_0721.jpg,IMG_0721.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_0721.jpg,748,IMG_0721,,,サイベ沢埋立道路開通記念碑,%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%99%e6%b2%a2%e5%9f%8b%e7%ab%8b%e9%81%93%e8%b7%af%e9%96%8b%e9%80%9a%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 756,宮本小一の詩碑,ミヤモトコイチノシヒ,"",2015年11月26日,2019年4月12日,http://donan-museums.jp/archives/756,758,函館市,西部地区,函館市谷地頭町1(碧血碑側),明治,明治,"歴史,碑・像",41.7515450,140.7088165,"碧血碑のそばにあるこの碑は、明治初期に外交官として活躍し、のち元老院議官、貴族院議員等を歴任した宮本小一(1836~1916)が、1901年(明治34年)8月に、碧血碑を参詣したときの次の詩が刻まれている。 戦骨全められて収り海勢移り 紛華誰か復た当時を記せん 鯨風鰐雨函山の夕 宿草茫々たり碧血の碑 後に石川啄木も、この碑を題材とした「函館の臥牛の山の半腹の碑の漢詩もなかば忘れぬ」という詩を残している。",,,,,,"日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町1","(表) 戦骨全収海勢移紛華誰復記當時鯨 風鰐雨函山夕宿草茫々碧血碑 明治三十四年八月来展題之 東京鴨北老人宮本小一
",,,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)、「朝日 日本歴史人物事典」(朝日新聞社 1994年),cc-by,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/007.jpg,007.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/007.jpg,758,007,,,,%e5%ae%ae%e6%9c%ac%e5%b0%8f%e4%b8%80%e3%81%ae%e8%a9%a9%e7%a2%91,0 760,碧血碑 三重塔,ヘッケツヒ サンジュウノトウ,"かつて献納されていた臥牛
",2015年11月26日,2019年4月12日,http://donan-museums.jp/archives/760,763,函館市,西部地区,函館市谷地頭町1(碧血碑前),昭和,昭和,碑・像,41.7516212,140.7089233,"かつてここには銅製の牛の像が置かれていた。これは昭和10年(1935)年、箱館戦争の戦死者を悼むとともに、北海の鎮護としての祈りを込めて小樽弘安海が献納したものである。牛の像には人間に労働力や牛乳、肉、皮を提供しくれる牛たちへの供養が表現されている。 付近の子どもたちはこの牛の像の背にのぼって遊び、いつも赤銅色に光っていたという。その後、この銅製の牛は、第2次世界大戦中の1943(昭和18)年、金属供出のために失われため、その代わりにこの三重塔が建てられた。",,,,,,"日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町1","(表) 奉納 大乗妙典 北海鎮護 昭和十八年十二月八日 小樽弘安海建立
(裏) 曩ニ北海鎮護トシテ 公武両軍戦死者 慰霊ノタメ昭和十年曩 銅製ノ臥牛ヲ 此處ニ安置ス 茲ニ大東亜聖戦勃発ニ 伴ヒ 金属回収ノ国策ニ準シ 昭和十 八年夏奉納セリ 依リテ先志ヲ継ギ三 重寶塔ヲ建立シ永ク供養ヲ行フモノナリ
",,,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「大火慰霊堂写真帖」(函館市史編さん室旧蔵),cc-by,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/008.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/008-2.jpg,008.jpg||008-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/008.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/008-2.jpg,763||761,008||008-2,,,||銅製の牛,760,0 767,碧血碑 門燈,ヘッケツヒ モントウ,"",2015年11月26日,2019年4月12日,http://donan-museums.jp/archives/767,769,函館市,西部地区,函館市谷地頭町1(碧血碑前),昭和,大正,"歴史,碑・像",41.7515602,140.7089233,"1936(昭和11)年、当時の函館市長坂本森一と実業家で函館区会議員、函館商工会議所議員などを歴任した宮本武之助が建立したもの。 宮本武之助は、招魂社(現在の函館護国神社)に官軍に祀られるはすでに招魂社に祀られたのに対し、朝敵の誤解は受けたが主君に奉じた将士を、荒涼なこの地に置くのは現代人の道ではないとして、自ら先頭に立って碧血碑の手入れに尽力した。",,,,,,"日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町1","(正面刻字) 獻燈
(向かって左裏面) 函館市長坂本森一
(向かって右裏面) 昭和十一年 宮本武之助",,,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館ゆかりの人物伝 宮本武之助」,cc-by,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako009-2.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako009-3.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako009-1.jpg,hako009-2.jpg||hako009-3.jpg||hako009-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako009-2.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako009-3.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako009-1.jpg,769||770||768,hako009-2||hako009-3||hako009-1,,,||||碧血碑 門燈(向かって右),%e7%a2%a7%e8%a1%80%e7%a2%91%e3%80%80%e9%96%80%e7%87%88,0 779,桜記念植樹(碑),サクラキネンショクジュ(ヒ),"■碑文創立七十五周年記念植樹 函館旅館組合 昭和五十三年五月
■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年11月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/779,780,函館市,西部地区,函館市谷地頭町(碧血碑入口付近),昭和,昭和,碑・像,41.7501450,140.7111969,,,,,,,"日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町2",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako11.jpg,hako11.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako11.jpg,780,hako11,,,,%e6%a1%9c%e8%a8%98%e5%bf%b5%e6%a4%8d%e6%a8%b9%ef%bc%88%e7%a2%91%ef%bc%89,0 782,立待岬の碑,タチマチミサキノヒ,"■碑文(表)
立待岬 函館市長 矢野康書
(裏)
昭和五十三年五月 函館旅館組合創立七十五周年記念
■解説
1978年(昭和53年)5月、函館旅館組合により建立された。立待岬の題字は当時の函館市長矢野康による。
■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年11月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/782,783,函館市,西部地区,函館市(立待岬 はまなす公園),昭和,,碑・像,41.7452774,140.7207947,,,,,,,"日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako012.jpg,hako012.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako012.jpg,783,hako012,,,,%e7%ab%8b%e5%be%85%e5%b2%ac%e3%81%ae%e7%a2%91,0 787,いかつりの句碑,イカツリノクヒ," ■碑文(表)
烏賊つりの 父の灯見分け 子の立てり 竹堂
(裏) 函館情景紹介句碑建設期成会
■解説
この碑は、1978年(昭和53年)6月、函館情景紹介句碑建設期成会により建てられた。 竹堂とは、庭田竹堂のこと。庭田竹堂は、明治36年(1903年)2月、七飯町に生まれる。本名は竹千代。「赤壁」、「さいかち」の函館地方支部長などを務めた。
■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年)",2015年11月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/787,788,函館市,西部地区,函館市(立待岬),昭和,,碑・像,41.7462502,140.7208252,,,,,,,"日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町15−23",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako013.jpg,hako013.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako013.jpg,788,hako013,,,,%e3%81%84%e3%81%8b%e3%81%a4%e3%82%8a%e3%81%ae%e5%8f%a5%e7%a2%91,0 800,御即位記念碑,ごそくいきねんひ,"[caption id=""attachment_1784"" align=""alignnone"" width=""220""] 御即位記念碑 黒岩奇岩[/caption] ",2015年11月27日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/800,1784,八雲町,八雲地区,二海郡八雲町黒岩,大正,大正,碑・像,42.3627281,140.2894897,大正天皇が即位されたことを記念して建てられた碑。黒岩の奇岩の上に建てられている。,,,,,,"日本, 〒049-3341 北海道二海郡八雲町黒岩66","表) 大正四年十一月 御即位記念碑 従四位勲三等 梯原武熊書 (裏) 従七位 木村定五郎(他六十五名余)",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/008御即位記念碑.jpg,008御即位記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/008御即位記念碑.jpg,1784,008御即位記念碑,御即位記念碑 黒岩奇岩,,,%e5%be%a1%e5%8d%b3%e4%bd%8d%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 807,八雲開墾記念碑,ヤクモカイコンキネンヒ,"[caption id=""attachment_806"" align=""alignnone"" width=""300""] 八雲開墾記念碑[/caption] ",2015年11月27日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/807,806,八雲町,八雲地区,,昭和,明治,"歴史,碑・像",42.2558937,140.2660065,八雲を開拓しはじめたことを記念した碑。,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町22","(表) 我八雲はこの所より開かる 明治十一年七月、徳川慶勝公の命により旧尾張藩士は遥かに波涛を凌きて此地に渡り、原始林を伐り氷雪猛獣と闘ひて此地を拓く。而して、ここそ開墾第一の鍬を下したる所なる。記念の為に此碑を建つ。 (裏) 功労者 吉田知行 海部昻蔵 片桐助作 杉立正義 移住者 伊藤新旧(他七八名) 昭和七年五月十五日建設 題額 侯爵徳川義親 (右側) 京四谷 徳川家御用達 北川謹刻 (台石) 建設者 和合会員(六七名) ■解説 (表) 我八雲はこの所より開かる 明治十一年七月、徳川慶勝公の命により旧尾張藩士は遥かに波涛を凌きて此地に渡り、原始林を伐り氷雪猛獣と闘ひて此地を拓く。而して、ここそ開墾第一の鍬を下したる所なる。記念の為に此碑を建つ。 (裏) 功労者 吉田知行 海部昻蔵 片桐助作 杉立正義 移住者 伊藤新旧(他七八名) 昭和七年五月十五日建設 題額 侯爵徳川義親 (右側) 京四谷 徳川家御用達 北川謹刻 (台石) 建設者 和合会員(六七名) ■解説 八雲を開拓しはじめたことを記念した碑。 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品) 2013『三訂八雲町史』 2015『改訂和合会史』 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品) 2013『三訂八雲町史』 2015『改訂和合会史』",,,"2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品) 2013『三訂八雲町史』 2015『改訂和合会史』",,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/DSCF5428s.jpg,DSCF5428s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/DSCF5428s.jpg,806,yakumo001,開墾記念碑,八雲町役場前にある開墾記念碑,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e9%96%8b%e5%a2%be%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 812,旧檜山爾志郡役所庁舎,キュウヒヤマニシグンヤクショチョウシャ,"",2015年11月27日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/812,4003,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町112,,,"建造物,歴史",41.8682365,140.1287842,"当時の北海道庁が明治20年(1887)に建てた郡役所庁舎。 明治時代、全国的に「郡」が行政単位として扱われたことがあり、この庁舎で檜山郡(江差町・上ノ国町・厚沢部町)と爾志郡(乙部町・八雲町の一部)を管轄した。 西洋風建築で建てられ、2階にはバルコニーが設けられ、室内は多様な布クロスが張られている。 郡役所庁舎の後、檜山支庁庁舎や江差町役場分庁舎などで使われた。 道指定有形文化財(平成4年3月31日指定)。",,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町112",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A4349.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_4087.jpg,067A4349.jpg||IMG_4087.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A4349.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_4087.jpg,4003||4004,067A4349||IMG_4087,,,,%e6%97%a7%e6%aa%9c%e5%b1%b1%e7%88%be%e5%bf%97%e9%83%a1%e5%bd%b9%e6%89%80%e5%ba%81%e8%88%8e,0 817,旧中村家住宅,キュウナカムラケジュウタク,"",2015年11月27日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/817,3998,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町22,近世||明治,,"建造物,歴史",41.8691139,140.1287537,"江戸時代末から明治20年代初めにかけて建てられた商家。 「主屋」「文庫蔵」「下ノ蔵」「ハネダシ」の4棟からなり、その4棟を「トオリニワ」と呼ぶ通路で結んでいる。 「主屋」と「文庫蔵」が明治20年代初め、「下ノ蔵」が江戸時代末に建てられた(「ハネダシ」は昭和50年代の復元)。 近江商人の大橋宇兵衛が所有していたが、大正4年に中村米吉へ譲られた。 その後、昭和49年に建物が江差町に寄附され、現在江差町で公開をしている。 国指定重要文化財(昭和46年12月28日指定)。",,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町23",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6357.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A9160.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A1591.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6368.jpg,067A6357.jpg||067A9160.jpg||067A1591.jpg||067A6368.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6357.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A9160.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A1591.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6368.jpg,3998||4001||4000||3999,067A6357||067A9160||067A1591||067A6368,,,,%e6%97%a7%e4%b8%ad%e6%9d%91%e5%ae%b6%e4%bd%8f%e5%ae%85,0 822,石碑「江差追分節記念碑」,セキヒ「エサシオイワケブシキネンヒ」,"",2015年11月27日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/822,1013,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,昭和,明治||大正||昭和,"碑・像,美術・芸能",41.8675156,140.1141357,"昭和7年(1932)に建立された江差追分の記念碑。 現在よく唄われている「鴎の鳴く音に…」の歌詞ではなく、当時よく唄われていた「松前江差の 鴎の島は 地から生えたか 浮島か」の歌詞が記されている。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5512.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5816.jpg,IMG_5512.jpg||IMG_5816.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5512.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5816.jpg,1013||1015,IMG_5512||IMG_5816,,,,%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e8%bf%bd%e5%88%86%e7%af%80%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 824,霰庵の句碑,アラレアンノクヒ,"",2015年11月27日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/824,3818,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町,近世,近世,"歴史,碑・像,美術・芸能",41.8662453,140.1244659,"文化12年(1815)に建てられた句碑。 松尾芭蕉の「いかめしき 音やあられの 桧木笠」の句を刻んでいる。 蕉風俳諧の流れをくむ太呂が江差を訪れ、「霰庵」という俳句結社を作った時に建てられた。 松浦武四郎は、江戸時代末に蝦夷地を訪れた時に記した『再航蝦夷日誌』で、現在地付近にあったこの句碑について記している。 霰庵という庵がある。この庵に篠山という俳人が住んでいたそうだが、今は壊れてしまいない。かたわらに翁塚がある。 明治5年(1872)に火災に遭い、石碑が傷んだ。 昭和6年(1931)に鴎島の厳島神社境内に移されたが、平成24年(2012)に現在地へ移動した。 江差町指定有形文化財(昭和52年2月17日指定)。",,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町97",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/霰庵の句碑_s.jpg,_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/霰庵の句碑_s.jpg,3818,霰庵の句碑_s,,,,%e9%9c%b0%e5%ba%b5%e3%81%ae%e5%8f%a5%e7%a2%91,0 826,石碑「尾山徹三先生之墓」,セキヒ「オヤマテツゾウセンセイノハカ」,"",2015年11月27日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/826,1195,江差町,,北海道檜山郡江差町字緑丘,,,"歴史,碑・像",41.8652725,140.1341095,"明治22年(1889)に建てられた尾山徹三の墓。 天保3年(1832)に福山(松前町)に生まれた尾山徹三は、松前藩士として幕末維新期に活躍するが、明治3年(1870)に家禄を失い江差へ移った。 明治7年(1874)、江差の私宅にて尾山塾を開いた。人気が高まった明治8年(1875)には建物を新設して江明学校と改称した。 明治11年(1878)に公立柏樹学校(今の江差小学校)が開校すると、尾山や子弟も柏樹学校へ移った。 しかし、公立学校になじめなかった尾山は柏樹学校を辞め、明治12年(1879)に江明学校を再開したところ、子弟も復学したという。 明治14年(1881)には私立学校として鴎島学校を開校した。 明治22年(1889)、死去。 尾山の子弟によってこの墓が建てられた。",,,,,,"日本, 〒043-0054 北海道檜山郡江差町緑丘188−23",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5707.jpg,IMG_5707.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5707.jpg,1195,IMG_5707,,,,%e5%b0%be%e5%b1%b1%e5%be%b9%e4%b8%89%e5%85%88%e7%94%9f%e4%b9%8b%e5%a2%93,0 828,厳島神社,イツクシマジンジャ,"",2015年11月28日,2021年7月1日,http://donan-museums.jp/archives/828,3976,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,,,"建造物,歴史",41.8694954,140.1152802,"厳島神社 この神社は、江戸前期に創建された神社で以前は弁天社と称された。場所は何度か移され、現在地には慶応2年(1866年)に移ってきた。現在の建物は明治40年(1907年)の大火後、大正4年(1915年)に建てられたものである。 弁天社は明治4年(1871年)に市杵島神社と改められ、明治35年(1902年)に厳島神社と改称された。 境内には寄進された貴重な遺物が多く、文政6年(1823年)の手水石鉢を始め、天保8年(1837年)に加賀の廻船主たちが寄進した鳥居や、嘉永7年(1854年)に海上安全のため奉納された方位石など、古い建造物がある。この神社は古くから海の守護神として、地元漁業者のみならず、松前をはじめ遠くは北陸、大阪などの商人の尊信を得ていたことが、これらの遺物でわかる。 函館市","严岛神社 此神社前身被称为弁天社,创建于江户前期。经过几次迁址,于庆应2年迁至此地。现建筑建于明治40年(1907年)大火之后的大正4年(1915年)。 弁天社于明治4年(1871年)改为市杵岛神社,明治35年(1902年)改称为严岛神社。 内有众多贵重的捐献遗物,包括文政6年(1823年)的手水石钵(进入神社前净手之用)、天保8年(1837年)加贺货运船主等人捐赠的鸟居、嘉永7年(1854年)祈祷出海安全的方位石,古建筑。此神社自古以来作为大海的守护神,不仅当地渔业渔民,还得到远至松前以及北陆、大阪等地的商人的信奉,可以从这些遗物中窥知。 函馆市","嚴島神社 此神社前身被稱為弁天社,創建於江戶前期。經過幾次遷址,於慶應2年遷至此地。現建築建於明治40年(1907年)大火之後的大正4年(1915年)。 弁天社於明治4年(1871年)改為市杵島神社,明治35年(1902年)改稱為嚴島神社。 內有眾多貴重的捐獻遺物,包括文政6年(1823年)的手水石鉢(進入神社前淨手之用)、天保8年(1837年)加賀貨運船主等人捐贈的鳥居、嘉永7年(1854年)祈禱出海安全的方位石,古建築。此神社自古以來作為大海的守護神,不僅當地漁業漁民,還得到遠至松前以及北陸、大阪等地的商人的信奉,可以從這些遺物中窺知。 函館市 ",,,"ศาลเจ้าอิตสึคุชิมะ ศาลเจ้านี้ เป็นศาลเจ้าที่สร้างขึ้นในช่วงแรกของสมัยเอโดะ ก่อนหน้านี้ถูกเรียกว่า เบ็นเต็นชะ สถานที่ถูกย้ายหลายครั้ง และย้ายมาอยู่ที่ปัจจุบันในปีเคโอที่ 2 (ค.ศ.1866) อาคารปัจจุบันถูกสร้างขึ้นในปีไทโชที่ 4 (ค.ศ.1915) หลังจากเกิดเพลิงไหม้ครั้งใหญ่ในปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) เบ็นเต็นชะ ถูกเปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าอิจิคิชิมะ ในปีเมจิที่ 4 (ค.ศ.1871) และเปลี่ยนชื่อเป็นศาลเจ้าอิตสึคุชิมะ ในปีเมจิที่ 35 (ค.ศ.1902) ภายในศาลเจ้า มีโบราณวัตถุมีค่ามากมายที่ถูกบริจาคมา อ่างน้ำหินในปีบุนเซที่ 6 (ค.ศ.1823), ประตูโทริอิที่เจ้าของเรือสำราญที่คะงะบริจาคในปีเทมโปะที่ 8 (ค.ศ.1837), หินบอกทิศทางที่ถูกมอบเพื่อความปลอดภัยในท้องทะเล ในปีคะเอที่ 7 (ค.ศ.1854) ฯลฯ และสิ่งปลูกสร้างเก่าแก่ ศาลเจ้าแห่งนี้ นอกจากชาวประมงในท้องถิ่นแล้ว ยังมีพ่อค้าจากมัตสึมาเอะ โฮะคุริคุ โอซากา ในฐานะที่เป็นเทพเจ้าปกป้องท้องทะเล เราทราบได้จากมรดกที่เหลืออยู่ในปัจจุบัน","日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,"鴎島の上に建つ。 「福山秘府」によると慶長20年(1615)の建立。 江戸時代は弁才天社(弁天社)と称してしたが、明治時代になり厳島神社と改称した。 北前船の乗組員たちが航海安全を祈念した神社。 毎年7月第1土日に祭礼が行われる。 日曜日の本祭では、厳島神社の祭神を本殿から出して船に乗せ、海上渡御を行う。",,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A1375.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_7270.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5371.jpg,067A1375.jpg||IMG_7270.jpg||IMG_5371.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A1375.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_7270.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5371.jpg,3976||3977||997,067A1375||IMG_7270||IMG_5371,,,,%e5%8e%b3%e5%b3%b6%e7%a5%9e%e7%a4%be-2,0 830,厳島神社 鳥居,イツクシマジンジャ トリイ," ",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/830,3973,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,近世,近世||明治,歴史,41.8694496,140.1154480,天保9年(1838)に、加賀国橋立(石川県加賀市)の船頭たちが寄進した石鳥居。,,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A1408.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/01072728.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/01072727.jpg,067A1408.jpg||01072728.jpg||01072727.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A1408.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/01072728.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/01072727.jpg,3973||1002||1001,"067A1408||OLYMPUS DIGITAL CAMERA||OLYMPUS DIGITAL CAMERA",,,,%e5%8e%b3%e5%b3%b6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%80%80%e9%b3%a5%e5%b1%85,0 832,厳島神社 手水石,イツクシマジンジャ チョウズイシ,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/832,1007,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,近世,近世||明治,"歴史,碑・像",41.8694649,140.1154938,"安政6年(1859)に、江差商人の村上家へ出入していた北前船の関係者たちが寄進した手水石。 上面に方位が刻まれているが、鴎島に碇泊していた北前船の乗組員たちが、方角を確かめて天候予測をしていたと伝わっている。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5303.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5314.jpg,IMG_5303.jpg||IMG_5314.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5303.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5314.jpg,1007||1008,IMG_5303||IMG_5314,,,,%e5%8e%b3%e5%b3%b6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%80%80%e6%89%8b%e6%b0%b4%e7%9f%b3,0 834,瓶子岩,ヘイシイワ,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/834,,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,,,"歴史,生業,自然",41.8679352,140.1157837,"鴎島の脇に建つ岩。 瓶子(へいし)を逆さまにした様な姿であることから名が付いた。 伝説では、折居(おりい)という姥が、神から託された瓶に入っている水を海に注いだところニシンが集まり、江差でニシン漁が盛んになった。 その瓶が岩に化したとされている。 毎年、「かもめ島まつり」が行われている7月第1土曜日に、しめ縄飾りの架け替えが行われる。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_6927-1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A2105.jpg,IMG_6927-1.jpg||067A2105.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_6927-1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A2105.jpg,3971||3970,"IMG_6927 (1)||067A2105",,,,%e7%93%b6%e5%ad%90%e5%b2%a9,0 836,馬岩,ウマイワ,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/836,3968,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,,中世,"歴史,自然",41.8653831,140.1130676,"鴎島南東部にある馬の形をした岩。 鴎島へ向かう埋立道路の突き当りから見ることができる。 江差に伝わる伝説では、源義経は兄の頼朝から逃れ江差へやってきたが、さらに北へと逃げるときに置いていった馬が岩になったものとしている。 江戸時代末に描かれた絵図にも「馬岩」と記されている。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6842.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6839.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/馬岩_絵図_s.jpg,067A6842.jpg||067A6839.jpg||_絵図_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6842.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6839.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/馬岩_絵図_s.jpg,3968||3967||3839,067A6842||067A6839||馬岩_絵図_s,,,,%e9%a6%ac%e5%b2%a9,0 838,沖ノ口役所跡,オキノクチヤクショアト,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/838,,江差町,,北海道檜山郡江差町字津花町,,,歴史,41.8655205,140.1210632,,,,,,,"日本, 〒043-0051 北海道檜山郡江差町津花町 追分ソーランライン",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%b2%96%e3%83%8e%e5%8f%a3%e5%bd%b9%e6%89%80%e8%b7%a1,0 840,江差港防波堤跡,エサシコウボウハテイアト,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/840,1135,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町,,,"建造物,歴史,生業",41.8657570,140.1210632,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町3",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_8748.jpg,IMG_8748.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_8748.jpg,1135,IMG_8748,,,,%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e6%b8%af%e9%98%b2%e6%b3%a2%e5%a0%a4%e8%b7%a1,0 842,アネロイド気圧計,アネロイドキアツケイ," ■碑文 【正面プレート】 「由亡父常澄意志建之 昭和三年四月二十三日 関川常雄」 ",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/842,1137,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町,,,"建造物,生業",41.8658333,140.1213684,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡江差町",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5842.jpg,IMG_5842.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5842.jpg,1137,IMG_5842,,,,%e3%82%a2%e3%83%8d%e3%83%ad%e3%82%a4%e3%83%89%e6%b0%97%e5%9c%a7%e8%a8%88,0 844,北海道始祖折居社旧跡,ホッカイドウシソオリイシャキュウセキ,"■碑文 【正面】 「北海漁祖折居社旧跡」 【裏面】 「昭和六年十一月岩田吉十郎建之」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/844,,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町,,,"生業,碑・像",41.8660278,140.1212921,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡江差町",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e5%a7%8b%e7%a5%96%e6%8a%98%e5%b1%85%e7%a4%be%e6%97%a7%e8%b7%a1,0 846,"石碑「贈従五位 鈴鹿甚右衛門之碑」","セキヒ「ゾウジュゴイ スズカジンエモンノヒ」","",2015年11月28日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/846,3991,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),大正,近世,"歴史,碑・像",41.8664742,140.1248169,"大正5年(1916)に建てられた、鈴鹿甚右衛門を顕彰する石碑。 鈴鹿甚右衛門は江差商人鈴鹿家の6代目。安政4年(1857)に39歳で家督を継いだ。 自家の商いをしながら、渡島半島において狩場山道や鶉山道などの道路整備に尽力した。 しかし、文久元年(1861)に43歳で死去。 大正4年(1915)、大正天皇即位に際して従五位を賜る。 江差町指定有形文化財(平成3年11月26日指定)。",,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_6252.jpg,IMG_6252.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_6252.jpg,3991,IMG_6252,,,,%e9%88%b4%e9%b9%bf%e7%94%9a%e5%8f%b3%e8%a1%9b%e9%96%80%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 848,折居社,オリイシャ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/848,1155,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,"建造物,生業",41.8664474,140.1248627,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_8401.jpg,IMG_8401.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_8401.jpg,1155,IMG_8401,,,,%e6%8a%98%e5%b1%85%e7%a4%be,0 850,天満宮,テンマングウ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/850,1157,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,"建造物,歴史",41.8664589,140.1249084,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_8399.jpg,IMG_8399.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_8399.jpg,1157,IMG_8399,,,,%e5%a4%a9%e6%ba%80%e5%ae%ae,0 852,姥神大神宮(拝殿),ウバガミダイジングウ(ハイデン),"",2015年11月28日,2020年8月6日,http://donan-museums.jp/archives/852,1159,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,"建造物,歴史",41.8665123,140.1250305,"祭神は天照大御神・住吉三柱大神・春日大社(北海道神社庁HPより) 創立年代はわからない。 もともとは、江差町内の津花町の浜手にあり姥神社と称していた。 正保元年(1644)に津花町の浜手から、現在の「能登屋の坂」を少し登った場所へ遷った。「江差屏風」に描かれている姥神社はこの場所。 安永3年(1774)にその場所から現在地へと遷った。 文化14年(1817)に「正一位」の位と「大神宮」の号を賜り、それより正一位姥神大神宮と称する。 明治時代初期の社格は「郷社」だったが、明治17年(1884)には当時の函館県県社となる。 現在はこのような社格は廃止されている。 8月5日に本祭が行われる。 8月9日から11日にかけては姥神大神宮渡御祭が行われる。",,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1613.jpg,IMG_1613.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1613.jpg,1159,IMG_1613,,,,%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%80%e6%8b%9d%e6%ae%bf,0 854,姥神大神宮 本殿,ウバガミダイジングウ ホンデン,立入禁止です。,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/854,,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,未分類,41.8662796,140.1251373,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%80%e6%9c%ac%e6%ae%bf,0 856,姥神大神宮 狛犬,ウバガミダイジングウ コマイヌ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/856,,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,未分類,41.8665543,140.1250000,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%80%e7%8b%9b%e7%8a%ac,0 858,姥神大神宮 玉垣,ウバガミダイジングウ タマガキ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/858,1162,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,その他,41.8665352,140.1250153,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5907.jpg,IMG_5907.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5907.jpg,1162,IMG_5907,,,,%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%80%e7%8e%89%e5%9e%a3,0 860,柾,マサキ," ■説明 姥神大神宮境内にある柾。 御神籤を結ぶための綱が垂れている。 江差町が設置した「保護樹木指定標識」によると、樹齢推定は400年。",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/860,1151,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),,,"その他,自然",41.8665810,140.1250305,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町98",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9935.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9942.jpg,IMG_9935.jpg||IMG_9942.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9935.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9942.jpg,1151||1153,IMG_9935||IMG_9942,,,,%e6%9f%be,0 862,姥神大神宮 手水石,ウバガミダイジングウ チョウズイシ," ■碑文 【正面】 「奉納」 【右側面】 「明治三庚午 正月吉日」 【左側面】 「施主 永滝松太郎」 【裏面】 「ヤママツ(家印)」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/862,1164,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),明治,,その他,41.8666153,140.1248932,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町 いにしえ街道",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5895.jpg,IMG_5895.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5895.jpg,1164,IMG_5895,,,,%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%80%e6%89%8b%e6%b0%b4%e7%9f%b3,0 864,姥神大神宮 鳥居,ウバガミダイジングウ トリイ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/864,1149,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),近世,,建造物,41.8666611,140.1249695,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町 いにしえ街道",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9912.jpg,IMG_9912.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9912.jpg,1149,IMG_9912,,,,%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%80%e9%b3%a5%e5%b1%85,0 866,石碑「県社姥神大神宮」,セキヒ「ケンシャウバガミダイジングウ」," ■碑文 【正面】 「県社姥神大神宮」 【左側面】 「大正四年拾壱月大典紀年」 「正二位勲三等公爵二条基弘謹書」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/866,1146,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町(姥神大神宮境内),大正,大正,"歴史,碑・像",41.8666649,140.1249237,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町 いにしえ街道",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5885.jpg,IMG_5885.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5885.jpg,1146,IMG_5885,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e7%9c%8c%e7%a4%be%e5%a7%a5%e7%a5%9e%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e3%80%8d,0 869,横山家,ヨコヤマケ,"",2015年11月28日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/869,1169,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町45,,,未分類,41.8668900,140.1252136,"道指定有形民俗文化財(昭和38年12月24日指定)。 指定名称「江差姥神町横山家」。",,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町 いにしえ街道",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/DCF00031.jpg,DCF00031.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/DCF00031.jpg,1169,DCF00031.JPG,,120821_101223,,%e6%a8%aa%e5%b1%b1%e5%ae%b6,0 871,祠,ホコラ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/871,,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町,,,未分類,41.8666229,140.1256256,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町 いにしえ街道",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%a5%a0,0 873,江差町会所会館,エサシマチカイショカイカン,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/873,1122,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町76-1,,,建造物,41.8686295,140.1285400,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町76−1",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1790.jpg,IMG_1790.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1790.jpg,1122,IMG_1790,,,,%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e7%94%ba%e4%bc%9a%e6%89%80%e4%bc%9a%e9%a4%a8,0 875,江差道路元標,エサシドウロゲンピョウ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/875,,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町76-1,,,未分類,41.8686600,140.1285553,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町76−1",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e9%81%93%e8%b7%af%e5%85%83%e6%a8%99,0 877,旧九艘川橋欄干,キュウクソウガワバシランカン,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/877,,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町,,,未分類,41.8689194,140.1288300,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町 いにしえ街道",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e4%b9%9d%e8%89%98%e5%b7%9d%e6%a9%8b%e6%ac%84%e5%b9%b2,0 879,土方歳三嘆きの松,ヒジカタトシゾウナゲキノマツ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/879,,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町112,,,"歴史,自然",41.8683357,140.1286926,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町112",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%9c%9f%e6%96%b9%e6%ad%b3%e4%b8%89%e5%98%86%e3%81%8d%e3%81%ae%e6%9d%be,0 881,石碑「江差八勝」,セキヒ「エサシハッショウ」,"",2015年11月28日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/881,1119,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町112,平成,近世,"碑・像,美術・芸能",41.8684616,140.1289368,"平成15年(2003)年に「江差八勝」を顕彰するために建てた石碑。 「江差八勝」とは、弘化4年(1847)に頼三樹三郎など文人8名が、江差の8つの風景を漢詩で詠んだもの。 頼醇「篠山暁雪(ささやまぎょうせつ)」 釋日岱「法華寺霜鐘」(ほっけじそうしょう) 西川雍「鷗島煙檣」(かもめじまえんしょう) 本多覃「津花夜市」(つばなよいち) 簗瀬存愛「大澗遊鷗」(おおまゆうおう) 原元圭「愛宕観欄」(あたごかんらん) 高野慊「乙浦漁火」(おつほいさりび) 齊藤勸「澧橋涼月」(れいきょうりょうげつ)",,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町113−2",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_2310.jpg,IMG_2310.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_2310.jpg,1119,IMG_2310,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e5%85%ab%e5%8b%9d%e3%80%8d,0 883,法華寺,ホッケジ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/883,1124,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町71,,,建造物,41.8663483,140.1265106,,,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町71",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/DCF0008.jpg,DCF0008.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/DCF0008.jpg,1124,DCF00008.JPG,,120820_161905,,%e6%b3%95%e8%8f%af%e5%af%ba,0 885,桜,サクラ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/885,,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町71(法華寺境内),,,自然,41.8664665,140.1262207,,,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町71",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%a1%9c,0 887,石碑「法華寺寛保津波の碑」,セキヒ「ホッケジカンポウツナミノヒ」,道指定有形文化財。,2015年11月28日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/887,,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町71(法華寺境内),近世,近世,未分類,41.8664398,140.1265106,道指定有形文化財(平成4年3月31日指定),,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町71",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e6%b3%95%e8%8f%af%e5%af%ba%e5%af%9b%e4%bf%9d%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e3%81%ae%e7%a2%91%e3%80%8d,0 889,石碑「南無妙法蓮華経」,セヒキ「ナムキョウホウレンゲキョウ」," ■説明 ■碑文 【正面】 「南無妙法蓮華経」 「天下泰平国家安穏海上安全」 「一天四海皆帰妙法大漁円満」 【裏面】",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/889,1321,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町71(法華寺境内),,,碑・像,41.8665581,140.1262970,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡江差町",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/DCF00019.jpg,DCF00019.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/DCF00019.jpg,1321,DCF00019.JPG,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e5%8d%97%e7%84%a1%e5%a6%99%e6%b3%95%e8%93%ae%e8%8f%af%e7%b5%8c%e3%80%8d,0 891,法華寺 山門,ホッケジ サンモン,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/891,1324,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町71(法華寺境内),,,建造物,41.8665009,140.1263123,,,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町71",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9036.jpg,IMG_9036.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9036.jpg,1324,IMG_9036,,,,%e6%b3%95%e8%8f%af%e5%af%ba%e3%80%80%e5%b1%b1%e9%96%80,0 893,石碑「百印百詩」,セキヒ「ヒャクインヒャクシ」,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/893,,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町,,,未分類,41.8660812,140.1252899,,,,,,,"日本, 〒043-0042 北海道檜山郡江差町上野町44",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e7%99%be%e5%8d%b0%e7%99%be%e8%a9%a9%e3%80%8d,0 895,正覚院,ショウガクイン,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/895,,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町271,,,未分類,41.8650246,140.1302490,,,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町271",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%ad%a3%e8%a6%9a%e9%99%a2,0 897,石碑「正覚院寛保津波の碑」,北海道檜山郡江差町字本町271(正覚院境内),,2015年11月28日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/897,,,,,近世,近世,"歴史,碑・像",41.8651009,140.1302338,道指定有形文化財(平成4年3月31日指定),,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町271",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e6%ad%a3%e8%a6%9a%e9%99%a2%e5%af%9b%e4%bf%9d%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e3%81%ae%e7%a2%91%e3%80%8d,0 899,石碑「瓊江丸紀念碑」,セキヒ「タマエマルキネンヒ」,"",2015年11月28日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/899,3867,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町271(正覚院境内),大正,大正,"歴史,碑・像",41.8651352,140.1301422,"瓊江丸の事故による犠牲者を供養するため、明治27年(1894)に建てられた石碑。 明治24年(1891)、江差に本社のあった北海汽船会社所有の瓊江丸が他船と衝突し、乗員乗客261名が溺死する事故があり、犠牲者の供養塔として建てられた。 もとは現在地より高台の地にあったが、建物建設のため昭和43年(1968)に現在地へ移設された。 江差町指定有形文化財(平成3年3月11日指定)。",,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町271",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/たま江丸紀念碑_s.jpg,_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/たま江丸紀念碑_s.jpg,3867,たま江丸紀念碑_s,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e3%81%9f%e3%81%be%e6%b1%9f%e4%b8%b8%e7%b4%80%e5%bf%b5%e7%a2%91%e3%80%8d,0 901,檜山護国神社,ヒヤマゴコクジンジャ,"",2015年11月28日,2020年8月6日,http://donan-museums.jp/archives/901,1172,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町216,,明治||大正||昭和,"建造物,歴史",41.8664932,140.1308136,"祭神は、箱館戦争の新政府軍戦死者92柱、日清・日露戦争戦死者10柱、第2次世界大戦戦死者1305柱(北海道神社庁HPより) 明治2年(1869)、箱館戦争で戦死した新政府軍兵士を祀るために創立した。 5月17日に本祭が行われる。",,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町217",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5752.jpg,IMG_5752.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5752.jpg,1172,IMG_5752,,,,%e6%aa%9c%e5%b1%b1%e8%ad%b7%e5%9b%bd%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 903,石碑「松沢伊八翁紀念碑」,セキヒ「マツザイハチオウキネンヒ」,"",2015年11月28日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/903,1175,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町,明治,明治,"歴史,碑・像",41.8658791,140.1304474,"明治30年(1897)に建てられた、江差商人松澤伊八を顕彰する石碑。 天保6年(1835)に佐渡国(新潟県)で生まれた松澤伊八は、14歳で江差へ渡り、奉公人を経て独立し商人として活躍した。 後年、北海汽船会社を経営している際、所有船の海難事故が続いた中で補償や救済にあたっていたが、明治26年(1893)に死亡した。 碑文は、貴族院議長であった近衛篤麿の書。 江差町指定有形文化財(平成3年11月26日指定)。",,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町231",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5289.jpg,IMG_5289.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5289.jpg,1175,IMG_5289,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e6%9d%be%e6%b2%a2%e4%bc%8a%e5%85%ab%e7%bf%81%e7%b4%80%e5%bf%b5%e7%a2%91%e3%80%8d,0 905,常夜灯,ジョウヤトウ," ■碑文 【正面】 「常夜灯」 【裏面】 「明治三十二年十二月三日建之 (人名略)",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/905,1178,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町,明治,,未分類,41.8658562,140.1303711,,,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町231",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5784.jpg,IMG_5784.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5784.jpg,1178,IMG_5784,,,,%e5%b8%b8%e5%a4%9c%e7%81%af,0 907,石碑「奉読詔妙法蓮華経千部供養書写塔」,," 碑文 【正面】 「卍奉読詔妙法蓮華経千部供養書写塔」 【右面】 「願以此功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道」 【左面】 「願主当山十四■道寿誌焉」 【裏面】 「天保十一庚子年六月十日」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/907,1266,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町271(正覚院境内),近世,,碑・像,41.8651581,140.1298828,,,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町271",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5219.jpg,IMG_5219.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5219.jpg,1266,IMG_5219,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e5%a5%89%e8%aa%ad%e8%a9%94%e5%a6%99%e6%b3%95%e8%93%ae%e8%8f%af%e7%b5%8c%e5%8d%83%e9%83%a8%e4%be%9b%e9%a4%8a%e6%9b%b8%e5%86%99%e5%a1%94%e3%80%8d,0 909,真宗大谷派江差別院,シンシュウオオタニハエサシベツイン,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/909,,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町169,,,未分類,41.8701782,140.1312103,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町169",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%9c%9f%e5%ae%97%e5%a4%a7%e8%b0%b7%e6%b4%be%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e5%88%a5%e9%99%a2,0 911,真宗大谷派江差別院 手水石,シンシュウオオタニハエサシベツイン チョウズイシ,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/911,3964,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町169(真宗大谷派江差別院境内),,,"歴史,碑・像",41.8702393,140.1313019,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町169",,"明治3年(1870)に、永滝松太郎が寄進した手水石。 永滝松太郎は後に江差町長となった。 正面には「江差 御坊」と刻まれている。",,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1657.jpg,IMG_1657.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1657.jpg,3964,IMG_1657,,,,%e7%9c%9f%e5%ae%97%e5%a4%a7%e8%b0%b7%e6%b4%be%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e5%88%a5%e9%99%a2%e3%80%80%e6%89%8b%e6%b0%b4%e7%9f%b3,0 913,石碑「追分祖師 佐之市之碑」,セキヒ「オイワケソシ サノイチノヒ」,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/913,1112,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町(真宗大谷派江差別院墓地内),大正,近世,"碑・像,美術・芸能",41.8700333,140.1317902,"大正15年(1926)に建てられた、江差追分の祖師とされる佐之市を顕彰する石碑。 真宗大谷派江差別院の本堂脇にある階段の上部にある。 佐之市は伝説上の人物。 座頭(目が不自由で芸能をして暮らしていた人)であり、江差へ渡ってきて江差追分を作り上げた人物として語られている。 毎年9月に開催される「江差追分全国大会」に合わせて佐之市の法要が営まれる。",,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町169",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_21391.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_2139.jpg,IMG_21391.jpg||IMG_2139.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_21391.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_2139.jpg,1112||1111,IMG_2139||IMG_2139,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e8%bf%bd%e5%88%86%e7%a5%96%e5%b8%ab%e3%80%80%e4%bd%90%e4%b9%8b%e5%b8%82%e4%b9%8b%e7%a2%91%e3%80%8d,0 915,金剛寺,コンゴウジ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/915,,江差町,,北海道檜山郡江差町字中歌町168,,,未分類,41.8706017,140.1318512,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町168",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e9%87%91%e5%89%9b%e5%af%ba,0 917,豊川神社,トヨカワジンジャ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/917,,江差町,,北海道檜山郡江差町字豊川町,,,未分類,41.8709526,140.1349945,,,,,,,"日本, 〒043-0033 北海道檜山郡江差町豊川町234",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e8%b1%8a%e5%b7%9d%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 919,旧関川家別荘,キュウセキカワケベッソウ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/919,,江差町,,北海道檜山郡江差町字豊川町,,,未分類,41.8722229,140.1385651,,,,,,,"日本, 〒043-0033 北海道檜山郡江差町豊川町55",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e9%96%a2%e5%b7%9d%e5%ae%b6%e5%88%a5%e8%8d%98,0 921,愛宕神社,アタゴジンジャ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/921,,江差町,,北海道檜山郡江差町字愛宕町,,,未分類,41.8745918,140.1338806,,,,,,,"日本, 〒043-0032 北海道檜山郡江差町新栄町237−9",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%84%9b%e5%ae%95%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 923,大澗稲荷神社,オオマイナリジンジャ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/923,,江差町,,北海道檜山郡江差町字大澗町,,,未分類,41.8827019,140.1348114,,,,,,,"日本, 〒043-0026 北海道檜山郡江差町大澗町90",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%a4%a7%e6%be%97%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 925,観音寺,カンノンジ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/925,,江差町,,北海道檜山郡江差町字泊町369,,,未分類,41.8894081,140.1367645,,,,,,,"日本, 〒043-0025 北海道檜山郡江差町泊町369",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e5%af%ba,0 927,岩城神社,岩城神社,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/927,,江差町,,北海道檜山郡江差町字尾山町,,,未分類,41.8962822,140.1404572,,,,,,,"日本, 〒043-0024 北海道檜山郡江差町尾山町96",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%b2%a9%e5%9f%8e%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 929,八幡神社,ハチマンジンジャ,"",2015年11月28日,2020年8月6日,http://donan-museums.jp/archives/929,4073,江差町,,北海道檜山郡江差町字泊町,,,建造物,41.8904953,140.1369324,"祭神は誉田別命・言代主命・倉稲魂命(北海道神社庁HPより)。 創立年代はわからない。 貞享元年(1684)に再建されたとの記録がある。",,,,,,"日本, 〒043-0025 北海道檜山郡江差町泊町 追分ソーランライン",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1470.jpg,IMG_1470.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1470.jpg,4073,IMG_1470,,,,%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 931,八幡神社 鳥居,ハチマンジンジャ トリイ," ",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/931,1108,江差町,,北海道檜山郡江差町字泊町,,,碑・像,41.8905373,140.1368866,,,,,,,"日本, 〒043-0025 北海道檜山郡江差町泊町 追分ソーランライン",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9555.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9557.jpg,IMG_9555.jpg||IMG_9557.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9555.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9557.jpg,1108||1109,IMG_9555||IMG_9557,,,,%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%80%80%e9%b3%a5%e5%b1%85,0 933,田沢稲荷神社,タザワイナリジンジャ,"",2015年11月28日,2020年8月6日,http://donan-museums.jp/archives/933,4075,江差町,,北海道檜山郡江差町字田沢町,,,建造物,41.9001656,140.1404724,"祭神は倉稲魂神・事代主命(北海道神社庁HPより)。 正徳4年(1714)に創立されたとの記録がある。",,,,,,"日本, 〒043-0023 北海道檜山郡江差町田沢町430−2",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1511.jpg,IMG_1511.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_1511.jpg,4075,IMG_1511,,,,%e7%94%b0%e6%b2%a2%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 935,田沢稲荷神社 鳥居,タザワイナリジンジャ トリイ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/935,,江差町,,北海道檜山郡江差町字田沢町,,,未分類,41.9001160,140.1404266,,,,,,,"日本, 〒043-0023 北海道檜山郡江差町田沢町430−2",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%94%b0%e6%b2%a2%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%80%80%e9%b3%a5%e5%b1%85,0 937,トノマのトンネル,トノマノトンネル,"",2015年11月28日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/937,3807,江差町,,北海道檜山郡江差町字田沢町,,,"歴史,自然",41.9024162,140.1371002,海岸線を行き来するために人力で掘られたというトンネル。,,,,,,"日本, 〒043-0023 北海道檜山郡江差町田沢町 追分ソーランライン",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/トノマのトンネル_s.jpg,_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/トノマのトンネル_s.jpg,3807,トノマのトンネル_s,,,,%e3%83%88%e3%83%8e%e3%83%9e%e3%81%ae%e3%83%88%e3%83%b3%e3%83%8d%e3%83%ab,0 939,川裾神社,カワスソジンジャ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/939,1103,江差町,,北海道檜山郡江差町字伏木戸町,,,建造物,41.9120979,140.1410370,,,,,,,"日本, 〒043-0022 北海道檜山郡江差町伏木戸町 追分ソーランライン",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/DSC_0282.jpg,DSC_0282.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/DSC_0282.jpg,1103,DSC_0282,,,,%e5%b7%9d%e8%a3%be%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 941,八幡神社,ハチマンジンジャ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/941,1097,江差町,,北海道檜山郡江差町字柳崎町,,,建造物,41.9223251,140.1443481,,,,,,,"日本, 〒043-0021 北海道檜山郡江差町柳崎町393",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5199.jpg,IMG_5199.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5199.jpg,1097,IMG_5199,,,,%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be-2,0 943,庚申塚,コウシンヅカ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/943,1099,江差町,,北海道檜山郡江差町字柳崎町(八幡神社境内),,,碑・像,41.9222603,140.1442871,,,,,,,"日本, 〒043-0021 北海道檜山郡江差町柳崎町393",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5207.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5203.jpg,IMG_5207.jpg||IMG_5203.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5207.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5203.jpg,1099||1101,IMG_5207||IMG_5203,,,,%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%9a,0 945,地蔵堂,ジゾウドウ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/945,,江差町,,北海道檜山郡江差町字柳崎町,,,建造物,41.9247055,140.1443634,,,,,,,"日本, 〒043-0021 北海道檜山郡江差町柳崎町422",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%a0%82,0 947,石碑「井越和吉翁之碑」,セキヒ「イゴシワキチオウノヒ」,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/947,3960,江差町,,北海道檜山郡江差町字水堀町,昭和,明治,"歴史,生業,碑・像",41.9342957,140.1475525,"昭和25年(1950)11月に建てられた、井越和吉を顕彰する石碑。 井越家は、江戸時代末に越後国(新潟県)蒲原郡森下村から、水田開墾をするために館村(厚沢部町)へ移住した。 その後、井越家は小黒部村(江差町)へ移住して水田開墾を行った。 井越和吉は、寒冷地でも育つ米の品種改良を行い、「井越早稲」の育成に成功した。 碑文は、農林大臣だった廣川弘禅の書。",,,,,,"日本, 〒043-0017 北海道檜山郡江差町水堀町27",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6427.jpg,067A6427.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6427.jpg,3960,067A6427,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e4%ba%95%e8%b6%8a%e5%92%8c%e5%90%89%e7%bf%81%e4%b9%8b%e7%a2%91%e3%80%8d,0 949,石碑「巴まさり顕彰之碑」,セキヒ「トモエマサリケンショウノヒ」,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/949,3958,江差町,,北海道檜山郡江差町字水堀町,昭和,昭和,"歴史,生業,碑・像",41.9342918,140.1474609,"昭和51年(1976)に建てられた、銘柄米「巴まさり」を顕彰する石碑。 北海道農業試験場渡島支場で育成された新品種の米は昭和26年(1951)に銘柄米「巴まさり」と名付けられ、道南を代表する銘柄米として親しまれた。 碑文は竹浪翠堂の書。",,,,,,"日本, 〒043-0017 北海道檜山郡江差町水堀町27",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6439.jpg,067A6439.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6439.jpg,3958,067A6439,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e5%b7%b4%e3%81%be%e3%81%95%e3%82%8a%e9%a1%95%e5%bd%b0%e4%b9%8b%e7%a2%91%e3%80%8d,0 951,石碑「恵水農興」,セキヒ「ケイスイノウコウ」," ■刻文 【正面】 「恵水農興」 「江差町長 木村義信書」 【正面碑文】 「記念碑建立の趣旨 江差町に於ける土地改良事業は道営国体営と数地区実施されてきたが昭和四十年代に入り農業近代化が時代の趨勢となりこれに対処する農業基盤整備事業実施の急務を提唱し地耐力増強地下水排除特に用排水の分離は緊急の課題であったこのことから昭和四十八年四月に町農協及び土地改良区三者による江差町土地改良事業推進本部が発足し二地区道営事業が推進され地帯ごとに順次完了を迎えたこの事業は農林水産省道農地開発部の特段なる御協力を得て此の偉業を後世に残すため碑を建立したものである 昭和六十二年九月十一日 江差町土地改良事業推進本部本部長江差町長木村義信」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/951,1088,江差町,,北海道檜山郡江差町字水堀町,昭和,昭和,"歴史,生業,碑・像",41.9342918,140.1473846,,,,,,,"日本, 〒043-0017 北海道檜山郡江差町水堀町27",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5987.jpg,IMG_5987.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5987.jpg,1088,IMG_5987,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e6%81%b5%e6%b0%b4%e8%be%b2%e8%88%88%e3%80%8d,0 953,砂坂砂防林,スナサカサボウリン,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/953,,江差町,,北海道檜山郡江差町字水堀町,,,自然,41.9372101,140.1437836,,,,,,,"日本, 〒043-0017 北海道檜山郡江差町水堀町51",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e7%a0%82%e5%9d%82%e7%a0%82%e9%98%b2%e6%9e%97,0 955,上林福太郎先生像,カンバヤシフクタロウセンセイゾウ," 学校敷地内のため、見学不可。 ■碑文 【台座正面】 「上林福太郎先生像」 【台座裏面】 「上林先生は江差の人明治二十年五月二十五歳の時現水堀小学校の前身中崎小学校の訓導兼校長として就任以来三十七年間学校教育に専念せられ教化は父子三代に亘って■くまた八十二歳の高齢で永眠されるまで社会教育自治振興産業開発等あらゆることに尽瘁せられ生涯村民の師父と仰がれた七回忌に当る昭和二十七年十一月子弟相計り先生の胸像を建て永くその不滅の偉業を記念する」 「故上林福太郎先生胸像建立費寄附者芳名 (人名略)」 「昭和二十七年十一月二十三日」 「上林先生胸像建設会 会長和島佐久太郎」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/955,1082,江差町,,北海道檜山郡江差町字水堀町147,昭和,明治,碑・像,41.9342194,140.1522827,,,,,,,"日本, 〒043-0017 北海道檜山郡江差町水堀町147",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/R0012350.jpg,R0012350.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/R0012350.jpg,1082,R0012350,,,,%e4%b8%8a%e6%9e%97%e7%a6%8f%e5%a4%aa%e9%83%8e%e5%85%88%e7%94%9f%e5%83%8f,0 957,水堀稲荷神社,ミズホリイナリジンジャ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/957,1086,江差町,,北海道檜山郡江差町字水堀町,,,建造物,41.9339066,140.1593475,,,,,,,"日本, 〒043-0017 北海道檜山郡江差町水堀町343",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9468.jpg,IMG_9468.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9468.jpg,1086,IMG_9468,,,,%e6%b0%b4%e5%a0%80%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 959,豊丘大神,,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/959,1079,江差町,,北海道檜山郡江差町字越前町,,,建造物,41.9279518,140.1754150,,,,,,,"日本, 〒043-0016 北海道檜山郡江差町越前町203",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9472.jpg,IMG_9472.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9472.jpg,1079,IMG_9472,,,,%e8%b1%8a%e4%b8%98%e5%a4%a7%e7%a5%9e,0 961,石碑「開拓碑」,セキヒ「カイタクヒ」,"",2015年11月28日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/961,3956,江差町,,北海道檜山郡江差町字越前町,昭和,近世||明治,"生業,碑・像",41.9278755,140.1754761,"昭和30年(1955)2月に建てられた、当地での水田開墾を顕彰する石碑。 江戸時代末、松前藩が厚沢部川の流域で水田開墾を始めたが、その際に本州から農夫を移住させた。 碑文によると、この地域には文久2年(1863)に越前国(福井県)丹生郡から7戸の農家が移住して開墾を行った。 それにより、この地域は越前町と名付けられた。",,,,,,"日本, 〒043-0016 北海道檜山郡江差町越前町203",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/067A6450.jpg,067A6450.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/067A6450.jpg,3956,067A6450,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e9%96%8b%e6%8b%93%e7%a2%91%e3%80%8d,0 963,稲荷大明神,イナリダイミョウジン,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/963,1035,江差町,,北海道檜山郡江差町字中網町,,,建造物,41.9239998,140.1884766,,,,,,,"日本, 〒043-0015 北海道檜山郡江差町中網町 道道935号線",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_7910.jpg,IMG_7910.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_7910.jpg,1035,IMG_7910,,,,%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e5%a4%a7%e6%98%8e%e7%a5%9e,0 965,稲荷大明神 狛犬,イナリダイミョウジン コマイヌ," ",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/965,1037,江差町,,北海道檜山郡江差町字中網町,,,碑・像,41.9240036,140.1884308,,,,,,,"日本, 〒043-0015 北海道檜山郡江差町中網町 道道935号線",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9526.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9525.jpg,IMG_9526.jpg||IMG_9525.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9526.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9525.jpg,1037||1038,IMG_9526||IMG_9525,,,,%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e5%a4%a7%e6%98%8e%e7%a5%9e%e3%80%80%e7%8b%9b%e7%8a%ac,0 967,若宮神社,ワカミヤジンジャ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/967,,江差町,,北海道檜山郡江差町字小黒部町,,,建造物,41.9286766,140.2071686,,,,,,,"日本, 〒043-0014 北海道檜山郡江差町小黒部町199",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e8%8b%a5%e5%ae%ae%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 969,大円寺,ダイエンジ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/969,1030,江差町,,北海道檜山郡江差町字小黒部町191,,,建造物,41.9296112,140.2071228,,,,,,,"日本, 〒043-0014 北海道檜山郡江差町小黒部町119",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5114.jpg,IMG_5114.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5114.jpg,1030,IMG_5114,,,,%e5%a4%a7%e5%86%86%e5%af%ba-2,0 973,庚申塔,コウシントウ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/973,1033,江差町,,北海道檜山郡江差町字小黒部町,,,建造物,41.9282455,140.2110748,,,,,,,"日本, 〒043-0014 北海道檜山郡江差町小黒部町 道道460号線",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5099.jpg,IMG_5099.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5099.jpg,1033,IMG_5099,,,,%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%94,0 975,大谷地速玉稲荷神社,オオヤチハヤタマイナリジンジャ," ",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/975,1027,江差町,,北海道檜山郡江差町字朝日町,,,建造物,41.9416428,140.1941376,,,,,,,"日本, 〒043-0013 北海道檜山郡江差町朝日町105",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5127.jpg,IMG_5127.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5127.jpg,1027,IMG_5127,,,,%e5%a4%a7%e8%b0%b7%e5%9c%b0%e9%80%9f%e7%8e%89%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 977,大山神社,オオヤマジンジャ,"",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/977,1025,江差町,,北海道檜山郡江差町字鰔川町,,,建造物,41.9543190,140.1949463,,,,,,,"日本, 〒043-0012 北海道檜山郡江差町鰔川町624",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5170.jpg,IMG_5170.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5170.jpg,1025,IMG_5170,,,,%e5%a4%a7%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 979,石碑「畜霊塔」,セキヒ「チクレイトウ」," ■碑文 (正面) 「畜霊塔」 「蘇洞書」 (裏面) 「昭和三十四年五月九日 江差畜産振興会建立」 「寄附者芳名 (人名多数略)」 「施工者 紺谷松雄」",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/979,989,江差町,,北海道檜山郡江差町字鰔川町(逆川公園内),昭和,,"生業,碑・像",41.9491425,140.1667480,,,,,,,"日本, 〒043-0012 北海道檜山郡江差町鰔川町1216",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9481.jpg,IMG_9481.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_9481.jpg,989,IMG_9481,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e7%95%9c%e9%9c%8a%e5%a1%94%e3%80%8d,0 983,本多家墓所,ホンダケボショ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/983,,江差町,,北海道檜山郡江差町字緑丘,,,未分類,41.8664970,140.1321869,,,,,,,"日本, 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町174−35",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%9c%ac%e5%a4%9a%e5%ae%b6%e5%a2%93%e6%89%80,0 985,旧賢光稲荷神社,キュウケンコウイナリジンジャ,,2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/985,,江差町,,北海道檜山郡江差町字新地町,,,建造物,41.8637772,140.1293793,,,,,,,"日本, 〒043-0053 北海道檜山郡江差町新地町105",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%97%a7%e8%b3%a2%e5%85%89%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 987,函港新渠碑,カンコウシンキョヒ,"■碑文 (表) 函港新渠碑 仏法東漸幾二千年矣分派支流彌蔓海内雖窮荒幽僻莫不奉 香火修礼念唯蝦夷孤懸北溟未霑法雨風俗冥頑固守陋習人 死則焚蕩慮舎瘞埋衣器無棺無槨不樹不封飲酒茹肉雖父母 若路人然譬諸夫仏在霊山明星末出天魔外道尚奏楽也文化 初政欲革其弊創立三寺以誘化其俗然旧習因仍迷霧難開祟 信其教特不過上国人居留其地者也 本願寺大法主廣如上 人有慨於此夙欲転法輪化夷風会 官復開拓蝦彊乃建白得 允創建精舎於函府又新開鑿溝渠引亀田河流以注港口於是 可以運可以汲遠近為最便為之移居者数十家大抵淨侶緇流 依人為衣食募縁以修寺観者比比皆是也今 大法主反之損 私財而通河流創梵刹而揚宗風上報恩徳下救昏迷其済生利 用不亦大乎推而充之俾斬髪黥脣之徒遷善帰厚披迷霧得正 覚可期而待也是豈可無銘哉銘曰 仏法悠邈 衰旺不均 澆風濁世 法網難振 為河為岳 薆流情塵 況茲荒裔 蠢爾毛人 愼終追遠 一無奉遵 焚廬瘞器 不顧其親 言乃不祖 艴然輙瞋 仏法弘宣 有縁有因 浮此寶筏 済被迷津 陋習年革 宗風曰新 抜苦与楽 何啻後身 湯湯流水 于江于浜 遐邇汲引 枯樹遇春 大哉功徳 聊刊貞珉 万延紀元庚申臘月 茶渓鈴木重尚撰 (裏) 龍谷 大夫従五位下陸奧守橘朝臣正辰 建 用人 大喜多左司馬平巖 書 (台座裏) 大坂南堀江二丁目 石工 和泉屋為吉 ■観光説明板 浄土真宗本願寺派の蝦夷地開教は、松前藩の宗教政策により寺院の建立や布教活動が長く禁止されていた。 安政4(1857)年、江戸幕府より本願寺派北海道開教の公許を得ると、陸奥國(現青森県)願乗寺住職の次男堀川乗経が、本願寺第20代宗主広如上人の命を受け、当時の箱館地蔵町(現函館市東川町)に願乗寺休泊所を創設した。これが後に本願寺派道内最初の別院となる「本願寺函館別院」の始まりである。 堀川乗経はその他にも、当時函館が深刻な飲料水不足に直面していたことから、五稜郭城の工事で有名であった松川弁之助に相談し、現在の亀田川から中の橋を経て高砂通りに全長2,900m、幅8m、橋梁8箇所を設け、工事費7,300余両を費やした掘削工事を僅か7ヵ月で竣工させ、現在の函館市街地形成の礎を築いた。人々はこの川を「願乗寺川」と呼び、明治22(1889)年、函館市に上水道が完工しこの川が埋め立てられるまで広く市民に親しまれた。 この石碑は、当時の箱館奉行所支配調役鈴木重尚(茶溪)が願乗寺川掘削の偉業を讃えたもので「願乗寺川」を実証する唯一の金石文である。函館市
Monument of New Waterway into Harbor of HakodateThe Hongwanji denomination of the Jodo Shinshu (True Pure Land) sect of Buddhism was not permitted to build temples or engage in missionary activities in Ezo (now Hokkaido) by the Matsumae Clan,which ruled Ezo during the Tokugawa era. In 1857,this restriction was lifted by the shogunate government.Horikawa Jokyo,the second son of the head priest of Ganjoji Temple in Mutsu (Aomori Prefecture),received orders from the 20th generation leader Konyo,and came to Hakodate to found the rest hut of Ganjoji Temple in Jizo-machi (now Higashikawa-cho).The rest hut became the first branch temple of the Hongwanji denomination in Ezo,and is now known as Hongwanji Temple,Hakodate Branch. After seeing that Hakodate was severely short of drinking water,Horikawa Jokyo consulted with Matsukawa Bennosuke,a civil engineer whose skills had become renowned during the construction of Goryokaku Fort,and commissioned him to dig a watercourse.It was 2,900 meters long and 8 meters wide,and spanned by 8 bridges.The construction took as little as 7 months at the considerable cost of just over 7,300 ryo.The project involved diverting the Kameda River through Nakanohashi along what is now Takasago Street all the way to the harbor. People called the waterway the Ganjoji River, and appreciated it until it was filled in in 1889,when the water works was installed.The watercourse laid a foundation for urban development in the city. Suzuki Shigenao (Chakei),inspector of the administration of Hakodate Magistrate’s Office,had this stone monument built to commemorate the construction of the Ganjoji River.It is the only official reference to the project in existence.
City of Hakodate
明治5年頃の願乗寺川(函館市中央図書館所蔵) 赤線が願乗寺川の流路(現在の高砂通り) ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「函館の史蹟と名勝」、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2015年11月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/987,2506,函館市,西部地区,函館市東川町12-12(本願寺函館別院),近世,明治||大正,"歴史,碑・像",41.7641907,140.7225647,,,,,,,"日本, 〒040-0042 北海道函館市東川町12−14",,,,,,okuno.s,画像2点まだない,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako096-e1473108670451.jpg,hako096-e1473108670451.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako096-e1473108670451.jpg,2506,hako096,,,,%e5%87%bd%e6%b8%af%e6%96%b0%e6%b8%a0%e7%a2%91,0 1023,北前船飲用の井戸,キタマエブネインヨウノイド,"",2015年11月29日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1023,1022,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,明治,明治,歴史,41.8674202,140.1152649,,,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5350.jpg,IMG_5350.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/IMG_5350.jpg,1022,IMG_5350,,,,%e5%8c%97%e5%89%8d%e8%88%b9%e9%a3%b2%e7%94%a8%e3%81%ae%e4%ba%95%e6%88%b8,0 1047,砂山影二の歌碑,スナヤマカゲジノカヒ," ",2015年11月29日,2021年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/1047,1048,函館市,西部地区,函館市住吉町16(住吉墓地内),昭和,大正,碑・像,41.7469673,140.7199249,"砂山影二の歌碑 砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918年)に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍した。 石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に壊疑的であった影二は、大正10年(1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。 この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。 函館市","砂山影二之歌碑 砂山影二(本名、中野寅雄)大正7年(1918年)加入并活跃于大正在函馆创刊的文艺杂志《银壶》。 他深深崇拜石川啄木,倾倒于他的短歌,从他的作品中可以窥视到石川啄木影响。对人生持怀疑态度的砂山影二于大正10年(1921年)从青函联络船投海,结束了其年仅20岁的生命。 此诗歌为《坊ちゃんの歌集》的前文,歌碑是昭和43年(1968年)时由海峡评论社与函馆图书里会所建。 函馆市","砂山影二之歌碑 砂山影二(本名、中野寅雄)大正7年(1918年)加入並活躍於大正在函館創刊的文藝雜誌《銀壺》。 他深深崇拜石川啄木,傾倒於他的短歌,從他的作品中可以窺視到石川啄木影響。對人生持懷疑態度的砂山影二於大正10年(1921年)從青函聯絡船投海,結束了其年僅20歲的生命。 此詩歌為「坊ちゃんの歌集」的前文,歌碑是昭和43年(1968年)時由海峽評論社與函館圖書裡會所建。 函館市",,,"อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนของซึนะยามะ คาเงะจิ ซึนะยามะ คาเงะจิ (ชื่อจริง นาคาโนะ โทราโอะ) มีบทบาทในฐานะสมาชิกคนหนึ่งของวารสารวรรณกรรม ""กิงโนะทสึโบะ"" ที่ตีพิมพ์ครั้งแรกที่ฮาโกดาเตะในไทโชที่ 7 (ค.ศ.1918) เนื่องจากเขาเคารพเทอดทูนอิชิกาวะ ทาคุโบะคุเป็นอย่างมาก และทุ่มเทให้กับกลอนสั้น(ทังกะ)นั้น จึงมองเห็นอิทธิพลของทาคุโบะคุในผลงานของเขา คาเงะจิผู้มีความสงสัยในชีวิตของตน ได้กระโดดออกจากเรือข้ามเกาะเซคังในปีไทโชที่ 10 (ค.ศ.1921) เสียชีวิตด้วยอายุเพียง 20 ปี กลอนบทนี้อยู่ในช่วงเริ่มต้นของ ""รวมบทกลอนของโบ๊จจัง"" อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนถูกสร้างขึ้นในปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) โดยนักวิจารณ์ไคเคียวและชมรมหอสมุดฮาโกดาเตะ","日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町16","(表)
砂山影二 わがいのち この海峡の浪の間に 消ゆる日を想ふ ――岬に立ちて
(裏)昭和四十三年五月十六日建之 図書裡会 海峡評論社
","砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壷」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。 この歌は「坊っちやんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968)年、海峡評論社と図書裡会が建立した。 函館市■追加解説
砂山影二(1902年~1921年)は、函館市で生まれ、庁立函館中学校を中退、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壷」の同人として活躍した。",,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年),,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako016.jpg,hako016.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako016.jpg,1048,hako016,,,砂山影二の歌碑,%e7%a0%82%e5%b1%b1%e5%bd%b1%e4%ba%8c%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91-2,0 1143,開陽丸青少年センター,カイヨウマルセイショウネンセンター,"",2015年12月2日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1143,1144,江差町,,北海道檜山郡江差町字姥神町1-10,,,"建造物,歴史",41.8658905,140.1172638,,,,,,,"日本, 〒043-0041 北海道檜山郡江差町姥神町1−10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_2356.jpg,IMG_2356.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_2356.jpg,1144,IMG_2356,,,,%e9%96%8b%e9%99%bd%e4%b8%b8%e9%9d%92%e5%b0%91%e5%b9%b4%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc,0 1181,新政府軍墓所の手洗石,シンセイフグンボショノチョウズイシ,"",2015年12月3日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/1181,3954,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町,明治,明治,"歴史,碑・像",41.8663025,140.1307220,"明治2年(1869)5月に建てられた手洗石。 箱建戦争で戦死した新政府軍兵士の墓所にある。 新政府軍兵士の墓所は諸藩ごとに区画されていて、この手水石は長州藩の区画内にある。 「長州整武隊長中」と刻まれている。",,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町217",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/067A4820.jpg,067A4820.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/067A4820.jpg,3954,067A4820,,,,%ef%bc%88%e6%89%8b%e6%b0%b4%e7%9f%b3%ef%bc%89,0 1184,新政府軍墓所の石灯籠,シンセイフグンボショノイシドウロウ," ■碑文(2基とも) 【正面】 「奉灯山口藩」 【右側面】 「明治四年辛未四月」 ■寸法 高165cm",2015年12月3日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/1184,1185,江差町,,北海道檜山郡江差町字本町,明治,明治,"歴史,碑・像",41.8663177,140.1307373,"明治4年(1871)4月に建てられた石灯籠。 箱館戦争で戦死した新新政府軍兵士の墓所にある。 新政府軍兵士の墓所は諸藩ごとに区画されていて、この石灯籠は長州藩の区画内にあり、「奉燈山口藩」と刻まれている。",,,,,,"日本, 〒043-0043 北海道檜山郡江差町本町217",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5225.jpg,IMG_5225.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5225.jpg,1185,IMG_5225,,,,%ef%bc%88%e7%9f%b3%e7%81%af%e7%b1%a0%ef%bc%89,0 1198,庚申塔,コウシントウ," ■碑文 (正面) 「庚申」",2015年12月4日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1198,1199,江差町,,北海道檜山郡江差町字陣屋町,,,碑・像,41.8585548,140.1293488,,,,,,,"日本, 〒043-0056 北海道檜山郡江差町陣屋町383",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5577.jpg,IMG_5577.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5577.jpg,1199,IMG_5577,,,,%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%94-2,0 1205,"函館市道路元標 ",ハコダテシドウロゲンピョウ,"■碑文
(表)
函館市道路元標
(裏)
昭和三年建設 北海道庁
■解説
国道四号が認定されると、北海道の道路の基点として、 ここに道路元標が建てられた。 ■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年12月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1205,1206,函館市,西部地区,北海道函館市末広町24,昭和,昭和,碑・像,41.7672348,140.7135315,,,,,,,"日本, 〒040-0053 北海道函館市末広町24",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako027.jpg,hako027.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako027.jpg,1206,hako027,,,函館市道路元標,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e9%81%93%e8%b7%af%e5%85%83%e6%a8%99,0 1208,"ペリー来航百年記念碑(アメリカ水兵の追悼碑) ",ペリーライコウヒャクネンキネンヒ(アメリカスイヘイノツイトウヒ)," ■碑文 (表) ″Sleeping on a foreign shore, Rest,sailor,rest! thy trial o'er; Thy shipmates leave this token here, That some,perchance,may drop a tear, For one that braved so long the blast, And served his country to the last″ (裏) 外つ国の海辺に眠り 憩へかし 舟人よ憩へかし 汝が試煉(こころみ)は果てたり 汝が友の舟人等はこの記念(かたみ)を ここに残せり 涙そそぐ人もありなん 幾年か雨風をしのぎ 祖国のために生命(いのち)献げし人に 土谷喬雄 玉城肇訳 この碑文は安政元年(一八五四)ペリーが箱館 に来航したとき、不幸病死したヴァンダリヤ 号乗組のジェームズ・G ウォルフ(五十歳)と G W・レミック(十九歳)の二水兵の霊に対 し同艦乗組員が心から敬意を払って 献げたものである本日を卜してペリー箱 館来航百年祭を行うに当り、石に刻ん で永く記念とする次第である 昭和二十九年七月十七日 函館市長 宗藤大陸 ■解説 安政元年(1854年)4月、アメリカ合衆国提督ペリーが艦隊を率いて箱館へ入港したとき、不幸にもバンダリヤ号の水兵J・G・ウォルフ(55歳)とG・W・レミック(19歳)が、相次いで病死した。応対する松前藩にとっては、全く異例のことだったが、下田・横浜でも前例があるということなので、その要請に応じて埋葬の場所を指図し、4月30日と5月2日にそれぞれ埋葬が行われた。ペリー艦隊はこの地を去るにあたって、白ペンキ塗の木板を設置して、異国に眠る2人の友を弔うため、追悼文を刻んだ記念碑の設置を依頼したが、結局この依頼が、すぐに実行されることはなかった。 100年後の昭和29年(1954年)、ペリー来港100年記念祭にあたって、この碑が建立されることになり、7月17日、船見町の外国人墓地にたたずむ2人の墓碑の傍らで除幕式が行われた。詩は「ペリー提督日本遠征記」のなかに記されていたものである。■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、『函館市史』通説編第2巻(函館市 1990年)、昭和29年7月18日・18日(夕刊)付「北海道新聞」",2015年12月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1208,1211,函館市,西部地区,北海道函館市船見町23(外国人墓地(プロテスタント)内),昭和,近世,碑・像,41.7679710,140.6968689,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,,,,,okuno.s,"アメリカ水兵の墓 DEPARTED THIS LIFE MAY 25th 1854 JAMES.G.WOLFE SEAMANONBOARD U.S.S. VANDALIA A GET 50YRS (訳) 米艦ヴンダリア号乗組水兵ジェームズ・G・ウォルフ一千八百五十四年(安政元年) 五月二十五日死去 享年五十歳 SACRED TO THE MEMORY OF G.W.REMICK A SEAMANON BOARD THE U.S.S. VANDALIA MAY 27 1854 A GET 50YRS (訳) 米艦ヴンダリア号乗組水兵ジー・W・レミック 埋葬記念一千八百五十四年(安政元年)五月二十七日 享保十九歳 享年五十歳 参考文献 函館市史資料集第27集",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako028.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako028-2.jpg,hako028.jpg||hako028-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako028.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako028-2.jpg,1211||1214,hako028||hako028-2,,,ペリー来航百年記念碑(アメリカ水兵の追悼碑)||2人の水兵の墓,%e3%83%9a%e3%83%aa%e3%83%bc%e6%9d%a5%e8%88%aa%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91%ef%bc%88%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e6%b0%b4%e5%85%b5%e3%81%ae%e8%bf%bd%e6%82%bc%e7%a2%91%ef%bc%89,0 1222,"武藤善友歌碑 ",ムトウゼンユウカヒ,"■碑文
(石柱・表)
武藤善友歌碑
(石柱・裏)
平成十四年七月二十三日 北海道アララギ会員 建立 並びに有志一同 中村朝山謹書
(石碑・表)
山の手の 町に日のくれ 鳴りひびく キリストの鐘 仏教の鐘 善友
(石碑・裏)
清く澄んで 調べ高い 先生の歌を 永久にたたえる 昭和四十六年七月二十五日建立 北海道アララギ会 会員並に有志一同
■解説
武藤善友(ぜんゆう 1900年~1971年、秋田県生まれ)は、昭和7年(1932年)から慈教寺(現北斗市)住職を経て、昭和11年(1936年)からは称名寺の住職を務めた。大正8年(1919年)、「アララギ」に入会して、創作活動を続け、昭和6年(1931年)に「北海道アララギ」を創刊・主催、昭和9年(1934年)からはアララギ北海道歌会を開催した。同会での活動や歌集「たらちね」、「忍冬草」 を刊行するなど、函館歌壇の発展に尽くし、昭和44年(1969年)には函館市文化賞を受賞した。
■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、『文化賞に輝く人びと』(函館文化会 1981年)、『北海道文学大事典』(北海道新聞社 1985年)",2015年12月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1222,1223,函館市,西部地区,北海道函館市豊川町15(グリーンベルト内),昭和||平成,大正||昭和,碑・像,41.7654533,140.7210388,,,,,,,"日本, 〒040-0065 北海道函館市豊川町15",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako032.jpg,hako032.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako032.jpg,1223,hako031,,,武藤善友歌碑,%e6%ad%a6%e8%97%a4%e5%96%84%e5%8f%8b%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1231,函館市指定天然記念物 「大船の杉」大樹,オオフネノスギタイジュ," ",2017年7月2日,2017年7月2日,http://donan-museums.jp/archives/1231,3142,函館市,南茅部地区,函館市大船町,,明治,自然,41.9602394,140.9209595,"1875年(明治8)に北海道が実施した第1回造林事業で植栽された スギで、樹齢は140年を超えます。説明板に記載された胸高直径・ 樹高は1975年(昭和50)当時の数値で、現在は計測されていない ものの、直径は1mを、樹高は17mを遙かに上回ります。 南茅部地域でも大船地区はスギ植樹の盛んな地域で、その端緒 とも言える記念碑的な大樹です。近隣には、地域の指標林となる 北海道指導林家の展示林(スギ人工林)があります。",,,,,,"日本, 〒041-1622 北海道函館市大船町94",,"大船の杉記念保護樹木 所在地 南茅部町 樹 種 スギ 胸高直径1m 樹高17m 推定樹齢 約100年 由緒由来 北海道における第1回造林事業実施の際植栽したもので、 本道の造林事業の歴史を物語るスギとして、町を代表する巨樹です。昭和50年6月21日指定
北 海 道
",,,,hakohaku,"画像×2点,本文,位置情報 未登録 制作時代 ?",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/「大船の杉」小.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/P1000986.jpg,.jpg||P1000986.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/「大船の杉」小.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/P1000986.jpg,3142||3143,「大船の杉」(小)||P1000986,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e6%8c%87%e5%ae%9a%e5%a4%a9%e7%84%b6%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%89%a9%e3%80%80%e3%80%8c%e5%a4%a7%e8%88%b9%e3%81%ae%e6%9d%89%e3%80%8d%e5%a4%a7%e6%a8%b9,0 1235,函館市役所阯,ハコダテシヤクショアト,"■碑文
(表) 函館市役所阯 (左側) 昭和十九年四月函館市役所建立 (裏) 相馬哲平氏 函館区役所敷地トシテ豊川町二 四百余坪ノ土地ト建築費ノ一部ヲ寄附シ同年十二月新庁舎成ル 昭和九年三月ノ大火ニ 類焼シ土地区画整備ニヨリ 民有地ニ換地セラル 明治三十五年二月 初代 相馬哲平氏■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年12月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1235,1236,函館市,西部地区,北海道函館市豊川町23,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,41.7668343,140.7217712,,,,,,,"日本, 〒040-0065 北海道函館市豊川町23",,,,,,okuno.s,"写真要更新 側面碑文内容現物未確認",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako0321.jpg,hako0321.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako0321.jpg,1236,hako032,,,函館市役所阯,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e5%bd%b9%e6%89%80%e9%98%af,0 1238,樺太引揚者上陸記念碑,カラフトヒキアゲシャジョウリクキネンヒ,"■碑文
(表)
樺太引揚者上陸記念碑
(裏)
北海道知事 堂垣内尚弘書 昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結の詔勅が渙發せられ樺太はソ連軍の占領する地となった。当時在留日本人は約四十万人終戦前後の混乱期に樺太廳は老幼婦女子の緊急疎開を実施したが漸次それも不可能となり残留者は一日千秋の思ひで祖國への帰還を待った。昭和二十一年十二月五日第一次引揚船が真岡より函館港に接岸してから第五次最終引揚船に至るまで當地に上陸した引揚者の総数は三十一万一千四百五十二人であってその再生の第一歩を印したこの地に樺太引揚者上陸記念碑を建立し併せて不幸引揚船中に於て死亡せられた百五十六名上陸後病院にて死亡せられた九百二十三名合計一千七十九名がこの地に眠る。仍て有志相諮り永久にこれら犠牲者の靈を弔ふ 昭和五十二年九月十二日 社団法人全国樺太連盟 函館支部長 寺田稔
■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年12月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1238,1239,函館市,西部地区,函館市大手町(市役所前グリーンベルト内),昭和,昭和,"歴史,碑・像",41.7702408,140.7257996,,,,,,,"日本, 北海道函館市 東雲広路",,,,,,okuno.s,"旧看板?2004年時点では建っていた。現在は未確認 樺太引揚者上陸記念碑 昭和二十年八月終戦ともに樺太島民は緊急疎開のため全財産を捨て裸一貫祖国に引揚を開始したが宗谷海峡の閉鎖により航行は中断された。待望の引揚再開が昭和二十一年十二月より実現し、第一次より第五次に亘り函館に上陸したもの総数三十一万一千四百余名であってその中、祖国を目前にして不幸病魔のため船中で死亡したもの及び市内の病院等にて死亡したもの 総計一千七十余名がこの地に眠っている。 この歴史的引揚上陸地を記念し、あわせて引揚犠牲者の霊を慰めるため引揚三十周年を記念し函館市その他の賛助と全国樺太引揚者有志の浄財を得て、樺太連盟函館支部が昭和五十二年九月之を建立したものである。 社団法人 全国樺太連名函館支部",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako033.jpg,hako033.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako033.jpg,1239,hako033,,,樺太引揚者上陸記念碑,%e6%a8%ba%e5%a4%aa%e5%bc%95%e6%8f%9a%e8%80%85%e4%b8%8a%e9%99%b8%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1241,白雲桜の碑,ハクウンロウノヒ," ■碑文 (表) 白雲桜 (裏) 故函館市長坂本森一嗣子坂本遵寄贈 碑名中白雲は故人の號に因んだものである 昭和二十三年春植樹 函館市長 宗藤大陸題竝書 ■解説 建立者:星野清治 ■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2015年12月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1241,1242,函館市,西部地区,北海道函館市東雲町(市役所前グリーンベルト内),昭和,昭和,碑・像,41.7700844,140.7263947,,,,,,,"日本, 〒040-0063 北海道函館市若松町 東雲広路",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako034.jpg,hako034.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako034.jpg,1242,hako034,,,白雲桜の碑,%e7%99%bd%e9%9b%b2%e6%a1%9c%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1244,明治天皇行幸記念碑,メイジテンノウギョウコウキネンヒ," ■碑文 (表) 明治天皇行幸記念碑 北海道廳長官戸塚九一郎謹書 (裏) 明治九年七月十六日開拓使函館支廳ニ行幸アラセラル 昭和十五年七月十六日 建之 渡島支廳長 森本正雄 謹書 ■解説 この碑は、渡島支庁や関係町村役場員により建立された碑で、昭和15年7月16日に除幕式が行われた。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第27集函館市史編纂委員会)",2015年12月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1244,1245,函館市,西部地区,北海道函館市元町12(元町公園内),昭和,明治,碑・像,41.7658195,140.7096710,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町12",,,,,,okuno.s,解説文に続き、……しかしいまでは取除かれて行方不明である。(「函館市史資料集」第27集)、当時は渡島支庁構内か,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/hako035.jpg,hako035.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/hako035.jpg,1245,hako035,,,明治天皇行幸記念碑,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e8%a1%8c%e5%b9%b8%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1247,柏森神社,カシワモリジンジャ,"",2015年12月7日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1247,,江差町,,北海道檜山郡江差町字柏町,,,建造物,41.8481789,140.1261902,,,,,,,"日本, 〒043-0064 北海道檜山郡江差町柏町217",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5801.jpg,IMG_5801.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5801.jpg,1248,IMG_5801,,,,%e6%9f%8f%e6%a3%ae%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 1250,稲荷神社,イナリジンジャ,"",2015年12月7日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1250,1251,江差町,,北海道檜山郡江差町字柏町,,,建造物,41.8481445,140.1264343,,,,,,,"日本, 〒043-0064 北海道檜山郡江差町柏町226−5",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5805.jpg,IMG_5805.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5805.jpg,1251,IMG_5805,,,,%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 1253,馬頭観音菩薩堂,バトウカンノンボサツドウ,"",2015年12月7日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1253,1254,江差町,,北海道檜山郡江差町字柏町,,,建造物,41.8460464,140.1264038,,,,,,,"日本, 〒043-0064 北海道檜山郡江差町柏町178",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5796.jpg,IMG_5796.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5796.jpg,1254,IMG_5796,,,,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e8%8f%a9%e8%96%a9%e5%a0%82,0 1256,檜山神社,ヒヤマジンジャ,,2015年12月7日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1256,,江差町,,北海道檜山郡江差町字陣屋町,,,建造物,41.8547249,140.1275177,,,,,,,"日本, 〒043-0056 北海道檜山郡江差町陣屋町8",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e6%aa%9c%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 1258,阿弥陀寺,アミダジ,,2015年12月7日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1258,,江差町,,北海道檜山郡江差町字緑丘46,,,建造物,41.8623924,140.1326294,,,,,,,"日本, 〒043-0054 北海道檜山郡江差町緑丘46",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e9%98%bf%e5%bc%a5%e9%99%80%e5%af%ba,0 1260,曼荼羅寺,マンダラジ,"",2015年12月7日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1260,1261,江差町,,北海道檜山郡江差町字新地町44,,,建造物,41.8627968,140.1287231,,,,,,,"日本, 〒043-0053 北海道檜山郡江差町新地町44",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5074.jpg,IMG_5074.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5074.jpg,1261,IMG_5074,,,,%e6%9b%bc%e8%8d%bc%e7%be%85%e5%af%ba,0 1286,北前船の係船跡,キタマエブネノケイセンアト,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1286,3794,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,近世,近世||明治,歴史,41.8700905,140.1157990,"江戸時代中期から明治時代中期にかけて、江差に入港した北前船が係船をしていた場所。 鴎島の岩盤に穴を掘って木杭を立て、綱で船とつないでいた。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/北前船の係船跡_s.jpg,_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/北前船の係船跡_s.jpg,3794,北前船の係船跡_s,,,,%e5%8c%97%e5%89%8d%e8%88%b9%e3%81%ae%e4%bf%82%e8%88%b9%e8%b7%a1,0 1288,千畳敷,センジョウジキ,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1288,3770,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,,近世,歴史,41.8701286,140.1141205,"鴎島北西部の平らな岩盤。 日本海からの激しい波や風によって削られてできた。 「千島講宿帳」には、江戸時代末には各地からやってきた北前船の船頭たちが、この千畳敷で宴会をしながら追分節を聞いていたと記されている。 千畳敷という岩がある。夏のころ、諸国の船頭や旅人が酒や料理を用意して船を浮かべて、芸者などを引き連れて追分節・甚句・小唄を聞き、海の向こうに見える奥尻島の眺めを楽しんでいる。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/千畳敷_s.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/千畳敷_千島講宿帳_s.jpg,_s.jpg||_千島講宿帳_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/千畳敷_s.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/千畳敷_千島講宿帳_s.jpg,3770||3787,千畳敷_s||千畳敷_千島講宿帳_s,,,,%e6%b1%90%e8%a6%8b%e4%ba%ad%e8%b7%a1,0 1290,階段跡,カイダンアト,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1290,1291,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,,,歴史,41.8705101,140.1148376,"鴎島の岩盤を削って造られた階段。 作成時代は不明だが、鴎島の各所に遺されている。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_9212.jpg,IMG_9212.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_9212.jpg,1291,IMG_9212,,,,%e9%9a%8e%e6%ae%b5%e8%b7%a1,0 1294,鳥居跡,トリイアト,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1294,3754,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,近世,近世,歴史,41.8706245,140.1154022,"厳島神社(江戸時代は弁才天社)の鳥居が建っていた跡。 江戸時代末の「弁天島図」には、この場所に鳥居が建っている様子が描かれている。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/鳥居跡_s.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/鳥居跡_絵図.jpg,_s.jpg||_絵図.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/鳥居跡_s.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/鳥居跡_絵図.jpg,3754||3791,鳥居跡_s||鳥居跡_絵図,,,,%e9%b3%a5%e5%b1%85%e8%b7%a1,0 1296,台場跡(キネツカ台場),,,2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1296,,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,近世,近世||明治,歴史,41.8639679,140.1121979,,,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,,,,,,,,,%e5%8f%b0%e5%a0%b4%e8%b7%a1,0 1298,台場跡(テカエシ台場),,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1298,3749,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,近世,近世||明治,歴史,41.8703423,140.1148071,"松前藩が江戸時代末に諸外国船の接近を警戒して設けた台場。 台場とは、大砲を備える場所のこと。 箱館戦争においても、明治2年(1869)4月に新政府軍が青森から江差を攻めた時には、旧幕府軍が大砲を備えていた。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/台場跡_北_s.jpg,_北_s.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/台場跡_北_s.jpg,3749,台場跡_北_s,,,,%e5%8f%b0%e5%a0%b4%e8%b7%a1-2,0 1302,石碑「皇太子殿下御婚礼紀念林」,セキヒ「コウタイシデンカゴコンレイキネンリン」,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1302,1303,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,明治,明治,"歴史,碑・像",41.8690834,140.1148529,"明治33年(1900)、大正天皇の婚礼を記念し鴎島に植樹をした際に建てられた石碑。 『江差』によると、鴎島での植樹はマツ・カエデ・カラマツ・サクラなどの苗木を4,000本植えた。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5472.jpg,IMG_5472.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5472.jpg,1303,IMG_5472,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e7%9a%87%e5%a4%aa%e5%ad%90%e6%ae%bf%e4%b8%8b%e5%be%a1%e5%a9%9a%e7%a4%bc%e7%b4%80%e5%bf%b5%e6%9e%97%e3%80%8d,0 1305,石碑「高橋謹斉翁紀念碑」,セキヒ「タカハシキンサイオウキネンヒ」," ■説明 ■碑文 (正面) 「高橋謹斉翁紀念碑」 「大勲位侯爵伊藤博文書」 (裏面) 「明治三十八年七月」",2015年12月12日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1305,1306,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,明治,,碑・像,41.8694725,140.1150208,,,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5382.jpg,IMG_5382.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5382.jpg,1306,IMG_5382,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e9%ab%98%e6%a9%8b%e8%ac%b9%e6%96%89%e7%bf%81%e7%b4%80%e5%bf%b5%e7%a2%91%e3%80%8d,0 1308,石碑「江差追分尺八先覚者 鴎嶋軒小路豊太郎翁之碑」,"セキヒ[エサシオイワケシャクハチセンカクシャ オウトウケンコウジトヨタロウオウノヒ","",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1308,1309,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,平成,明治||大正||昭和,"碑・像,美術・芸能",41.8693352,140.1149445,"平成元年(1989)に、小路豊太郎を顕彰するために建てられた石碑。 小路豊太郎は、慶応3年(1867)に江差町で生まれた。 越後(新潟県)出身の虚無僧から尺八を学び、それまで三味線だけの伴奏だった江差追分に尺八の伴奏方を確立した。 昭和13年(1938)に札幌市で没。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5452.jpg,IMG_5452.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5452.jpg,1309,IMG_5452,,,,%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%80%8c%e6%b1%9f%e5%b7%ae%e8%bf%bd%e5%88%86%e5%b0%ba%e5%85%ab%e5%85%88%e8%a6%9a%e8%80%85%e3%80%80%e9%b4%8e%e5%b3%b6%e8%bb%92%e5%b0%8f%e8%b7%af%e8%b1%8a%e5%a4%aa%e9%83%8e%e7%bf%81,0 1315,初代浜田喜一師之像,ショダイハマダキイチシノゾウ,"",2015年12月12日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1315,1316,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,昭和,昭和,"碑・像,美術・芸能",41.8692245,140.1149139,"昭和62年(1987)に建てられた浜田喜一氏の銅像。 浜田喜一は、大正6年(1917)に江差町で生まれた民謡歌手。 戦後の民謡ブームのなか、東京を中心に活躍した。 江差追分会館の落成時には、演示室の「江差屏風」をモチーフにした緞帳を寄贈した。 昭和60年(1985)に東京都で没。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島10",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5455.jpg,IMG_5455.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/IMG_5455.jpg,1316,IMG_5455,,,,%e5%88%9d%e4%bb%a3%e6%b5%9c%e7%94%b0%e5%96%9c%e4%b8%80%e5%b8%ab%e4%b9%8b%e5%83%8f,0 1318,鴎島灯台,カモメジマトウダイ,"",2015年12月12日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/1318,3689,江差町,,北海道檜山郡江差町字鴎島,昭和,昭和,"建造物,歴史",41.8682594,140.1140747,"昭和26年(1951)に建てられた鉄筋コンクリートの灯台。 もともと江戸時代には陸地の高台に常夜灯があったが、町屋の明かりと区別がつかなくなってきたため、江戸時代末に鴎島に常夜灯が設けられた。 その後、明治22年(1889)には木造灯台も建てられている。",,,,,,"日本, 〒043-0045 北海道檜山郡江差町鴎島 鴎島灯台",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/鴎島灯台_s.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/12/22-11.jpg,_s.jpg||22-11.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/鴎島灯台_s.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/12/22-11.jpg,3689||3948,鴎島灯台_s||22-11,,,,%e9%b4%8e%e5%b3%b6%e7%81%af%e5%8f%b0,0 1329,"四天王像 ",シテンノウゾウ," 函館四天王像 市民精神の源流 明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。 明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである、その繁栄は、平田文右衛門はじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の境港とくらべて明治の自由都市の函館と賞する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。 四天王とは次の四人である 像の向かって左より 今井市右衛門 天保七-明治二十 一八三六-一八八七 石川県能登の生まれ、若くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の新聞社の北溟社を創立した。医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を投じて少しも惜しまなかった。 平田文右衛門 嘉永二-明治三十四年 一八四九-一九〇一 函館生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器機製作所、学校、病院、新聞社の設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかった。区の財産造成にも大功があった。没後、区会の決議により肖像を議事堂に高く掲げてその徳を顕彰した。 渡邊熊四郎 天保十一-明治四十年年 一八四〇-一九〇七 大分県竹田の生まれ、明治二年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、二代三代にわたり私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。 平塚時蔵 天保七-大正十一年 一八三六-一九二二 青森県田名部の生まれ、函館の平塚家の養子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち最も長命、後輩の指導に尽くした。 この四人は当時の区長常野正義と共に明治十四年制定の藍綬褒章第三号から第七号まで受けた。 建設期成会 昭和五十七年十月九日■解説
石碑の文字は、函館護国神社の真崎宮司(当時)による。
■参考文献
「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年1月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1329,1331,函館市,西部地区,北海道函館市元町12(元町公園内),昭和,明治,碑・像,41.7654114,140.7091980,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町12",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/01/hako036.jpg,hako036.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/01/hako036.jpg,1331,hako036,,,,%e5%9b%9b%e5%a4%a9%e7%8e%8b%e5%83%8f,0 1334,大森公園 五重の塔,オオモリコウエン ゴジュウノトウ,"■碑文 昭和九年三月 大火災惨害 記念塔 函館市 函館大火災惨害記念塔建立由来 「昭和九年(一九三四年)三月二十一日夕刻に住吉町より発生した火災は、史上稀にみる烈風に煽られ市街地は一夜にして焼土と化し、その罹災者は約十万二千人を数える大参事となり、死者行方不明者は二千八百二十八人を数えるに至った。 折悪しく、市街地を縦断する新川(亀田川)に掛かる、此処「大森橋」は渦巻き吹き上げ迫る猛火に逃げ惑い追われる人々が、唯一の避難路として殺到する中、そのの橋も瞬く間に炎焼し身動きとれぬ人々は、寒波厳しい横殴りの風雪を伴って、荒れ狂う浜風で怒涛渦巻く川に投げ出され高瀬に呑まれるなどの惨状を呈し、一夜明けたこの川辺一帯は、溺死凍死焼死者が折り重なっての、悲惨壮絶を極めた受難の地と化していた。 この受難者の霊を慰め祀らんと、慰霊堂建設の計画が立てられ昭和十二年(一九三七年)5月、市はその基礎工事に着手した。 この慰霊堂の建設に呼応し、在市の宮本武之助(函館商工会議所副会頭)は、慰霊堂と一対をなす「五重の塔」(慰霊塔)の付設建立寄進を申し出、その許しのもと自らの私財を供し、宗教団体(京都を本拠に慰霊活動をする「弘安海」の大きな協力を得るなどの本奔走の中この五重の塔の完成をみた。 因みに、この塔の材質は花崗岩を選び、京都の嵯峨・大覚寺に納められんとした由緒や、その秀れた石組みの技法など貴重にして高いものがあると云われ、船により運ばれ此の地において組立てられ建立をみたものである。 塔の最上五層の中軸柱の頂部中心には、水晶の珠を捧げ持つ精巧な青銅の龍神の彫像が祀られ、又、地下の基礎には全国から寄せられた叺(かます)で四十九俵の「写経石」がコンクリートと共に練り込み納められ、その安らかなる霊への哀悼が深くこめられ塔を支えている。 又、本堂たる慰霊堂はその基層工事に着手はしたものの建築材料の暴騰によるその財源捻出に苦慮する中、思わぬ建設計画の遅れに悩む坂本森一市長に協力しこれにも宮本武之助は、その円滑なる事業の完成にと篤志の寄附を、自らの倹約励行をもって申し出るなど、慰霊堂の建設(総事業費約十一万四千円)に大きな貢献をなしている。 かくして昭和十三年(一九三八年)十月八日、本堂を埋める多くの人々の参列のもと、入仏落慶式がいとも厳粛な中、盛大に挙行され無事その完成をみたのである。」 あまたの御霊(みたま)安らかにましませ この記念塔建立由来板は、本塔の建立に多大な貢献をされた故宮本武之助氏長男である宮本徹夜・晴子御夫妻が作製され、本市に寄贈されたものです 平成十三年(二〇〇一年) 函館市 ■解説 1934年(昭和9年)の函館大火による死者追悼供養のため、1937(昭和12)年7月に建立され、函館市に寄附された。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、昭和10年6月19日付「函館新聞」",2016年1月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1334,1339,函館市,西部地区,北海道函館市大森町33(大森公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7706490,140.7398224,,,,,,,"日本, 〒040-0034 北海道函館市大森町33",,,,,,okuno.s,弘安海、岡山県吉備郡真金町 代表者、小樽市藤山要吉による寄附の申し出を受けて建立(昭和10年6月19日付「函館新聞」),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/01/hako037-2.jpg,hako037-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/01/hako037-2.jpg,1339,大森公園 五重の塔,,,,%e5%a4%a7%e6%a3%ae%e5%85%ac%e5%9c%92%e3%80%80%e4%ba%94%e9%87%8d%e3%81%ae%e5%a1%94,0 1342,坂本森一之碑,サカモトシンイチノヒ,"■碑文 (表) 故函館市長 坂本森一之碑 函館市長 宗藤大陸書 (台座) 故坂本森一ハ明治十六年東京都ニ生レ東京帝国大学ヲ卒業夙ニ官界ニ入リ岐阜・兵庫・大阪各警察部長・愛知内務部長ヲ歴任台湾總督府警務局長ヲ最後ニ官ヲ辞シ昭和四年十二月函館市長ニ就任二期八年ノ長期ニ互ッテ敏腕ヲ揮ハシタガ就中昭和九年大火ノ善後経営ニハ特ニ偉大ナル業績ヲ■貽シタ次イデ同二十一年八月戦後混乱ノ際異例ノ民選市長トナリ翌年四月新日本最初ノ公選市長ニ當選明朗ニシテ住ミ心地ヨキ大函館市建設ヲ目標ニ鋭意儘瘁 中 同年九月十八日脳溢血ノタメ六十五歳ヲ一期トシテ卒去セラレタノデアル昭和二十四年八月一日函館市ハ自治記念日ニ當リ氏生前ノ功勞ヲ表彰シタ誠ニ故アリトイフ可キデアル、氏ト昵懇ノ者亦其ノ高風ヲ偲ビ法名ニ因ンデ白雲會ヲ結■(風?)シ更ニ市民諸賢ノ賛同ヲ得テ由縁深キ此ノ地ニ碑ヲ建テ以テ氏ノ偉業ヲ永久ニ顕揚スルコトニシタノデアル 齊藤與一郎書 (裏) 昭和廿四年九月十八日 白雲会建之 登坂良作書 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月1日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1342,1343,函館市,西部地区,北海道函館市大森町33(大森公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7705154,140.7399139,,,,,,,"日本, 〒040-0034 北海道函館市大森町33",,,,,,okuno.s,"台座背面に詩が刻まれている「凡作事、須要有事天之心、不要之示人之念。 森一」 碑文再確認のこと",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako038.jpg,hako038.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako038.jpg,1343,hako038,,,,%e5%9d%82%e6%9c%ac%e6%a3%ae%e4%b8%80%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1345,石川啄木像,イシカワタクボクゾウ," ■碑文 (台座・表) 石川啄木 潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も 咲けるや 啄木 (裏) 昭和三十二年十月 石川啄木記念像建設期成会 製作者 本郷新 ■解説 現在の啄木小公園付近は、昔は「砂山町」と呼ばれ、その名が示すとおり、大きな砂山があった。この砂山は、砂鉄の採掘などにより次第に掘りとられ消滅し、現在は その面影は残っていない。 啄木が函館にいた明治40年頃はまだ町名もなく、単に高盛とか高大盛(高大森)とかと呼ばれ、30メートルほどの砂山(砂の高もり)が湯川方面へ続き、初夏から夏にかけては、群生するハマナスのまっ赤な花が広がる砂丘であった。 その後市街地の拡大により、風景は変わってしまったが、昭和33年、啄木の記念像を建てようとする有志の人々が建設期成会を結成し、制作者本郷新の啄木像もできあがったので、議論の末、函館山を望むこの日の出町の海浜が選ばれ、啄木小公園とともに整備された。10月18日には除幕式が挙げられて、像が期成会から函館市へ贈呈されることになった。 この像は、御影石の台座の上に、右手を顎に当て、左手に本を持ち、和服袴姿で砂上に腰を下ろしている若き日の啄木の姿である。台座には上記の名前と歌が刻まれた銅板がはめ込まれている。 昭和53年4月には、国道拡張工事のため現在地に移設されている。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第37集・第46集(函館市史編纂委員会)",2016年2月1日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1345,1347,函館市,中央部地区,北海道函館市日乃出町25(啄木小公園内),昭和,明治,碑・像,41.7723351,140.7536163,,,,,,,"日本, 〒040-0022 北海道函館市日乃出町25",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2015/11/hako039.jpg,hako039.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2015/11/hako039.jpg,1347,hako039,,,,%e7%9f%b3%e5%b7%9d%e5%95%84%e6%9c%a8%e5%83%8f,0 1350,"西条八十の歌碑 ",サイジョウヤソノカヒ," ■碑文 (表) 眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもひでの砂ただひかる 捧 啄木 西条八十 (裏) 昭和三十四年九月三日着工 昭和三十四年十月廿三日完成 函館ライオンズクラブ 函館東ライオンズクラブ 設計者 田上義也 函館市東川町 彫刻人 林貞蔵 ■解説 昭和33年10月、この地に石川啄木像が建設されたが、その後、詩人西条八十が訪れて、上記の追悼詩を詠んだ。この時の詩を詩碑にしたもので、花崗岩の台石の上の仙台石(黒色粘土板)に詩が刻まれいる。 昭和53年4月、国道378号拡張のため現在地に移設された。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第37集・第46集(函館市史編纂委員会)",2016年2月1日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1350,1353,函館市,中央部地区,北海道函館市日乃出町25(啄木小公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7723961,140.7538147,,,,,,,"日本, 〒040-0022 北海道函館市日乃出町25",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako40.jpg,hako40.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako40.jpg,1353,hako40,,,,%e8%a5%bf%e6%9d%a1%e5%85%ab%e5%8d%81%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1355,片平庸人の歌碑,カタヒラツネトノカヒ," ■碑文 (表) 片平庸人 北の海 にび色に かびろく 雲ひくく まろし砂丘 見のかぎり 茫々 飢えがらす そが雪の上 ただ あるく ばッさ ばッさ ナ、 (裏) 片平庸人 明治丗五年仙台 に生れ函館にて永く新聞記者たり 詩人として名あり 昭和廿 九年大森浜にて死す 昭和四十六年九月 友人之を建つ ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月1日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1355,1356,函館市,中央部地区,北海道函館市日乃出町25(啄木小公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7725143,140.7541809,,,,,,,"日本, 〒040-0022 北海道函館市日乃出町25",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako041.jpg,hako041.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako041.jpg,1356,hako041,,,,%e7%89%87%e5%b9%b3%e5%ba%b8%e4%ba%ba%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1358,函館市民憲章碑,ハコダテシミンケンショウヒ," ■碑文 (表) 函館市民憲章 本文 一、真心あふれる函館市民 あたたかいまち 一、健康で働く函館市民 にぎわうまち 一、文化を誇る函館市民 はぐくむまち 一、自然を生かす函館市民 きれいなまち 一、郷土を愛する函館市民 のびゆくまち 昭和五十二年五月三日制定 贈 函館ロータリークラブ (裏) 前文 わたくしたちは北海 道の文化発祥の地函館 に住む市民です。 山と海にかこまれた 美しい自然を誇り、すぐ れた市民性をはぐくん できた函館を、いっそう 住みよい都市に発展さ せるため、わたくしたち 市民とまちの理想像を かかげ、ここに市民憲章 を定めます。 昭和五十三年五月三日 デザイン 折原久左エ門 書 四倉太郎 施工 大和石材工業(株) ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月1日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1358,2502,函館市,西部地区,北海道函館市松風町(はこだてグリーンプラザ内),昭和,昭和,碑・像,41.7715263,140.7311249,,,,,,,"日本, 〒040-0035 北海道函館市松風町5 さかえ通",,,,,,okuno.s,写真差し替え,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako0421.jpg,hako0421.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako0421.jpg,2502,hako042,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e6%b0%91%e6%86%b2%e7%ab%a0%e7%a2%91,0 1362,おもちゃの碑,オモチャノヒ,"■碑文 おもちゃの碑 ■解説 「函館ゆうもあくらぶ」が建立したもので、1959年(昭和34年)11月22日に序幕式が行われた。発案者は田中函館商工会議所副会頭(当時)、費用は約15万円。鉄骨白色セメント造りで台座は小判型の人造大理石、よごれを防ぐためにビニール塗料が全面に塗られたいる。単純化されたはね上がる馬の上にツノ笛を吹く男の子を乗せたデザインで商業美術家の羽野栄一制作による。 ■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、昭和34年11月22日付け「北海道新聞」",2016年2月1日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1362,1363,函館市,中央部地区,函館市新川町1(若松広路 自由市場向い),昭和,昭和,碑・像,41.7729263,140.7340546,,,,,,,"日本, 〒040-0032 北海道函館市新川町1",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako043.jpg,hako043.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako043.jpg,1363,hako043,,,,%e3%81%8a%e3%82%82%e3%81%a1%e3%82%83%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1365,土方歳三最後の地,ヒジカタトシゾウサイゴノヒ," ",2016年2月1日,2021年7月1日,http://donan-museums.jp/archives/1365,1366,函館市,西部地区,函館市若松町33(若松緑地内),昭和,明治,"歴史,碑・像",41.7769508,140.7310181,"土方歳三 武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、旧幕府脱走軍では陸軍奉行並となる。明治2年(1869年)5月11日箱館の一本木関門(現若松町)付近で戦死。","土方岁三 天保6年-明治2年(1835年-1869年)。 出生于武藏国(东京都)。他与近藤勇等人组成新撰组,在仙台和榎本等人汇合,在旧幕府脱走军(因为不愿随幕府投降而离开的分支部队)中担任陆军奉行并一职。","土方歲三 天保6年-明治2年(1835年-1869年)。 出生於武藏國(東京都)。他與近藤勇等人組成新撰組,在仙台和榎本等人匯合,在舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)中擔任陸軍奉行並一職。",,,"ฮิจิคาตะ โทชิโซ ปีเทมโปที่ 6 - ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1835 - ค.ศ.1869) เกิดที่เมืองมุซาชิ (กรุงโตเกียว) รวมตัวกันกับคนโด อิซามิตั้งชินเซ็นกุมิ เข้าร่วมกับเอโนะโมโตะที่เซ็นได ในกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิมเป็นกองทัพบก เสียชีวิตในสงคราม แถวๆ อิปปงงิ คัมมง (ตำบลวาคะมัตสึในปัจจุบัน) เมื่อวันที่ 11 เดือนพฤษภาคม ปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869)","日本, 〒040-0063 北海道函館市若松町","(表) 土方歳三最期之地 函館市長 吉谷一次書 (裏) 昭和三十三年十二月十四日 若松小学校同窓会 父母先生の会有志 建立","新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。 明治元年(一八六八年)十月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。 翌二年四月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・北斗市)だけは最後まで落ちなかった。 しかし、同年五月十一日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、五十名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に三十五歳であった。 函館市 ■追加解説 碑石は自然石。1992年(平成4年)11月19日、若松町グリーンベルトから若松緑地へ移設された。",,「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第37集(函館市史編纂委員会)、平成4年11月19日付け「北海道新聞」,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako044.jpg,hako044.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako044.jpg,1366,hako044,,,,%e5%9c%9f%e6%96%b9%e6%ad%b3%e4%b8%89%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%ae%e5%9c%b0,0 1377,函館市民憲章碑,ハコダテシミンケンショウヒ," ■碑文 (表) 函館市民憲章 (前文) わたくしたちは、北海道の文化発祥の地、函館に住む市民です。 山と海にかこまれた美しい自然を誇り、すぐれた市民性をはぐくんできた函館を、いっそう住みよい都市に発展させるため、わたくしたち市民とまちの理想像をかかげ、ここに市民憲章を定めます。 (本文) 一 真心あふれる函館市民、あたたかいまち 一 健康で働く函館市民、にぎわうまち 一 文化を誇る函館市民、はぐくむまち 一 自然を生かす函館市民、きれいなまち 一 郷土を愛する函館市民、のびゆくまち 昭和五十二年五月三日制定 贈 函館海峡ライオンズクラブ 昭和52年11月 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1377,1378,函館市,中央部地区,北海道函館市千代台町22(千代台公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7841911,140.7483826,,,,,,,"日本, 〒040-0013 北海道函館市千代台町22",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako046.jpg,hako046.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako046.jpg,1378,hako046,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e6%b0%91%e6%86%b2%e7%ab%a0%e7%a2%91-2,0 1380,千代台公園碑,チヨガダイコウエンヒ," ■碑文 (表) 千代台公園 (裏) 千代台公園は失業対策事業により建立されここに施行三十周年を記念し建立する 昭和五十五年十月 函館市 公園苑路 着工 昭和二十四年度 竣功 昭和二十六年度 野球場 着工 昭和二十四年度 竣功 昭和二十六年度 陸上競技場 着工 昭和二十四年度 竣功 昭和三十七年度 庭球場 着工 昭和四十一年度 竣功 昭和四十二年度 児童遊園 着工 昭和五十五年度 竣功 昭和五十五年度 標題 太田利雄 書 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1380,1381,函館市,中央部地区,北海道函館市千代台町22(千代台公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7844086,140.7480927,,,,,,,"日本, 〒040-0013 北海道函館市千代台町22",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako047.jpg,hako047.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako047.jpg,1381,hako047,,,,%e5%8d%83%e4%bb%a3%e5%8f%b0%e5%85%ac%e5%9c%92%e7%a2%91,0 1383,"球聖久慈次郎の像 ",キュウセイクジジロウノゾウ," ■碑文 (台座) 球聖久慈次郎の像 水原茂 謹書 (ボール型側碑) 趣旨 函館太洋倶楽部は明治四十年の創設でここに我国最古の社会人野球チームとして七十年の歴史と伝統をもつ社会人野球屈指の名門である。この顕彰碑を建立するに当り我が郷土の輝かしいシンボルとして今後育つであろう青少年の健全育成並びにスポーツ振興のため非常に意義あることと考えここに同選手の偉業を永久にたたえると共に功績の数々を後世に残すべく故久慈次郎選手顕彰碑建立期成会をもって設立したものである。 昭和五十二年八月十四日 故 久慈次郎選手顕彰碑 建立期成会会長 田中誠一郎 ■解説 久慈次郎(1898年~1939年)は、大正・昭和期に活躍した野球選手(捕手)である。久慈は、盛岡中学で野球をはじめ、早稲田大学に進学して全国にその名をとどろかせた。大学卒業後、1922年(大正11年)に函館大洋倶楽部に入団して、都市対抗野球などで活躍した。 1934年(昭和9年)に全米選抜チームを招聘して、日米野球大会が開かれたときには、日本選抜チームの主将を務めた。11月8日、湯川球場で第3戦行われ、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらのスター選手に、ヴィクトル・スタルヒン(旭川中学)、沢村栄治らを率いて挑んだが、試合は5-2で全米チームの勝利に終わっている。 その後も日本を代表する選手として活躍したが、1939年(昭和14年)の実業団野球大会でこめかみに牽制球を受けてその生涯を閉じた。 この久慈次郎像は、北を向いてキャッチーミットを構えていて、旭川のスタルヒン球場にあるスタルヒンの銅像に、相対するように設置されている。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「日魯創業100年の軌跡」",2016年2月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1383,1384,函館市,中央部地区,北海道函館市千代台町22(千代台公園内),昭和,大正||昭和,碑・像,41.7855988,140.7477875,,,,,,,"日本, 〒040-0013 北海道函館市千代台町22",,,,,,okuno.s,12日設置、14日除幕式(?年、新聞記事)、砂原放光(三重出身?),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako048.jpg,hako048.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako048.jpg,1384,hako048,,,,%e7%90%83%e8%81%96%e4%b9%85%e6%85%88%e6%ac%a1%e9%83%8e%e3%81%ae%e5%83%8f,0 1390,ウイリアム・レニー先生之碑,ウィリアム・レニーセンセイノヒ," ■碑文 (表) ウイリアム・レニー先生之碑 ウイリアム・レニー先生は1866年カナダに生れた。トロント大学を卒業し、1906年来函され、函館中学、商業、工業、師範、商船の各校に英会話を教えた。色あせた山高帽に破れ靴の先生は、貧しい人々の街にも現れて自分の給料をわけ与え、社会教育、社会福祉のためにもつとめた。1941年秋、在函35年、74歳の先生は、、師を慕う教え子等の涙に送られて故国に至り、その後の消息は知るよしもない。 1972・9 函中、函商、函工、函師、函船 教え子及び有志 (裏) For to me to live is Christ and to die is gain Philippians 121 ウイリアム・レニー先生自筆 ■解説 詩訳は「我にとりて生くるはキリストなり死ぬもまた益なり ピリピ人への書 121」。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1390,1391,函館市,中央部地区,北海道函館市時任町2(日ノ出広路内),昭和,明治||大正||昭和,碑・像,41.7826538,140.7503052,,,,,,,"日本, 〒040-0012 北海道函館市時任町2",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako049.jpg,hako049.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako049.jpg,1391,hako049,,,,%e3%82%a6%e3%82%a4%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%ac%e3%83%8b%e3%83%bc%e5%85%88%e7%94%9f%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1396,武田斐三郎先生顕彰碑,タケダアヤサブロウセンセイケンショウヒ," ■碑文 (表) 五稜郭築城設計及び監督 箱館奉行支配諸術調所教授役 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)先生 顕彰碑 五稜郭は我が国はじめての洋式城郭で安政4年着工、7年の歳月を費して元治元年(1864)に竣工した。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念に当ってこの碑を建てた。 昭和39年(1964年)7月18日 函館市 ■解説 鉄筋コンクリート造の台に花崗岩の碑石、右上方に武田斐三郎の胸像(鈴木達製作ハイレリーフのブロンズ)をはめ込んである。「武田斐三郎先生顕彰碑」の文字は書家太田鶴堂によるもので、碑石の提供彫刻は加藤政雄による。昭和39年12月1日に武田斐三郎の子孫(ひ孫武田文夫・玲子)が見守るなか除幕式が行われた。 ■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「五稜郭公園」(公園育成会 1989年)、「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)",2016年2月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1396,1397,函館市,中央部地区,北海道函館市五稜郭町38(五稜郭公園内),昭和,近世||明治,碑・像,41.7965202,140.7559662,,,,,,,"日本, 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町44−3",,,,,,okuno.s,"除幕式では式辞等のほか、安保白袍作の次のような漢詩「武田斐三郎をたたえて」が竜吟会会員により朗吟された。 一郭五稜百軍ヲ威レシム 当年興奪風雲ヲ製ス 誰カ知ル細サニ築城ノ理ヲ究メタルヲ 玉喝映ジテ天ニ長憶ク(フ?)君ヲ 玉喝映ジテ天ニ長憶フ君ヲ 老松陰緑ニシテ清気漲ル 時平カニシテ世態真当(へマサシ?)悟ルベシ 興替存亡原(モト)在リ文ニ 興替存亡原(モト?トモ)在リ文ニ 先生創意仰グ奇勲ヲ 追思ス往昔干戈ノ跡 一郭五稜百軍ヲ威レシム(一部再検討、「市史資料集46)",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako051.jpg,hako051.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako051.jpg,1397,hako051,,,,%e6%ad%a6%e7%94%b0%e6%96%90%e4%b8%89%e9%83%8e%e5%85%88%e7%94%9f%e9%a1%95%e5%bd%b0%e7%a2%91,0 1399,一万号記念桜樹碑,イチマンゴウキネンオウジュヒ,"■碑文 (表) 一萬號記念櫻樹碑 癸亥二月 本山彦一書 (裏) 明治十一年一月七日函館新聞ヲ創刊シ北門ノ木鐸ヲ似テ自ラ任ズ三十一年五月二十二日函館毎日新聞ト改題シ社運年ト共ニ進ミ北日本文化ノ為メニ貢獻スル所甚ダ大ナリ大正二年五月十二日一萬號ヲ發行スルノ盛事ニ會ス時ノ社長吉岡憲君同社ト謀リ之ガ記念ノ業トシテ五稜郭舊城址ニ櫻樹ヲ植ユルコトヲ發企シ當時先ヅ七千餘株ヲ移植シ年年之ヲ補植シ今ヤ一萬株ヲ算スルニ至レリ嚮ノ抱ナル者拱尺ナル者丈蔚然蔭ヲ成シ亀田川一帯ノ水ト映照ス花豈ニ値フゴトニ冠蓋相望ミ游屐累至遂ニ北門第一游燕ノ勝區トナレリ蓋シ安政二季函館奉行始メテ五稜郭ノ壘寨ヲ築キ明治維新杉浦誠之ヲ官軍ニ致セシモ幕臣ノ脱走スル者寨ヲ奪フテ之ニ據リ以テ官軍ニ抗ス當時ニ在テハ劍戦林ヲ成シ炮炯天ヲ蔽フノ修羅場タリシガ今ハ一變シテ讙謔笑舞ノ安樂窩トハナリヌ呼是レ果シテ何誰ノ思ゾ此ニ登攀スル者往ヲ仰ギ今ヲ俯シテ皇化ノ洪大ナルヲ記得セザランヤ予既ニ同社ノ此ノ舉ヲ喜ビ聊カ感懐ヲ書スト云爾 大正十二年二月一日 蘇峰学人 徳富猪一郎撰 根岸好太郎書 大正十二年五月廿二日改題二十五周年記念日 函館毎日新聞社建之 石匠 福田齊次郎刻 ■解説 最初に五稜郭内に桜を植えたのは、函館毎日新聞社で、1万号の発行を記念して5000本余りの苗を植樹し、この碑を建立した。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「五稜郭公園」(公園育成会 1989年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月6日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1399,1401,函館市,中央部地区,函館市五稜郭町38(五稜郭公園内),大正,大正,碑・像,41.7966347,140.7569580,,,,,,,"日本, 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町44−3",,,,,,okuno.s,碑文再チェックのこと,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako0521-e1454794723402.jpg,hako0521-e1454794723402.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako0521-e1454794723402.jpg,1401,hako052,,,,%e4%b8%80%e4%b8%87%e5%8f%b7%e8%a8%98%e5%bf%b5%e6%a1%9c%e6%a8%b9%e7%a2%91,0 1406,巌谷小波の句碑,イワヤサザナミノクヒ," ■碑文 (表) 其跡や 其の血の色を 草の花 小波 (裏) 巌谷君季雄号小波又号漣山人兒女敬募以小父 呼之大正二年八月函館図書館及千代見園開年 少兒女大會山人亦来焉此日山人遂詣兆域而弔 戊辰烈士之英魂松樹摩天苜蓿蔽地山人追想往 事低徊良久之乃託感懐乎俳句採野花一枝而去 千代見園主寺井君四郎兵衛刻此事于石而傳於 百世若夫當年兒女異日對此碑則復當有感慨無 量不能去者也 嗚呼江山于遏清気此之謂乎 大正四年八月 函館図書館主事 岡田健蔵誌 ■解説 安山岩の台石に粘板岩(仙台岩)の碑石が立てられ、巌谷小波の句、裏面には函館図書館主事岡田健蔵の撰による漢文が刻まれている。 1913年(大正2年)、童話界の第一人者巌谷小波(小波山人)が函館を訪れ、函館図書館や寺井四郎兵衛の千代見園で主催された童話会に出席して、それぞれ特意のお伽話を熱演した。会の終了後、岡田健蔵、寺井四郎兵衛両氏の案内で五稜郭を逍遙した際に、小波は、郭内に咲いていた赤クローバーの花を摘んで洋服の襟に挿し、この一句を詠んだという。この碑は、1915年(大正4年)8月、寺井氏が往時を記念して、建立したものである。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「五稜郭公園」(公園育成会 1989年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1406,1408,函館市,中央部地区,函館市五稜郭町38(五稜郭公園内),大正,大正,碑・像,41.7967987,140.7576599,,,,,,,"日本, 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町38",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako053-e1454904206397.jpg,hako053-e1454904206397.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako053-e1454904206397.jpg,1408,hako053,,,,%e5%b7%8c%e8%b0%b7%e5%b0%8f%e6%b3%a2%e3%81%ae%e5%8f%a5%e7%a2%91,0 1419,男爵薯を讃ふ,ダンシャクイモヲタタフ,"■碑文 (表) 男爵薯を讃ふ 北海道帝国大学総長 伊藤誠哉書 (裏) 男爵薯は明治四十年頃時の函館船渠株式会社社長男爵川田龍吉氏がアメリカ原産のアイリッシュコプラーを七飯村の農場に輸入したもので輸入者に因んで男爵薯と称したものである この薯は極めて早熟な上に病害に強く本道の風土にも適するので約四十年の間に全道に普及栽培され本州は固より海外へも移輸出されその声価は全国的に高まるに至った このように本道農業経営とわが国食料対策の上に安定性を築いた功績は広く世に紹介されてよいと思ふ ここに渡島管内に於けるこの薯の生産に係わる者が図って男爵薯保存協会を設立し事業の一としてこの碑を建てその由来を明らかにすると共に川田男爵の功績を讃え永く感謝の意を記念するものである 昭和二十二年五月建立 男爵薯保存協会 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「五稜郭公園」(公園育成会 1989年)",2016年2月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1419,1420,函館市,中央部地区,函館市五稜郭町38(五稜郭公園内),昭和,明治,"歴史,生業,碑・像",41.7988243,140.7566376,,,,,,,"日本, 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町22",,,,,,okuno.s,"昭和22年9月20日除幕式、当時は公園正門入口付近に建立されていたらしい(北海道新聞らしい「いしぶみ」より) 永久橋の裏門橋の設置により、表入口にあった「男爵薯の碑」もバスや自家用車、ハイヤーの混雑を防ぐために裏門側に移されたので観桜時や観光客の多い季節には例年の雑閙が避けられるようになった。(「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会))",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako054-e1454909355969.jpg,hako054-e1454909355969.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako054-e1454909355969.jpg,1420,hako054,,,,%e7%94%b7%e7%88%b5%e8%96%af%e3%82%92%e8%ae%83%e3%81%b5,0 1424,理想郷,リソウキョウ,"■碑文 (表) 理想郷 農住団地建設を顧みて 昭和三十年代に入り近郊農業地帯は都市側からの一方的蚕喰により市街地の無秩序な拡散が進行し農業経営は著しく圧迫されるに至った。昭和四十五年この地帯が都市計画法により市街化区域に定められたがこの年は米の生産調整が行われるなど我国農業に多くの問題が提起された年でもあった。更に同年五月農業法の一部が改正され新たな農地等処分事業が農協事として位置づけされ加えて農村と都市との調和を図った農村住宅団地建設計画推進事業が政策としてとりあげられるに至った。 亀田農業協同組合は時代の要請に応えるため昭和四十六年定款変更を行う等積極的に都市化対応を進めることとなり翌昭和四十七年二月この地域が全国でも数少ない農住計画推進地域に選定されたのを契機として農協ははじめて地域社会建設計画に参画することになった 顧みてこの意義深い事業が各方面の期待に応え所期の成果を納め得たことは偏えに柴田四郎前副知事をはじめ関係各位のご指導ご協力によるものと感謝いたし新しいこの街が永く平和でありますことを祈願します 函館市亀田農業協同組合 前組合長理事 川井藤五郎 事業完成の喜びと共に ここに完成した新市街地は農地として永く米作の中心地帯であったが時代の新しい流れに呼応して農民を中心に関係地主百七十三名が亀田農業協同組合と一体となり自らが地域開発の主体となって昭和四十八年七月北海道知事より土地区画整理組合設立認可を受ける運びになりました。事業の規模は面積五十・一ヘクタール総工費十六億五千万円にのぼり完成までには多くの難問に遭遇しましたが国及び道並びに函館市の手厚い助成やご指導を頂き更に私達の理想郷建設への願望と相互の協調がこの事業成功への大きな要因となりました。 新しくこの街に住まれる人々の限りない幸せを祈ります 函館市本通中央土地区画整理組合 理事長 高村 登 (裏) 1 経過概要 昭和47年2月 農村住宅団地建設計画推進地域として北海道の選定をうける 47年8月 土地区画整理組合設立準備委員結成 48年5月 函館圏都市計画土地区画整理事業として都市計画決定 面積48.1ヘクタール 48年7月 亀田市本通中央土地区画整理組合設立認可 48年9月 第1次仮換地指定 48年9月 造成工事着手 48年12月 函館市 亀田市 合併 48年12月 第2次仮換地指定 50年12月 事業施行区域拡大の都市計画決定変更 面積50.9ヘクタール 51年7月 第3次仮換地指定 52年7月 造成工事完成 53年7月 換地処分 2 事業の概要 (1)施行区域 本通町・鍛治町の一部 (2)施行面積 50.9ヘクタール (3)公共施設 道路総延長12,236メートル 公園6ヶ所18,182平方メートル (4)総事業費 16億4千8百万円 財源補助金 6億1千2百万円 保留地処分金 9億6千万円 寄附金等 7千6百万円 (5)施行期間 昭和48年度~昭和53年度 (6)土地所有者数 188人 評価員 荒川弘 岡田光治 小野耕太郎 工藤竹松 谷口勇 木島政之 故水島玉蔵 函館市中央土地区画整理組合 理事長 高村登 副理事長 寺分政吉 〃 木島勝春 理事 川井藤五郎 〃 秦徳雄 〃 水島重男 〃 岡田孝次郎 〃 桃井秀春 〃 山之内武男 〃 米沢十平 〃 高岡忠作 監事 佐々木正 〃 荒川初次郎 総代 荒川弘 水島政之 堀内直政 小中雄蔵 吉野徳一 水島勝美 岡田光治 故岩沢勇太郎 中村秀夫 川村富秋 大山勝男 工藤政五郎 蒲生彦市 佐々木和勇 工藤竹松 斉藤百太郎 小林修 高村正美 佐々木博 竹林勲 関本宣男 寺島政一 竹田建吾 野村敬三郎 谷口勇 松前シナ 野沢勇治 ■解説 北海道知事 堂垣内尚弘 書 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1424,,函館市,北東部地区,北海道函館市本通2丁目35(本通公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7994843,140.7725067,,,,,,,"日本, 〒041-0851 北海道函館市本通2丁目35",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e7%90%86%e6%83%b3%e9%83%b7,0 1426,明治天皇御名代御差遣之地(標柱),メイジテンノウミナシロゴサケンノチ(ヒョウチュウ),"■碑文 (表) 明治天皇御名代御差遣之地 (側) 御名代北白川宮能久親皇殿下 明治十四年(一八八一)九月五日 (裏) 昭和九年七月湯川青年団以木柱建之 昭和十九年二月函館市長登坂良作改之石造 ■解説 昔、この地は開進社第一会所のあったところである。 標柱 花崗岩 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1426,,函館市,東央部地区,函館市日吉町4丁目8(日吉公園内),昭和,明治,碑・像,41.8051910,140.7939758,,,,,,,"日本, 〒041-0841 北海道函館市日吉町4丁目8",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e5%be%a1%e5%90%8d%e4%bb%a3%e5%be%a1%e5%b7%ae%e9%81%a3%e4%b9%8b%e5%9c%b0%ef%bc%88%e6%a8%99%e6%9f%b1%ef%bc%89,0 1428,"明治天皇御名代御差遣之地(側碑) ",メイジテンノウミナシロゴサケンノチ(ソクヒ),"■碑文 (碑文) 明治天皇陛下明治十四年北海道御巡幸ノ御砌同年九月五日御名代北白川殿下御馬車ニテ東園侍従大隈参議ヲ陪乗セシメラレ下湯川村字寺野開進社第一会所ニ台臨アラセラル社長岩橋徹輔幹事以下諸員ヲ率イ門外ニ奉迎ス湯川上湯川両小学校職員児童亦奉迎ス殿下ニハ親シク事業ノ概況ヲ聞召サレ且ツ陳列品ヲ台覧アラセラレ之ヲ嘉賞シ陳列品ハ之ヲ函館行在所ニ差廻ハスベキ恩命ヲ賜ヒ特ニ社員一同ニ対シ金一封ヲ御下賜アラセラル聖恩洪大関係者悉ク感激感泣ス陳列品ハ白木ノ大卓ニ陸稲莨藍大小麦其他穀菜果実等数十種ニシテ該社農業ノ一班ヲ台覧ニ供セルモノナリ右聖跡ハ其ノ後開進社ノ解散ト共ニ殆ト湮滅ニ帰シタルハ是ニ恐懼ノ極ミトイフベシ幸ニ昭和九年六月湯川青年団ニ於テ皇太子殿下御降誕記念事業トシテ聖蹟顕彰ヲ企図シ諸種調査ノ結果遂ニ之カ確定ヲ見タル所其ノ地ハ偶然ニモ藤堂利吉ノ所有地タリ同氏ハ衷心其ノ光栄ニ感激シ進ンデ該地域ヲ寄附スル予定ナリシモ其ノ後事情アリテ該地域ヲ函館市ニ於テ買収セリ然レトモ同氏ハ聖蹟顕彰ノ実現ヲ切望シ其ノ建設資金額ノ寄附ヲ申出デタルニヨリ市ハ之ヲ受納シ昭和十八年六月監督官庁ノ許可ヲ得同年七月起工昭和十九年二月竣工ヲ見タリ 茲ニ記シテ聖跡此ノ地永代ニ伝フ 昭和十九年二月十一日 函館市長 登坂良作 ■解説 昔こ、の地は同進社第一会所のあったところである。碑は花崗岩である。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1428,,函館市,東央部地区,北海道函館市日吉町4丁目8(日吉公園内),昭和,明治,碑・像,41.8051643,140.7939758,,,,,,,"日本, 〒041-0841 北海道函館市日吉町4丁目8",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e5%be%a1%e5%90%8d%e4%bb%a3%e5%be%a1%e5%b7%ae%e9%81%a3%e4%b9%8b%e5%9c%b0%ef%bc%88%e5%81%b4%e7%a2%91%ef%bc%89,0 1430,御親閲記念碑,ゴシンエツキネンヒ," ■碑文 (表) 御親閲記念碑 (裏) 昭和十一年十月十日拝受 函館市 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月9日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1430,1431,函館市,東央部地区,北海道函館市広野町6-18(自衛隊函館駐屯地内),昭和,昭和,碑・像,41.7822151,140.7667542,,,,,,,"日本, 〒042-0934 北海道函館市広野町6−18",,,,,,okuno.s,"(参考)函館日日新聞 関連記念碑 道営谷地頭団地内にあり 昭和11年12月4日除幕 現在碑傍樹木ひば",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako055-e1455041042643.jpg,hako055-e1455041042643.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako055-e1455041042643.jpg,1431,hako055,,,,%e5%be%a1%e8%a6%aa%e9%96%b2%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1441,香雪園のいわれ,コウセツエンンノイワレ," ■碑文 (表) 香雪園のいわれ 香雪園は函館市の素封家岩船峯次郎氏(屋号久〆一・キュウシメイチ)が1901年ごろより造園に着手したのが始まりでその後1920年ごろ京都の庭師辻地月を招き、約三年を要して石材は道南一帯から、樹木の大半は本州から運んで造成し、いらい親子三代にわたり私財を投じて完成した純日本式庭園である。当時の知恩院貫主により、〝雪の中に梅香る園〟の意で香雪園と名づけられた。 岩船家が市民慰楽のためにこの名園を設置された偉業を讃え、この碑を建てる。 函館市 (裏) 昭和46年3月 ■解説 碑文の書は岩船清三郎氏による。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「見晴公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1986年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1441,1442,函館市,東央部地区,北海道函館市見晴町56(見晴公園内),昭和,明治||大正,碑・像,41.7916183,140.8032837,,,,,,,"日本, 〒042-0956 北海道函館市見晴町56",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako061.jpg,hako061.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako061.jpg,1442,hako061,,,,%e9%a6%99%e9%9b%aa%e5%9c%92%e3%81%ae%e3%81%84%e3%82%8f%e3%82%8c,0 1444,見晴公園五重の塔,ミハラシコウエンゴジュウノトウ," ■解説 広場附近にあったが、地震などで倒れると危険なため、現在の場所に移された。五重の塔の背後に石が置かれていた時は、石が滝のように見え中国庭園の趣だったが、現在は背後に石はない。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「見晴公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1986年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1444,1445,函館市,東央部地区,北海道函館市見晴町56(見晴公園内),,,碑・像,41.7930374,140.8033447,,,,,,,"日本, 〒042-0956 北海道函館市見晴町56",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako062.jpg,hako062.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako062.jpg,1445,hako062,,,,%e8%a6%8b%e6%99%b4%e5%85%ac%e5%9c%92%e4%ba%94%e9%87%8d%e3%81%ae%e5%a1%94,0 1447,見晴公園石灯篭 春日型,ミハラシコウエンイシドウロウ カスガタガ,"■解説 見晴公園内にある一の池のコンクリート橋の手前の築山にあり、公園のほぼ中央に位置する。春日灯籠または春日形灯籠の形式を指し、その形式のおもな特長といえば、笠は大きくなく、全体的に高さがあり、火袋は六角または四角で、二方に雌雄の鹿を刻み、他の二方に雲形に日月を浮き彫りにしたものである。函館公園内にも明治11年に浅田清次郎が寄附した春日灯籠がある。 見晴公園内の春日灯籠の方には中台の部分には十二支の彫刻が施されている。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「見晴公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1986年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1447,1448,函館市,東央部地区,北海道函館市見晴町56(見晴公園内),,,碑・像,41.7932243,140.8030090,,,,,,,"日本, 〒042-0956 北海道函館市見晴町56",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako063-e1455131693462.jpg,hako063-e1455131693462.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako063-e1455131693462.jpg,1448,hako063,,,,%e8%a6%8b%e6%99%b4%e5%85%ac%e5%9c%92%e7%9f%b3%e7%81%af%e7%af%ad%e3%80%80%e6%98%a5%e6%97%a5%e5%9e%8b,0 1450,見晴公園石灯篭 雪見型,ミハラシコウエンイシドウロウ ユキミガタ,"■解説 かさが八角か円形で、さおの部分は三脚または四脚で股を開いた形のものを雪見灯籠、もしくは雪見形灯籠という。茶室からのぞむ庭園は雪景色がまた美しい。 香雪園を設計した京都の庭師・辻地月は、庭師のほかお茶、お花の師匠でもあったことから、公園内の枯山水、園庭には特に力を注いだといわれている。 辻地月は大正9(1920)年頃に来函、香雪園のほか、萩野氏旧邸宅の庭も手がけた。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「見晴公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1986年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1450,,函館市,東央部地区,北海道函館市見晴町56(見晴公園内),,,碑・像,41.7934380,140.8027496,,,,,,,"日本, 〒042-0956 北海道函館市見晴町56",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%a6%8b%e6%99%b4%e5%85%ac%e5%9c%92%e7%9f%b3%e7%81%af%e7%af%ad%e3%80%80%e9%9b%aa%e8%a6%8b%e5%9e%8b,0 1452,日朝友好の桜,ニッチョウユウコウノサクラ,"■碑文 (表) 日朝友好の桜 昭和四十四年六月建之 函館市 (裏) ここの桜は函館市に住んでいた朝鮮の人々が、1959年帰国第一次船で祖国=朝鮮民主主義人民共和国へ帰るとき、函館市民との永遠の友好を願う心から11月30日に苗木を植えて市に寄付したものです。 ■解説 1959(昭和34)年8月13日に在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する日朝協定が調印され、同年12月14日に帰函第一船が出港した。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「見晴公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1986年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1452,1453,函館市,東央部地区,北海道函館市見晴町56(見晴公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7930717,140.8047791,,,,,,,"日本, 〒042-0956 北海道函館市見晴町58",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako064-e1455134166177.jpg,hako064-e1455134166177.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako064-e1455134166177.jpg,1453,hako064,,,,%e6%97%a5%e6%9c%9d%e5%8f%8b%e5%a5%bd%e3%81%ae%e6%a1%9c,0 1456,見晴公園 台座,ミハラシコウエン ダイザ,"■解説 この台座は、3代目峰次郎が詩やいわれを彫った記念碑(塔)を建てようと造ったもので、建立途中で他界したため台座のみとなっている。岩船家では「商売繁盛の今あるのは住民の皆様のおかげ…そのお返しの意味を込めて庭園をつくり無償で解放した。庭石は特殊なものを除きその殆どは近郊の町村の山間河川から購入しその運搬には農閑期の村民や凶漁で苦しむ人達を労役として雇用することが多かった。」という(口伝、昭和22年から38年まで岩船家の庭師であった見晴公園管理人、松倉氏談) ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)、「見晴公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1986年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1456,1457,函館市,東央部地区,北海道函館市見晴町56(見晴公園内),,,碑・像,41.7930832,140.8019409,,,,,,,"日本, 〒042-0956 北海道函館市見晴町56",,,,,,okuno.s,"(記録) 岩船ヤス~北海道開拓人名辞典(抜粋) 富商にして篤行者、箱館区弁天町の人 文政元年に生まれた。家もと甚だ貧しく、父峰次郎僅かに飴「ヲコシ」を売って一家6人を養った。 ヤス25歳の時に父病死し、家庭の荒蓼一層を加えた。ヤス商人より木綿類を借受け行商して生計をなし、よく母に孝養を尽し厚く弟妹を愛育した。ヤスまた同情心深く附近に貧病者あるを見れば母に告げて自ら食物等を持参して施与することを忘れなかった。かかるによって嘉永5年8月松前藩より銀2枚、米2俵を明治元年5月箱館府知事より白銀若干を3年8月開拓使農政掛より米5俵を賞賜された。",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako068.jpg,hako068.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako068.jpg,1457,hako068,,,,%e8%a6%8b%e6%99%b4%e5%85%ac%e5%9c%92%e3%80%80%e5%8f%b0%e5%ba%a7,0 1459,根崎公園碑,ネサキコウエンヒ,"■碑文 (表) 根崎公園 北海道知事 堂垣内尚弘書 この公園は道営失業対策事業により建設しました。 昭和四十八年十一月建立 着工 昭和二十七年 竣工 昭和四十七年 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1459,,函館市,東央部地区,北海道函館市湯川町3丁目6(根崎公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7762299,140.7938080,,,,,,,"日本, 〒042-0952 北海道函館市高松町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%a0%b9%e5%b4%8e%e5%85%ac%e5%9c%92%e7%a2%91,0 1461,もりたの池碑,モリタノイケヒ,"■碑文 (表) もりたの池 先代岩雄氏は、新潟県の人、明治初年単身渡道勤倹努力亀田村に農場を開き、ついで澱粉製造、製氷の業を創始する等開発公益の増進に貢献した功により、北海道拓殖功労者として表彰された。 守田武雄氏先志を継いで公共の発展に力を尽し、亀田村議会議長として村政に参画特に教育文化社会福祉振興に奉仕の誠を示した。昭和四十六年この地に函館圏流通センター建設の議起るや率先地域住民を説いて建設推進に尽力、また流通センター開設に際しては所有の池を市民のための憩いの場として寄付された。 ここにわれら父子二代にわたる推譲の美徳をたたえ もりたの池 と名づけて遺風を後世に伝える。 建立有志会一同 (裏) 昭和51年9月建之 太田鶴堂書 ■解説 1976(昭和51)年10月18日建立。 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1461,,函館市,北部地区,北海道函館市西桔梗町589-139(もりたの池),,,碑・像,41.8261757,140.7242889,,,,,,,"日本, 〒041-0824 北海道函館市西桔梗町",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e3%82%82%e3%82%8a%e3%81%9f%e3%81%ae%e6%b1%a0%e7%a2%91,0 1467,老松のいわれ,オイマツノイワレ,"■碑文 (表) 老松のいわれ 植えおきし われは冥土にかえるとも 千代まで栄え まつのみどりを (初代 渡辺孝平作) この黒松林は明治二十二年から同三十三年(一八八九から一八九九)にかけてこの附近一帯の防風防砂林として前記の歌にうたわれた心境から初代渡辺孝平翁が沼津より約二十万本の松苗を船でとりよせ種々工夫困難の末漸く生育させたもののうち現在生き残ったものである。 昭和五十年十二月 函館市 ■参考文献 「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1467,1469,函館市,東央部地区,北海道函館市湯川町1丁目7-55(湯川黒松林内),昭和,明治,碑・像,41.7752457,140.7838440,,,,,,,"日本, 〒042-0932 北海道函館市湯川町1丁目",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako072.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako072-2.jpg,hako072.jpg||hako072-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako072.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako072-2.jpg,1469||1470,hako072||hako072-2,,,,%e8%80%81%e6%9d%be%e3%81%ae%e3%81%84%e3%82%8f%e3%82%8c,0 1472,公園由来の碑,コウエンユライノヒ,"■碑文 (表) 函館公園の由来 函館公園は市民がこぞって工事に参加し完成させた公園で、当時すでに市民のための工事として画期的な事であります 明治初期有志により企画された公園建設が資金の都合で中止となっていたところ たまたま明治十年(一八七七年)函館駐在英国領事ウイリアム・ユースデンの勧めもあってふたたび建設計画がたてられ浅田清次郎の設計監督により工事が進められて明治十二年十一月三日(一八七九年)開園のはこびになりました 園内に植栽されている樹木をはじめ石灯篭、橋、庭石等すべて市民の寄付によるものです 以来一世紀の間市民から愛され市民と共に歩んできました 公園面積四・八ヘクタール 施設の主なものとしては樹木約二八〇〇本、園路、築山、池、噴水、花壇等に加えて明治初期以来小規模な動物施設(道南では動物飼育の先進となった)が設けられており また孟宗竹林はここが北限として、趣をそえております (側面) 開園一〇〇年年記念 寄贈四ツ柳イシ 昭和五十三年十一月三日 ■案内板 この碑は、函館公園の開園百年を記念して、四ツ柳イシの寄贈により昭和53年(1978年)11月に建立された。 碑石は、碑は福島県産の白御影石(幅125cm・高さ175cm)を使用し、碑面には、建設当時の築造作業風景が刻まれている。 碑文は、公園築設の由来と概要について説明されている。 ■追加解説 初代渡辺孝平伝には、その設立について、「明治3年頃より函館在住英領事ユースデン氏から度々、夜、食事等の招待を受け、妻君共に公園の必要性を聴かされていた。「病院は病人に必要。公園は健康体の養成所」と言うことをユースデンより聞き是非創立したいと思い明治5年頃より市民に働きかけたが、なかなかわかってもらえなかった。(…中略…)今の公園地入口の地所は、小林重吉・今井市右衛門両氏の所有とのことで寄付するよう頼んだところ、早速承知を得、さらに今井市右衛門氏より、金一千円を寄付することでこの願書三通を持ち、東京の開拓使出張所をたずねた。」と記されている。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1472,1473,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,明治||大正||昭和||平成,碑・像,41.7572556,140.7166138,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町20−2",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako073.jpg,hako073.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako073.jpg,1473,hako073,,,,%e5%85%ac%e5%9c%92%e7%94%b1%e6%9d%a5%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1475,大噴水塔,ダイフンスイトウ,"■解説 函館上水道は、横浜に次いで2番目の近代的上水道で、1889年(明治22年)9月20日開通式が行われた。日本人設計監督(施行)による上水道としては、日本で最初である。使用した鉄管は、横浜のイリス商会を通じ、イギリスより帆船マスリン号で函館港に運ばれた。 イリス商会は上水道記念に、1888年(明治21年)に2基の大噴水器を函館市に寄附した。当時は、公園中央と西川町遊園地に設置したが、その後、北海池に移されたものは、こわれてしまい、現在は、1基だけとなった。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1475,1476,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,建造物,41.7573738,140.7166290,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町20−2",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako074.jpg,hako074.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako074.jpg,1476,hako074,,,,%e5%a4%a7%e5%99%b4%e6%b0%b4%e5%a1%94,0 1478,石川啄木の歌碑,イシカワタクボクノカヒ,"■碑文 (表) 函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花 啄木 (裏) 石川啄木が首蓿社に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年(1907年)5月~9月に至る短い期間であったが、この間の彼の生活は多数の盟友の温情に浸り、且久しく離散して居た家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった。今回当地を思慕する彼の歌碑が因縁深き此の地に建立さるるに際し、今更ながら在りし日の故友が偲ばれる。 昭和28年(1953年)4月13日 郁雨 宮崎大四郎 ■案内板 この歌碑は、青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。 全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛詠されている。 薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人首蓿社の諸友に囲まれ、文学を論じ、人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと夢を思い悲しんだ。 ■追加解説 石川啄木、本名は一(はじめ)。1886年(明治19年)、岩手県盛岡生まれ。18歳で与謝野鉄幹のつけた名「啄木」で「明星」に詩を発表する。21歳のときに小学校の代用教員となるが、明治40年に免職されて北海道に来た。函館滞在中に大火に見舞われ、その後札幌、小樽、釧路を経て、23歳のときに上京した。25歳で詩集「一握の砂」を発表、1912年(明治45年)4月13日東京で肺結核のため27歳でこの世を去った。 函館には、安山岩の台石上に戸井山の自然石を据えたこの歌碑のほか、大森浜の啄木小公園の啄木座像の台石に刻まれた歌、住吉町墓地内の墓碑に刻まれた歌がある。 青柳町は、この碑がある函館公園周辺の町名で、啄木が苴蓿社同人等に招かれて、最初に住み、後に一家を呼び寄せて住んだ町である。東京に去った後も、このような歌で函館での生活をしのんでいることから、啄木にとって函館での生活は思い出の深かったのだろう。 この碑は1953年(昭和28年)4月に、丸井百貨店の協力で築設され、4月13日に除幕式が行われた。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)",2016年2月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1478,1479,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,明治,碑・像,41.7572937,140.7161407,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町20−2",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako075-e1455145567324.jpg,hako075-e1455145567324.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako075-e1455145567324.jpg,1479,hako075,,,,%e7%9f%b3%e5%b7%9d%e5%95%84%e6%9c%a8%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1483,海山奇勝,,"■碑文 (表) 海山奇勝 従三位 黒田清隆 (裏) 明治十六年七月建之 公園世話掛 刻者 松野房次郎 ■解説 この碑は、箱館戦争以来、開拓使時代の末期まで、函館に深い関係のあった黒田清隆が函館公園を讃した碑であるとともに、黒田清隆の記念碑ともいうことができる。 黒田清隆は、1840年(天保11年)、薩摩に生まれ、20才で薩英戦争に参加して以来、多くの戦いで功をたてた。カラフトより北海道の開拓を重視する建議を行い、明治7年8月、3代目開拓使長官となる。この間、外国人を招へいして開拓事業を計画して、北海道開発の基礎を固めた。明治21年4月には、2代目総理大臣となる。明治33年8月23日、61才で死去。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1483,1484,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,碑・像,41.7573471,140.7156525,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako076-e1455504723597.jpg,hako076-e1455504723597.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako076-e1455504723597.jpg,1484,hako076,,,,%e6%b5%b7%e5%b1%b1%e5%a5%87%e5%8b%9d,0 1486,函館公園記,ハコダテコウエンキ,"■碑文 (表) 函館公園記 太政大臣兼賞勲局修史館総栽従一位大勲位三条実美篆額 函館北海道之門戸也環山抱海当海陸之衝北控全道南接陸羽為北方大都会考諸志乗当蝦夷荒昧之時其事蹟不可得而詳焉文安中有河野氏者拠此及松前氏治蝦夷建関其近邑亀田以譏行人函館由是著寛政以降北徼多事幕府置函館奉行以鎭撫蝦夷地迨其与欧米各国訂盟開五口通商函館居其一於是海舶洋賈往来不絶民居日益殷盛明治初置開拓使統轄全道開拓使設支庁于此管民政外交之事以謂民生之漸繋執業之甚勤而無所以安慰之者非一張一弛之道也乃謀創公園以供人民遊覧之娯於庁之南谷地頭以官地若干充之市民渡辺熊四郎等聞有是挙或納貲或献地以助工今函館県令時任君時以使員長于支庁乃命熊四郎等任公園開築之事其庭池装修則専委之浅田清次郎而今大書記官有竹君董役各踴躍従事始於明治十一年三月訖於翌年十一月園広方一万四千六百歩西南負山樹林蒼鬱東対大瀛混茫無際其北則港口風帆煙檣隠見于碧波瀲灔之中而園内泉石花卉点綴布置極清雅幽秀之致又設博物之館陳列本道物産奇珎異貨光怪陸離於是乎士之官於斯者商工行旅之業於斯出於斯者各以暇日徜徉園中游焉息焉娯其耳目而休其神思夫函館之始成市聚不過百数十年承平日久人民漸集嚮之荒煙蔓草熊狼嘷而麋鹿群者悉化為民居市廛櫛比街路縦横而興隆之運方未有艾昔日之歎人煙寥寥者今則人皆厭其煩囂紛擾欲尋清閒之区昿敞之観以資游覧之快而公園之設適中其所求宜其歓欣奮躍而助成之也抑又国家治化之隆而為民上者善察其所便悉心経営故能至此焉爾鳴呼百余年来時運否泰民生休戚之故其亦可思也哉時任君属余以記文将刻石園中余前奉職於使庁得悉斯園所由設之意故不敢辞而述其梗概如此云 明治十五年十一月 太政官大書記官従五位勲四等 小牧昌業撰 修史館監事従五位勲五等 巌谷脩書 井亀泉刻字 (裏) 公園開築従事者 開築専務 浅田清次郎 函館勤務中 同世話掛 常野正義 渡辺熊四郎 平塚時蔵 平田文右衛門 今井市右衛門 岩船峰次郎 菊地治郎右衛門 新栄幸門 ■解説 表面には「函館公園記」という三条実美の篆額と、公園築設の由来を記した小牧昌業による漢文が刻まれ、裏面には公園開築従業者の氏名がある。 北海道の玄関口函館は、開港通商の場で大変にぎやかであった。そこで逍遥心を楽しむ憩の場所を希望していた開拓支庁が明治6年公園築園を計画、同10年11月函館駐在イギリス領事ユースデン氏のすすめで渡辺熊四郎が感奮して、小林重吉、今井市右衛門、九茂喜代治、小島與三郎ら有志を集めた。区長常野正義も賛助し、開拓使庁に請願して時任君が、公園接近の地買い上げ、一万四千六百歩に至った。渡辺熊四郎・平塚時蔵・平田丈右衛門・新栄幸平・今井市右衛門・岩船峯次郎・菊地治郎右衛門の7人を選び、公園監守として浅田清次郎を工事担当させた。園全体をながめるため同12年時任為基が自ら鋤・鍬を握り、築山を造った、明治12年11月3日天長節にあたり開園祭を行った。こうして市民一体となって造られたこの公園は資金数千円、9,080人余の協力者によって完成した。(函館公園全図より) ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1486,1487,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,碑・像,41.7571716,140.7156372,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako077-e1455507900955.jpg,hako077-e1455507900955.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako077-e1455507900955.jpg,1487,hako077,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%85%ac%e5%9c%92%e8%a8%98,0 1489,今上陛下御即位紀念碑,キンジョウヘイカゴソクイキネンヒ," ■碑文 (表) 今上陛下御即位紀念碑 (台座) 特別功労賛助員 (台座および欄間に賛助者名列記) ■案内板 この碑は、大正天皇の御即位を記念し、大正4年(1916年)5月に建立され、翌年、大正5年(1917年)6月に除幕を行った。 建立にあたっては、市内住民をはじめ道南地方の有志のほか、遠くは苫小牧、旭川方面の区民有志の義金を集め築設した。 碑のわわりを囲む欄間には、建立に協力した人々の名前のほか、今はない真砂町、春日町、地蔵町などの町名が刻まれている。 ■追加解説 題字は、北海道庁長官の西久保弘道による。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1489,1490,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),大正,大正,碑・像,41.7567635,140.7157440,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,石原梯山・山田寿太郎主催にかかり…(「函館公園函館市史資料集」第27集」),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako078-e1455512898568.jpg,hako078-e1455512898568.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako078-e1455512898568.jpg,1490,hako078,,,,%e4%bb%8a%e4%b8%8a%e9%99%9b%e4%b8%8b%e5%be%a1%e5%8d%b3%e4%bd%8d%e7%b4%80%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1492,宮城遙拝之所,キュウジョウヨウハイノトコロ,"■碑文 (表) 宮城遙拝之所 ■解説 昭和11(1936)年天皇の行幸を記念して建立(御影石)。戦時中、遙拝した皇居(宮城)の方向を示している。戦後、セメントで彫字を埋めたが風化により、元の字が顕われている。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1492,1493,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7566490,140.7158051,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako079-e1455515137451.jpg,hako079-e1455515137451.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako079-e1455515137451.jpg,1493,hako079,,,,%e5%ae%ae%e5%9f%8e%e9%81%99%e6%8b%9d%e4%b9%8b%e6%89%80,0 1498,任所適,,"■碑文 (表) 任所適 (裏) 明治十一年十一月 渡辺熊四郎 ■解説 渡辺熊四郎が寄附したもので、任所適とは、「ゆくところにまかせる」という意味。明治11年11月、彫字。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1498,1499,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,碑・像,41.7563858,140.7160950,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako080.jpg,hako080.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako080.jpg,1499,hako080,,,,%e4%bb%bb%e6%89%80%e9%81%a9,0 1502,浅田松翁之碑,アサダショウオウノヒ,"■碑文 (表) 浅田松翁之碑 函館公園称為海内美観方其創設當場師之任専為開築者曰浅田松翁松翁既没所親諸人将立石於園中以紀其事来請余文松翁初名清次郎晩更松翁越前敦賀人少来江戸仕幕臣某氏己而辞帰後復来学築園術於山本某盡得其法於是遍游覧海内勝地以資其技技乃大進所適富家豪戸争聘使治庭園高曠深奧任意布置輒極其工然不自屑為場師遂来居函館以他業為生性好義狭為人済難救急者甚多如戊辰戦乱漕運途梗之時奮応官命単身住糶米二萬石於酒田以給土人糧食其尤著者也及有公園開築之命乃欣然曰此固吾務也於是棄業赴事経営規画督励工徒労瘁而不顧又多出貲以助工費官賞以金輒復用以鳩工庀材不留錙銖凡閲二歳而工事告竣美観完成而土人咸楽焉松翁没年八十九先没数年手書叙少壮以来経歴以遺所親其於公園開築専帰功於他人不敢自伐而特以脩治不断守園得人為願其言甚切蓋欲全公衆歌楽於無窮也翁之嘉恵公衆如此其厚凡游園中者亦能體翁意趣務増飾美観久而不已則庶幾酬其労乎余既多松翁之為又嘉諸人揚善之挙也乃為之書至若公園地区廣袤起工年月林泉形状及所見山海景物則園記既載之今不復道也 従六位勲五等西尾為忠撰書篆 明治三十年四月建 井亀泉刻 (裏) 渡辺熊四郎 平田文右衛門 今井市右衛門 田中正右衛門 金澤彦作 ■解説 函館公園開築専務として、その造設に寝食を忘れて努力した浅田清次郎の彰徳碑である。浅清次郎(1809年~1896年)、文化5(1809)年越前生まれ、文久元(1861)年箱館谷地頭に土着、割烹店「浅田楼」を開いた(現、谷地頭温泉)。箱館戦争の時、府知事に依頼され、酒田より米を回送したり、谷地頭の湿地を埋め立てたりたりした。明治11年、函館公園を設ける時に、生来花卉草木を愛し、築庭園芸の素養があったので、進んで造園工事を担当し、12年11月に公園は竣工した。このとき清次郎は71歳であったが「この公園を完成するまでは安心して死ぬことはできない。家に財産を残しても子孫が誤れば、すぐなくなってしまう。公園に全力を注ぎみんなで楽しむ方が賢明である。」という信念を持って、造園にあたった。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1502,1503,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,碑・像,41.7559509,140.7158356,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako081-e1455518074582.jpg,hako081-e1455518074582.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako081-e1455518074582.jpg,1503,hako081,,,,%e6%b5%85%e7%94%b0%e6%9d%be%e7%bf%81%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1509,山遊碑,サンユウヒ," ■碑文 北域海外眄視箱館之地背西南腹東北地勢斜流西北屈曲而為湾陸続如島暁之周海二里許経緯纔一里許山下陵遅之処民争地而居之比屋参差者箱館市廛之富也湾之回凡六七里許開海門於西北陵大風於函山則広湾之内浮萬船而不覆一船者箱館大湊之美也又呼吸萬船而払国産出入諸品而贍洲用者此洲之咽喉也蓋地偏而纔隔於一條海固不出米殻不備百工四方人来而住焉者箱館地理之徳也予又東総銚江之医夫也文化己巳年以庸作之医来於此己八年庚午之春至於冰海島観偏島五月之桜花渡仲春無漘之海冰酒凍地裂歴寒地来而又看箱館四月之梅花望八月胡山之白雪繋生今日逢重陽之佳節独愛野生之菊佳色使吾楽也於是曳杖登函山四顧西南萬里空一色何処是不知故郷東北続胡地千峯遠萬渓昿野山川流外内之浜疎林之処茅屋数点漁夫宅旅客行馬南飛雁漁舟繋船夜泊情胡地之草木鳥声異被髪文身言語之別交以為客愁集以為風雅乗興賦野詩聊以攄思則為之函山九日之遊也 函山崢嶸石露挙 今日登臨吟杖牽 非免厄■擬栢景 只恨有酒無陶賢 下看野庭芳菊白 仰望山巓紅葉鮮 化鯤為鵬朝暮汐 作雲作雨遠峯烟 山秀西南如孤島 海■東北似湖漣 凮送出入布帆影 潮来昼夜諸邦船 漁舟飄然鴎飛処 行馬■綿断蓬邊 時哉海隅蒼生冨 左衽短髪王道扇 在昔不毛今都会 宜哉夫■欲学伝 嗚呼思昔遊欲息 廷尉落泊数百年 三軍主将無寸地 古墟有名■■■ 人閒行事如暁夢 来歳此興不可然 豈不楽逢佳節日 浮世一時生可■ 文化十三年秋九月箱館官府医 前田恭安 温卿 ■解説 「山遊碑」の題の下に、文化13年9月9日重陽の節句にあたって箱館山に遊んだ文と詩とが彫られている。もとは会所町(現在の元町)にあった八幡宮境内にあったが、その後函館公園の北海池側に移され、さらに1928年(昭和3年)現在地に移された。碑面左やや上に傷があり、判読ができない部分がある。前田恭安(号、温卿)は、下総銚子の医師で前幕領時代の1808年(文化5年)に幕府の医者として箱館へ来た。恭安の経歴の詳細は明らかではないが、彼が択捉島へ出かけた時、ラショワ土人から聞いて書かれたロシア語学の本、「氈裘文筌」(センキュウモンセン)を著している。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1509,1510,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),近世,近世,碑・像,41.7554283,140.7156677,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,この碑はちょうど旧函館図書館前にあるユースデンのライラックの老木の根元にある。(この樹は15号台風で枯死して今日はない)(「函館公園」),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako082.jpg,hako082.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako082.jpg,1510,hako082,,,,%e5%b1%b1%e9%81%8a%e7%a2%91,0 1518,孤山堂無外の句碑,コザンドウムガイノクヒ,"■碑文 (表) 無外翁 梅探る栞や 薮の古井筒 孤山堂五世 頼硯月謹書 (裏) 大正五年十一月 函毎緑叢会建立 ■解説 函館公園の北海池の上手にある。仙台石。函毎緑叢会とは、「函館毎日新聞」の投稿者の会のこと。無外翁は、姓は大塩といい、1860年(万延元年)頃に俳句普及の目的で江戸より来道する。国学に通じ一時、函館八幡宮の称宜を務めたが、退いて函館公園内に小屋を構え、初代公園監守となり、菊・竹・梅を愛し好んで菊を培養し人々を楽しませた。そのため、「愛菊翁」とも呼ばれ、菊培養に使用した井戸は誰いうとなく「無外の井戸」と呼ばれた。また、仙台から移植の孟宗竹もあったが、無外翁は、筍を時々食膳にあげ賞味したので枯死したというエピソードも記録されている。今日では古井桁をコンクリート造りの井筒に改められている。また、函館で桜餅という公園の名物を作り売り出した。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)",2016年2月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1518,1519,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),大正,大正,"歴史,碑・像",41.7556076,140.7143250,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako083-e1455737247521.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako083-2.jpg,hako083-e1455737247521.jpg||hako083-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako083-e1455737247521.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako083-2.jpg,1519||2397,hako083||hako083-2,,,,%e5%ad%a4%e5%b1%b1%e5%a0%82%e7%84%a1%e5%a4%96%e3%81%ae%e5%8f%a5%e7%a2%91,0 1525,どうぶつ慰霊碑,ドウブツイレイヒ,"■碑文 どうぶつ 慰霊碑 ■解説 1962(昭和37)年9月、園内の動物施設で死んだ動物の霊を慰めるため、公園関係者によって建てられた。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1525,1526,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7554245,140.7139435,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,園内の動物施設で死んだ動物の霊を慰めるために毎年動物愛護週間に慰霊祭を行っている。,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako085.jpg,hako085.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako085.jpg,1526,hako085,,,,%e5%8b%95%e7%89%a9%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91,0 1529,箱館通宝銭座跡,ハコダテツウホウゼニザアト,"■碑文 (表) 箱館通宝 銭座跡 (裏) 昭和五十二年十月 函館古銭会建立 ■案内板 安政3年(1856年)幕府はえぞ地(北海道)に限り通用として銭の鋳造を認め、当地尻澤辺村字谷地頭といわれた。 この地に北海道唯一の銭座を建てた。銭文は箱館通實、円孔の鉄の銭であった。 安政4年(1857年)4月より同5年11月までの鋳造高は、10万650貫文という。 昭和52年10月 函館古銭会 ■追加解説 昔、蝦夷地では和人が物を売り買いする場合には銭を用いていたが、この通貨は何れも本州からの移入品で、それ以外は物物交換によった。蝦夷地でも、産出される砂金が貨幣として使ったことや、「松前小判」と称した金貨を造ったこともあったが、市場に広くは流通しなかった。 幕府の前直轄時代には、アイヌの人々に銭の使用法を教えて、売買計算の方法を習熟させようとしたが、松前藩が復領すると、貨幣の通用は禁止された。さらに、松前藩の支配のもので行われた場所請負人による交易の独占により、アイヌの人々の生活は益々困窮することとなった。 このため幕府の再直轄時代にはいると、箱館奉行がこの悪弊を除去しようと再三建議した結果、「箱館通宝」を鋳造することとなり、開港間もない1856年(安政3年)11月に銭座が設けられた。 松平信濃守、石川左近将監、羽太庄左衛門、大河内善兵衛、三橋藤右衛門等が幕府に上申した「蝦夷地銭通用之儀に付、再応申上候書付」中の「品替と銭通用之勝劣左に申上候」の条には下記のようなことが挙げられ、蝦夷地の開拓は「銭通用は開国之主法第一と被存候義に御座候」と結ばれている。 一、蝦夷人との交易品搬出の不便 二、蝦夷地における物品購入の困難 三、交易標準の不統一 四、蝦夷地における和人生活の困難 五、和人蝦夷人雑居における不便 六、蝦夷人生活の不安定 鋳造に関わる職人は南部地方から雇入れ、安政5年11月までに10万650貫、安政6年までに19万貫余、3か年間に30万5000貫の「箱館通宝」が鋳造された。安政4年閏5月から、箱館や松前江差、さらに蝦夷地内に流通させたが、その価値は必ずしも一定ではなかったようである。箱館市中では1両につき6貫800匁替の相場であった。 この貨幣の「箱館通宝」の字は、当時箱館奉行定役太田為之助の筆であり、裏面の「安」は安政の安を表している。当初は鉄銭ばかりだったが、奉行所の松浦竹四郎が上申し、銅銭も鋳造するようになった。武四郎自身、鍋、煙管、火箸等を提供したという(「函館百珍と函館史実」より) この「箱館通宝」は例の少ない鉄銭で、他に比べると重量が重く、品質が粗悪だったため、人々から嫌われて次第に流通しなくなり、遂に鋳造も中止となった。 1977(昭和52)年11月3日に、この碑の除幕式が行れた。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第26集(函館市史編纂委員会)",2016年2月17日,2020年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/1529,1530,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,近世,碑・像,41.7550850,140.7152863,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,"市立図書館に箱館通宝の標本が4種ある。 1、當百青銅銭 直径4センチメートル、中央に直径1センチの円い穴があいている。材料は青銅、表面には「箱館通宝」の4字があり、裏面には「安」の1字と「百文」の2字がある。この青銅貨は、後年貨幣蒐集の盛んになるのに従って小田部某が鋳造した私鋳銭であって、この銭座で造ったものではない。私鋳銭とは通用しなかった通貨を勝手に鋳造して売買珍蔵した一種の偽造貨幣である。 2、一文青銅銭(種銭) 直径2センチ2ミリ、中央に直径7ミリほどのまるい穴がある。表面には「箱館通宝」の4字と、裏面には「安」の1字がある。これは鉄銭を鋳造するための原型で、この種の一文青銅銭を多数造って市場に流通させたわけではなかったが、その一部が実際には流通していたのかもしれない。詳しいことは判らない。 3、一文鉄銭 大きさは種銭と同じであるが、鋳鉄製で頗る粗雑で、種銭とは雲泥の相違がある。これは大量に一時流通したものである。 4、枝銭 樹の枝に銭がなっているような形のもので、鋳造途中の半製品である。 なお末炉と称するものには方形の孔がある鉄銭もあると伝えられているが、現品は未見である。 銭座跡(谷地頭町3番地) (「函館市史資料集」第26集(函館市史編纂委員会)",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako086.jpg,hako086.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako086.jpg,1530,hako086,,,,%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e9%80%9a%e8%b2%a8%e9%8a%ad%e5%ba%a7%e8%b7%a1,0 1536,桜之碑,サクラノヒ,"■碑文 (表) 桜之碑 北海之門為巴港港有公園今以桜花名著而港之有桜蓋濫觴于故逸見小右衛門君始栽之新川矣今按桜之所繇来木花之佐久夜毘売之名夙彰乎神代神功之時有若桜宮其為皇国之名華淵源為遠矣今観以明治之中期夙植斯名華於北門之地使人想有 皇化之己洽者深君識見也可謂不凡君始栽桜在明治二十二年是歳更得允爾来五年之閒植栽臥牛山腹者実算五万株其間以二十四年植梅桜二樹於公園二十七年又植之算及五千二百八十株既栽於臥牛三歳再栽新川堤以千五百株更植於港所在社寺之地者通算千餘株巴港之至春季展桜雲万朶之麗殊以公園為最第一者実君力植至将六万株之賜也然昊天不憫以三十年三月奪君寿可惜哉君与桜花桜花与公園三者相得久矣頃者函館市民胥謀将建桜碑於公園併以為君碑者洵非偶然也君信州北安曇郡北城人田中松栄第三子以嘉永元年三月生元治元年年甫十七自立為賈蹉跌辞郷将航函館慶応元年赴新潟病苦不得志居二年習製菓之法明治元年年二十一五月始来本市曩無余贏就人借本買物于邑行售郊村所得于村帰鬻市邑数閲月而積小貲乃用曩所習業製菓会承函館役後文化新興庶物滋蕃君業亦殷因愈製精品声価為高市有逸見氏家世以南部藩公賈居然家道不振時君既輟其業将遷小樽有人慫慂以冒逸見氏興其家甚勖君遂首肯乃留本市復業製菓居常図防洋糖入港百方苦心経十年始得専内国精糖以確立斯業於本市矣二十二年与同志起巴港社創立北海新聞植桜之業実昉于是歳二十九年取締役於函館銀行有重望以至知命竟世君既為立志伝中之人而夙似以桜花供于 皇化光被之慶標又以充于家道到隆之寿碑更使至為公園麗眺之貞珉何翅一挙両得実兼三得矣宣哉公園建碑之議決也市尹阪本森一需文于予予職入仕閣室出掌景致是以予之於名華之勝区亦似有夙縁乃諾次第所聞明植桜之所由以諗諸後代繋以銘銘曰 斗南有人 刻苦忘身 積福成阜 栽桜若鱗 始教巴港 得勝区真 花是君像 君如厥神 璨然隻璧 清白無鄰 皇化千古 桜雲万春 昭和六年四月 内閣事務嘱託従五位国府種徳譔 高田忠周書 東京 田鶴年刻 ■解説 この碑は、逸見小右衛門が、明治22年~28年の間に亀田川堤防や函館山に苗桜を植栽した頌徳碑である。昭和7年5月10日桜花爛漫のなかで除幕式を挙げた。碑文と銘は上記の通りである。 逸見小右衛門は、函館の商人。1847年(嘉永元年)3月に信濃に生まれ、1868年(明治元年)5月、21歳で新潟から箱館に来て、製菓・麦粉・砂糖の売買を仕事としていた。公益事業を志し、明治22年~28年の間に吉野桜5万1,550本を函館山および亀田川堤防に植栽した。梅・桜5,250本を自ら、鋤・鍬をもって函館公園に寄付移植した。1897年(明治30年)、病いにて永眠、51歳。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月18日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1536,1537,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,明治,碑・像,41.7551346,140.7155762,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)にも記載がある?,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako087-e1455828274568.jpg,hako087-e1455828274568.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako087-e1455828274568.jpg,1537,hako087,,,,%e6%a1%9c%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1542,故開拓使沖鷹丸船長堀口君貞之碑,カイタクシオキタカマルセンチョウノヒ," ■碑文 (表) 故開拓使沖鷹丸船長堀口君貞之碑 孤軍当万衆主将奮闘不退一歩死於弾丸雨注之間以全其軍者其人雖亡而其名不没其英霊之気長在天壌之間也如開拓使沖鷹丸船長堀口君貞之死于其職其事雖異而其迹則同也明治十一年三月君発福山港航于函館比過白神岬風涛大起船不能進乃復還福山投錨以候風浪之静客之搭載者単舸送還之于岸上而風勢益猛悪怒浪雷激狂号奔騰以鼓盪我船者竟二昼夜尚不止黒雲四合不弁咫尺飛雪撲面奇寒刺骨君督衆不撓昼夜不停船之運転百方尽保存之術福山吏民等欲救之亦無術可施張篝火于岸上以示其方位而已賈舶之在近傍者相次摧破雑物器具漂散縈我船脚碍車輪君輒伝令急抜錨転針路以避之錨縢忽中断縈左輪片輪運転不復得自由既而満船皆水衆皆縋縄梯而立時激浪高貳丈許者掃船上去君及水夫四名忽失所在実三月二十七日午前第一時也已而船触于礁不能動船上人待救以上岸尋船亦得浮出終免于漂流破碎者豈非由其始防護之至耶開拓長官黒田公憫君之死於職賜金若干於遺族弔慰之蓋特典也諸同志又追悼不措勒此事于石以表永念不忘之意嗚呼君之死同于奮闘不退死於弾丸雨注之間以全其軍者君之名不没也君之霊其或翺翔于冥々之中長護我沖鷹歟 明治十四年四月 開拓使六等属小貫庸徳撰 開拓使五等属津田善行書 (裏) 一等水夫宮地忠平 三等水夫小嶋増次郎 同 村上芳蔵 同 山口孫次郎 ■解説 白神沖で難破した沖鷹丸船長堀口君貞をいたみ、水夫達が1881年(明治14年)4月に建立した。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月19日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1542,1543,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,碑・像,41.7566109,140.7162170,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako088.jpg,hako088.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako088.jpg,1543,hako088,,,,%e6%95%85%e9%96%8b%e6%8b%93%e4%bd%bf%e6%b2%96%e9%b7%b9%e4%b8%b8%e8%88%b9%e9%95%b7%e5%a0%80%e5%8f%a3%e5%90%9b%e7%9c%9f%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1548,葛西美能郎の句碑,,"■碑文 (表) リラ咲いて 甘さが香ふ 石だたみ 美能郎 (裏) 葛西美能郎先生略歴 明治37.2.25 青森県北津軽郡脇元村に生まれる 本名 葛西武美 昭和3.3 慶応義塾大学医学部卒業 昭和3.4 函館市立函館病院小児科に勤務 昭和6.5 葛西内科小児科医院院長を実兄勇氏より継承 昭和21.8 美能郎俳句会を創立主催 阿部雨花、神保朋世、松野自得師等と親交あり 昭和56.8 函館市功労章受賞 昭和59.2.5 七十九才にて逝去 昭和六十一年九月二十八日 葛西美能郎先生の句碑を建てる会建之 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月22日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1548,1549,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7563896,140.7157288,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako089.jpg,hako089.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako089.jpg,1549,hako089,,,,%e8%91%9b%e8%a5%bf%e7%be%8e%e8%83%bd%e9%83%8e%e3%81%ae%e5%8f%a5%e7%a2%91,0 1551,斉藤玄の句碑,サイトウゲンノクヒ,"■碑文 (表) ひるがへる 遊戯を つくす秋の 鯉 玄 (裏) 昭和五十九年度年次大会記念 昭和五十九年十月二十一日 壺俳句会建之 ■解説 碑文は実筆。 ■参考文献 「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)",2016年2月22日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1551,1552,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7555313,140.7145386,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町17",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako090.jpg,hako090.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako090.jpg,1552,hako090,,,,%e6%96%89%e8%97%a4%e7%8e%84%e3%81%ae%e5%8f%a5%e7%a2%91,0 1554,函館市民運動場記念碑,ハコダテシミンウンドウジョウキネンヒ,"■碑文 (表) 函館市民運動場 陸軍大将 畑俊六書 (裏) 聖上陛下 昭和十一年ノ秋北海ノ曠野ニ陸軍特別大演習ヲ御統栽遊ハサルルヤ天恩優渥更二鳳輦ヲ進メテ蒼生ヲ緩撫在ラセラル十月十日親シク蹕ヲ我カ函館ニ駐メサセ給ヒテ災後ノ復興ヲ臠ハセラレ具ニ市勢ノ進展ヲ聞召サル而テ二十有餘万ノ赤子ハ咫尺ニ龍顔ヲ奉拝シ感激恐懼措ク所ヲ知ラス即チ市民ノ体位向上ヲ図リ聖旨ニ応ヘ奉ラムコトヲ期シ天賜ノ貲ヲ基トシ挙市一致体育公道場ノ設置ヲ発願ス翌十二年工ヲ起シ今日竣ル茲ニ記シテ皇徳ヲ不朽ニ伝ヘ奉ルト云爾 紀元二千六百年八月六日 函館市長 斎藤與一郎 ■解説 現在の潮見中学校の敷地は、昔は共同墓地であった。それから、函館控訴院、地方裁判所、区裁判所の敷地になり、その後、市民運動場となり、北洋博覧会の開催時には、その会場としても利用されたた。 北洋博終了後に、建物を利用して創立されたのが、潮見中学校である。 この碑は、1940年(昭和15年、紀元2600年にあたる)に設置されたもので、碑の題字は、函館弥生学校の卒業生で陸軍大将の畑俊六による。 この函館市民運動場は、千代台公園の開設によって消滅した。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月22日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1554,1558,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町10,昭和,昭和,碑・像,41.7570496,140.7151794,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako092-e1456126736776.jpg,hako092-e1456126736776.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako092-e1456126736776.jpg,1558,hako092,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e6%b0%91%e9%81%8b%e5%8b%95%e5%a0%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1564,海陸軍戦死人名碑,カイリクグンセンシニンメイヒ,"■碑文 (表) 海陸軍戦死名 (裏) 皇政復古天下帰于一然而頑鈍不悟凶暴自恣者相聚為賊遂襲此島據以抗 朝廷実明治元年十月廿四日也当是時官大出兵于青森而将海陸竝進以征之矣会雪深風烈凍寒殊甚而戦艦不至挙軍瞋目搤腕切歯以偏怒賊之暴戻恣睢却厭討征之遅々夙夜苦身焦心暴露雨雪練兵厲氣漸彌日越月及春而山雪稍融海風始穏戦艦畢至挙軍歓躍意氣奮揚乃四月六日前軍先航而到乙部分兵于四道一軍則踰木古内嶺一軍則踰鶉嶺一軍則踰安野呂嶺一軍則沿海浜出于福山城以海陸軍竝進乙部江差所聚之賊膽委氣沮不頓刄接兵而潰敗聚于福山城以抗 天兵不日而殿軍次至矣愈益奮起進如鉾矢戦如雷霆所嚮無前捕獲無算十七日復福山城五月十一日復箱館尋賊皆降全島全定而今天下無又有賊也矣嗚呼全島向離賊之酸酷而今休寧無恙豈亦非将師軍士刻苦之所致乎哉因為弔戦死者記其概略以表其勳労於万世之下云 維時明治二年歳在己巳秋八月総督清水谷侍従藤原公考朝臣撰之当社造営管轄陸軍々監有地志津摩藤原行古同和田植之介藤原義比海軍々監前田雅楽棟隆 ■解説 箱館戦争に倒れた官軍勇士278名の氏名、藩名、戦死年月日、地名が刻まれているが、重複や脱洩が多い。 船見町には、別に「己巳役海軍戦死碑」がある。裏面の碑文は清水谷公考によるもので、招魂社造営にあたった陸軍の有地、和田、海軍の前田などの名が見られる。この石も亀石の一部である(尚、この事については「明治戊辰己己役官軍殉難者考」(神山茂著)を御参照願いたい)。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1564,,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町9(函館護国神社内),,,碑・像,,,,,,,,,,,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%b5%b7%e9%99%b8%e8%bb%8d%e6%88%a6%e6%ad%bb%e4%ba%ba%e5%90%8d%e7%a2%91,0 1582,叶同館阯之碑,キョウドウカンアトノヒ,"■碑文 史蹟 叶同館之阯 愚郊 皇紀二千六百年記念 ■解説 1940年(昭和15年、皇紀2600年)、真宗大谷派函館別院(東本願寺)によって建立された碑で、自然石に碑文が刻まれている。 叶同館は、1871年(明治4年)8月、函館の大工町にあった英人フレタの住宅を開拓使が購入して、迎賓集会の目的に使用した建物である。館名は開拓判官杉浦誠によるもので、明治天皇に随行た太政大臣三条実美が「協同館」と扁額を書いてから、協同館と書くようになった。 1876年(明治9年)7月17日、明治天皇は、叶同館を訪れ、アイヌの男女56名の舞踊を見学して、男には酒、女には針糸を下賜された。杉浦誠から開拓の状況や管内施政の概要説明を受けて、岩倉右大臣・木戸内閣顧問・徳大寺宮内郷・東久世侍従長等とともに食事をとったのち、午後7時40分行在所へ戻った。 この建物は、「協同館」の扁額を残して1879年(明治12年)の大火で全焼したが、1880年(明治13年)、開拓長官黒田清隆が寄贈した木材で、函館公園内に新築され、翌1881年(明治14年)には、明治天皇の再度の巡幸にあたり、北白川宮能久親王殿下が少休憩をとっている。 その後、この建物は私立函館図書館(後、市立となる)として使用されたが、1934年(昭和9年)の大火で消失した。現在、「協同館」の扁額だけが函館市中央図書館に残されている。 ■参考文献 「函館市史資料集」第26集・第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1582,,函館市,西部地区,北海道函館市元町16-15(真宗大谷派函館別院),昭和,明治||大正||昭和,碑・像,41.7633553,140.7145081,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町16−15",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%8f%b6%e5%90%8c%e9%a4%a8%e9%98%af%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1586,行幸記念碑,ギョウコウキネンヒ,"■碑文 (表) 行幸記念碑 (裏) 行幸昭和十一年十月十日 ■解説 1936年(昭和11年)10月10日、昭和天皇は函館行幸の際に、ここ青柳町小学校で郷土史料や学童の体操を視察し、屋上からは1934年(昭和9年)の大火からの復興状況を展望した。この碑はその天皇行幸を記念して建立された碑である。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1586,,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町22-13(青柳小学校内),昭和,昭和,碑・像,41.7583427,140.7184296,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町22−13",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e8%a1%8c%e5%b9%b8%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1591,工業教育発祥之地碑,コウギョウキョウイクハッショウノチヒ,"■碑文 (表) 函館工業教育発祥之地 ■案内板 ”函館工業教育発祥の地”碑について 明治40年8月の函館大火後、函館の復興と地域の工業の発展を促進するため、明治44年2月4日函館区会において函館区立工業補修学校の設置を可決し同年5月15日この地(旧青柳町49番地)にあった旧住吉小学校校舎を仮寓として開校したのが函館における工業教育の濫觴であります。 この碑は昭和11年11月6日工業教育創始25周年を記念して、25周年会が建設したものであります。 平成3年9月 北海道函館工業高等学校同窓会 創立(全日)70(定時)80周年を記念して 改修 平成24年9月 創立100周年記念事業協賛会 ■追加解説 この碑は、工業教育創始25周年記念会で建設したもので、1936年(昭和11年)11月6日に除幕式が挙行された。村田専三郎の尽力によるものである。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年2月26日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1591,1592,函館市,西部地区,函館市青柳町22-13(青柳小学校内),昭和,,碑・像,41.7571335,140.7178192,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町22−13",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/02/hako101-e1456527356943.jpg,hako101-e1456527356943.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/02/hako101-e1456527356943.jpg,1592,hako101,,,,%e5%b7%a5%e6%a5%ad%e6%95%99%e8%82%b2%e7%99%ba%e7%a5%a5%e4%b9%8b%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 1597,古松軒古川正辰之碑,コショウケンフルカワマサトキノヒ,"■碑文 贈正五位 竹亭院殿故巌壽松大居士 備中隠士古松軒古川翁別号黄薇山人倜儻有大略長面脩頤語氣深沈一見知為其偉人少小喜地理学周遊海内巡奥羽渡蝦夷究筑紫薩隅至鬼界島其閒攀鳥道渉大濤写山谷形勢察河海状態尤喜尋戦跡観其勝敗所由以鈎股法揣遠近隆窪不失尺寸所其図説可悉施実用焉寛政中白河楽翁侯当路注意海防聞翁名遠召見詢随問指画応答如流侯大奇之尋受命□正武藏五郡図譜称旨遂欲禄翁不応已帰其郷杜門著書歌詠自娯所著有蝦夷地図東西両遊記外百数種文化四年十一月歿後一百四年 天子閲兵于黄薇之野嘉翁之功労特旨贈正五位実明治四十三年十一月十六日也其裔二亀一曽移函館従商業今茲建墓碑欲記念其光栄来請碣余乃参酌古人所作之翁伝記更記其所語梗概與焉 大正九年十月中澣 駒木根雲鵬撰 大沢磬石書 ■解説 古川古松軒4代の孫、古川二亀市(一)は、明治22年単身函館に移住して商業を営んでいたが、大正9年10月19日碑を高龍寺に建てた。古松軒の墓は故郷の岡山県総社市新本にある(同市指定文化財)。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月27日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1597,,函館市,西部地区,北海道函館市船見町21-11(高龍寺墓地内),大正,近世,碑・像,,,,,,,,,,,,,,,okuno.s,古松軒(正辰)-正孝-保俉三-原泉-二亀市(一?)-真悦(音羽町一番地住、現存)(「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会),,,,,,,,,%e5%8f%a4%e6%9d%be%e8%bb%92%e5%8f%a4%e5%b7%9d%e6%ad%a3%e8%be%b0%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1602,大嘗祭昆布供進記念,ダイジョウサイコンブキョウシンキネンヒ,"■碑文 (表) 大嘗祭昆布供進記念 従四位勳三等 沢田牛磨書 (裏) 昭和三年十一月大嘗祭御儀用庭積机代物昆布供進下命坂田孫六坂田太七郎両氏謹奉尊本組合養殖昆布本道斯業者之無上栄誉乃事蹟為伝不朽建斯碑 昭和八年十一月建之 湯川漁業組合 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年2月29日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1602,,函館市,東央部地区,現存せず,昭和,昭和,碑・像,,,"1928年(昭和3年)、昭和天皇即位後の大嘗祭(だいじょうさい)に際して、湯川地区の漁師らが昆布を献上したことを記念し、湯川漁業組合が1933年(昭和8年)に建立した。 以来、函館市湯浜町1-1-7(函館漁業協同組合湯の川支所前)にあったが、2008年(平成20年)7月、同支所の閉鎖後、処分され、現存しない。",,,,,,,"(表) 大嘗祭昆布供進記念 従四位勳三等 沢田牛磨書 (裏) 昭和三年十一月大嘗祭御儀用庭積机代物昆布供進下命坂田孫六坂田太七郎両氏謹奉尊本組合養殖昆布本道斯業者之無上栄誉乃事蹟為伝不朽建斯碑 昭和八年十一月建之 湯川漁業組合",,,「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)、2020年1月26日付「北海道新聞」,,okuno.s,,,,,,,,,,%e5%a4%a7%e5%98%97%e7%a5%ad%e6%98%86%e5%b8%83%e4%be%9b%e9%80%b2%e8%a8%98%e5%bf%b5,0 1607,坂田翁遺徳碑,サカタオウイトクヒ,"■碑文 (表) 徳綿連 坂田翁遺徳碑 函館支庁長従五位勳四等河毛三郎題額 我湯川昆布養殖之祖曰坂田翁名孫六下湯川寺野人以天保十四年正月生以明治四十四年八月歿葬於上野瑩域翁起身於赤貧克勤耕漁事親至孝広興公益一村信頼其所規画施設至後莫不皆験就中以昆布養殖為其尤者由来湯川沿海数里細砂無嵒礁不適昆布蕃殖村民毎歳納金於隣邑根崎以採聚之後偶因事兩村有違言粉拏不決者多年漁民流離因頓翁慨然有救済之志日夜忘寝食考思百端一日行唫海澨見有昆布黏著瓦片漂波而到者始悟人工養殖之方時明治二十年也自是積実験四歳乃抛私貲採石材於松倉河畔投諸沿海没世不懈於是乎其功竟成民始得安其堵焉爾来幾星霜昔日不毛之海変為好個採藻場其産額年加多而其品質精良号為内外昆布之翹楚翁之餘沢洵可謂偉大矣抑翁之事業雖不出一村之外而遠近相伝往往有取範於我者則翁不止為湯川昆布養殖之祖也某等継翁之遺志戮力同心図斯業之振興者有年伹歳月之久其事蹟或隠晦是恐乃胥議ト地湯倉祠畔鐫貞珉以伝不朽後之読斯碑者其可不思所以益顕彰翁之遺風報其功徳乎哉 大正五年十一月 湯川村漁業組合 石工藤田清一郎 ■解説 湯川における昆布礁の築設者、坂田孫六の頌徳記念碑である。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年3月2日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1607,,函館市,東央部地区,北海道函館市湯川町2丁目28-1(湯倉神社境内),大正,近世||明治,碑・像,41.7815323,140.7910767,,,,,,,"日本, 〒042-0932 北海道函館市湯川町2丁目28−1",,,,,,okuno.s,坂田翁頌徳碑,,,,,,,,,%e5%9d%82%e7%94%b0%e7%bf%81%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91,0 1613,桜の碑,サクラノヒ,"■碑文 (表) 櫻千五百本 剛堂書 (裏) 函館海陸物産仲立業組合 大正二年一月 ■解説 この碑は、1913年(大正2年)の春、仲買連中が函館八幡宮境内から元要塞司令部の構内にかけて、染井吉野やその他の桜1500本程を植えた時の記念碑である。春毎に谷地頭一帯、函館山山麓に咲く桜は、この仲買連中の余徳である。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年3月3日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1613,,函館市,西部地区,北海道函館市谷地頭町2-5(函館八幡宮境内),大正,大正,碑・像,41.7534065,140.7099152,,,,,,,"日本, 〒040-0046 北海道函館市谷地頭町2−5",,,,,,okuno.s,樹齢は盛りをすぎ、天狗巣病は蔓延して、美しい花を見られるのも、あと数年もあるまいと思われる。(「函館市史資料集」第27集),,,,,,,,,%e6%a1%9c%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1617,招魂場之碑,ショウコンジョウノヒ,"■碑文 招魂場 ■解説 もとは招魂社の入口左側にあったもので、「招魂場」の三字が大書してあるが、誰の筆によるものか不明である。この碑は、同じく函館護国神社境内にある「海陸軍戦死人名碑」や船見町(元官修墓地)にある「己巳役海軍戦死」と同じく、高田屋屋敷の庭にあった亀石を割って作られたものと伝えられている。 ■参考文献 「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)",2016年3月3日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1617,,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町9-23(函館護国神社境内),明治,明治,碑・像,41.7596054,140.7138367,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町9−23",,,,,,okuno.s,,,,,,,,,,%e6%8b%9b%e9%ad%82%e5%a0%b4%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1619,貞治の碑,ジョウジノヒ,"■碑文 貞治六年丁末二月日、旦那道阿、慈父悲母同尼公 ■解説 今日では風化して碑面の彫刻は明瞭にみられないが、書面は左右の二割に分れ、何れも阿弥陀仏とその下に躊躇する男女2人の像があり、上記碑文が刻まれている。「貞治六年」の年号に因んで貞治の碑と呼ばれる。函館はもちろん、北海道最古の碑として北海道有形文化財に指定されている。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年3月3日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1619,1626,函館市,西部地区,北海道函館市船見町18-14(称名寺宝物堂),中世,中世,碑・像,41.7692184,140.7013855,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18−14",,,,,,okuno.s,"ガイドブック函館の文化財も見ること。 文字の一部に異説がある。昔境内(中庭にあった)(「函館市史資料集」第27集)",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/hako112-e1457042469921.jpg,hako112-e1457042469921.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/hako112-e1457042469921.jpg,1626,hako112,,,,%e8%b2%9e%e6%b2%bb%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1629,汐干塚,シオヒヅカ,"■碑文 (表) 青柳の泥にしたるゝ汐干哉 (側面) 安永二年春三月□日 村山利兵衛建之 ■解説 松尾芭蕉の句碑で、その銘から村山利兵衛が1774年(安永2年)3月3日に建てたものらしい。句が芭蕉のものというだけで、当時の箱館と芭蕉は何の関係もない。 安永2年は、芭蕉の死から80年目に当るから、同好の士が集った追善句会などの際に、当時箱館湾内の汐干狩を遠望できた称名寺境内に、この句碑を建てたものであろう。 「青柳の……」の句は、芭蕉門人らによる俳諧撰集「炭俵」にある句で、1694年(元禄7年3月3日に詠まれた句である。 「村山」は、松前の場所請負人である村山家の5代目村山利兵衛のことである。 ■参考文献 「函館市史」通説編第1巻(函館市 1974年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)",2016年3月4日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1629,1630,函館市,西部地区,北海道函館市船見町18-14(称名寺内中庭),近世,近世,"碑・像,美術・芸能",41.7697563,140.7012482,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町18−14 称名寺",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/hako113-e1457114766813.jpg,hako113-e1457114766813.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/hako113-e1457114766813.jpg,1630,hako113,,,,%e6%b1%90%e5%b9%b2%e5%a1%9a,0 1634,函館大火供養碑,ハコダテタイカクヨウヒ,"■碑文 (表) 供養碑 函館之地由来多風屢逢災戹昭和九年三月二十一日夕七時前西南風起速度過三十四米突眞為希有之事時市内住吉町某家失火火勢猛烈倏忽之間延焼里餘又有漏電数所益加火勢消防職員雖尽力注水水即為風力所圧煙散霧飛毫無効果家倒屋壊蓋飛檐舞人身浮動無術可施時偶満潮海岸激浪怒号欲避難者眩惑失方或為火所迫或為水所遮進退維谷焼死溺死相次無算且風雪頻至寒威凛凓有免災而凍死者号嘑喚叫宛然地獄呵責也中間風針転西火至于海而止矣蓋翌二十二日朝六時也此罹災町数全焼二十二半焼十八戸数二万五千一百三十一死者二千一百六十餘何其惨哉我湯川区域中焼死溺死収其屍者及六百餘可謂酸撹腸者也茲有志相謀欲建供養碑以祈亡霊之冥福使余記其略概云爾 昭和九年甲戊六月 高田忠周選并書 ■解説 1934年(昭和9年)3月21日、函館大火で焼死・溺死・凍死した人々のなかで、湯川地区で収容された遺体六百余の供養施餓鬼の記念碑である。慰霊施設としては函館市慰霊堂(大森町)があるが、湯川地区では、この供養碑が当時の有様を伝えている。 撰文、清書ともに書家・漢学者、高田忠周(竹山)による。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)",2016年3月4日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1634,,函館市,東央部地区,北海道函館市湯川町3-35-5(竜吟寺内),昭和,昭和,碑・像,41.7814789,140.7937469,,,,,,,"日本, 〒042-0932 北海道函館市湯川町3丁目35−5",,,,,,okuno.s,竹山は旭岡の奧に農場を持ち、当時湯川に住んでいた(「函館市史資料集」第27集),,,,,,,,,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%a4%a7%e7%81%ab%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91,0 1639,聖観音の銅像,ショウカンノンノドウゾウ," ■碑文 (蓮華座裏) 「嘉永二己酉歳九月三日」「当山二十三世秀明代」「松前内蔵源広純造立之」 「御鋳物師 摂州大阪御藏跡住 石井出羽 橡藤原義行造立」 ■解説 花崗岩の台座の上に蓮華座、その上に聖観音立像が据えられている。この観音像は1849年(嘉永2年)、松前藩家老の松前内蔵が松前にあった寿養寺に寄進したものだが、後に高龍寺が譲り受けて移設したものである。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年3月4日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1639,1640,函館市,西部地区,北海道函館市船見町21-11(高龍寺内),近世,近世,碑・像,41.7687225,140.6999359,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町21−11",,,,,,okuno.s,"寿養寺は、経営難で、明治45年に天塩郡幌延町に移っている。(「函館市史資料集」第27集) )",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/hako1131-e1457120885427.jpg,hako1131-e1457120885427.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/hako1131-e1457120885427.jpg,1640,hako113,,,,%e8%81%96%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e3%81%ae%e9%8a%85%e5%83%8f,0 1642,青函連絡船殉職者慰霊碑,セイカンレンラクセンジュンショクシャイレイヒ," ■碑文 (正面) [梵字の「バク」] (側面) 慰霊碑 ■解説 碑の正面には梵字の釈迦如来を意味する「バク」、側面に慰霊碑の3字が刻まれている。袖垣の内側には殉難者の氏名を刻んだ真鍮のプレートが嵌め込まれ、外側にはその由来を刻んだ石版が嵌められている。 戦争末期の青函連絡船への空襲や海難事故等による船員犠牲者の冥福を祈るために、1953年(昭和28年)8月14日、青函連絡船殉職者功績顕彰会(青函連絡船の船員を中心とする国鉄職員らによる)によって建てられた慰霊碑である。 1954年(昭和29年)には、15号台風(洞爺丸台風)によって洞爺丸、北見丸、日高丸、十勝丸、第十一青函丸の青函連絡船5隻が沈没する日本海難史上最大の事故が発生し多くの死者がでたが、その時に殉職した職員もこの碑に合祀されている。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「石碑と銅像で読む近代日本の戦争」(歴史教育者協議会編 高文研発行 2007年)",2016年3月4日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1642,1643,函館市,西部地区,北海道函館市(函館山登山道入口脇),昭和,昭和,碑・像,41.7579117,140.7116241,,,,,,,"日本, 〒040-0000 北海道函館市函館山 函館山登山道路",,,,,,okuno.s,第一の板には昭和20年2月第九青函丸乗組員、同年3月第五青函丸乗組員以下合計88名、同年7月翔鳳、飛鸞、津軽、松前、第二・第三・第四・第六青函丸の人人350名を合せて昭和28年8月14日に「青函連絡船殉職者功績顕彰会」がお祀りしたものである。その後、昭和29年9月26日の台風で、洞爺、北見、日高、十勝、第十一青函丸の乗組員352名を、昭和30年8月25日に「青函船舶鉄道管理局」でお祀りし、その氏名を第二の板に刻んだものであるから、大体大東亜戦争と15号台風の殉職者、合せて790名の慰霊碑である。(「函館市史資料集」第27集)/周辺に関連碑があるので再調査。,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/hako114-e1457122991229.jpg,hako114-e1457122991229.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/hako114-e1457122991229.jpg,1643,hako114,,,,%e9%9d%92%e5%87%bd%e9%80%a3%e7%b5%a1%e8%88%b9%e6%ae%89%e9%9b%a3%e8%80%85%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91,0 1647,スコットの墓碑,スコットノボヒ,"■碑文 (表) IN MEMORY OF JAMES SCOTT BORN SEPTEMBER 22ND 1837 BERVIE KINCARDINESHIRE SCCOTLAND DIED MAY 15TH 1925. HAKODATE. GONE TO REST (裏) ジェームズ・スコットハ西暦一千八百三十七年大英国スコットランド・ キンガーデンシヤイアル・ベルヒーニ生レ、アルバルスナットスクールヲ卒業後ダンデー市ノ製鉄所ニ五年間実習教育ヲ受ケ後各工場ニ機械技師タリ。当時著名ノ鳥類学者砲兵大尉ブライキストン氏ガクリミヤ戦争後国事探偵トシテ露領シベリヤニ入リ、 傍ラ木材事業ヲアムール河流域ニ企画シ、ソノ機械技師トシテ遙カニ本国ヨリスコットヲ聘ス。 スコット即チ小帆船アッケンド号ニ製材機械類ヲ積ミ海路六ヶ月ヲ経テ補塩ストックニブライキストン氏ト会セシガ、露国官憲其上陸ヲ許サズ 止不得方面ヲ転ジ同士ト共ニ函館ニ上陸ス、時ニ西暦一千八百六十四年我ガ元治元年ナリ。上陸後直ニ二十間坂下エ機械木材工場ヲ起ス、之レ斯業ノ函館ニ於ケル嚆矢ナリ。偶々函館戦争ニ会シ官命ニ依リ岩内茅沼炭鉱ニ至リ、約二ヶ年間燃料ヲ供給ス。転ジテ佐渡金山ニ技師タルコト満九年、続イテ南部釜石鉱山ニ二ヶ年在リ、後再ビ函館ニ帰リ仲浜町ニ倉庫業ヲ営ムコト約五ヶ年、爾来函館元町七十三番地ニ住シ静ニソノ余生ヲ送ル、大正十四年五月十五日永眠ス、往年八十八歳ナリ。 大正十四年十月 柿村税陸 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年3月4日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1647,1648,函館市,西部地区,北海道函館市船見町23(プロテスタント墓地内),大正,明治||大正,碑・像,41.7680817,140.6967926,,,,,,,"日本, 〒040-0055 北海道函館市船見町23",,,,,,okuno.s,■解説 (英文訳)ジームス・スコットの記念 1837年9月22日 スコットランドのストーンヘブン州のベルヴィーに生れ、1925年5月15日函館で死去した。安らかに眠れよ。(「函館市史資料集」第27集),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/hako115.jpg,hako115.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/hako115.jpg,1648,hako115,,,,%e3%82%b9%e3%82%b3%e3%83%83%e3%83%88%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91,0 1658,銀婚湯紀念碑,ぎんこんゆきねんひ,"[caption id=""attachment_1659"" align=""alignnone"" width=""211""] 銀婚湯紀念碑(銀婚湯温泉敷地内)[/caption] ",2016年3月11日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1658,1659,八雲町,八雲地区,,大正||昭和,大正||昭和,碑・像,42.1197052,140.3734589,,,,,,,"日本, 〒049-2566 北海道二海郡八雲町上の湯199","(表) 紀念碑 発見 大正十三年五月十日 試掘 大正十四年五月十日 着手 大正十五年七月一日 落成 昭和二年二月廿一日 経営者 川口福太郎",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/013銀婚湯紀念碑.jpg,013銀婚湯紀念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/013銀婚湯紀念碑.jpg,1659,013銀婚湯紀念碑,銀婚湯紀念碑(銀婚湯温泉敷地内),,,%e9%8a%80%e5%a9%9a%e6%b9%af%e7%b4%80%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1665,二宮金次郎像,にのみやきんじろうぞう,"[caption id=""attachment_1666"" align=""alignnone"" width=""214""] 二宮金次郎像(八雲小学校)[/caption] ",2016年3月11日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1665,1666,八雲町,八雲地区,八雲町住初町 八雲小学校敷地内,昭和,昭和,碑・像,42.2563019,140.2647552,,,,,,,"日本, 〒049-3111 北海道二海郡八雲町住初町138","(表) 二宮尊徳先生幼時之像 子爵斎藤 實書 (裏) 寄贈者 尋常科第八回卒業生 長谷川 武雄 第十回卒業生 長谷川 稔 第十六回卒業生 長谷川 薫 昭和十一年八月二十五日建之",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/017二宮金次郎像.jpg,017二宮金次郎像.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/017二宮金次郎像.jpg,1666,017二宮金次郎像,二宮金次郎像(八雲小学校),,,%e4%ba%8c%e5%ae%ae%e9%87%91%e6%ac%a1%e9%83%8e%e5%83%8f,0 1669,乳牛感謝の碑,にゅうぎゅうかんしゃのひ,"[caption id=""attachment_1670"" align=""alignnone"" width=""214""] 乳牛感謝の碑(図書館・合同庁舎そば)[/caption] ",2016年3月11日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1669,1670,八雲町,八雲地区,八雲町相生町98,昭和,明治||大正||昭和||平成,碑・像,42.2504730,140.2752228,,,,,,,"日本, 〒049-3113 北海道二海郡八雲町相生町108","(表) 農民の喜び 乳牛に感謝 北海道庁長官 半井 清書 (台石) 昭和十四年八月二日建之 八雲酪農組合 酪聯八雲工場 明菓八雲工場",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/021乳牛感謝の碑.jpg,021乳牛感謝の碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/021乳牛感謝の碑.jpg,1670,021乳牛感謝の碑,乳牛感謝の碑(図書館・合同庁舎そば),,,%e4%b9%b3%e7%89%9b%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1672,山越内関所之跡碑,やまこしないせきしょのあとひ,"[caption id=""attachment_1673"" align=""alignnone"" width=""209""] 山越内関所之跡碑(山越会館付近)[/caption] ",2016年3月11日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1672,1673,八雲町,八雲地区,八雲町山越,昭和,近世,"歴史,碑・像",42.2302666,140.3295593,,,,,,,"日本, 〒049-2671 北海道二海郡八雲町山越 大沼国道","(表) 山越内関所之跡 八雲町長 田仲孝一書 (裏) 寛永年間松前藩主、其の幕下を鎮定するため検察所を設け、次いで文化の初年、亀田の関所をこの地に移す。 昭和二十八年十一月建設 山越内青年団体協議会",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/025山越内関所之跡碑.jpg,025山越内関所之跡碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/025山越内関所之跡碑.jpg,1673,025山越内関所之跡碑,山越内関所之跡碑(山越会館付近),,,%e5%b1%b1%e8%b6%8a%e5%86%85%e9%96%a2%e6%89%80%e4%b9%8b%e8%b7%a1%e7%a2%91,0 1675,角田弟彦歌碑,つのだおとひこかひ,"[caption id=""attachment_1676"" align=""alignnone"" width=""220""] 角田弟彦歌碑(八雲町消防署西分庁舎横)[/caption] ",2016年3月11日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1675,1676,八雲町,八雲地区,八雲町宮園町 八雲町消防署西分庁舎横,昭和,明治||大正,"歴史,碑・像",42.2543907,140.2658081,,,,,,,"日本, 〒049-3116 北海道二海郡八雲町宮園町3","表) かや刈ると 谷地にいりたち けふもまた わか手な末は 血に染まりつヽ 弟彦 (裏) 昭和丗三年八月建之 八雲短歌舎 (台石) 寄贈 濱西吉三郎 鈴木益枝書",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/026角田弟彦歌碑.jpg,026角田弟彦歌碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/026角田弟彦歌碑.jpg,1676,026角田弟彦歌碑,角田弟彦歌碑(八雲町消防署西分庁舎横),,,%e8%a7%92%e7%94%b0%e5%bc%9f%e5%bd%a6%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1678,久留米小学校跡記念碑,くるめしょうがっこうあときねんひ,"[caption id=""attachment_1679"" align=""alignnone"" width=""209""] 久留米小学校跡記念碑(花浦会館付近)[/caption] ",2016年3月11日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1678,1679,八雲町,八雲地区,八雲町花浦 花浦会館付近,昭和,大正||昭和,碑・像,42.2919197,140.2524872,,,,,,,"日本, 〒049-3122 北海道二海郡八雲町花浦221","(表) 八雲町立久留米小学校跡地 (裏) 昭和四十年三月三十一日廃校",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/029久留米小学校跡記念碑.jpg,029久留米小学校跡記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/029久留米小学校跡記念碑.jpg,1679,029久留米小学校跡記念碑,久留米小学校跡記念碑(花浦会館付近),,,%e4%b9%85%e7%95%99%e7%b1%b3%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e8%b7%a1%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1682,英霊碑,エイレイヒ,"[caption id=""attachment_1686"" align=""alignnone"" width=""213""] 英霊碑 八雲神社内[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1682,1686,八雲町,八雲地区,八雲町宮園町 八雲神社敷地内,,,碑・像,42.2517929,140.2619934,,,,,,,"日本, 〒049-3116 北海道二海郡八雲町宮園町 道道42号線","表) 英霊碑 札幌高等裁判所長官 下飯坂潤夫 (裏) 明治三十七八年戦役戦病死者 陸軍步兵上等兵勳八等功七級 鈴木幼太郎(他九名) 満州事変戦死者 陸軍步兵上等兵 小田惣八(他二名) (台石) 明治四十三年六月十四日起工 明治四十三年十月十七日竣工 建設者 八雲在鄉軍人団 賛助員 従七位 木村定五郎 嶋崎林蔵 正八位 松田就道 杉立正羲 建設委員 斎藤鉄次郎(他四七名) 特志者 村上忠八(他二百五〇名) 石工 菅沼幸太郎",,,"2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品 )",,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/005英霊碑.jpg,005英霊碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/005英霊碑.jpg,1686,005英霊碑,英霊碑 八雲神社内,,,%e8%8b%b1%e9%9c%8a%e7%a2%91,0 1684,八雲村開墾碑,やくもむらかいこんひ,"[caption id=""attachment_1685"" align=""alignnone"" width=""194""] 八雲村開墾碑 立岩公園内[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1684,1685,八雲町,八雲地区,八雲町立岩 立岩公園内,大正,明治||大正||昭和,碑・像,42.2656174,140.2261810,,,,,,,"日本, 〒049-3123 北海道二海郡八雲町立岩 国道277号線","(表) 天恵 維覃 祖功 永報 八雲村開墾碑 明治十年、元名古屋藩主徳川文公諱慶勝、欲開墾北海道不毛、以増殖 国富兼、使藩士就産遣人相地、翌年請官受、胆振州山越郡遊楽部内、一 方五十畝、募移住者始移挙家十五戸、単身十人、是為本地移民嚆矢、十 四年置八雲村、後痩請広地域、二十二年定鄉約始使、移民自主経営、爾 來事業漸振耕耘、專由洋式開牧場、而改良馬種、伝鮭魚孵化法、而計漁 利栽培馬鈴薯、而製澱粉、於今励精不息則足以酬我公、創業之盛意哉、 頃日鄉人相謀建碑、乞余銘銘曰。 胆振之野莽莽蒼蒼 蝦夷所住熊罷跳梁 鋤犁一入草菜此闢 鶏犬声連有田有宅 風蝗荐至殆不易存 艱苦備閲遂開富源 村称八雲気色葱鬱 業期有終不撓不屈 大正七年七月 侯爵 徳川義親題額 海部弘之撰 永田 巌書 (裏) 石工 市川源三 「台石」 発起者 鷲ノ巣青年会賛助員(一四名) 建設者 鷲ノ巣青年会員(三七名) 特志者芳名(九八名) 大正七年六月起工 同年八月竣功 (除幕) 大正七年八月二十四日",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/011八雲村開墾碑1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/005英霊碑.jpg,011八雲村開墾碑1.jpg||005英霊碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/011八雲村開墾碑1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/005英霊碑.jpg,1685||1686,011八雲村開墾碑||005英霊碑,八雲村開墾碑 立岩公園内||英霊碑 八雲神社内,,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e6%9d%91%e9%96%8b%e5%a2%be%e7%a2%91-2,0 1690,落部土人供養碑,オトシベドジンクヨウヒ,"[caption id=""attachment_1691"" align=""alignnone"" width=""213""] 落部土人供養碑 落部墓地内[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1690,1691,八雲町,八雲地区,,,,碑・像,42.1836166,140.4209442,,,,,,,"日本, 〒049-2562 北海道二海郡八雲町落部354−4","(表) 落部土人供養碑 (右側) 昭和十一年十月建之 兒玉作左衛門 辨開勇蔵",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/019落部土人供養碑.jpg,019落部土人供養碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/019落部土人供養碑.jpg,1691,019落部土人供養碑,落部土人供養碑 落部墓地内,,,%e8%90%bd%e9%83%a8%e5%9c%9f%e4%ba%ba%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91,0 1698,大関開拓記念碑,ダイカンカイタクキネンヒ,"[caption id=""attachment_1699"" align=""alignnone"" width=""222""] 大関開拓記念碑 大関神社前[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1698,1699,八雲町,八雲地区,,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.2892723,140.1527863,,,,,,,"日本, 〒049-3121 北海道二海郡八雲町上八雲 道道42号線","表面) 永受嘉福 明治廿八年、日清両国の風雲未た収らさりし頃、大阪の人、長谷川寅次郎、井上徳兵衛、下関の人、安井作次郎、土井重吉の四氏相図りて北海道拓殖事業を起し、八雲村字ユウラップ及トワルベツに跨る地区を撰定して移民を将来し、千古斧鉞を知らさる原始林を開いて農場を創設す これ即ち大関農場なり。示来、四氏は農場内に社寺を造営して崇敬渇仰の誠を至さしめ、学校を建て病院を設けて住民の教育保健に遺憾なからしむ等、経営に努めしかは、一時は百二十戸の一大部落にまて発展せるも共後の経営に蹉跌し、農場は衰運の一路を辿るに至れり こゝに於て大正十一年四月、徳川農場長、大島鍛氏の奔走により大関農場は八雲の開祖、尾張徳川家に移ってユウラップ農場と改称され、徳川農場の一部として経営されしか、昭和九年十二月三十日、場主徳川義親侯は、農家更生の主旨を以て農場地域中六百二十二町九段三畝七歩の地を割きて三十八戸の自作農を創設さる。これ、徳川侯爵の先見英断に よる処置の結果にして、こゝに於て各農家の更生発展の基礎確立し、生活安し、大関部落の今日ある由縁は、実にこゝに存す。 今こゝに部落各戸相謀りて碑を建て、部落の歴史と徳川侯爵の恩澤を永遠に子孫に伝へんとし、余に撰文を嘱せらる。余また比地に因縁浅か らさるものあり、比挙に協賛措く能はす、不文を省す聊か回顧の辞を連ねて碑文とす。 昭和十三年八月 辱知 內田文三郎謹書 (裏) 題額 侯爵徳川義親閣下 昭和十三年八月廿五日建之 自作農者 岩間兎喜男(他三七名)",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/020大関開拓記念碑.jpg,020大関開拓記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/020大関開拓記念碑.jpg,1699,020大関開拓記念碑,大関開拓記念碑 大関神社前,,,%e5%a4%a7%e9%96%a2%e9%96%8b%e6%8b%93%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1702,健康之鐘,ケンコウノカネ,"[caption id=""attachment_1703"" align=""alignnone"" width=""213""] 健康之鐘 八雲保健所内[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1702,1703,八雲町,八雲地区,八雲町末広町 八雲保健所内,,,碑・像,42.2544327,140.2660828,,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町120","(表) 健康之鐘 昭和二十七年八月 北海道知事田中敏文",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/024健康之鐘.jpg,024健康之鐘.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/024健康之鐘.jpg,1703,024健康之鐘,健康之鐘 八雲保健所内,,,%e5%81%a5%e5%ba%b7%e4%b9%8b%e9%90%98,0 1706,牛乳生産記念子牛像,ギュウニュウセイサンキネンコウシゾウ,"[caption id=""attachment_1707"" align=""alignnone"" width=""300""] 牛乳生産記念子牛像 八雲町役場前[/caption] ",2016年3月16日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/1706,1707,八雲町,八雲地区,,昭和,昭和,碑・像,42.2559547,140.2659454,この子牛像は八雲農協管内の年間牛乳生産量が五万石になったことを記念して、八雲百石会が中心となり、彫刻家の本郷新氏に依頼して製作しました。生後5か月のホルスタイン種をモデルに作られています。,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町22","(表) 八雲町牛乳生産五万石達成記念 昭和丗七年八月一日建之 (台石) 赠台石 浜松部落",,,"2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品) 1962『広報やくもNo397』",,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/028牛乳生産記念子牛像.jpg,028牛乳生産記念子牛像.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/028牛乳生産記念子牛像.jpg,1707,028牛乳生産記念子牛像,牛乳生産記念子牛像 八雲町役場前,,,%e7%89%9b%e4%b9%b3%e7%94%9f%e7%94%a3%e8%a8%98%e5%bf%b5%e5%ad%90%e7%89%9b%e5%83%8f,0 1711,徳川さんの像,トクガワサンノゾウ,"[caption id=""attachment_1712"" align=""alignnone"" width=""213""] 徳川さんの像 八雲町公民館[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1711,1712,八雲町,八雲地区,八雲町末広町 八雲町公民館敷地内,昭和,大正||昭和,碑・像,42.2541924,140.2691193,,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町156","(表) 徳川さん (裏) 徳川義親さんは、先考慶勝卿、義禮卿の遺志を継ぎ、半世紀余終始易らぬ愛情をもって、この町を育てられた。 今年、創業八十八年、徳川さん八十歳の誕生の日に深い感謝と喜びと将来への夢をいだいて、この像を建てる。 昭和四十一年十月五日 徳川さんを顕彰する会",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/033徳川義親像.jpg,033徳川義親像.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/033徳川義親像.jpg,1712,033徳川義親像,徳川さんの像 八雲町公民館,,,%e5%be%b3%e5%b7%9d%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ae%e5%83%8f,0 1717,さらんべ公園碑,サランベコウエンヒ," [caption id=""attachment_1718"" align=""alignnone"" width=""300""] さらんべ公園碑 さらんべ公園[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1717,1718,八雲町,八雲地区,,昭和,昭和,碑・像,42.2568359,140.2560272,"除幕 昭和四十五年五月十六日",,,,,,"日本, 〒049-3117 北海道二海郡八雲町栄町7−12","(表) さらんべ公園 (裏) 砂蘭部の川静かに流れ、遥かに遊楽部の連峰を望む、ここ八雲開拓の歴史を物語るゆかりの地を選んで昭和三十八年春、その名をさらんべ公園と名づけて開園の喜びをわかちあった。 私たちは父祖の偉業を称え、町民みな永くこの憩いの場を愛し、英気 と体力を養い希望の実現に前進しよう。 昭和四十五年五月建之 八雲町長田仲孝一 謹刻之 高橋石材加工業所",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/036さらんべ公園碑.jpg,036さらんべ公園碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/036さらんべ公園碑.jpg,1718,036さらんべ公園碑,さらんべ公園碑 さらんべ公園,,,%e3%81%95%e3%82%89%e3%82%93%e3%81%b9%e5%85%ac%e5%9c%92%e7%a2%91,0 1721,八雲町民憲章碑,ヤクモチョウミンケンショウヒ,"[caption id=""attachment_1722"" align=""alignnone"" width=""300""] 八雲町民憲章碑 八雲町役場前[/caption] ■碑文 (表) 八雪町民憲章 わたくしたちの町は、開拓精神にもえた先人によって創業された。わたくしたちは、八雲町民であることに誇りをもち、より豊かな将来をつくるために、ねがいをこめて、この憲章を定める。 一 美しい町をつくろう 二 活気にあふれた町にしよう 三 つねに進歩する町民になろう 贈 八雲町 宇部ヨシノ (右側) 昭和四十五年六月建之 八雲町長田仲孝一 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1721,1722,八雲町,八雲地区,八雲町住初町 八雲町役場,昭和,昭和,碑・像,42.2560043,140.2655792,,,,,,,"日本, 〒049-3111 北海道二海郡八雲町住初町138",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/037八雲町民憲章碑.jpg,037八雲町民憲章碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/037八雲町民憲章碑.jpg,1722,037八雲町民憲章碑,八雲町民憲章碑 八雲町役場前,,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e7%94%ba%e6%b0%91%e6%86%b2%e7%ab%a0%e7%a2%91,0 1724,亀塚,カメヅカ,"[caption id=""attachment_1725"" align=""alignnone"" width=""300""] 亀塚 落部八幡宮境内[/caption] ",2016年3月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/1724,1725,八雲町,八雲地区,八雲町落部 落部八幡宮,昭和,昭和,碑・像,42.1881142,140.4266663,,,,,,,"日本, 〒049-2562 北海道二海郡八雲町落部318","(表) 亀塚 (裏) 落部漁業協同組合 動力船部会 中田奈辺太郎外動力船主一同 世話人 松田光彥、干場 光、菊地政次 昭和四十九年九月吉日建之 松野謹書 (左側) 謹刻之 高橋石材加工業店 (副碑) 昭和三十五年九月二十八日、池内要一郎所有、進栄丸及び、同年十月十八日、山戸久蔵所有、久宝丸が落部地先沖合で操業中に、体長三,八米の海亀が漂流しているのを発見し、直ちに陸揚げして動力船漁業者一同が手厚 く葬り、落部八幡宮境内に海の守護神として亀塚に奉納いたしました。当時、当漁村は、漁族の回遊不安定、海況の激変等により凶漁に喘えでおりましたが、奉納した亀は、いづれも八の日に発見し、末広の佳き因縁のもとに漁民に一大光明を与えたものであります。爾来、漂流して来た亀を全部この亀塚に奉納し、毎年、全漁民挙げて海の守護神亀塚として海上安全と大漁祈願をこめてお祭り申し上げております。比処に海神の亀として奉納してから十五周年に当り、亀塚の碑を建立し、落部漁民一同永久にお祭り申し上げます。 昭和四十九年九月吉日",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/041亀塚.jpg,041亀塚.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/041亀塚.jpg,1725,041亀塚,亀塚 落部八幡宮境内,,,%e4%ba%80%e5%a1%9a,0 1727,犬魂碑,ケンコンヒ,"[caption id=""attachment_1728"" align=""alignnone"" width=""300""] 犬魂碑 八雲保健所内[/caption] ■碑文 (表) 犬魂碑 (裏) 新厅舎改築建之 昭和五十年五月二十九日 北海道八雲保健所長 巽 為蔵 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1727,1728,八雲町,八雲地区,八雲町末広町 八雲保健所内,昭和,昭和,碑・像,42.2544823,140.2661591,,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町120",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/042犬魂碑.jpg,042犬魂碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/042犬魂碑.jpg,1728,042犬魂碑,犬魂碑 八雲保健所内,,,%e7%8a%ac%e9%ad%82%e7%a2%91,0 1730,熱田小学校跡記念碑,アツタショウガッコウアトキネンヒ," [caption id=""attachment_1731"" align=""alignnone"" width=""211""] 熱田小学校跡記念碑 熱田会館[/caption] ■碑文 (表) 八雲町立熟田小学校跡地 (裏) 昭和五十一年三月三十一日廃校 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1730,1731,八雲町,八雲地区,,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.2241516,140.2710266,,,,,,,"日本, 〒049-3125 北海道二海郡八雲町熱田254−2",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/043熱田小学校跡記念碑.jpg,043熱田小学校跡記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/043熱田小学校跡記念碑.jpg,1731,043熱田小学校跡記念碑,熱田小学校跡記念碑 熱田会館,,,%e7%86%b1%e7%94%b0%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e8%b7%a1%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1733,上の湯中学校統合記念碑,カミノユチュウガッコウトウゴウキネンヒ,"[caption id=""attachment_1734"" align=""alignnone"" width=""210""] 上の湯中学校統合記念碑 上の湯[/caption] ■碑文 (表) 中学校統合記念碑 盤石岳に朝日照り 青雲すみてはるかなる 強く気高き人柄を 若人われらきずかなん あゝわが学びや 上の湯校 昭和五十一年四月一日 寄贈井筒敏春 上ノ湯中学校卒業生一同 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1733,1734,八雲町,八雲地区,八雲町上の湯 上の湯小学校跡,昭和,昭和,碑・像,42.1244736,140.3752136,,,,,,,"日本, 〒049-2566 北海道二海郡八雲町上の湯 道道67号線",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/046中学校統合記念碑.jpg,046中学校統合記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/046中学校統合記念碑.jpg,1734,046中学校統合記念碑,上の湯中学校統合記念碑 上の湯,,,%e4%b8%8a%e3%81%ae%e6%b9%af%e4%b8%ad%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e7%b5%b1%e5%90%88%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1736,八雲開拓百年碑,ヤクモカイタクヒャクネンヒ,"[caption id=""attachment_1737"" align=""alignnone"" width=""230""] 八雲開拓百年碑 八雲町郷土資料館敷地内[/caption] ■碑文 (表) 一九七八年 開拓百年 八雲町長 北口盛書 (裏) 開拓記念碑寄贈者 一 碑石 青木義太郎 一 刻字 高橋 彰 一 工事 河井定雄 一 資金 太田国策 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1736,1737,八雲町,八雲地区,八雲町末広町 八雲町郷土資料館,昭和,昭和,碑・像,42.2541046,140.2681885,,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町143",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/047八雲開拓百年碑.jpg,047八雲開拓百年碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/047八雲開拓百年碑.jpg,1737,047八雲開拓百年碑,八雲開拓百年碑 八雲町郷土資料館敷地内,,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e9%96%8b%e6%8b%93%e7%99%be%e5%b9%b4%e7%a2%91,0 1740,八雲町百年記念塔,ヤクモチョウヒャクネンキネントウ,"[caption id=""attachment_1741"" align=""alignnone"" width=""213""] 八雲町百年記念塔 さらんべ公園内[/caption] ■碑文 (表) 協和と繁栄 八雲町長 北口盛書 八雲町百年(一九七八)八雲建設協会建立 (裏) 寄贈者(四六名) 施工者ツバメ工業(株) ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1740,1741,八雲町,八雲地区,八雲町栄町 さらんべ公園,,,建造物,42.2564430,140.2545929,,,,,,,"日本, 〒049-3117 北海道二海郡八雲町栄町1−35",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/048八雲町百年記念塔.jpg,048八雲町百年記念塔.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/048八雲町百年記念塔.jpg,1741,048八雲町百年記念塔,八雲町百年記念塔 さらんべ公園内,,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e7%94%ba%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e5%a1%94,0 1744,酪農感謝の碑,ラクノウカンシャノヒ,"[caption id=""attachment_1745"" align=""alignnone"" width=""300""] 酪農感謝の碑 遊楽部公園内[/caption] 母牛像305cm 子牛像170cm ■碑文 (副碑) 乳牛は八雲農民の母、酪農こそはこの町の誇りである。 開拓以来、長い苦渋にみちた迷路を経て酔農に開眼、 爾来ひとすじにその道を探究努力し来って六十年、ようやく今日の繁栄と確信を克ち得た喜び、同時にそのこと は北海道酪農発展のための先駆的役割を果して来たひそかなる自負でもある。 開町百年、感謝の思いを新たにして、ここに母なる乳牛の像を建てるこの像はまた、今後、真に世界に貢献し 得る平和にして豊かな酪農の町を創出しようとする八雲農民意欲の象徴である。 昭和五十三年十月 太田正治撰文 田仲孝一書 八雲町農業協同組合建立 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1744,1745,八雲町,八雲地区,,昭和,昭和,碑・像,42.2591133,140.2532959,,,,,,,"日本, 〒049-3123 北海道二海郡八雲町立岩359",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/051酪農感謝の碑.jpg,051酪農感謝の碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/051酪農感謝の碑.jpg,1745,051酪農感謝の碑,酪農感謝の碑 立岩公園内,,,%e9%85%aa%e8%be%b2%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1747,健康の碑,ケンコウノヒ,"[caption id=""attachment_1748"" align=""alignnone"" width=""300""] 健康の碑 町民プール敷地内[/caption] ■碑文 (表) 健康 一九七八年 八雲町長 北口 盛書 (左側) 運搬提供 (有)八雲運輸 高見正一 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1747,1748,八雲町,八雲地区,八雲町住初町 町民プール敷地内,昭和,昭和,碑・像,42.2575417,140.2660217,,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町1",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/053健康の碑.jpg,053健康の碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/053健康の碑.jpg,1748,053健康の碑,健康の碑 町民プール敷地内,,,%e5%81%a5%e5%ba%b7%e3%81%ae%e7%a2%91,0 1751,開校百周年記念碑,カイコウヒャクシュウネンキネンヒ,"[caption id=""attachment_1752"" align=""alignnone"" width=""300""] 開校百周年記念碑 八雲小学校[/caption] 小学校敷地内にありますので、無断で敷地内に入らないようにしてください。 道路から見ることができます。 ■碑文 (表) 無終の理想 前にあり 都築省三 村の創業より 八雲小学校開校百周年記念協賛会 昭和五十五年三月建立 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1751,1752,八雲町,八雲地区,八雲町住初町 八雲小学校,昭和,昭和,碑・像,42.2565193,140.2660370,,,,,,,"日本, 〒049-3111 北海道二海郡八雲町住初町140 町立八雲小学校",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/057開校百周年記念碑.jpg,057開校百周年記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/057開校百周年記念碑.jpg,1752,057開校百周年記念碑,開校百周年記念碑 八雲小学校,,,%e9%96%8b%e6%a0%a1%e7%99%be%e5%91%a8%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1757,雲石峠碑,ウンセキトウゲ,"[caption id=""attachment_1758"" align=""alignnone"" width=""300""] 雲石峠碑 雲石峠[/caption] ■碑文 (表) 雲石峠 八雲熊石線の沿革 明治四十四年、北海道会議員荒井幸作氏などの尽力により、日本海太平洋の両岸を最短経路で結ぶ雲石街道の開さくが始まった。大正九年、道路法の施行と共に、熊石八雲停車場線となったが郡境附近は険難で、車馬の通 行も困難をきわめた。昭和五年、改良工事に着手し、昭和八年自動車運行可能な道路となった。昭和二十九年、 正式に八雲熊石線と名付けられ主要道々の認定をうけ以後、函館土木現業所により逐次改良工事が進められた。 昭和三十八年、雲石橋より清流橋まで産業開発道路の指定を受け全面改良に着手、昭和五十四年、全線舗装が完了した。 昭和五十五年十月三日建立 八雲町 熊石町 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1757,1758,八雲町,八雲地区,八雲町上八雲 雲石峠頂上,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.1820297,140.0912628,,,,,,,"日本, 北海道二海郡八雲町 国道277号線",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/058雲石峠碑.jpg,058雲石峠碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/058雲石峠碑.jpg,1758,058雲石峠碑,雲石峠碑 雲石峠,,,%e9%9b%b2%e7%9f%b3%e5%b3%a0%e7%a2%91,0 1760,鳥獣之碑,チョウジュウノヒ,"[caption id=""attachment_1761"" align=""alignnone"" width=""216""] 鳥獣之碑 育成牧場内[/caption] ■碑文 (表) 鳥獣之碑 (裏) 昭和55年11月建立 北海道猟友会八雲支部 支部長 石川 潔 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1760,1761,八雲町,八雲地区,八雲町大新 育成牧場内,昭和,昭和,碑・像,42.2056236,140.2678528,,,,,,,"Unnamed Road, 熱田 八雲町 二海郡 北海道 049-3125 日本",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/060鳥獣之碑.jpg,060鳥獣之碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/060鳥獣之碑.jpg,1761,060鳥獣之碑,鳥獣之碑 育成牧場内,,,%e9%b3%a5%e7%8d%a3%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1763,開校七十周年記念碑,カイコウナナジュッシュウネンキネンヒ,"[caption id=""attachment_1764"" align=""alignnone"" width=""300""] 開校七十周年記念碑 上の湯[/caption] ■碑文 (表) 上の湯開校七十周年記念 盤志湯郷 協賛会建立 昭和五十七年九月十二日 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1763,1764,八雲町,八雲地区,八雲町上の湯 上の湯小学校跡地,昭和,大正||昭和,碑・像,42.1245537,140.3752289,,,,,,,"日本, 〒049-2566 北海道二海郡八雲町上の湯 道道67号線",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/065開校七十周年記念碑.jpg,065開校七十周年記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/065開校七十周年記念碑.jpg,1764,065開校七十周年記念碑,開校七十周年記念碑 上の湯,,,%e9%96%8b%e6%a0%a1%e4%b8%83%e5%8d%81%e5%91%a8%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1767,立岩開拓百年碑,タテイワカイタクヒャクネンヒ,"[caption id=""attachment_1768"" align=""alignnone"" width=""300""] 立岩開拓百年碑 立岩会館前[/caption] ■碑文 開拓百年 昭和57年9月 鷲ノ巣農業協同組合 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1767,1768,八雲町,八雲地区,八雲町立岩 立岩会館,昭和,昭和,碑・像,42.2660561,140.2561646,,,,,,,"日本, 〒049-3123 北海道二海郡八雲町立岩 国道277号線",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/066立岩開拓百年碑.jpg,066立岩開拓百年碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/066立岩開拓百年碑.jpg,1768,066立岩開拓百年碑,立岩開拓百年比 立岩会館前,,,%e7%ab%8b%e5%b2%a9%e9%96%8b%e6%8b%93%e7%99%be%e5%b9%b4%e7%a2%91,0 1770,大新小学校跡地,大新小学校跡記念碑,"[caption id=""attachment_1771"" align=""alignnone"" width=""300""] 大新 大新小学校跡[/caption] ■碑文 (表) 八雲町立大新小学校跡地 八雲町長 牧野貞一書 (右側) 大正五年六月二日 八雲尋常高等小学校附属大新特別教授場として開校 昭和六十三年三月三十一日廃校 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1770,1771,八雲町,八雲地区,八雲町大新 大新小学校跡,,,碑・像,42.2039986,140.2487946,,,,,,,"日本, 〒049-3126 北海道二海郡八雲町大新335",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/085大新小学校跡記念碑.jpg,085大新小学校跡記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/085大新小学校跡記念碑.jpg,1771,085大新小学校跡記念碑,大新 大新小学校跡,,,%e5%a4%a7%e6%96%b0%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e8%b7%a1%e5%9c%b0,0 1774,八雲たつ歌碑,ヤクモタツカヒ,"[caption id=""attachment_1775"" align=""alignnone"" width=""223""] 八雲たつ歌碑 八雲町役場前[/caption] ■除幕 昭和六十三年七月三十一日",2016年3月17日,2017年7月10日,http://donan-museums.jp/archives/1774,1775,八雲町,八雲地区,八雲町住初町 八雲町役場敷地内,,,碑・像,42.2558937,140.2658691,,,,,,,"日本, 〒049-3112 北海道二海郡八雲町末広町22","(表) 八雲たつ 出雲八重垣 つまこみに 八重垣つくる その八重垣を (裏) 徳川春子書 この歌は古事記に載っている須佐之男命の歌で、日本最古の和歌とされています。 徳川慶勝公は、開拓の地に平和な家庭、豊かな郷を創ろうと願いこの歌より「八雲」と命名されました。 この碑は、八雲の発展を祈り愛町の精神を培って欲し いと願う町民の善意を結集して建立されました。 筆をとって下さったのは慶勝公の曽孫であります。 昭和六十三年八月一日建立 八雲たつ歌碑建立期成会",,,2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品),,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/086八雲たつ歌碑.jpg,086八雲たつ歌碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/086八雲たつ歌碑.jpg,1775,086八雲たつ歌碑,八雲たつ歌碑 八雲町役場前,,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e3%81%9f%e3%81%a4%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1777,先駆者ウタリ鎮魂之碑,センクシャウタリチンコンノヒ,"[caption id=""attachment_1778"" align=""alignnone"" width=""219""] 先駆者ウタリ鎮魂之碑 八雲墓地内[/caption] ■碑文 (表) 先駆者ウタリ鎮魂之碑 (裏) 数百年以前より比の地に住し、開拓先駆者の菩提の為に建立す 昭和五十九年八月 社団法人ウタリ協会北海道八雲支部建之 協賛 八雲町 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1777,1778,八雲町,八雲地区,八雲町内浦 八雲墓地内,,,碑・像,42.2630882,140.2787476,,,,,,,"日本, 〒049-3103 北海道二海郡八雲町豊河町11",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/072先駆者ウタリ鎮魂之碑.jpg,072先駆者ウタリ鎮魂之碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/072先駆者ウタリ鎮魂之碑.jpg,1778,072先駆者ウタリ鎮魂之碑,先駆者ウタリ鎮魂之碑 八雲墓地内,,,%e5%85%88%e9%a7%86%e8%80%85%e3%82%a6%e3%82%bf%e3%83%aa%e9%8e%ae%e9%ad%82%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 1781,大島鍛歌碑,オオシマキトウカヒ,"[caption id=""attachment_1782"" align=""alignnone"" width=""300""] 大島鍛歌碑 大新会館前[/caption] ■碑文 (表) 涙 うきときも うれしきときも せきあえす なかるゝものは なみたなりけり 鍛 (裏) 八雲町農村復興の恩人大島鍛先生の遺徳を永く記念するため没後五十年命日にあたり有志相はかりこの碑を建てる 昭和五十九年十一月二十一日 大島鍛先生歌碑建立期成会 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1781,1782,八雲町,八雲地区,八雲町大新 大新会館前,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.2323799,140.2552643,,,,,,,"日本, 〒049-3126 北海道二海郡八雲町大新148",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/073大島鍛歌碑.jpg,073大島鍛歌碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/073大島鍛歌碑.jpg,1782,073大島鍛歌碑,大島鍛歌碑 大新会館前,,,%e5%a4%a7%e5%b3%b6%e9%8d%9b%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 1786,鶴田知也文学碑,ツルタトモヤブンガクヒ,"[caption id=""attachment_1787"" align=""alignnone"" width=""300""] 鶴田知也文学碑 春日・ビンニラ[/caption] [caption id=""attachment_1788"" align=""alignnone"" width=""300""] 鶴田知也文学碑 副碑[/caption] ■碑文 (表) 不遜なれば 未来の 悉くを失う 鶴田知也書 (裏) 昭和六十年六月十五日 鶴田知也文学碑建立期成会 (副碑) 東京神学社神学校の学生だった鶴田知也は大正十一年に八 雲を訪れ、約六ケ月滞在した。九州生まれの青年の魂に、北海道なるものを満たすのに事 欠かなかった八雲を、鶴田知也は、のちに、「あの秋の紅葉の劇烈な美しさ、冬の大吹雪の厳粛な非情、などに対する感動は私を泣かしめるほどのものだった」と記した。 同人雑誌「小説」に昭和十年「コシャマイン記」を発表し、 翌十一年第三回芥川賞を受賞した。作品の舞台、特に後段の コシャマイン終焉の地がピンニラの断崖、カムイミンラの淵とされている。 小説の全編を通じて流れる格調高い美しい文章は、常に世界平和と人類愛に貫かれている。 鶴田知也は「コシャマイン記」のみならず、八雲を題材にした小説や随筆等数十編を著しており、今こそ次代を担う子供達の為に、郷土八雲が名作の舞台になっていることを、語り継ぎ、情操を育み、未来への魂の架け橋ならんとするものである。鶴田知也は、日本野草の会会長として草花のスケッチを著し「画文草木帳」や「草木図誌」等の出版を通じ活躍すると共に、「農業、農民」等の農業雑誌を編集するなど幅広く文筆活動をしている。 ここビンニラの丘に立つ文学碑はひとり八雲町のみならず、 国や北海道の協力をもって完成した、町民憩いの場所としての小公園たらんとするものである。 昭和六十年五月十五日 鶴田知也文学碑建立期成会 ■除幕 昭和六十年六月十五日 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1786,1787,八雲町,八雲地区,八雲町春日 ビンニラ,昭和,大正||昭和,碑・像,42.2629204,140.2188721,,,,,,,"日本, 〒049-3128 北海道二海郡八雲町鉛川 道道42号線",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/074鶴田知也文学碑1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/074鶴田知也文学碑2.jpg,074鶴田知也文学碑1.jpg||074鶴田知也文学碑2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/074鶴田知也文学碑1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/074鶴田知也文学碑2.jpg,1787||1788,074鶴田知也文学碑1||074鶴田知也文学碑2,鶴田知也文学碑 春日・ビンニラ||鶴田知也文学碑 副碑,,,%e9%b6%b4%e7%94%b0%e7%9f%a5%e4%b9%9f%e6%96%87%e5%ad%a6%e7%a2%91,0 1790,トコタンの丘碑,トコタンノオカヒ,"[caption id=""attachment_1791"" align=""alignnone"" width=""300""] トコタンの丘碑 大新[/caption] ■碑文 (表) トコタンの丘 知也 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1790,1791,八雲町,八雲地区,八雲町大新 八雲町斎場付近,,,碑・像,42.2390099,140.2727814,,,,,,,"日本, 〒049-3126 北海道二海郡八雲町大新75",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/075トコタンの丘碑.jpg,075トコタンの丘碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/075トコタンの丘碑.jpg,1791,075トコタンの丘碑,トコタンの丘碑 大新,,,%e3%83%88%e3%82%b3%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%81%ae%e4%b8%98%e7%a2%91,0 1794,八雲神社碑,ヤクモジンジャヒ,"[caption id=""attachment_1795"" align=""alignnone"" width=""201""] 八雲神社碑 八雲神社境内[/caption] ■碑文 (表) 熱田神宮分宮 八雲神社 本社熱田神宮は、伊勢神宮につぐ別格尊貴の勅裁社として、国民等しく敬仰する大社で、当八雲神社は、明治廿年三月廿三日、御分霊奉遷鎭斉、日本国内只一社の熱田神宮分宮となる。茲、原始の山野に明治十一年八月一日、十五戸、単身者十名が鍬を下し幾年月、望郷の心は故郷の大社、熱田神宮に集まり八雲町開基の父、従一位徳川慶勝卿、勅許請願の運びとなり、明治天皇の御裁可を仰いで御分霊の儀実現、移住開拓魂のよりところ、八雲鎭守の御社として稜威あまねく今日に至る。 (裏) 昭和六十年六月 奉納 責任役員 服部レヱ 施工 森組 原石寄進 菊地清一 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1794,1795,八雲町,八雲地区,八雲町宮園町 八雲神社境内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.2522507,140.2625580,,,,,,,"日本, 〒049-3116 北海道二海郡八雲町宮園町56",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/076八雲神社碑.jpg,076八雲神社碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/076八雲神社碑.jpg,1795,076八雲神社碑,八雲神社碑 八雲神社境内,,,%e5%85%ab%e9%9b%b2%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%a2%91,0 1798,二宮金次郎像,ニノミヤキンジロウゾウ,"[caption id=""attachment_1799"" align=""alignnone"" width=""212""] 二宮金次郎像 春日小学校跡地[/caption] 学校用地内のため、無断で立ち入らないでください。 ■碑文 (表) 至誠勤労 陸軍中将 建川美次 書 (背面) 寄贈 岐阜市 木村勝治 竣工 昭和十五年十月吉日 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1798,1799,八雲町,八雲地区,八雲町春日 春日小学校敷地内,昭和,昭和,碑・像,42.2378120,140.2402496,,,,,,,"日本, 〒049-3127 北海道二海郡八雲町春日269",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/022二宮金次郎像.jpg,022二宮金次郎像.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/022二宮金次郎像.jpg,1799,022二宮金次郎像,二宮金次郎像 春日小学校跡地,,,%e4%ba%8c%e5%ae%ae%e9%87%91%e6%ac%a1%e9%83%8e%e5%83%8f-2,0 1801,平和の鐘,ヘイワノカネ,"[caption id=""attachment_1802"" align=""alignnone"" width=""206""] 平和の鐘 さらんべ公園内[/caption] ■碑文 (表) 平和の鐘 平成二年八月十五日建之 八雲町慰霊祭奉賛会 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1801,1802,八雲町,八雲地区,八雲町栄町 さらんべ公園内,平成,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.2565117,140.2541809,,,,,,,"日本, 〒049-3117 北海道二海郡八雲町栄町1−35",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/091平和の鐘.jpg,091平和の鐘.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/091平和の鐘.jpg,1802,091平和の鐘,平和の鐘 さらんべ公園内,,,%e5%b9%b3%e5%92%8c%e3%81%ae%e9%90%98,0 1804,上の湯小学校跡記念碑,カミノユショウガッコウアトキネンヒ,"[caption id=""attachment_1805"" align=""alignnone"" width=""300""] 上の湯小学校跡記念碑 上の湯小学校跡[/caption] ■碑文 (表) 八雲町立上の湯小学校跡地 八雲町教育長 長谷川進書 (裏) 大正二年五月一日上の湯特別教授場として開校 昭和十二年四月三十日上の湯尋常小学校に昇格 平成五年三月三十一日廃校 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1804,1805,八雲町,八雲地区,八雲町上の湯 上の湯小学校跡,平成,大正||昭和||平成,碑・像,42.1245804,140.3752289,,,,,,,"日本, 〒049-2566 北海道二海郡八雲町上の湯 道道67号線",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/094上の湯小学校跡記念碑.jpg,094上の湯小学校跡記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/094上の湯小学校跡記念碑.jpg,1805,094上の湯小学校跡記念碑,上の湯小学校跡記念碑 上の湯小学校跡,,,%e4%b8%8a%e3%81%ae%e6%b9%af%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e8%b7%a1%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1807,人魚姫像,ニンギョヒメゾウ,"[caption id=""attachment_1808"" align=""alignnone"" width=""289""] 人魚姫像 さらんべ公園河畔[/caption] [caption id=""attachment_1809"" align=""alignnone"" width=""300""] 人魚姫像 副碑[/caption] ■碑文 (副碑) 信と愛に清純な乙女のいのちをささげた人魚姫の像 寄贈 平成五年八月吉日 有限会社太平洋農場 代表取締役社長 小山健 ■除幕 平成五年八月一日 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1807,1808,八雲町,八雲地区,八雲町栄町 さらんべ公園河畔,平成,平成,碑・像,42.2579422,140.2544556,,,,,,,"日本, 〒049-3123 北海道二海郡八雲町立岩359",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/098人魚姫像1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/098人魚姫像2.jpg,098人魚姫像1.jpg||098人魚姫像2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/098人魚姫像1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/098人魚姫像2.jpg,1808||1809,098人魚姫像1||098人魚姫像2,人魚姫像 さらんべ公園河畔||人魚姫像 副碑,,,%e4%ba%ba%e9%ad%9a%e5%a7%ab%e5%83%8f,0 1814,春日開拓百年碑,カスガカイタクヒャクネンヒ,"[caption id=""attachment_1815"" align=""alignnone"" width=""211""] 春日開拓百年碑 春日会館敷地[/caption] ■碑文 (表) 一九九六年 開拓百年 八雲町長 長谷川洋二書 (裏) 春日開拓百周年記念 平成8年8月25日 正組合員 青木照義(他二〇名) 準組合員 安藤静雄(他七名) 刻石 森町 佐藤石材店 碑石寄贈 神奈川県 石崎文雄 ■除幕 平成八年八月二十五日 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1814,1815,八雲町,八雲地区,八雲町春日 春日会館敷地内,平成,明治||大正||昭和||平成,碑・像,42.2524071,140.2451477,,,,,,,"日本, 〒049-3127 北海道二海郡八雲町春日37",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/100春日開拓百年碑.jpg,100春日開拓百年碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/100春日開拓百年碑.jpg,1815,100春日開拓百年碑,春日開拓百年碑 春日会館敷地,,,%e6%98%a5%e6%97%a5%e9%96%8b%e6%8b%93%e7%99%be%e5%b9%b4%e7%a2%91,0 1818,モニュメント ふれあい,,"[caption id=""attachment_1819"" align=""alignnone"" width=""217""] モニュメントふれあい[/caption] ■碑文 (副碑) DESIGN CONCEPT デザインコンセプト テーマは「ふれあい」、母と子の姿をモチーフに抽象的に表現し「ふれあい」という言葉の持つ優しさ、暖かさを表現しました。 開町120年を迎え、人と人とのかかわりを今と変わらず大切にしてゆく心を願ったものです。 平成10年8月1日八雲町 ■除幕 平成十年八月一日 ■参考文献 2001『八雲町の石碑と像』高木崇世芝 編(非売品)",2016年3月17日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1818,1819,八雲町,八雲地区,八雲町栄町 シルバープラザ前,平成,平成,碑・像,42.2549629,140.2585602,,,,,,,"日本, 〒049-3117 北海道二海郡八雲町栄町24−31",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/03/101モニュメントふれあい.jpg,101モニュメントふれあい.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/03/101モニュメントふれあい.jpg,1819,101モニュメントふれあい,モニュメントふれあい,,,%e3%83%a2%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%88%e3%80%80%e3%81%b5%e3%82%8c%e3%81%82%e3%81%84,0 1825,姥杉,ウバスギ,"知内公園内にあり、雷公神社初代宮司大野了徳院重一の妻、玉之江(たまのえ)を埋葬した際に建てた祠の横に植えられたとされる杉です。根元近くに乳房の形 をしたコブがある杉の巨木で、母乳のでない女性がここでお参りすると出るようになったため、乳母(姥)杉と呼ばれるようになりました。",2016年4月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1825,1826,知内町,,元町,中世,中世,"歴史,自然",41.5918312,140.4153595,,,,,,,"日本, 北海道上磯郡知内町",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/04/IMG_1149姥杉th_-e1460118043275.jpg,IMG_1149姥杉th_-e1460118043275.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/04/IMG_1149姥杉th_-e1460118043275.jpg,1826,姥杉,,,,%e5%a7%a5%e6%9d%89,0 1832,荒神社,アラガミシャ,"大坂の陣の頃、徳川方につこうとする松前藩主慶広と、豊臣につこうとするその子息松前数馬介由広が内紛を起こします。この場所が追っ手をかけられた由広が自害した場所と言われています。",2016年4月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1832,1833,知内町,,元町,近世||平成,近世,歴史,41.5894852,140.4126587,,,,,,,"日本, 〒049-1106 北海道上磯郡知内町元町131−69",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/04/3-e1460118801665.jpg,3-e1460118801665.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/04/3-e1460118801665.jpg,1833,荒神社,,,,%e8%8d%92%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 1836,雨石,アマイシ,"雨石は雷公神社の祖、大野了徳院重一を祀った塚石と言われています。了徳院は雨の降らない年には必ず雨を降らせるから頃内川のほとりに埋葬するように、と遺言しました。雨が降らず川の水が少なくなると、鮭が遡上できなくなるためです。了徳院が埋葬されると塚石が置かれ、傍に松の木が植えられました。文応元年(1260)のこととされています。 さて、その後雨が降らない年があり、了徳院様にお願いしようと塚石を川に沈めると(水をかけたという話もあります)、やがて大粒の雨が降り、鮭がのぼり、村人が安堵したということです。 現在雨石社は雷公神社に合祀されており、現地にはモニュメントとレプリカが置かれています。 ",2016年4月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1836,1837,知内町,,元町,中世||平成,中世,"歴史,碑・像",41.5968971,140.4110870,,,,,,,"日本, 〒049-1106 北海道上磯郡知内町元町340−6",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/04/1-雨石H4.jpg,1-雨石H4.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/04/1-雨石H4.jpg,1837,雨石,,,雨石,%e9%9b%a8%e7%9f%b3,0 1845,南部藩兵遭難供養碑,ナンブハンヘイソウナンクヨウヒ,"享和2年(1802)ロシアに対する警備のため派遣された南部藩の船が、野辺地から函館に向かう途中の中ノ川沖で難破しました。その時に溺死した41名の供養のために建立された石碑です。 建有川付近の国道沿いで野ざらしになっていたものを、大乗寺に移したものです。",2016年4月23日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1845,1846,知内町,,元町,近世,近世,"歴史,碑・像",41.5956841,140.4156036,,,,,,,"日本, 〒049-1106 北海道上磯郡知内町元町221",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/04/6-南部藩兵遭難供養碑H19.11.17-e1461412194668.jpg,6-南部藩兵遭難供養碑H19.11.17-e1461412194668.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/04/6-南部藩兵遭難供養碑H19.11.17-e1461412194668.jpg,1846,南部藩兵遭難供養碑,,,南部藩兵遭難供養碑,%e5%8d%97%e9%83%a8%e8%97%a9%e5%85%b5%e9%81%ad%e9%9b%a3%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91,0 1850,燈明岳,とうみょうだけ,"元町市街地の背景に連なる山脈の中の標高577.4メートルの一峰を燈明岳と呼びますが、知内川の源泉となる千軒岳や袴腰岳など信仰に関わりを持つ地名と共に、恐らくは雷公神社の社主・大野家の出自とされている山岳信仰の信奉者でもあった修験者によって付された名称ではないかと思われます。山頂には八播宮を祭る小さな堂宇が建っています。",2016年5月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1850,1852,知内町,,元町,,昭和,自然,41.5650711,140.3731842,,,,,,,"日本, 〒049-1106 北海道上磯郡知内町元町 燈明岳",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/05/--e1462700407113.jpg,--e1462700407113.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/05/--e1462700407113.jpg,1852,燈明岳(知内),,,燈明岳(知内),%e7%87%88%e6%98%8e%e5%b2%b3,0 1857,猫塚,ねこづか,"松前藩の一員として函館戦争に従軍し、武勇伝を残した雷公神社22代宮司大野重敬が、ある夜うたたねをしていたところ、旧幕軍の武士が怨霊となってあらわれ、勝負を挑んできました。重敬は驚きながらも床の間の刀で切りつけたところ、「ギャッ」という悲鳴を残して消え去りました。残っていた血痕をたどっていくと大きな古猫が額を割られて死んでいたということです。 哀れに思った重敬は、その古猫の死骸を庭に埋め石祠を建て、椿を植えました。",2016年5月8日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1857,1858,知内町,,,大正,大正,"歴史,碑・像",41.5952606,140.4169922,,,,,,,"日本, 〒049-1106 北海道上磯郡知内町元町247−4",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/05/IMG_2418-e1462701478679.jpg,IMG_2418-e1462701478679.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/05/IMG_2418-e1462701478679.jpg,1858,猫塚,,,猫塚,%e7%8c%ab%e5%a1%9a,0 1861,雷公神社,らいこうじんじゃ,"砂金掘りのために甲斐の国から知内に来た荒木大学が創建したと伝えられる、北海道で最も古い神社です。元々は上雷地区にありましたが、大正4年(1915)に元町へ移りました。なお、本町最古の古文書「大野土佐日記」や、「雨石」もこの神社にあります。",2016年6月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1861,1863,知内町,,元町,,,建造物,41.5958290,140.4134369,,,,,,,"日本, 〒049-1106 北海道上磯郡知内町元町232",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/05/1-3.1雷公神社JPG-e1465560547450.jpg,1-3.1雷公神社JPG-e1465560547450.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/05/1-3.1雷公神社JPG-e1465560547450.jpg,1863,雷公神社JPG,,,,%e9%9b%b7%e5%85%ac%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 1866,重内分校跡地〜無限への可能性〜,おもないぶんこうあとち,"昭和59年(1984)に閉校。跡地には未来への無限の可能性を意味するシンボルと最後の在校生をイメージ化したモニュメントがあります。",2016年6月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1866,1867,知内町,,重内,平成,昭和,碑・像,41.6080437,140.4046631,,,,,,,"日本, 〒049-1103 北海道上磯郡知内町重内 道道698号線",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_1065th_.jpg,IMG_1065th_.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_1065th_.jpg,1867,IMG_1065th_,,,,%e9%87%8d%e5%86%85%e5%88%86%e6%a0%a1%e8%b7%a1%e5%9c%b0%e3%80%9c%e7%84%a1%e9%99%90%e3%81%b8%e3%81%ae%e5%8f%af%e8%83%bd%e6%80%a7%e3%80%9c,0 1869,開拓記念碑,かいたくきねんひ,"重内平野には明治の初期に福井県から開拓者が入りました。北海道百年を契機に重内部落会が建立したこの碑の碑文には辛酸に耐え初志を貫徹、湿原の荒野を豊穣の地に変えた先人の業績を称え敬意が表されています。",2016年6月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1869,1870,知内町,,重内,,,碑・像,41.6115646,140.3917236,,,,,,,"日本, 〒049-1103 北海道上磯郡知内町重内 道道698号線",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_1079-e1465561736411.jpg,IMG_1079-e1465561736411.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_1079-e1465561736411.jpg,1870,開拓記念碑,,,,%e9%96%8b%e6%8b%93%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 1872,二本杉(ふたまた杉),ふたまたすぎ,明治20年頃、福井県から入植した人によって植栽された杉で、地上3メートル程のところから樹幹が二つに分かれています。,2016年6月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1872,,知内町,,重内,明治,明治,"生業,自然",41.6234131,140.3533783,,,,,,,"Unnamed Road, 重内 知内町 上磯郡 北海道 049-1103 日本",,,,,,shiriuchi,,,,,,,,,,%e4%ba%8c%e6%9c%ac%e6%9d%89%ef%bc%88%e3%81%b5%e3%81%9f%e3%81%be%e3%81%9f%e6%9d%89%ef%bc%89,0 1874,知内農業発祥の地〜山田農場跡〜,シリウチノウギョウハッショウノチ,"福井県出身の山田慎が、明治14年(1881)に未開拓平野の払い下げを受けて設立した牧畜会社の本部がありました。農業発祥の地をイメージしたモニュメントがあります。",2016年6月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1874,1875,知内町,,上雷,平成,明治,"生業,碑・像",41.5985870,140.3760376,,,,,,,"日本, 〒049-1107 北海道上磯郡知内町上雷 福山街道",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_0980-e1465562271625.jpg,IMG_0980-e1465562271625.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_0980-e1465562271625.jpg,1875,農業発祥の地,,,,%e7%9f%a5%e5%86%85%e8%be%b2%e6%a5%ad%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0%e3%80%9c%e5%b1%b1%e7%94%b0%e8%be%b2%e5%a0%b4%e8%b7%a1%e3%80%9c,0 1877,東萊小学校跡〜燈明の岳〜,トウライショウガッコウアト," 戦後開拓者の子弟のため、昭和27年(1952)2月知内村立知内小学校東萊沢分校として開校し、昭和55年3月に閉校。「燈明の岳」と題したモニュメントがあります。",2016年6月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1877,1878,知内町,,上雷,平成,昭和,"歴史,碑・像",41.5988541,140.3592377,,,,,,,"日本, 〒049-1107 北海道上磯郡知内町上雷 福山街道",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_0972-e1465562563163.jpg,IMG_0972-e1465562563163.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_0972-e1465562563163.jpg,1878,燈明の岳,,,,%e6%9d%b1%e8%90%8a%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e8%b7%a1%e3%80%9c%e7%87%88%e6%98%8e%e3%81%ae%e5%b2%b3%e3%80%9c,0 1881,史跡上之国館跡 花沢館跡,しせきかみのくにたてあと はなざわだてあと," 15世紀中ごろに北海道南西部に展開したいわゆる道南十二館の一つとされ、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで北斗市に所在する茂別館とともに陥落しなかったとされています。 館は、標高約60㍍上部として丘陵上に立地し、発掘調査では頂上部の後方を囲うように空堀がみつかっています。 また、花沢館跡では住居跡がみつからず、有事の際に利用される臨時的な山城としての役割が考えられています。館は、館主である蠣崎季繁が亡くなった寛正3年(1462)ごろまで機能したと考えられています。",2016年6月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1881,2057,上ノ国町,,上ノ国町字勝山,,,歴史,41.7998428,140.1120758,,,,,,,"日本, 〒049-0601 北海道檜山郡上ノ国町勝山176",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_1834.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_8842.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/IMG_9789.jpg,IMG_1834.jpg||IMG_8842.jpg||IMG_9789.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_1834.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_8842.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/IMG_9789.jpg,2057||2058||1985,IMG_1834||IMG_8842||IMG_9789,,,,%e8%8a%b1%e6%b2%a2%e9%a4%a8%e8%b7%a1,0 1886,史跡上之国館跡 洲崎館跡,しせきかみのくにたてあと すざきだてあと," 松前藩の歴史書『新羅之記録』(しんらのきろく)には、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで功をあげた武田信広が蠣崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、同年築いた館と記述されています。 発掘調査では、掘立柱建物跡や竪穴建物跡の住居のほか、中国産の青磁・白磁、瀬戸産の壺、珠洲産のすり鉢などがみつかっています。 洲崎館は、蠣崎氏が天の川北岸への勢力拡大の始まりとなる館跡として、非常に重要な拠点として16世紀初頭まで機能しています。",2016年6月28日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/1886,1974,上ノ国町,,上ノ国町字北村,縄文,縄文,歴史,41.8096809,140.1172028,,,,,,,"日本, 〒049-0622 北海道檜山郡上ノ国町北村101",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/06/洲崎館跡.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/06/洲崎館跡.jpg,1974,洲崎館跡,,,,%e6%b4%b2%e5%b4%8e%e9%a4%a8%e8%b7%a1,0 1888,史跡上之国館跡 勝山館跡,しせきかみのくにたてあと かつやまだてあと,"虫塚建立式典の様子
",2016年8月14日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2428,2429,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),昭和,昭和,碑・像,41.7558708,140.7146912,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako299.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako299-3.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako299-2.jpg,hako299.jpg||hako299-3.jpg||hako299-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako299.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako299-3.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako299-2.jpg,2429||2431||2430,hako299||hako299-3||hako299-2,,,,%e8%99%ab%e5%a1%9a,0 2437,明治天皇御遺蹟碑,メイジテンノウゴイセキヒ," ■碑文 (表面) 明治天皇御遺蹟 (側面) 昭和十五年十月公爵近衛文磨謹書 ■解 説 1876年(明治9年)7月17日、明治天皇は函館行幸の折に、叶同館で蝦夷人男女56名の「鶴の舞」を天覧になり、煙草や縫糸を下賜された。叶同館は1979年(明治12年)の大火で焼失し、その後に弥生小学校のところにあった浄玄寺が引越してきた、これがいまの東本願寺函館別院である。 台座には函館市長斉藤與一郎が、東本願寺函館別院の沿革を綴った碑文(漢文)がある。1941年(昭和16年)5月25日に序幕された。 ■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)",2016年8月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2437,2438,函館市,西部地区,北海道函館市元町16-15(東本願寺函館別院内),昭和,明治,"歴史,碑・像",41.7633743,140.7143860,,,,,,,"日本, 〒040-0054 北海道函館市元町16−15",,,,,,okuno.s,台座プレート内文章未採取,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako128-e1471220201155.jpg,hako128-e1471220201155.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako128-e1471220201155.jpg,2438,hako128,,,,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e5%be%a1%e9%81%ba%e8%b9%9f%e7%a2%91,0 2450,明治時代のレンガ積みマンホール,メイジジダイノレンガズミマンホール," ■説明板 このマンホールは、明治43年に築造され、昭和57年10月まで72年間にわたり、函館市内で電話の地下ケーブルを収容する設備として使われてきたもので「変形三味線形」と呼ばれております。 これは、明治43年、船場町に郵便局を新築する際、電話線の地下配線が必要となり豊川町から弁天町にかけて設置されたマンホール14個のうちの1個です。 レンガの積み方は独特のもので、函館の当時の姿をあらわす文化財として保存することにいたしました。昭和57年10月22日 函館電報電話局
",2016年8月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2450,2451,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町17(函館公園内),明治,明治,"建造物,歴史",41.7558861,140.7143097,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町10 日暮し通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako298.jpg,hako298.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako298.jpg,2451,hako298,,,,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ae%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ac%e7%a9%8d%e3%81%bf%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%ab,0 2456,ペリー提督 来航時の足跡絵図碑,ペリーテイトク ライコウジノアシアトエズヒ," ■碑文 (表) 「ペリー提督 来航時の足跡絵図」 (向かって左上)箱館における日本会談 (同左下)姿見坂の一景 (同中央)黒船ポーハタン号 (同右上)箱館山からの眺望 (同右下)称名寺の境内 (裏) 「ペリー提督 来航時の足跡絵図」 1、黒船 ポーハタン号(当時 小嶋又次郎が描いたもの) 1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。 入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン (2)ミシシッピー号 1,800トン (3)マセドニアン号 (4)サウザンプトン号 (5)バンダリア号 2、箱館における日米会談 1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。 ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。 3、箱館山からの眺望 箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。 当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている(称名寺:須藤隆仙氏談)。 4、姿見坂の一景 函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。 ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明っされている。 5、称名寺の境内 これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。(須藤隆仙氏、談) 函館ロータリークラブ 創立75周年記念事業 平成21年10月24日建立 函館ロータリークラブ 会長 柴田繁男",2016年8月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2456,2457,函館市,西部地区,北海道函館市弥生町2-1,平成,近世,"歴史,碑・像",41.7662354,140.7098846,,,,,,,"日本, 北海道函館市 基坂通",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/DSCF1602.jpg,DSCF1602.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/DSCF1602.jpg,2457,hako296,,,,%e3%83%9a%e3%83%aa%e3%83%bc%e6%8f%90%e7%9d%a3%e6%9d%a5%e8%88%aa%e6%99%82%e3%81%ae%e8%b6%b3%e8%b7%a1%e7%b5%b5%e5%9b%b3%e7%a2%91,0 2461,阿部たつをの歌碑,アベタツヲノカヒ,"■碑文 人恋ひし遠山の雪ほのぼのと はるの夕日に茜さす頃 たつを ■解説 阿部たつを(本名、竜夫 1892~1984)は秋田県の人、市立函館病院小児科医長に招かれて来函、後福祉法人函館中央病院小児科医長に転じ、勇退後は、中央病院顧問を務めた。 青年時代から和歌を好み函館無風帯社を主催し、幾多の歌集が出版されている。函館に於ける歌道の長老であった。 ■参考文献 「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)",2016年8月15日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2461,2462,函館市,西部地区,北海道函館市青柳町9-23(護国神社内),昭和,昭和,"碑・像,美術・芸能",41.7594452,140.7147980,,,,,,,"日本, 〒040-0044 北海道函館市青柳町9−23",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako131-e1471251676843.jpg,hako131-e1471251676843.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako131-e1471251676843.jpg,2462,hako131,,,,%e9%98%bf%e9%83%a8%e3%81%9f%e3%81%a4%e3%82%92%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 2472,五稜郭裏門橋碑,ゴリョウカクコウエンウラモンハシヒ," ■碑文 (表) 特別史跡 五稜郭跡 (側面) 昭和四十三年三月二十六日建設 史跡指定 大正十一年十月十二日 史跡追加指定 昭和四年四月二日 特別史跡指定 昭和二十七年三月二十九日 (裏) 函館市 文化財保護委員会 ■解説 五稜郭に出入りする橋は当初、表側に3、横側に1、裏側に1の合わせて5橋あったが、後には表側に2橋、裏側に1橋、合わせて3橋しか残っていなかった。それらの橋は、いずれも後に掛け替えられたもので、初めからどの橋にも橋名はなく、付近の人々は裏門にあるこの橋を裏門橋と呼んだ。 しかし、この裏門橋が老朽化して危険だったため、一時通り抜けが禁止された。付近の人々は通り抜けができず、外郭を遠回りしなければならなくなったため、復旧を要望する声が高まった。また、橋の残骸を見苦しくさらしておくのは観光にも悪影響を与えるとして、市が永久橋への掛け替えを計画し、1964年(昭和39年)10月に着工、11月末日に竣工した。橋は鉄筋コンクリート造だが、旧橋と同様、周囲の景観に配慮したデザインとなっている。 同年12月1日には、渡橋式が行われた。 ■参考文献 「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)",2016年8月16日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2472,2476,函館市,中央部地区,北海道函館市五稜郭町38(五稜郭公園内),昭和,近世||明治||大正||昭和||平成,"歴史,碑・像",41.7987480,140.7567902,,,,,,,"日本, 〒041-0853 北海道函館市中道1丁目3−17",,,,,,okuno.s,かけ替え当時、幅4.5メートル、長さ32.9メートル、工費635万円。「裏門橋」という橋名板を両袂の欄干に取り付けたが、これは築城設計武田斐三郎の曾孫文夫氏の筆によるものである。(「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)),http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/08/hako134.jpg,hako134.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/08/hako134.jpg,2476,hako134,,,,%e4%ba%94%e7%a8%9c%e9%83%ad%e8%a3%8f%e9%96%80%e6%a9%8b%e7%a2%91,0 2509,堀川乗経師顕彰碑,ホリカワジョウキョウシケンショウヒ," ■碑文 (表) 宗祖聖人七百回大遠忌記念 堀川乗経師顕彰碑 (裏) 初代知堂堀川乗経 師ハ青森願乗寺ニ 生レ早クヨリ開経 ノ志ヲ抱キテ渡道 シ安政四年五月此 ノ地布教ノ公許ヲ 得テ経田ノ開拓ト 興法利生ノタメ生 涯ヲ捧ゲ明治十一 年六月二十五日逝ク 行年五十五歳 昭和四十三年十月建之 函館別院門徒一同 輪番 仁本正恵誌",2016年9月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2509,2511,函館市,西部地区,北海道函館市東川町12-12(本願寺函館別院境内),昭和,近世||明治,"歴史,碑・像",41.7641449,140.7224884,,,,,,,"日本, 〒040-0042 北海道函館市東川町12−12",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/hako295.jpg,hako295.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/hako295.jpg,2511,hako295,,,,%e5%a0%80%e5%b7%9d%e4%b9%97%e7%b5%8c%e5%b8%ab%e9%a1%95%e5%bd%b0%e7%a2%91,0 2513,常夜灯,ジョウヤトウ," ■碑文 (表) 常夜灯 (裏) 明治四十三年庚戌年五月吉日 函館区蓬莱町 納主 佐々木新八 ■解説 本願寺函館別院の正面入口両端に建っている。",2016年9月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2513,2515,函館市,西部地区,北海道函館市東川町12-12(本願寺函館別院境内),明治,明治,"歴史,碑・像",41.7640915,140.7223969,,,,,,,"日本, 〒040-0042 北海道函館市東川町12−12",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/hako029-2-e1473111172414.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/hako294.jpg,hako029-2-e1473111172414.jpg||hako294.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/hako029-2-e1473111172414.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/hako294.jpg,2515||2514,hako294-2||hako294,,,,%e5%b8%b8%e5%a4%9c%e7%81%af-2,0 2517,親鸞聖人御像,シンランショウニンミカタ,"■碑文 (台座表) 親鸞聖人御像 (台座側面) 「親鸞聖人」題字 第二十四代門主 即如上人 御染筆 寄進 「聖像」「基石」門徒一同 聖像 西本願寺御用達 岩澤梵鐘 株式会社 基石 株式会社 森川組 輪番 打本静正 昭和五十五年十月十五日建之",2016年9月5日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2517,2518,函館市,西部地区,北海道函館市東川町12-12(本願寺函館別院境内),昭和,中世,"歴史,碑・像",41.7641106,140.7222748,,,,,,,"日本, 〒040-0042 北海道函館市東川町12−12",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/hako293-e1473111524180.jpg,hako293-e1473111524180.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/hako293-e1473111524180.jpg,2518,hako293,,,,%e8%a6%aa%e9%b8%9e%e8%81%96%e4%ba%ba%e5%be%a1%e5%83%8f,0 2538,陸軍二等軍医正七位勲六等 小池毅墓,リクグンニトウグンイショウシチイクンロクトウ コイケツヨシハカ," ■碑文 (表) 陸軍二等軍医正七位勲六等 小池毅墓 小池君諱毅父名求眞為旧会津藩侍医母同藩士有賀氏三女也君幼時在小学以秀才顕年十六負笈游東京入済生学舎学医三年而卒業後従北里博士攻黴菌学為伝染病研究所助手征清役起也君任陸軍三等軍医敍正八位尋進二等軍医敍正七位役畢以功敍君六等賜瑞宝章及金若干并従軍記者翌年一月奉命至台湾在新竹及台北衛戍病院当此時台地悪疫流行兵士多死君専担任伝染病室及病理試験室朝夕出入猛毒瀰蔓之間拮据奮励多所救済矣又加生蕃地探検隊跋渉山川鋭意研究斯道欲以明前人未発之原理而益後世也纂一書曰百斯篤菌鎖談其他著書数十部其功績偉矣猶将大有為不幸為悪疫所侵侵竟卒享年僅二十有四実明治三十一年二月二十八日也君以前途多望之身遂斃其職猶将士之斃炮丸也可謂忠烈矣人皆深悼悼焉是歳四月十六日葬於函館尻澤辺墓地建碑以表其墓余嘗識君揮涙書其梗概 明治三十一年十二月 小川景義撰并書 ■参考文献 「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年) ",2016年9月10日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2538,2539,函館市,西部地区,北海道函館市住吉町16(住吉町共同墓地内),明治,近世||明治,"歴史,碑・像",41.7483978,140.7187653,,,,,,,"日本, 〒040-0045 北海道函館市住吉町16",,,,,,okuno.s,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/hako146-e1473548791869.jpg,hako146-e1473548791869.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/hako146-e1473548791869.jpg,2539,hako146,,,,%e9%99%b8%e8%bb%8d%e4%ba%8c%e7%ad%89%e8%bb%8d%e5%8c%bb%e6%ad%a3%e4%b8%83%e4%bd%8d%e5%8b%b2%e5%85%ad%e7%ad%89%e3%80%80%e5%b0%8f%e6%b1%a0%e6%af%85%e5%a2%93,0 2616,八幡牧野の短角牛,,"",2016年9月25日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2616,,上ノ国町,,,昭和,昭和,自然,41.7933044,140.1023712,,,,,,,"Unnamed Road, 勝山 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0601 日本",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/IMG_4785.jpg,IMG_4785.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/IMG_4785.jpg,2620,img_4785,,,,%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%89%a7%e9%87%8e%e3%81%ae%e7%9f%ad%e8%a7%92%e7%89%9b,0 2619,湯ノ岱温泉,ゆのたいおんせん,,2016年9月25日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2619,,上ノ国町,,,明治,明治,"未分類,自然",41.7470741,140.2429199,,,,,,,"日本, 〒049-0562 北海道檜山郡上ノ国町湯ノ岱517−1",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e6%b9%af%e3%83%8e%e5%b2%b1%e6%b8%a9%e6%b3%89,0 2625,湯の岱ブナ公園ふれあいの森,ゆのたいぶなこうえんふれあいのもり," 北海道のブナの分布は渡島半島の黒松内低地帯より南に限られています。そのうち、渡島半島のブナ林は北限のブナ林として学術的にも注目される森林です。この公園は、ブナの天然林の保存と森林を守り育てながら、森林がもたらす多くの恵みと、素晴らしい可能性を四季を体験する場として、広く一般の人々の利用を目的に試験林や遊歩道、東屋(あずまや)、木製遊具、図鑑の森、駐車場、トイレ等が設置されています。",2016年9月25日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2625,,上ノ国町,,,,,自然,41.7129974,140.3028259,,,,,,,"日本, 〒049-0562 北海道檜山郡上ノ国町湯ノ岱 道道5号線",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/MG_0030.jpg,MG_0030.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/MG_0030.jpg,2627,_mg_0030,,,,%e6%b9%af%e3%81%ae%e5%b2%b1%e3%83%96%e3%83%8a%e5%85%ac%e5%9c%92%e3%81%b5%e3%82%8c%e3%81%82%e3%81%84%e3%81%ae%e6%a3%ae,0 2629,天の川河口の砂州,あまのがわかこうのさす,"",2016年9月25日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2629,,上ノ国町,,,縄文,縄文,自然,41.8053589,140.1099854,,,,,,,"日本, 〒049-0612 北海道檜山郡上ノ国町上ノ国83",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/DJI_0009.jpg,DJI_0009.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/DJI_0009.jpg,2630,DCIM100MEDIADJI_0009.JPG,,,,%e5%a4%a9%e3%81%ae%e5%b7%9d%e6%b2%b3%e5%8f%a3%e3%81%ae%e7%a0%82%e5%b7%9e,0 2632,大安在浜のスナビキソウ,," 海岸の砂地に生える多年草で、茎の高さ20~40㎝で葉とともに毛が密生する。日本名は、砂引草で砂中に地下茎を伸ばして増えることに由来する。夏には、アサギマダラが飛来する。",2016年9月25日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2632,,,,,,,自然,41.7724876,140.0726624,,,,,,,"日本, 〒049-0604 北海道檜山郡上ノ国町大安在 追分ソーランライン",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/09/MG_9083.jpg,MG_9083.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/09/MG_9083.jpg,2633,_mg_9083,,,,%e5%a4%a7%e5%ae%89%e5%9c%a8%e6%b5%9c%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%8a%e3%83%93%e3%82%ad%e3%82%bd%e3%82%a6,0 2643,ニオ積み,ニオツミ,"",2016年12月12日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2643,,上ノ国町,,,,昭和,生業,41.7938805,140.1306610,,,,,,,"日本, 〒049-0624 北海道檜山郡上ノ国町中須田 道道5号線",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/12/MG_0791.jpg,MG_0791.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/12/MG_0791.jpg,2644,_mg_0791,,,,%e3%83%8b%e3%82%aa%e7%a9%8d%e3%81%bf,0 2646,湯ノ岱温泉,ユノタイオンセン,"",2016年12月12日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2646,,上ノ国町,,,近世,近世,歴史,41.7471237,140.2429047,,,,,,,"日本, 〒049-0562 北海道檜山郡上ノ国町湯ノ岱517−1",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/12/DSC_2630.jpg,DSC_2630.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/12/DSC_2630.jpg,2647,dsc_2630,,,,%e6%b9%af%e3%83%8e%e5%b2%b1%e6%b8%a9%e6%b3%89-2,0 2650,クジラ岩,クジライワ,"",2016年12月12日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2650,,上ノ国町,,,,,自然,41.7556572,140.0633240,,,,,,,"日本, 〒049-0606 北海道檜山郡上ノ国町木ノ子354",,,,,,kaminokuni,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2016/12/MG_0556.jpg,MG_0556.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2016/12/MG_0556.jpg,2652,_mg_0556,,,,%e3%82%af%e3%82%b8%e3%83%a9%e5%b2%a9,0 2654,湯ノ岱温泉湧き出し口,,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2654,,上ノ国町,,,近世,近世,自然,41.7475548,140.2429352,,,,,,,"日本, 〒049-0562 北海道檜山郡上ノ国町湯ノ岱517−1",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e6%b9%af%e3%83%8e%e5%b2%b1%e6%b8%a9%e6%b3%89%e6%b9%a7%e3%81%8d%e5%87%ba%e3%81%97%e5%8f%a3,0 2656,七ッ岳,,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2656,,上ノ国町,,,,,自然,41.6242332,140.2140503,,,,,,,"Unnamed Road, 小砂子 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0743 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e4%b8%83%e3%83%83%e5%b2%b3,0 2658,七ッ岳大沼,ナナツダケオオヌマ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2658,,上ノ国町,,,,,自然,41.6301804,140.2045746,,,,,,,"Unnamed Road, 小砂子 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0743 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e4%b8%83%e3%83%83%e5%b2%b3%e5%a4%a7%e6%b2%bc,0 2661,桂沼,カツラヌマ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2661,,上ノ国町,,,,,自然,41.7007866,140.0960693,,,,,,,"Unnamed Road, 上ノ国町 檜山郡 北海道 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e6%a1%82%e6%b2%bc,0 2663,大千軒岳,ダイセンゲンダケ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2663,,上ノ国町,,,,,自然,41.5792427,140.1608276,,,,,,,"Unnamed Road, 松前町 松前郡 北海道 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e5%a4%a7%e5%8d%83%e8%bb%92%e5%b2%b3,0 2665,上ノ国ダム,カミノクニダム,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2665,,上ノ国町,,,平成,平成,建造物,41.8025017,140.1849823,,,,,,,"Unnamed Road, 桂岡 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0626 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e4%b8%8a%e3%83%8e%e5%9b%bd%e3%83%80%e3%83%a0,0 2667,七ッ岳小沼,ナナツダケコヌマ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2667,,上ノ国町,,,,,自然,41.6319046,140.2086334,,,,,,,"Unnamed Road, 小砂子 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0743 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e4%b8%83%e3%83%83%e5%b2%b3%e5%b0%8f%e6%b2%bc,0 2669,北海道夜明けの塔,ホッカイドウヨアケノトウ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2669,,上ノ国町,,,平成,平成,建造物,41.7949295,140.1007843,,,,,,,"Unnamed Road, 勝山 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0601 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e5%a4%9c%e6%98%8e%e3%81%91%e3%81%ae%e5%a1%94,0 2673,大澗遺跡,オオマイセキ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2673,,上ノ国町,,,縄文,縄文,歴史,41.8083229,140.0951385,,,,,,,"日本, 〒049-0602 北海道檜山郡上ノ国町原歌3",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e5%a4%a7%e6%be%97%e9%81%ba%e8%b7%a1,0 2675,文殊岩,モンジュイワ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2675,,上ノ国町,,,,,自然,41.8089523,140.0937653,,,,,,,"日本, 〒049-0602 北海道檜山郡上ノ国町原歌3",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e6%96%87%e6%ae%8a%e5%b2%a9,0 2677,ワシリ遺跡,ワシリイセキ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2677,,上ノ国町,,,擦文,擦文,歴史,41.7346764,140.0505676,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡上ノ国町 追分ソーランライン",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e3%83%af%e3%82%b7%e3%83%aa%e9%81%ba%e8%b7%a1,0 2680,甚之丞杉,ジンノジョウスギ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2680,,上ノ国町,,,近世,近世,自然,41.8293571,140.2356720,,,,,,,"Unnamed Road, 桂岡 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0626 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e7%94%9a%e4%b9%8b%e4%b8%9e%e6%9d%89,0 2682,番所のオンコ,バンショノオンコ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2682,,上ノ国町,,,,,自然,41.7282677,140.2469940,,,,,,,"Unnamed Road, 湯ノ岱 上ノ国町 檜山郡 北海道 049-0562 日本",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e7%95%aa%e6%89%80%e3%81%ae%e3%82%aa%e3%83%b3%e3%82%b3,0 2686,中須田神社の黒松,ナカスダジンジャノクロマツ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2686,,上ノ国町,,,,,自然,41.7826920,140.1492004,,,,,,,"日本, 〒049-0624 北海道檜山郡上ノ国町中須田910",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e4%b8%ad%e9%a0%88%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e9%bb%92%e6%9d%be,0 2688,上ノ国漁港遺跡,カミノクニギョコウイセキ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2688,,上ノ国町,,,近世,近世,歴史,41.8080444,140.0980835,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡上ノ国町 追分ソーランライン",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e4%b8%8a%e3%83%8e%e5%9b%bd%e6%bc%81%e6%b8%af%e9%81%ba%e8%b7%a1,0 2690,エゾカンゾウ,エゾカンゾウ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2690,,上ノ国町,,,,,自然,41.8085403,140.0965576,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡上ノ国町 追分ソーランライン",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e3%82%a8%e3%82%be%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%82%be%e3%82%a6,0 2692,カタクリ,カタクリ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2692,,上ノ国町,,,,,自然,41.8032341,140.1042328,,,,,,,"日本, 〒049-0612 北海道檜山郡上ノ国町上ノ国234",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e3%82%ab%e3%82%bf%e3%82%af%e3%83%aa,0 2694,エゾヤマツツジ,エゾヤマツツジ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2694,,上ノ国町,,,,,自然,41.8017349,140.0973969,,,,,,,"日本, 北海道檜山郡上ノ国町 追分ソーランライン",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e3%82%a8%e3%82%be%e3%83%a4%e3%83%9e%e3%83%84%e3%83%84%e3%82%b8,0 2696,ニリンソウ群生,ニリンソウグンセイ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2696,,上ノ国町,,,,,自然,41.7982483,140.1154022,,,,,,,"日本, 〒049-0601 北海道檜山郡上ノ国町勝山147",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e3%83%8b%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%82%bd%e3%82%a6%e7%be%a4%e7%94%9f,0 2698,扇石,オウギイシ,,2016年12月13日,2017年2月10日,http://donan-museums.jp/archives/2698,,上ノ国町,,,,,自然,41.7444458,140.0561218,,,,,,,"日本, 〒049-0607 北海道檜山郡上ノ国町扇石51−3",,,,,,kaminokuni,,,,,,,,,,%e6%89%87%e7%9f%b3,0 2713,猪股作蔵顕彰碑,イノマタサクゾウケンショウヒ,"[caption id=""attachment_2715"" align=""aligncenter"" width=""224""] 猪股作蔵顕彰碑[/caption] ",2017年2月15日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2713,2715,八雲町,熊石地区,八雲町熊石関内町260,大正,明治,碑・像,42.1364632,139.9333496,"この碑は関内の網元猪股作蔵氏を顕彰した碑である。猪股作蔵については明治十九年に青江秀北海道庁理事官が全道を廻り詳細な調査を行い「青江理事官諮問回答書」を作成し、その中に収められているので次にその要約をかかげる。 北海道庁函館支庁渡島国爾志郡熊石村支関内岡下弐拾三番地 猪股 作蔵 天保二年渡島国松前郡木古内に生れ父を畑中作左衛門と言う。作蔵はその第二子。長じて西地所々漁業者の雇夫となる事数年。万延元年作蔵年廿四歳の時、当村支関内の猪股五郎助長女の入り婿となる。しかし五郎助家は貧しく生活も苦しかった。そこで作蔵は大いに奮起し、鰊の建網を始めようと決意し、明治元年始めて長磯に漁場を新開し建網三ケ統を設け鰊五百石を収穫した。以来年々大漁をしついに本村に五ケ統長磯の六カ統を設け合計十一の建網を持つまでになった。明治十八年には雇い人百四十人をもって鰊二千石を収穫した。作蔵の性格は豪にしてかつ朴直であり、貧しい者を憐れみ、米を貸すなどの事はは幾度もあった。また教育の大切な事を痛感し明治十一年十月、本村雲石小学校の設立には金百円を寄贈した。 更に明治十六年には金五十円を出して関内に学校を作り、翌年には再築し金弐百円を繰替支出してついに関内小学校を作った。建築費の内百十九円は寄贈した。 明治十二年の函館大火の際にも壱拾円を寄付し、久遠郡上古丹村出火の時も金五円を焼け出された人に与えている。実に立派な人である。",,,,,,"日本, 〒043-0418 北海道二海郡八雲町熊石関内町260","振興一家之事業竟謀社會之公益名實倶完者世豈乏斯人歟作蔵猪股君蓋其人也君産于北海道渡島國上磯郡木古内邨父為畑中作右衛門君幼而壮實性好漁業櫛風浴雨難苦自勉同里豪侠愛燐最深稍長馳驅于東西其志益固萬延元年関内邨猪股五郎助養以為子擧其長女配之當此時猪股氏家甚貧君堤竹籃賣魚隣里侵晨而出日暮而遂十年如一日遂大與家産現有鰊魚建網十餘統云君為人朴直不屑獨占其利與衆相謀事業大進尋建関内学校函館江刺之両港羅于火災景况最惨君指金若千賑之明治十八年登梅苗和尚之戒壇遂受法號即稱慈雲院観無量音居士同十九年創立一寺於関内邨圓通山観音寺是也君平生為衆講利事無大小単身當之故為衆人所推重官亦賞之数次明治廿二年八月七日病死享年五十四葬于門昌庵之先蛍鳴呼君之志與業可以傳于後世也余記其 概略如此 明治廿四年八月七日 従四位勲三等西岡逾明題額 芯書伊達顕峯撰 松田秀雄書",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO01 猪股作蔵顕彰碑-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO01 猪股作蔵顕彰碑-1.jpg,2715,猪股作蔵顕彰碑,猪股作蔵顕彰碑,,,%e7%8c%aa%e8%82%a1%e4%bd%9c%e8%94%b5%e9%a1%95%e5%bd%b0%e7%a2%91,0 2717,関内庚申塔,セキナイコウシントウ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2717,2718,八雲町,熊石地区,八雲町熊石関内町,明治,明治,碑・像,42.1316719,139.9353943,"北海道新聞朝の食卓(平成2年11月)の磯野利男の「庚申塚」によれ ば「庚申の故事のルーツは中国の道教にある。かのえさるの夜に体内の虫が抜けでて天帝にざん言するのを防ぐため、人々は夜っぴて酒宴を張ったのが始まりと言う。これが仏教と混交して「青面金剛」を庚申の守護神とした。わが国にも仏教伝来と共にこの風習が伝わり、各地に庚申講もでき、かのえさるの日には祭事を催し身の安全を願った。通常かのえさるの日は年に六度巡るが、十二年目に七回ある。この年を七庚申と言って「塚」を建てた。焼尻にもかつて庚申講があり、その日には講中相寄り夜を徹して飲み明かした。信仰よりのみかつ語るのを楽しみにした。その庚申講も講中の人たちの他界により消滅し、今は塚を守る者もいない。やがては庚申の故事も「塚」と同様、草に埋もれてしまうのであろうか。見猿、言わ猿、聞か猿を世に庚申三猿(えん)と称するが、江戸の川柳に「庚申はせ猿をいれて四猿なり」というのがある。つまり前を押さえたもう一匹の猿がいるらしい。」 この文章は焼尻神社の「七庚申」の塚にふれて述べているが、焼尻を関内や折戸に置き換えればそのまま熊石の状況でもある。石碑の裏の野呂家は三国定雄著の「関内よもやま話」の明治二十三年頃より三十年当時関内茶屋町付近全盛当時之図によれば茶屋町通りの入り口付近にあり庚申塔も関内川の側に建っていた事がわかる。 相沼から館平の人たちは八幡神社の横の自然石で出来た庚申塔を祀ってきた。現在も2ケ月ごとに20名くらいの会員で講を開いている。 床の間の中央に庚申の軸をかけ、供物を供え、中の一人が祭壇に向かって参拝してから、全員で「コーシンダイーコウシンダイー、マイタリマイタリ、ソワカー」と唱えて祈る。中央の一人が1回ごとに豆粒を1つづつよせ、33粒(回)で1廻りが終わる。1廻りの後に当番者が支度した食事が出る。やがて2回目が始まりそれが終わると、御神酒と肴が出る。その後3回目が始まり、こうして一夜を語り明かすと言う。 (※しかし、2017年現在、講は行われていないようである。)",,,,,,"日本, 北海道二海郡八雲町 追分ソーランライン","正 面 梵字 庚申塔 (梵字の左右は日月文様) 正面右 天下和順 正面左 日月清明 裏 面 明治廿四年(右)卯八月二日(左) 山崎三右衛門 渡辺栄七 野呂留三郎 野呂粕蔵 世話方 野呂徳松建之",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO02 関内庚申塔.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO02 関内庚申塔.jpg,2718,NO02 関内庚申塔,,,,%e3%80%80%e9%96%a2%e5%86%85%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%94,0 2720,駒井宇一郎先生之碑,コマイウイチロウセンセイノヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2720,2721,八雲町,熊石地区,八雲町熊石関内町260,明治,大正,碑・像,42.1366768,139.9333801,"「駒井宇一郎先生は、弘前市にある勘定奉行の家に生まれ、明治維新ころ熊石に来、その後関内小学校7代目の校長に着任、数学をもっとも得意とした。学校と言っても、今のような校舎はなく、いろりを囲んでの勉強で1年生から4年生まで総数わずか50人程度での授業であった。なお、氏は相沼で急逝している。42才であった。 駒井宇一郎氏の石碑の石材は、字見日の浜にうち上げられたもので、門下生一同が、一日がかりで関内観音寺まで運んだものである。 (熊石高等学校郷土史研究部発行のガリ版刷り創立20周年記念出版冊子「郷土の遺物」の駒井先生に関する文章をそのまま掲載した。) ■参考文献",,,,,,"日本, 〒043-0418 北海道二海郡八雲町熊石関内町260","正面 駒井宇一郎先生之碑 側面左 大正三年十二月二十一日建之 門下生一同",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO03 駒井宇一郎先生之碑-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO03 駒井宇一郎先生之碑-1.jpg,2721,NO03 駒井宇一郎先生之碑-1,,,,%e9%a7%92%e4%ba%95%e5%ae%87%e4%b8%80%e9%83%8e%e5%85%88%e7%94%9f%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 2724,當山中興今井光顕和尚碑,トウザンチュウコウイマイコウケンオショウヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2724,2725,八雲町,熊石地区,八雲町関内町260,大正,昭和,碑・像,42.1366615,139.9333801,円通山観音寺住職となった今井光顕和尚の碑,,,,,,"日本, 〒043-0418 北海道二海郡八雲町熊石関内町260","正面中央 當山中興今井光顕大和尚碑 側面左 今井光顕大和尚大正元年当地に来り 円通山観音寺住職となり昭和三十六年 八月三十日七十四才にて没す 今吾等相寄り一碑を建立し氏の高徳を 後世に残さんとす 裏面右 昭和三十九年七月吉日 裏面中央 檀家一同",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO04-當山中興今井光顕和尚碑.jpg,-當山中興今井光顕和尚碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO04-當山中興今井光顕和尚碑.jpg,2725,"NO04 當山中興今井光顕和尚碑",,,,%e7%95%b6%e5%b1%b1%e4%b8%ad%e8%88%88%e4%bb%8a%e4%ba%95%e5%85%89%e9%a1%95%e5%92%8c%e5%b0%9a%e7%a2%91,0 2727,観音寺石仏地蔵,カンノンジセキブツジゾウ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2727,2728,八雲町,熊石地区,八雲町熊石関内町260,,,碑・像,42.1366768,139.9333801,観音寺にある石仏と地蔵。,,,,,,"日本, 〒043-0418 北海道二海郡八雲町熊石関内町260",,,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO05 観音寺石仏地蔵-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO05 観音寺石仏地蔵-1.jpg,2728,NO05 観音寺石仏地蔵-1,,,,%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e5%af%ba%e7%9f%b3%e4%bb%8f%e5%9c%b0%e8%94%b5,0 2730," 坂口重造碑",サカグチシゲゾウヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2730,2731,八雲町,熊石地区,八雲町熊石関内町260,明治,大正,碑・像,42.1366768,139.9333801,"観音寺には猪股作造の石碑の他に「坂口重造碑」と「駒井宇一郎先生之碑」が建っています。 坂口重造は愛知県三河国宝飯郡大塚村の人で、熊石村の道路整備に功績のあった人です。特に石積みの技術に優れていて、この人の手がけた石垣は、旧ひらたないトンネルの西側等にあり、その見事さを長い間たたえられていました。国道改良工事と共に取り壊され現在はその姿をとどめていません。この碑は明治廿五年(1892)十月十四日に建てられました。",,,,,,"日本, 〒043-0418 北海道二海郡八雲町熊石関内町260",,,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO06-坂口重造碑-1.jpg,-坂口重造碑-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO06-坂口重造碑-1.jpg,2731,"NO06 坂口重造碑-1",,,,%e5%9d%82%e5%8f%a3%e9%87%8d%e9%80%a0%e7%a2%91,0 2733,関内小学校百周年記念碑,セキナイショウガッコウヒャクシュウネンキネンヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2733,2734,八雲町,熊石地区,八雲町熊石関内町75,明治,昭和,碑・像,42.1356583,139.9336395,,,,,,,"日本, 〒043-0418 北海道二海郡八雲町熊石関内町75","正面 師弟同行 正面下 熊石町長赤泊茂松書 裏面 関内小学校創立百周年記念 昭和五十七年八月十二日 寄贈 三国定雄",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO07-関内小学校百周年記念碑-1.jpg,-関内小学校百周年記念碑-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO07-関内小学校百周年記念碑-1.jpg,2734,"NO07 関内小学校百周年記念碑-1",,,,%e9%96%a2%e5%86%85%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e7%99%be%e5%91%a8%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 2736,雲石小学校百周年記念碑,ウンセキショウガッコウヒャクシュウネンクネンヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2736,2737,八雲町,熊石地区,八雲町熊石雲石町744,明治,昭和,碑・像,42.1308861,139.9742737,,,,,,,"日本, 〒043-0416 北海道二海郡八雲町熊石雲石町744","正面 創立 百周年 記念 雲石小学校 校歌 岬も島もかがやいて 青くひろがる海の色 学ぼうひとみひらかせて ふかくたしかなよ知恵を 潮さいひびくこの丘の みんなの雲石小学校 裏面 明治十一年十一月十一日 元掛潤阿部勘十郎氏家屋を仮校舎として創立開校雲石小学校と称す 寄贈者 昭和六年三月卒業 赤泊 綾子",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO08 雲石小学校百周年記念碑-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO08 雲石小学校百周年記念碑-1.jpg,2737,NO08 雲石小学校百周年記念碑-1,,,,%e9%9b%b2%e7%9f%b3%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e7%99%be%e5%91%a8%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 2743,雲石小学校二宮金次郎石像,ウンセキショウガッコウニノミヤキンジロウセキゾウ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2743,2744,八雲町,熊石地区,八雲町熊石雲石町744,昭和,昭和,碑・像,42.1308861,139.9742737,昭和13年以前は銅製の像であったが、「供出」となったため山田隆義氏が石像を寄贈したものである。,,,,,,"日本, 〒043-0416 北海道二海郡八雲町熊石雲石町744","台座裏面 昭和十三年十一月十一日 寄贈者 山田 隆義",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO10 雲石小学校二宮金次郎石像-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO10 雲石小学校二宮金次郎石像-1.jpg,2744,NO10 雲石小学校二宮金次郎石像-1,,,,%e9%9b%b2%e7%9f%b3%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e4%ba%8c%e5%ae%ae%e9%87%91%e6%ac%a1%e9%83%8e%e7%9f%b3%e5%83%8f,0 2746,山海漁猟供養塔,サンカイギョリョウクヨウトウ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2746,2747,八雲町,熊石地区,八雲町熊石根崎町389,近世,近世,碑・像,42.1297760,139.9829712,"法蔵寺は古くは勢至堂と呼ばれました。元禄三年(1690)三月二十四日初代住職の真雄大和尚が勢至菩薩を持ってきて草庵を結んだのが始まりで熊石庵と称しました。 二代目が法順和尚で法蔵寺の境内にある山海漁猟供養塔にまつわる伝説の人です。 山海漁猟供養塔は道指定の文化財で 石碑寸法 高さ115・0cm横34・3cm奥行き19・5cm 石碑文は 正面上部 「 梵字(3文字)」 右下「 願主 松前」 正面中央 「山海漁猟群萠下種結縁為菩提也」 側面右「享保六辛丑年(1721)」側面左「五月廿三日」となっています。 寺伝によれば、法順和尚という念仏行者が享保五年四月熊石村にきて無住の勢至堂(現在の法蔵寺)に在住して布教しました。ちなみに法蔵寺の宗派は法然和尚開祖の浄土宗です。この前年来当地はどうしたことか、村民の主漁業である鰊が取れず、生活にも窮し、一村の維持も困難でありました。この時法順和尚は村民を集め、「遥か沖合には魚が群れをなしている。多少骨はおれるが、協力して計画を立て皆で取ってはどうか」と言われ、半信半疑で出漁し、苦心の末漁場を見つけて大漁し、ようやく愁眉を開いたが、その魚名が分からず和尚に尋ねたところ、和尚は自分の名の「法」と村に花を咲かせた「花」をあわせて「法花」(ほっけ)と名付け、後に魚に花と書いてホッケとなりました。翌六年待望の鰊もとれ報恩感謝の意味を込め村民一丸となって、この供養塔を建て法要をしたといわれています。 また法順和尚は村民の懇願により、二代目勢至堂住職となったのです。 この伝説はさておき、北海道におけるこの種の供養塔としては最古のものであり、北海道の村落形成、経済、生活文化を知るための得難い遺産として、北海道有形文化財に指定されています。",,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町398",,,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO11 山海漁猟供養塔.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO11 山海漁猟供養塔.jpg,2747,NO11 山海漁猟供養塔,,,,%e5%b1%b1%e6%b5%b7%e6%bc%81%e7%8c%9f%e4%be%9b%e9%a4%8a%e5%a1%94,0 2749,木喰行道作日本廻国供養碑,モクジキギョウドウサクニホンカイコククヨウヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2749,2750,八雲町,熊石地区,八雲町熊石根崎町389,近世,近世,碑・像,42.1297760,139.9829712,"法蔵寺入り口左側に山海漁猟供養塔と並び、新設堂宇の中に保存されいる。熊石町平田内川(ひらたいがわ)に産する花崗岩の自然石に陰刻されたものである。 この廻国供養碑は昭和二十九年法蔵寺墓地内に埋もれていたのを、磯島靖一氏によって発見され、法蔵寺境内に移されたものである。この碑の発見によって木喰行道は、安永七(1778)年に蝦夷地に渡航し、七、八、九年の三か年間熊石に滞在していたことを証拠だてる貴重な資 料となっている。 木喰行道は甲斐国出身の廻国六十六部の木喰行者である。安永二(1773)年五十六歳廻国発願と作仏行脚を志し、相州大山寺を発して諸 国を行脚したが、安永七年に蝦夷地に渡航した。木喰の廻国納経帳によれば「奥州松前庄熊石邑 大田山本地大日如来門昌庵」とあってその日付けは安永七年七月吉日とあるので、この頃に熊石村に来、翌八年には法蔵寺に廻国記念碑を残し、更に九年四月二十四日には2m余の大地蔵菩薩像(道指定文化財・法蔵寺)を完成させた。安永九年五月十八日には松前に至って真言宗阿吽寺に「奥州松前大田山大日如来 阿吽寺」という納経受取を得て本州に渡っているので、熊石には三年間(安永7ー9年まで)居住し、多くの庵寺や地蔵堂に作像を納めたと考えられる。 このような事から、熊石は木喰の作像活動の出発点であり、木喰仏の原点であるともいえる。",,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町398","正面上部 円形のなかに梵字を配している 正面右 安永八年五月十八日 願主 天下和順 正面中央 日本廻国供養 日月清明 行道 (花押) 正面左 施主 藤左衛門",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO12-木喰行道作日本廻国供養碑.jpg,-木喰行道作日本廻国供養碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO12-木喰行道作日本廻国供養碑.jpg,2750,"NO12 木喰行道作日本廻国供養碑",,,,%e6%9c%a8%e5%96%b0%e8%a1%8c%e9%81%93%e4%bd%9c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%bb%bb%e5%9b%bd%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91,0 2752,法蔵寺名號石(大島噴火津波溺死者供養碑),ホウゾウジメイゴウセキ(オオシマフンカツナミデキシシャクヨウヒ)," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2752,2753,八雲町,熊石地区,八雲町熊石根崎町394,明治,近世,碑・像,42.1297417,139.9829254,寛保元年の大津波は法蔵寺堂宇流失ばかりでなく寺族全員、松前藩の記録では溺死者一四六七人と報告されています。当寺境内の名號石(大島噴火津波溺死者供養碑)はこの津波による死者の追善法要百五十回忌を記念して明治二十三年に建立したものです。名号は大本山増上寺堀尾貫務大僧正の真筆です。現在は剥落していますが南無弥陀佛と刻まれていました。,,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町398","(正面) 南無阿弥陀仏",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO13 法蔵寺名號石(大島噴火津波溺死者供養碑).jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO13 法蔵寺名號石(大島噴火津波溺死者供養碑).jpg,2753,NO13 法蔵寺名號石(大島噴火津波溺死者供養碑),,,,%e6%b3%95%e8%94%b5%e5%af%ba%e5%90%8d%e8%99%9f%e7%9f%b3%ef%bc%88%e5%a4%a7%e5%b3%b6%e5%99%b4%e7%81%ab%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e6%ba%ba%e6%ad%bb%e8%80%85%e4%be%9b%e9%a4%8a%e7%a2%91%ef%bc%89,0 2756,根崎神社狛犬石像(1対),ネサキジンジャコマイヌ(イッツイ)," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2756,2757,八雲町,熊石地区,八雲町熊石根崎町114,,,碑・像,42.1289406,139.9834442,"年代、及び作者不祥。神社を守護する魔除として建立されたもの。右狛犬像の台座に「中」左狛犬像の台座に「歌」と彫り込まれているので 一対で「中歌」となる。中歌は、熊石町字根崎の旧地名であるから、 その昔、この地区の人たちが共同で奉納した物と思われる。",,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町110","右狛犬像 台座正面 中 左狛犬像 台座正面 歌",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO14-根崎神社狛犬石像(1対)-1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO14-根崎神社狛犬石像(1対)-2.jpg,-根崎神社狛犬石像(1対)-1.jpg||-根崎神社狛犬石像(1対)-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO14-根崎神社狛犬石像(1対)-1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO14-根崎神社狛犬石像(1対)-2.jpg,2757||2944,"NO14 根崎神社狛犬石像(1対)-1||NO14 根崎神社狛犬石像(1対)-2",,,,%e6%a0%b9%e5%b4%8e%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%8b%9b%e7%8a%ac%e7%9f%b3%e5%83%8f%ef%bc%88%ef%bc%91%e5%af%be%ef%bc%89,0 2759,根崎神社社号標,ネサキジンジャシャゴウヒョウ," ■碑文 正面 根崎神社 公爵 近衛 文麿 ■解説 昭和30年代 熊石町を通る国道227号線の改良工事に伴い、鳥居、石段が移転されたのを機に、旧来の老巧化した社号標を撤去し昭和40年新しく建立された。標書は社額揮毫(近衛文麿元公爵書)に依った。 ■参考文献 2007『熊石史実年表』八雲町編",2017年2月16日,2017年2月20日,http://donan-museums.jp/archives/2759,2760,八雲町,熊石地区,八雲町熊石根崎町114,昭和,昭和,碑・像,42.1288910,139.9833679,,,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町110",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO15 根崎神社社号標-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO15 根崎神社社号標-1.jpg,2760,NO15 根崎神社社号標-1,,,,%e6%a0%b9%e5%b4%8e%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%a4%be%e5%8f%b7%e6%a8%99,0 2763,筆塚(土谷多兵衛之墓),フデヅカ(ツチヤタベイノハカ)," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2763,2764,八雲町,熊石地区,八雲町熊石根崎町,明治,近世,碑・像,42.1342125,139.9831390,"土谷多兵衛についての詳しい資料はないが、熊石町史に土谷太兵衛として出てくるところがある。明治初期の漁業実態に絡んでの資料であるがかいつまんで触れると次のようになる。 明治五年の鯡漁業は松前白神峠から茂津多岬(瀬棚)までが希有の凶漁に見舞われ、明治六年の漁に期待をかけたがこの年も不漁となった。その不安の最中、鯡漁業税二十分の一を改正して十分の一に改めた事から漁民一揆が勃発し、道南一帯に広がったため青森鎮台兵が出動し、黒田開拓次官が福山にきて税の据置を決断し、さらに不漁困窮の場合の政府貸付も考慮する事を約束して、漁民の動揺を押さえた。 しかし明治七年も不漁となり、九月に政府の貸付が許された。この漁業資本金は網を持って着業する大規模漁業者のみ貸付が許されている。 一、金拾五圓 土谷太兵衛 此引當 中差網 三拾放 その後の調査によって次の通り判明した。 土谷太兵衛 北海道爾志郡熊石町字畳岩廿番地 天保六年八月一五日生まれ (長男) 嘉永五年二月廿九日前戸主(土谷太兵衛)死亡により跡相続",,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町610","正 面 土谷多兵衛之墓 裏面上部 門 人 裏面右 筆 塚 明治二十七年十二月十三日 裏面中央 濱堅藤吉 佐埜李蔵 土谷掟太郎 田子由太郎 輪島留五郎 井川寛蔵 裏面左 土谷三",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO16 筆塚(土谷多兵衛之墓)-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO16 筆塚(土谷多兵衛之墓)-1.jpg,2764,NO16 筆塚(土谷多兵衛之墓)-1,,,,%e3%80%80%e7%ad%86%e5%a1%9a%ef%bc%88%e5%9c%9f%e8%b0%b7%e5%a4%9a%e5%85%b5%e8%a1%9b%e4%b9%8b%e5%a2%93%ef%bc%89,0 2769,柏巖峰樹禅師墓,ハクガンホウジュゼンシハカ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2769,2770,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,近世,近世,碑・像,42.1295319,139.9891205,門昌庵御開山柏巖峰樹禅師の墓で時の松前藩主十代矩広の命による松村昌次、細貝貞利等十六 名の検使により打首となった。事件の後了明禅師がこの墓を建立した。,,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553","正面 前総持法憧六世當庵開山柏巖峰樹大和尚禅師 裏面 延寶六戌午歳十二月廿二日示寂 右側面 了明叟代",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO18 柏巖峰樹禅師墓.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO18 柏巖峰樹禅師墓.jpg,2770,NO18 柏巖峰樹禅師墓,,,,%e6%9f%8f%e5%b7%96%e5%b3%b0%e6%a8%b9%e7%a6%85%e5%b8%ab%e5%a2%93,0 2773,柏巖禅師首塚,ハクガンゼンシクビヅカ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2773,2774,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,近世,近世,碑・像,42.1295395,139.9890900,"延宝六年十二月二十二日松村昌次・細介貞利等を首班とする一行十六名の検使により打首となった柏巖禅師の首塚である。 禅師はその時最後の読経をし、打ち首となったが、その首を洗うと川が逆流したと伝えられている。",,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553","正面 前総持法憧六世柏巖□大和尚",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO19 柏巖禅師首塚.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO19 柏巖禅師首塚.jpg,2774,NO19 柏巖禅師首塚,,,,%e6%9f%8f%e5%b7%96%e7%a6%85%e5%b8%ab%e9%a6%96%e5%a1%9a,0 2777,道南霊場石碑,ドウナンレイジョウセキヒ," ",2017年2月16日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2777,2778,八雲町,熊石地区,二海郡八雲町畳岩町553,昭和,昭和,碑・像,42.1293755,139.9889832,昭和八年、函館毎日新聞社が渡島・桧山道南一帯の読者に霊場にふさわしい場所を募集し五カ所の道南霊場が選ばれその中の一つが門昌庵で、その当選を記念して建立したもの。,,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町3","正面 道南霊場門昌庵 右側面 昭和八年十月二十二日 霊場当選記念法要日熊石村期成會建之 発起人 平賀公治 十三世 憲隆 代",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO20 道南霊場石碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO20 道南霊場石碑.jpg,2778,NO20 道南霊場石碑,,,,%e9%81%93%e5%8d%97%e9%9c%8a%e5%a0%b4%e7%9f%b3%e7%a2%91,0 2802," 巡査中原君紀功碑",ジュンサナカハラクンキコウヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2802,2804,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩553,明治,明治,碑・像,42.1295166,139.9889984,"門昌庵の境内には今も柏巖禅師の墓がありますが、その墓の左手、逆川の川淵に巡査中原君紀功碑があります。石碑の寸法は、高さ150cm、横60cm、奥行き30cmでそのそばに中原巡査の墓がありその碑面には 明治十九年(1886)九月五日 義孝院中山良原居士 有志者建焉 となっています。 さかのぼって、明治十五年(1882)は、熊石村戸長役場と相沼内・泊川戸長役場が合併し、熊石村外二村戸長役場となった年であります。これによって戸長は熊石村に常駐するようになり、最初は妙選寺下の「ハネ出し」の建物を利用し、役場としました。 この時代は、三県一局時代といわれ、道南は函館県となっていました。警察署も明治十五年に江差警察署が置かれ、明治十六年(1883)は江差警察署乙部分署が設置され、その出張所として相沼内と熊石に巡査出張所が設置されたのです。 さらに、明治十七年(1884)二月に江差警察署熊石分署が設置され、その初代署長として中原宗三郎が赴任し、独立機関としての建物も新設されました。 中原警部補代理は明治十九年(1886)突然この地方に襲来流行したコレラの防疫と予防に全力をふるって務め、ついにその感染を受け九月四日殉職死亡し、本道警察官の鑑として「北海道警察史」にも載せられている人です。 明治18年長崎に端を発したコレラの流行は北海道へも広がり熊石村の者が江差で感染すると、村内でも患者が発生しました。分署長心得の中原警部補代理は、部下巡査を督励して患者の避病院移送から防疫、予防等昼夜を問わず活躍したが、自らも感染し僅か十七時間で殉職しました。時に二十九歳でした。 村民は中原署長の功徳を讃え顕彰の碑と墓碑を建立しています。碑文によれば、中原署長は会津藩士中原敦俊の三男で、会津戦争の際は母と共に民家に隠れ、後父に従って斗南藩として三戸に移り函館に渡って巡査になっています。函館での勤務成績は一位で四等巡査から一等巡査に昇進し、警部補代理、熊石分署長心得として部下と共に熊石に在勤中、たまたま発生した伝染病コレラの大流行に身命を賭して活躍し、ついに九月四日二十九歳で殉職しました。 その行動は村民は勿論、世の賞賛追憶の的となり、函館支庁時任為基が発起人となり村内有志と協議して顕彰することになり、顕彰費は佐野甚右衛門と児島俊庵が拠出し、撰文は旧会津藩士で同郷の大庭 機、書は羽澤 侃が担当しました。 なお、墓碑の裏面は、発起人 佐野甚右衛門 佐野四右衛門 荒井篤治 白井利信 荒井幸作 児島俊庵 周旋人 佐野又四郎 菊井成次郎 加藤浜三 大坂梅太郎 となっています。 この発起人中、佐野四右衛門 は佐野屋権次郎の子孫、佐野甚右衛門はその傍系、白井利信は熊石村役場戸長 荒井幸作は熊石村出身の道会議員です。",,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553","嗚呼此中原君紀功之碑也君諱宗三郎会津藩藩士敦俊之第三子母新妻氏君幼遭逢国難随母匿民家備嘗寒苦既而誾家移陸之三戸及父母俊與伯兄敦義仲兄重直共来北海道函館為四等巡査兼倹役委員以称共職受一等賞賜四拾金以積年勤労進至一等巡査転警部補代理熊石分署長心得適□僻在人民長之至父子兄弟不相顧無収其屍者於是君躬自擔其屍火之有感染者則諭其父兄人之於避病院以防其蔓 延適君罹患疾猶歓粥服薬以巡視其罹疫者家不及腱者連夜人皆称其用心之周遂感其疾気致病不起事年僅二十九実明治十九年九月四日也而其死也蓋郷男女識与不□□不哀傷焉官嘉其死職務賜祭祀料三拾金扶肋料百金丕君病革謂妻某氏日余死矣又問友某日長崎之支那人暴徒之事如何某答日勿憂即瞑矣蓋恕其処□死得其富也噫嘻君可謂生尽其職死憂其□者豈易□哉村人相謀碑於門昌庵函館支庁長時任君義其挙損金替立之佐野某児島某以予同藩人而略始其為人属予紀其功予且可以不文辞其清我乃其書其由以与之 北海道庁属 大庭 機 撰 羽沢 侃 書",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO21 -巡査中原君紀功費碑-2.jpg,-巡査中原君紀功費碑-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO21 -巡査中原君紀功費碑-2.jpg,2804,"NO21 巡査中原君紀功費碑-2",,,,%e5%b7%a1%e6%9f%bb%e4%b8%ad%e5%8e%9f%e5%90%9b%e7%b4%80%e5%8a%9f%e7%a2%91,0 2806," 門昌庵石仏地蔵三十三体",モンショウアンセキブツジゾウサンジュウサンタイ," ■解説 道が設昭和8年5月17日町内をはじめ、乙部の観音信者が浄財を寄進し、門昌庵裏山に三十三体の石仏を建立した。一番から三十三番まで順に巡るよに参けられている。 ■参考文献 2007『熊石史実年表』八雲町編",2017年2月17日,2017年2月20日,http://donan-museums.jp/archives/2806,2807,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,昭和,昭和,碑・像,42.1296120,139.9892578,,,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553",,,,,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO22-門昌庵石仏地蔵三十三体-1.jpg,-門昌庵石仏地蔵三十三体-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO22-門昌庵石仏地蔵三十三体-1.jpg,2807,"NO22 門昌庵石仏地蔵三十三体-1",,,,%e9%96%80%e6%98%8c%e5%ba%b5%e7%9f%b3%e4%bb%8f%e5%9c%b0%e8%94%b5%e4%b8%89%e5%8d%81%e4%b8%89%e4%bd%93,0 2809,門昌庵石灯篭,モンショウアンイシドウロウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2809,2810,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,近世,近世,碑・像,42.1295128,139.9892578,"門昌庵事件の後、柏巌峰樹禅師の171回忌の法要が嘉永2(1849)年に執り行われている。この時の記録は北海道立図書館収蔵の河野常吉収集資料のなかの旧松前藩士北見政信筆の「雲石実記」という資料の中に詳しく記載されている。この法要は、藩主代替により第17世藩主崇廣侯嗣立にあわせ特に盛大に行われた。この前年門第8世昌庵住職が高野山金剛峯寺憲寿法師に柏巌和尚の追善と祟を断つための真言秘法をもって祈祷をし、その卒塔婆の揮毫を依頼していたが、旅行中頓死し、同年1月末佛学霊道和尚が九世となったが、またまた1月25日死亡したので、法憧寺の僧、量山が第10世となってこの法会を行っている。 松前藩からは、筆頭家老の松前内蔵廣純と用人の新井田右膳が参向している。廣純は、延宝6年柏巌和尚処刑の問題で家老の松前廣諶と城中で斬り合いの末死んだ松前幸廣の7代後に当たり、第13世藩主道広4男でである。また右膳は矩廣の御守役新井田好寿の末裔にあたっている。 この法要の際、現在の門昌庵開山堂が新設されその全面にある2基の灯篭はこの法会に松前内蔵廣純が寄進したものである。",,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553",,,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO23-門昌庵石灯篭.jpg,-門昌庵石灯篭.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO23-門昌庵石灯篭.jpg,2810,"NO23 門昌庵石灯篭",,,,%e9%96%80%e6%98%8c%e5%ba%b5%e7%9f%b3%e7%81%af%e7%af%ad,0 2812,門昌庵馬頭観音石碑,モンショウアンバトウカンノンセキヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2812,2813,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,昭和,昭和,碑・像,42.1294823,139.9892426,"昭和28年当時熊石村では運送の主力は馬車であった。馬を飼い、木材の運搬、すけその運搬等様々な荷物を運んで生活を立てていた人たちを通称「馬車追い」と呼んでいた。その人達が、死んだ馬の供養のため、また生きている馬の健康と長寿を祈願してこれを建てたものである。 馬頭観音石碑台座発起人名 ・豊島久吉・中村栄蔵・竹内竹治・三浦鉄次・土谷季太郎・加藤良吉・高橋定吉・三浦忠治・竹内要作・目谷甚一郎・余湖勇助・福田勇太郎・丸谷和吉・中山源太郎 ・中山源三郎・木村金太郎・伊勢谷 貢・工藤市太郎",,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553","正 面 馬頭観音 側面右 昭和二十八年五月十七日十四世憲貢代 石工 安部正雄 台 座 発起人 豊島久吉以下18名(別記) 檀中一同 観音講員一同 順序不同",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO24-門昌庵馬頭観音石碑.jpg,-門昌庵馬頭観音石碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO24-門昌庵馬頭観音石碑.jpg,2813,"NO24 門昌庵馬頭観音石碑",,,,%e9%96%80%e6%98%8c%e5%ba%b5%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e7%9f%b3%e7%a2%91,0 2817,渡島當國観音三十三番札所石柱,オシマトウゴクカンノンサンジュウサンバンフダショセキチュウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2817,2818,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,近世,近世,碑・像,42.1293640,139.9889679,"江戸時代に松前・上ノ国・江差・乙部・熊石にかけて33の観音札所を設け、観音信者の願掛け札所としたその案内札所石柱である。 1番は松前の寿養寺で最後の33番が門昌庵札所である。全部を廻れない人は1番と最後の33番に願をかけると全部の札所を廻った事になるともいわれ、1番寿養寺と33番門昌庵へは必ず参詣した。 ■",,,,,,"日本, 〒043-0415 北海道二海郡八雲町熊石根崎町3","正面 當國札所第三十三□ 裏面右下 壽春 □ 裏面中央上 願主 裏面左下 正覚 □",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO25-渡島當國観音三十三番札所石柱.jpg,-渡島當國観音三十三番札所石柱.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO25-渡島當國観音三十三番札所石柱.jpg,2818,"NO25 渡島當國観音三十三番札所石柱",,,,%e6%b8%a1%e5%b3%b6%e7%95%b6%e5%9c%8b%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e4%b8%89%e5%8d%81%e4%b8%89%e7%95%aa%e6%9c%ad%e6%89%80%e7%9f%b3%e6%9f%b1,0 2823,門昌庵慰霊供養搭,モンショウアンイレイクヨウトウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2823,2827,八雲町,熊石地区,八雲町熊石畳岩町553,昭和,昭和,碑・像,42.1295013,139.9889984,昭和60年5月町内で起こった交通事故死者、海難事故死者を供養する為に建立。,,,,,,"日本, 〒043-0404 北海道二海郡八雲町熊石畳岩町553","正面 交通事故死者 慰霊供養搭 海難事故死者 裏面 昭和六十年五月十九日 札幌市 片石忠人 建立者 平 鈴木家一同 門昌庵 梅花講",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO26-門昌庵慰霊供養搭1.jpg,-門昌庵慰霊供養搭1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO26-門昌庵慰霊供養搭1.jpg,2827,"NO26 門昌庵慰霊供養搭",,,,%e9%96%80%e6%98%8c%e5%ba%b5%e6%85%b0%e9%9c%8a%e4%be%9b%e9%a4%8a%e6%90%ad,0 2826," 幽魂碑",ユウコンヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2826,2828,八雲町,熊石地区,八雲町熊石大谷町13,昭和,明治,碑・像,42.1550064,140.0408325,"雲石峠を下って鮎川に出る途中に見市温泉があります。山峡の湯の宿として古くから湯治に効力ありとして利用されてきました。 越後長岡藩家臣の森一馬、高井佐藤太及び従者の高野嘉左衛門が蝦夷地の巡回調査した記録に「罕有日記」(かんゆうにっき)があります。安政四年(1857)五月二十日から二十四日にかけて熊石にも来ており、その中に見市温泉の記録が見えます。「前山を抜きて見日岳見えたり、高岳にして残雪あり山裾温泉場あり此の辺より二里という。」となっていて古い時代より利用されていたことが分かります。湯元は見市川の川岸にあることから、発見も容易であったと思われます。露天風呂として住民にも利用されてきましたが、明治八年青森県鰺ヶ沢の人で大塚要吉さんという人が湯守としてこの温泉を開業し、今日に至っています。当初は現在地よりも上流にあったのですが、昭和四年豪雨による土砂崩壊のため建物が潰れ昭和六年に現在地に移転しています。 この時の犠牲者の霊魂を祀って石碑が建てられており、それは今でも見市温泉の向かいの高台にあります。 見市温泉は、温度が六十六℃、湧出量は毎分八十㍑、泉質はやや褐色、わずかに塩味を含んだ含重炭酸土類弱塩泉で適応症としては、創傷、湿疹、胆石、火傷、痔疾、糖尿病、ロイマチス、胃酸減少症に効果があり、飲用では軽度の消化器疾患、糖尿病、によいとされています。 四季折々の表情と見市川のせせらぎを楽しみながらの露天風呂は格別で好評を博しているほか、料理も熊石産の豊かな山海の素材を使って「あわびのフルコース」「ウニ鍋」「スッポン鍋」など個性的なメニューを取りそろえています。",,,,,,"日本, 〒043-0405 北海道二海郡八雲町熊石大谷町13","昭和四年四月二十六日深夜豪雨為泊温泉場崖崩 潰シテ家屋全滅の悲運遭ヒ哀ソノ犠牲と成リタルハ左ノ如シ 岡野 松雄 佐野 石太郎 大塚文江 山内 駒吉 山内 イト 尾形 昇 徳永 一郎 慈に温泉場復興改築ト共ニ幽魂ヲ祀ラントシテ 此碑ヲ建シ 昭和六年十一月二十六日 大塚温泉旅館主 石工 紺谷 俊治",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO27-幽魂碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO26-門昌庵慰霊供養搭1.jpg,-幽魂碑.jpg||-門昌庵慰霊供養搭1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO27-幽魂碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO26-門昌庵慰霊供養搭1.jpg,2828||2827,"NO27 幽魂碑||NO26 門昌庵慰霊供養搭",,,,%e5%b9%bd%e9%ad%82%e7%a2%91,0 2833,関西学院大学矢野靖博君遭難の碑,カンサイガクインダイガクヤノヤスヒロクンソウナンノヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2833,2834,八雲町,熊石地区,八雲町熊石大谷町13,昭和,昭和,碑・像,42.1550064,140.0409698,昭和40年7月18日関西学院大学のワンダーフォーゲル部員が、遊楽部岳から岩子岳へかけて横断中に転落事故が発生し、同部の矢野靖博君が死亡した。翌年その死を悼んで建立された。,,,,,,"日本, 〒043-0405 北海道二海郡八雲町熊石大谷町13","正面 1965.7.18 矢野靖博君岩子岳に眠る 関西学院大学 体育会ワンダーフォーゲル部",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO28 関西学院大学矢野靖博君遭難の碑-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO28 関西学院大学矢野靖博君遭難の碑-1.jpg,2834,NO28 関西学院大学矢野靖博君遭難の碑-1,,,,%e9%96%a2%e8%a5%bf%e5%ad%a6%e9%99%a2%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e7%9f%a2%e9%87%8e%e9%9d%96%e5%8d%9a%e5%90%9b%e9%81%ad%e9%9b%a3%e3%81%ae%e7%a2%91,0 2842,円空上人滞洞跡石碑,エンクウショウニンタイドウアトセキヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2842,2843,八雲町,熊石地区,八雲町熊石折戸町,平成,明治,碑・像,42.0918884,140.0487823,,,,,,,"日本, 〒043-0335 北海道二海郡八雲町熊石黒岩町 追分ソーランライン","正面 圓空上人滞洞跡 側面右 木にだにも御形を移すありがたや法の御音は谷のひびきか 円空 裏面 平成十七年八月吉日 円空上人滞洞跡保存会一同建立 案内板 1665年松前に渡り、そこから西太田(大成町太田)まで作像して廻向した際に、熊石に来てこの洞窟に住み作像したと伝えられている。円空作の像は、根崎神社、泊川北山神社に祀られている。 八雲町・熊石観光協会",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO30 円空上人滞洞跡石碑-2.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO30 円空上人滞洞跡石碑-1.jpg,-2.jpg||-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO30 円空上人滞洞跡石碑-2.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO30 円空上人滞洞跡石碑-1.jpg,2843||2844,NO30 円空上人滞洞跡石碑-2||NO30 円空上人滞洞跡石碑-1,,,,%e5%86%86%e7%a9%ba%e4%b8%8a%e4%ba%ba%e6%bb%9e%e6%b4%9e%e8%b7%a1%e7%9f%b3%e7%a2%91,0 2846,北山神社社号標,キタヤマジンジャシャゴウヒョウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2846,2847,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川町507,昭和,昭和,碑・像,42.0860672,140.0540924,"以前は村社北山神社の社号標であったが、戦後神社神格称号の廃止後はモルタールづくりの粗末なものとなっていた。たまたまこの社号標を見た泊川出身で函館市東雲町在住の土谷 繁 氏が、丁度定年により公職を退職したのを期に、郷土のために一念発起しこれを建立、奉納した。 (碑代50万円の他、現金15万円を寄贈)",,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町 追分ソーランライン","正面 北山神社 裏面 平成元年三月十七日 土谷 繁 建立",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO31 北山神社社号標.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO31 北山神社社号標.jpg,2847,NO31 北山神社社号標,,,,%e5%8c%97%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%a4%be%e5%8f%b7%e6%a8%99,0 2853,北山神社忠魂碑,キタヤマジンジャチュウコンヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2853,2854,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川503,大正,大正,碑・像,42.0862694,140.0549927,"日露戦争から尼港(にこう)事件さらに支那事変から太平洋戦争と熊石町においても戦争犠牲者は204名を数えている。大正12年昭和天皇御成婚を期に、日露戦争等の犠牲者の鎮魂のため浄財を募り、泊川地区相沼地区の人たちが共同でこれを建立した。 揮毫の陸軍大将子爵 大迫 尚敏は鹿児島県出身の人。",,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町361","正面 忠魂碑 陸軍大将子爵 大迫 尚敏 書 裏面 御成婚記念 大正十二年十月建立",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO33-北山神社忠魂碑-2.jpg,-北山神社忠魂碑-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO33-北山神社忠魂碑-2.jpg,2854,"NO33 北山神社忠魂碑-2",,,,%e5%8c%97%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91,0 2856,北山神社狛犬(1),キタヤマジンジャコマイヌ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2856,2920,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川503,昭和,昭和,碑・像,42.0862694,140.0549622,"建立者の成田キリ氏は熊石町泊川の出身、神信仰心の特に厚い人で、 遠くにあって常時古里を想い感謝の念から子ども共々相計り、社殿前に 1対の狛犬を寄進したものである。",,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町361","■碑文 建 立 昭和51年5月17日 建立者 青森県栄町1丁目9ー10 成 田 キ リ 〃 悦 郎 〃 泰 子",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO34-北山神社狛犬-(1)-1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO34-北山神社狛犬-(1)-2.jpg,-北山神社狛犬-(1)-1.jpg||-北山神社狛犬-(1)-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO34-北山神社狛犬-(1)-1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO34-北山神社狛犬-(1)-2.jpg,2920||2857,"NO34 北山神社狛犬 (1)-1||NO34 北山神社狛犬 (1)-2",,,,%e5%8c%97%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%8b%9b%e7%8a%ac%ef%bc%881%ef%bc%89,0 2862,北山神社狛犬(2),キタヤマジンジャコマイヌ(2)," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2862,2917,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川503,昭和,昭和,碑・像,42.0862579,140.0548248,北山神社にある狛犬。,,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町361",,,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO35-北山神社狛犬(2)-1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO35-北山神社狛犬(2)-2.jpg,-北山神社狛犬(2)-1.jpg||-北山神社狛犬(2)-2.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO35-北山神社狛犬(2)-1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO35-北山神社狛犬(2)-2.jpg,2917||2863,"北山神社狛犬(2)||NO35 北山神社狛犬(2)-2",,,,%e5%8c%97%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%8b%9b%e7%8a%ac%ef%bc%882%ef%bc%89,0 2865,渡島當國観音三十一番札所石柱,オシマトウコクカンノンサンジュウイチバンフダショセキチュウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2865,2866,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川765,明治,明治,碑・像,42.0869789,140.0543518,"嘉永元年當國札所三十一番 渡島國観音霊場として松前ー上ノ国ー江差ー乙部ー熊石間の各寺院33ケ寺に観音像を安置しその目印として花崗岩で15cm角丈地上1mの石碑が建てられてありましたが、途中半分から折れ、下半分番から下のみ在りその上は何処に行ったものか紛失し見当たりません。 この石碑は一つの指導票であり目印でもあった訳です。薬師寺の観音様は第31番の如意輪観音の印なのです。当時は鰊も多く取れ、松前からは勿論内地(本州)方面からも多くの漁師達が鰊を求めて来たのですがその家族近親者達が、大漁と海上の安全等の祈願をし33番の観音様巡礼をしたものと思います。",,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町765",正面 番(上部は欠損),,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,薬師寺のどこにあるかは不明,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO36-渡島當國観音三十一番札所石柱.jpg,-渡島當國観音三十一番札所石柱.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO36-渡島當國観音三十一番札所石柱.jpg,2866,"NO36 渡島當國観音三十一番札所石柱",,,,%e6%b8%a1%e5%b3%b6%e7%95%b6%e5%9c%8b%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e4%b8%89%e5%8d%81%e4%b8%80%e7%95%aa%e6%9c%ad%e6%89%80%e7%9f%b3%e6%9f%b1,0 2874,菅江真澄の歌碑,スガエマサミノカヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2874,2875,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川町236,昭和,近世,碑・像,42.0868912,140.0532379,"菅江真澄は三河ノ国(愛知県豊橋市)の生まれ、天明3年(1783)30歳で故郷を離れ、北上、信濃、越後、奥羽、蝦夷などを巡り、文政12年(1829)秋田で没した。この間数多くの紀行文、絵、和歌を残し、民族学の貴重な資料として高く評価されている。 その和歌の一首が、泊川小学校卒業生を育んだふるさとの情景を彷彿させてくれることから、同窓30名、卒業40年の記念事業として、この歌碑を建立したものである。(真澄の歌碑は道内では胆振管内虻田町についで2基目である。)",,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町 追分ソーランライン","碑文正面 五月雨の はれまもとめて 海士の子が わかめかしほす 浦のまさごじ 菅江真澄 裏面碑文 菅江真澄は三河(愛知県)の人、江戸時代後期の紀行家で天明8年( 1788年)北海道松前に渡ってきて4年間滞在した。北海道滞在中の 寛政元年(1789年)4月19日から6月30日まで真澄は太田山参詣のため松前と太田の間の日本海沿いの地方を周遊しているが、碑の歌はこの旅での見聞を紀行文としてあらわした「蝦夷喧辞弁(えみしのさえき)」中から、太田参詣での帰路、相沼川の増水による川止めと、真澄自身の風邪という事情から同年5月9日から23日までの15日間この泊川に逗留した折に詠んだ浜風景の歌である。多くの人びとの想いを映しているような青い海と遠くの岬に連なる山なみそして潮騒の音の織りなす浜風景を先人が詠んだ郷土の文化遺産を顕彰しさらに私たちの友情をはぐくんでくれた泊川に対する感謝の気持ちと、変わらざる友情の証としてこの碑を建てる。 荒谷勝麿 川上ミエ 杉村クリ 手塚敏子 藤谷賞麿 荒谷レイ 北川たか 杉村 進 手塚広志 星キミエ 加藤啓之 小山たえ 田村スミ 天満八枝 本多タキ 加藤隆一 笹森正司 土谷 隆 天満ユミ 益田正司 加藤たき 佐藤ミヨ 土谷敏枝 野上サキ 森竹さつ子 亀田谷義光 塩越礼子 手塚竹義 藤谷ツル 八木武弘 (氏名は小学校卒業時の氏名とし順序はアイウエオ順による) ※泊川小学校の昭和22年卒業生",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO39 菅江真澄の歌碑-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO39 菅江真澄の歌碑-1.jpg,2875,NO39 菅江真澄の歌碑-1,,,,%e8%8f%85%e6%b1%9f%e7%9c%9f%e6%be%84%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%a2%91,0 2878,泊川小学校百周年記念碑,トマリカワショウガッコウヒャクシュウネンキネンヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2878,2879,八雲町,熊石地区,八雲町熊石泊川町236,昭和,昭和,碑・像,42.0914726,140.0525055,,,,,,,"日本, 〒043-0334 北海道二海郡八雲町熊石泊川町236","正面中央 「温故知新」 正面下 「北海道知事 堂垣内尚弘」 裏面 「創立開校 明治11年11月26日」 「贈 泊川小学校開校百周年記念協賛会」 「昭和53年8月15日建立」",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO40-泊川小学校百周年記念碑.jpg,-泊川小学校百周年記念碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO40-泊川小学校百周年記念碑.jpg,2879,"NO40 泊川小学校百周年記念碑",,,,%e6%b3%8a%e5%b7%9d%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e7%99%be%e5%91%a8%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 2881,大島津波溺死者供養地蔵座像,オオシマツナミデキシシャクヨウジゾウザゾウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2881,2882,八雲町,熊石地区,八雲町熊石相沼町129,近世,近世,碑・像,42.0748024,140.0630188,"寛保元年の大津波の供養のため、七回忌に建てられた。背後に三つの 穴があいており、これは海中の死者を引き上げるためヤスを使ったのでそのことを意味していると伝えられている。 寛保元(1741)年七月十六日、松前の南西60Kmの日本海上にある火山島松前大島が突然噴火した。その状況は「福山秘府」によれば「西部大島発火震動如大山之崩、亦雨白灰黒砂積地上深者数寸」とある。 丁度この日は旧盆引きの日で、各村々では住民達が盆踊りに夢中であったというが、恐怖のあまり急ぎ家に帰り神、仏に灯を上げて、ひたすらこの島の爆発の鎮まるのを念じていたという。 ところが七月十九日朝明六ツ時(午前6時)突然津波が起き、東は松前弁天島から西は熊石村に至る約130Km間の海岸に大津波が襲来した。松前藩留守居役から江戸に届いた報告書に寄れば、溺死者の総数は1467人、流失倒壊家屋791戸、漁船の遭難は1521艘に達する未曾有の大被害を受けたことが記録されている。 熊石村法蔵寺の記録では「寛保元年七月十九日九ツ半時(12時半)頃大津浪堂舎不残流ス、留守居海心房死僕喜八溺死諸書書物流失ス、本尊菩薩半鐘双盤平田内川上ニテ見出ス」とあって堂宇も流失し留守僧及従僕も死亡するほどの惨害だった。同寺過去帳によれば、9人の死者があったことが記録されている。また、相沼無量寺過去帳には相沼内村で 男13人、女17人、泊川村で男7人、女6人、熊石村で男14人、女 10人、計67人の死者が出たことが記録されている。",,,,,,"日本, 〒043-0332 北海道二海郡八雲町熊石相沼町123","台座側面右 当寺三世 栄泉 願主 称念 台座正面 溺死 弧霊 寶塔 台座側面左 奥州松前 相沼内村 延享三 丙 寅 七月十九日 石仏背面 三穴あり",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO41 大島津波溺死者供養地蔵座像-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO41 大島津波溺死者供養地蔵座像-1.jpg,2882,NO41 大島津波溺死者供養地蔵座像-1,,,,%e5%a4%a7%e5%b3%b6%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e6%ba%ba%e6%ad%bb%e8%80%85%e4%be%9b%e9%a4%8a%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%ba%a7%e5%83%8f,0 2885,渡島當國観音札所無量寺石柱,オシマトウコクカンノンフダショムリョウジセキチュウ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2885,2886,八雲町,熊石地区,八雲町熊石相沼町129,近世,近世,碑・像,42.0748940,140.0634308,相沼無量寺の札所石柱は30番です。,,,,,,"日本, 〒043-0332 北海道二海郡八雲町熊石相沼町129","正面 當国札所 ※背後の木柱 當国札所第三十番 無量寺",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO42 渡島當國観音札所無量寺石柱.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO42 渡島當國観音札所無量寺石柱.jpg,2886,NO42 渡島當國観音札所無量寺石柱,,,,%e6%b8%a1%e5%b3%b6%e7%95%b6%e5%9c%8b%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e6%9c%ad%e6%89%80%e7%84%a1%e9%87%8f%e5%af%ba%e7%9f%b3%e6%9f%b1,0 2893,相沼小学校百周年記念碑,アイヌマショウガッコウヒャクシュウネンキネンヒ," ",2017年2月17日,2017年3月6日,http://donan-museums.jp/archives/2893,2894,八雲町,熊石地区,八雲町熊石相沼町350,昭和,大正,碑・像,42.0726013,140.0688629,相沼小学校の開校100周年と校舎の改築落成を記念して協賛会が建立した。揮毫の海部俊樹氏は時の文部大臣で後の総理大臣である。,,,,,,"日本, 〒043-0332 北海道二海郡八雲町熊石相沼町350","正面 歴史の流れ受けついで 未来にはばたけ相沼の子 文部大臣 海部俊樹 裏面 昭和53年11月27日 相沼小学校校舎新築落成記念 開校100周年記念事業協賛会",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/NO44 相沼小学校百周年祈念碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/NO44 相沼小学校百周年祈念碑.jpg,2894,相沼小学校百周年記念碑,,,,%e7%9b%b8%e6%b2%bc%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e7%99%be%e5%91%a8%e5%b9%b4%e7%a5%88%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 2963,"三上超順力試之石 ",," 館城で戦死した三上超順由来とされる円礫です。相撲好きの山田某という人が館城内の役所跡を通る旧道沿いでこの石を見つけ、自宅に持ち帰りました。 この石で毎日力試しをしていたところ、奥さんが病気になってしまったそうです。 これは館城で戦死した三上超順のたたりだろうということで、正定寺(厚沢部 町館町)の境内に永らく安置されていました。 昭和 43 ( 1968 )年、開道百年館城百年の記念として正定寺境内から館城内へ移設されました。",2017年2月24日,2017年3月2日,http://donan-museums.jp/archives/2963,2964,厚沢部町,,厚沢部町字城丘,明治,明治,"未分類,歴史,碑・像",41.8795090,140.3425598,,,,,,,"日本, 〒043-1364 北海道檜山郡厚沢部町城丘",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/02/Screenshot-from-2017-02-24-124351.png,Screenshot-from-2017-02-24-124351.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/02/Screenshot-from-2017-02-24-124351.png,2964,三上超順力試し石,,,,%e4%b8%89%e4%b8%8a%e8%b6%85%e9%a0%86%e5%8a%9b%e8%a9%a6%e4%b9%8b%e7%9f%b3,0 2995,凱旋門跡,," 字鶉の旧清和小学校前にあります。 日露戦争(1904~1905)で日本軍は、旅順、奉天などで勝利を収め、ロシア海軍の頼みの綱だったバルチック艦隊を日本海海戦で撃破し、戦争に勝利しました。北海道出身兵士が所属する第七師団も中国大陸での戦闘に従事していましたが、明治39年3月に晴れて、厚沢部出身兵士の凱旋が決まると、大館 勇作氏らが兵士の功績を讃え、「凱旋門」をこの地に建てました。 凱旋門は、ナラの巨木でつくられたと言われています。長年の風雪で腐朽したため取り去られてしまいましたが、年配の方などは、今でもこの周辺を「凱旋門」と呼ぶなど、その名前を留めています。 道路を挟んで向かい側にある旧清和小学校も、「凱旋門の学校」と呼び習わされていたそうです。",2017年3月2日,2017年3月2日,http://donan-museums.jp/archives/2995,2996,厚沢部町,,厚沢部町字鶉,,,歴史,41.9147873,140.2869415,,,,,,,"日本, 〒043-1238 北海道檜山郡厚沢部町鶉",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/凱旋門.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/凱旋門.jpg,2996,凱旋門,,,,%e5%87%b1%e6%97%8b%e9%96%80%e8%b7%a1,0 2999,国分館跡,," 『北海道旧纂図絵』(函館市中央図書館所蔵)によると厚沢部町の館村に「第十四国分館」と呼ばれる中世城館があったとされています。館主は松前大館の守護村上政儀の家臣江口権之頭顕輝とされています。 また、松浦武四郎が弘化2年(1845)に訪れた際の記録(『再考蝦夷日誌』)では「むかし、この村に酋長一人居住せし」とされており、館主のような豪族がすんでいたことが伝わっていたようです。 字名改正前の小字名では、国分館跡周辺は「館野沢」となっており、旧「大字館村」の由来は国分館跡周辺を起源とするものであったと考えられます。 昭和45年の埋蔵文化財所在調査では陶器片が採取されています。 ",2017年3月2日,2017年3月2日,http://donan-museums.jp/archives/2999,3000,厚沢部町,,,中世,中世,歴史,41.9049339,140.2953644,,,,,,,"日本, 〒043-1367 北海道檜山郡厚沢部町新栄",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-02-155032.png,Screenshot-from-2017-03-02-155032.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-02-155032.png,3000,"Screenshot from 2017-03-02 15:50:32",,,,%e5%9b%bd%e5%88%86%e9%a4%a8%e8%b7%a1,0 3005,ロクロ場,," 松前藩が開墾役所に物資を荷揚げするために設置したロクロが置かれていたと伝えられる場所です。館川と厚沢部川の合流地点にあり、そこから荷揚げした物資を上流の開墾役所まで運搬したと考えられます。 昭和34年の字名改正以前は、現在の館町市街地付近が「上ロクロ場」、新栄と館町市街地の間の地域が「下ロクロ場」となっていました。現在の住居表示上の館町の大半が「ロクロ場」地名でした",2017年3月2日,2017年3月2日,http://donan-museums.jp/archives/3005,3006,厚沢部町,,厚沢部町館町,明治,明治,歴史,41.9041176,140.2989502,,,,,,,"日本, 〒043-1351 北海道檜山郡厚沢部町館町",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-02-160917.png,Screenshot-from-2017-03-02-160917.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-02-160917.png,3006,"Screenshot from 2017-03-02 16:09:17",,,,3005,0 3009,寺田農場開放記念碑,," 木間内ふれあいセンター横にあります。 明治3年(1860)に鶉山道を開さくした「東本願寺現如上人(大谷光螢師)」は、明治26年(1893)に越中、能登、近江地方から40戸の小作人を入れ、大谷農場として開墾経営をしていました。 その農場を大正8年(1919)に、小樽の寺田省帰氏が買収して寺田農場となりました。寺田省帰氏は、巨額を投じて灌漑溝を設け水田化を図りました。昭和 3年(1928)に、小作人たちの要望により開放の協議が進められ、昭和5年に寺田翁の善意によって小作人49名に農耕地500㌶余が開放されました。 当時としては例のない自作農創設であり、その善意に感謝した関係者が、昭和9年7月寺田翁を「真ニ一世ノ師表トシテ仰ガル」と讃え、開放地の一角に碑を建立しました。",2017年3月3日,2017年3月3日,http://donan-museums.jp/archives/3009,3010,厚沢部町,,麻生町字木間内,昭和,昭和,碑・像,41.9352226,140.3702240,,,,,,,"日本, 〒043-1234 北海道檜山郡厚沢部町木間内",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-152436.png,Screenshot-from-2017-03-03-152436.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-152436.png,3010,"Screenshot from 2017-03-03 15:24:36",,,,3009,0 3015,帝国製麻鶉工場跡,," 鶉・旧畜産センター跡地(といっても誰もわからないですね・・・)にあります。札幌酒精厚沢部工場前と言ったほうがよいでしょう。 大正3年(1914年)に第一次世界大戦が起り、当時亜麻製品は軍需品としても多く使用され、その需要に着目した日本製麻㈱と帝国製麻㈱は、檜山南部地方への進出を計画し工場適地を探していました。 大正5年帝国製麻が鶉工場の設置を決定し、会社用地18㌶余を買収し、構内敷地5㌶余に事務所、工場、原料・製品倉庫群、社宅、独身寮、溜池などを配置して大正7年(1918)から操業を開始し、農家の栽培面積も増加して目を見張る盛業でした。 しかし、製品価格の暴落により合理化の一端として亜麻の買入価格を引き下げたところ、栽培面積が年々減少をたどり、大正12年(1923)操業五年にして閉鎖撤退に至りました。",2017年3月3日,2020年3月10日,http://donan-museums.jp/archives/3015,3016,厚沢部町,,厚沢部町字鶉,,昭和,歴史,41.9253235,140.2904968,,,,,,,"日本, 〒043-1238 北海道檜山郡厚沢部町鶉",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-153031.png,Screenshot-from-2017-03-03-153031.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-153031.png,3016,"Screenshot from 2017-03-03 15:30:31",,,,%e5%b8%9d%e5%9b%bd%e8%a3%bd%e9%ba%bb%e9%b6%89%e5%b7%a5%e5%a0%b4%e8%b7%a1,0 3019,忠魂碑,," 太鼓山登山道の中腹丘陵地に公園があります。これが太鼓山公園で眼下に本町、新町市街地やのどかな田園風景が眺まれます。春夏に桜やつつじが咲き誇り、秋は、紅葉が彩り、杉や黒松林は森林浴にうってつけのため町民の憩いの場所になっています。 この公園内広場に、日露戦争などで祖国のために尊い命を捧げた戦没者の英霊を祭るため、大正8年(1919)10月在郷軍人厚沢部分会の発議で忠魂碑が建 立されました。題字のきごうは陸軍中将田中義一氏で、村内青年会や村内有志の寄附金によって建てられました。以来、第二次大戦などの戦没者も合祀され、例 祭が8月15日に行われています。",2017年3月3日,2017年3月3日,http://donan-museums.jp/archives/3019,3020,厚沢部町,,本町,大正,大正,碑・像,41.9168816,140.2253418,,,,,,,"日本, 〒043-1114 北海道檜山郡厚沢部町本町",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-153407.png,Screenshot-from-2017-03-03-153407.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-153407.png,3020,"Screenshot from 2017-03-03 15:34:07",,,,%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91,0 3026,檜山農事試作場,," 厚沢部町新町の旧公民館跡地にあります。 明治44年(1911)4月に開場した檜山農事試作場は、現在の江差信用金庫厚沢部支店の西側、旧厚沢部公民館のところにありました。公民館跡地の木立はその名残で、隣接地五㌶余が試作圃場として経営されていました。 以来、昭和38年(1963)3月の閉場まで50年余にわたり、優良品種の普及や栽培技術の向上に努め、多くの農民に親しまれた施設でした。この試作圃場で、本町の特産物として知られているメークインが、大正14年(1925)に試作されました。",2017年3月3日,2017年3月3日,http://donan-museums.jp/archives/3026,3028,厚沢部町,,厚沢部町新町,明治,大正,生業,41.9201279,140.2236786,,,,,,,"日本, 〒043-1113 北海道檜山郡厚沢部町新町",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-154204.png,Screenshot-from-2017-03-03-154204.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-03-154204.png,3028,"Screenshot from 2017-03-03 15:42:04",,,,%e6%aa%9c%e5%b1%b1%e8%be%b2%e4%ba%8b%e8%a9%a6%e4%bd%9c%e5%a0%b4,0 3037,無量寺平和塔,ムリョウジヘイワトウ,"",2017年3月6日,2017年3月11日,http://donan-museums.jp/archives/3037,3038,八雲町,熊石地区,八雲町熊石相沼町129,昭和,昭和,碑・像,42.0748329,140.0630646,,,,,,,"日本, 〒043-0332 北海道二海郡八雲町熊石相沼町129","庚申塚 昭和六年十月吉日 折戸庚申講女人中",,,2007『熊石史実年表』八雲町編,,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/NO47-無量寺平和塔-1.jpg,-無量寺平和塔-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/NO47-無量寺平和塔-1.jpg,3038,"NO47 無量寺平和塔-1",,,,%e7%84%a1%e9%87%8f%e5%af%ba%e5%b9%b3%e5%92%8c%e5%a1%94,0 3108,殿様堀,," 安政年間( 1853~69)に松前藩が掘削したと伝えられる農業用水の跡です。 泥川から館小学校、中学校の前をとおり、字新栄方面へ伸びていました。松前藩が館地区で開発を進めていた水田への水の供給が目的だったと考えられます。",2017年3月11日,2017年3月11日,http://donan-museums.jp/archives/3108,3109,厚沢部町,,館町,近世,近世,歴史,41.8884315,140.3305511,,,,,,,"日本, 〒043-1351 北海道檜山郡厚沢部町館町",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-115544.png,Screenshot-from-2017-03-11-115544.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-115544.png,3109,"Screenshot from 2017-03-11 11:55:44",,,,%e6%ae%bf%e6%a7%98%e5%a0%80,0 3111,メークイン発祥の地碑,," 厚沢部町新町のJA新函館厚沢部支店の裏庭にあります。 厚沢部町新町にあった檜山農事試作場で大正14年(1925)から昭和2年(1928)にかけて馬鈴薯の試験栽培が行われ、メークインが檜山地域の推奨品種となりました。 その後、福井伝一郎などの栽培指導者による品種改良や肥培管理の確立によって、厚沢部メークインがブランドとして定着しました。指導者の努力と偉業をたたえ、厚沢部町農業協同組合((JA新函館厚沢部支店)構内に「 メークイン発祥の碑」が建てられました。 ",2017年3月11日,2017年3月11日,http://donan-museums.jp/archives/3111,3112,厚沢部町,,厚沢部町新町,昭和,明治||大正||昭和,未分類,41.9219093,140.2238007,,,,,,,"日本, 〒043-1113 北海道檜山郡厚沢部町新町","<題字> メークイン発祥の地碑 <台座> 本碑建立の地は北海道庁立桧山 本碑建立の地は北海道庁立桧山農事試作場(明治四十三年(一九一〇)設立(昭和三八年(一九六三)廃止)の跡地である。 「メークイン」の原産は英圀といわれ本町はアスナロ桧の北限トド松の南限に住し、之が適地として昭和九年(一九三四)始めて本場に試作された。 爾来四十有余年改良増殖され今や「厚沢部メークイン」の銘柄声価は、種子、食用共に全国津々浦々に絶賛を博している。 「厚沢部メークイン」の今日あるは先覚各位の長年月に亘る汗と努力の結晶であり、なかんずく之が生産指導と、消流に生涯をかけて、福井伝一郎氏(昭和四十九年(一九七四)十二月没行年六十二才)の努力を特筆したい。 農協発足三十周年に当たり、本碑を建立し、そのゆえんを録し先覚の功績を讃えるものである。 昭和五十一年十一月十九日 厚沢部農業協同組合",,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-120048.png,Screenshot-from-2017-03-11-120048.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-120048.png,3112,"Screenshot from 2017-03-11 12:00:48",,,,%e3%83%a1%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%a4%e3%83%b3%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 3115,碧血碑,," 国道227号線沿い、鶉ダムを望む道路脇の休憩所にあります。箱館戦争の古戦場である「稲倉石古戦場」に設置されています。同名の石碑が函館山山腹にもあります。 ちなみに、函館山碧血碑は、箱館戦争終結後、梁川熊吉が日蓮宗実行寺の住職日隆と共に、幕軍兵士の遺体収容・埋葬を行ったことがその発端。梁川は、その後、明治四年に函館山に土地を購入し、幕軍兵士の遺体を実行寺からここへ移しています。 明治七年に明治政府が幕軍兵士らの祭祀を許可したことにより、柳川は榎本武揚や大鳥圭介らと協力して、 明治八年五月に現在の碧血碑を建立しました。碧血碑の建立者である梁川熊吉は、江戸浅草の出身の侠客で、幕臣とも親交があったといわれ、その縁もあってか 五稜郭の築造工事に従事するため渡道し、箱館を拠点として活動していたとされます。 厚沢部稲倉石の「碧血碑」は、大正8年8月に旧松前藩士蠣崎知次郎が、稲倉石の古戦場に建立。函館山の「碧血碑」は、旧幕府軍兵士を悼むものですが、こちらは、松前藩士を悼む石碑です。建立者の蠣崎は、道庁の農業技師で、厚沢部近辺には農業指導で訪れていたようです。 題字と碑文は函館の土子毅によるものです。",2017年3月11日,2021年7月2日,http://donan-museums.jp/archives/3115,3116,厚沢部町,,厚沢部町峠下,大正,大正,碑・像,41.9516449,140.4005432,"碧血碑 箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地、箱館での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年(1875年)、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と祀るには支障があったことが推測される。 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。 函館市","碧血碑 这座碧血碑是用来祭奠箱馆战争中战死的土方岁三、中岛三郎助父子以及来自北关东到东北各地的旧幕府脱走军亡灵。据说碑石是在7周年忌辰之际的明治8年(1875年),得到大鸟圭介与榎本武扬等人的赞助,从东京船运而来,碑石上的题字是由战争当时陆军奉行大鸟圭介所书。 这座碧血碑是用来祭奠箱馆战争中战死的土方岁三、中岛三郎助父子以及来自北关东到东北各地的旧幕府脱走军亡灵。据说碑石是在7周年忌辰之际的明治8年(1875年),得到大鸟圭介与榎本武扬等人的赞助,从东京船运而来,碑石上的题字是由战争当时陆军奉行大鸟圭介所书。 另外,碧血是从“为正义而死之士的鲜血,三年后化为碧”的中国典故而来。","碧血碑 這座碧血碑是用來祭奠箱館戰爭中戰死的土方歲三、中島三郎助父子以及來自北關東到東北各地的舊幕府脫走軍(拒絕受降的舊幕府軍)亡靈。據說碑石是在7周年忌辰之際的明治8年(1875年),得到大鳥圭介與榎本武揚等人的讚助,從東京船運而來,碑石上的題字是由戰爭當時陸軍奉行大鳥圭介所書。 碑石底座後面鐫刻著表示建碑由來的16字,從其表達方式可以推斷出當時不便公然祭祀幕府脫走軍亡靈的實情。 另外,碧血是從“為正義而死之士的鮮血,三年後化為碧”的中國典故而來。 函館市 ",,,"อนุสาวรีย์เฮกเคตสึ อนุสาวรีย์เฮกเคตสึแห่งนี้ ได้อัญเชิญวิญญาณของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิม รวมถึงฮิจิคาตะ โทชิโซ และ นาคาจิมะ ซาบุโรสุเกะและบุตร ที่เสียชีวิตในสงครามฮาโกดาเตะ ตั้งแต่ทางตอนเหนือของภูมิภาคคันโต แต่ละจังหวัดในภูมิภาคโทโฮคุ และฮาโคดาเตะ หินที่ทำอนุสาวรีย์ส่งทางเรือมาจากโตเกียวด้วยการสนับสนุนของโอโทริ เคสุเกะ และเอโนะโมโตะ ทาเคะอากิ ในปีเมจิที่ 8 (ค.ศ.1875) ตรงกับการครบรอบ 7 ปีแห่งการเสียชีวิต และตัวอักษรบนอนุสาวรีย์ กล่าวกันว่า เป็นลายมือของโอโทริ เคสุเกะที่เป็นทหารบกตอนสงคราม ด้านหลังของแท่นนั้นสลักตัวอักษรคันจิ 16 ตัว ซึ่งบ่งบอกถึงที่มาของอนุสาวรีย์ จากการแสดงออกนั้น แสดงให้เห็นว่ามีอุปสรรคในการอัญเชิญวิญญาณของกองทัพทหารที่หนีทัพรัฐบาลบากุฟุเดิมมาสิงสถิตย์ที่นี่","日本, 〒043-1235 北海道檜山郡厚沢部町峠下","呼是戊辰之役松前藩士戦死震也顧今昔感慨無量茲有志相謀建碑以吊其英霊云 後進松前藩士 建立者蛎崎知次郎",,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-120646.png,Screenshot-from-2017-03-11-120646.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-120646.png,3116,"Screenshot from 2017-03-11 12:06:46",,,,3115,0 3120,稲倉石古戦場,," 明治元年(1686)11月12日、館城攻略を目指して、松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊と松前藩の戦闘が行われました。松前藩は、稲倉石の狭い地形を利用して防御陣地を設置して松岡隊を迎え撃ちました。 松前藩は、狭い谷底の道を封鎖して、大砲を設置しており、一見、鉄壁の守りのように見えましたが、松岡隊は、陣地左右の急峻な岩山に兵を配置して、谷底の 松前藩軍を狙撃しました。このため、松前藩軍は陣地を維持できず、木間内の陣屋にも火を放ち、俄虫村まで後退しました。 この戦闘の結果、松岡隊は鶉村まで容易に進軍し、さらに館城を攻略したのでした。 大正8年(1919)8月に、元松前藩士の蠣崎知次郎ほか有志が、この古戦場に碧血碑を建立して、戦没藩士らの霊を弔いました。",2017年3月11日,2017年3月11日,http://donan-museums.jp/archives/3120,3121,厚沢部町,,厚沢部町峠下,近世,近世,歴史,41.9502411,140.3918304,,,,,,,"日本, 〒043-1235 北海道檜山郡厚沢部町峠下",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-130801.png,Screenshot-from-2017-03-11-130801.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-11-130801.png,3121,"Screenshot from 2017-03-11 13:08:01",,,,%e7%a8%b2%e5%80%89%e7%9f%b3%e5%8f%a4%e6%88%a6%e5%a0%b4,0 3123,ホイド穴,," 明治元年(1868年)11月13日から15日にかけて、松前藩と交戦中の旧幕府軍の館城攻撃部隊(幕府一聯隊)が鶉村へ進出し、ここを拠点に館城攻撃を行いました。 14日には鶉村で松前藩軍との交戦も行われました。これを恐れた村の婦女子や老人は山や沢に逃げ、この洞窟にも隠れたといわれています。 「ホイド穴」の名称は、昔から昭和初期まで、「ホイド」がこの岩陰を寝ぐらとして利用していたためと言われています。岩陰の中は焚火のため煤光りとなり、「ホイド」がいなくなった後もその臭いが残っていたということです。 また、平成16年に環境整備工事にともなって恵山式土器(約2000年前)が発見され、「ホイド穴遺跡」として、北海道教育委員会の包蔵地として登載されました。",2017年3月13日,2017年3月13日,http://donan-museums.jp/archives/3123,3124,厚沢部町,,厚沢部町字鶉,近世,近世,歴史,41.9131584,140.2688751,,,,,,,"日本, 〒043-1238 北海道檜山郡厚沢部町鶉",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-162630.png,Screenshot-from-2017-03-13-162630.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-162630.png,3124,"Screenshot from 2017-03-13 16:26:30",,,,%e3%83%9b%e3%82%a4%e3%83%89%e7%a9%b4,0 3126,米揚げ岱,," 館城から厚沢部川を1.5kmほどさかのぼったところに位置します。明治元年(1868)築城された館城に、兵糧米や物資を陸揚げした場所と伝えられてい ます。館城の建築資材のうち、重量物の運搬には川船が使われたことを示す記録があります。「 米揚げ岱」から荷揚げしたと考えると、館城へは多少遠回りになりますが、この地点が荷揚げにふさわしい理由があったのかも知れません。 古老の言い伝えでは、館城の礎石や庭石も川舟を使って運ばれ、米揚げ岱から荷揚げされたといわれています。これらの石は米揚げ岱からの牛4頭を使って運搬されたと伝えられています。",2017年3月13日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3126,3127,厚沢部町,,厚沢部町字城丘,近世,近世,歴史,41.8730354,140.3658752,,,,,,,"日本, 〒043-1363 北海道檜山郡厚沢部町富里88−2",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-163504.png,Screenshot-from-2017-03-13-163504.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-163504.png,3127,"Screenshot from 2017-03-13 16:35:04",,,,%e7%b1%b3%e6%8f%9a%e3%81%92%e5%b2%b1,0 3129,おかめ落とし,," 文久年間(1861~1863)に鶉越道路開さく工事が行われていました。このとき、作業員として従事していた幸吉という人物がいたそうです。 幸吉は酒乱で、彼が酔っているときに、悪友が「お前のカカァーに男がいる」と冗談を言ったようです。それを信じた幸吉は、妻の「おかめ」に「殺す」と言って襲いかかりました。追いつめられて逃げ場を失ったおかめは子どもを抱いて鶉川の流れるこの崖から身を投げて亡くなりました。 しかし、崖の枯木の枝にその衣類が引っかかり数年に渡り、痛ましい光景をさらしました。 鶉村の人たちは、永年香華を供え、冥福を祈りました。哀れなおかめの最期を記憶にとどめ、「おかめ落とし」の名前とともに今に伝えています。",2017年3月13日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3129,3130,厚沢部町,,厚沢部町字鶉,近世,近世,歴史,41.9173088,140.2741547,,,,,,,"日本, 〒043-1238 北海道檜山郡厚沢部町鶉",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-164934.png,Screenshot-from-2017-03-13-164934.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-164934.png,3130,"Screenshot from 2017-03-13 16:49:34",,,,%e3%81%8a%e3%81%8b%e3%82%81%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97,0 3132,開墾役所跡,," 松前藩が安政年間(1855〜1860)に厚沢部川流域の農業開発のために開墾役所を設置したと言われています。松前藩の資料的な裏付けはとぼしく、増田家文書「館村開墾場絵図」によって現在の推定地付近に「開墾御役所」が確認できます。 開墾役所跡は、道々29号の北側、厚沢部川右岸で、館川と厚沢部川に挟まれた段丘面上で、現在は農地になっています。昭和42年(1967)の農地造成のため痕跡は失くなりましたが、波佐見産のコンプラ瓶が採取されています。",2017年3月13日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3132,3133,厚沢部町,,厚沢部町字新栄,近世,近世,歴史,41.8986740,140.3095703,,,,,,,"日本, 〒043-1367 北海道檜山郡厚沢部町新栄",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-165347.png,Screenshot-from-2017-03-13-165347.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2017/03/Screenshot-from-2017-03-13-165347.png,3133,"Screenshot from 2017-03-13 16:53:47",,,,%e9%96%8b%e5%a2%be%e5%bd%b9%e6%89%80%e8%b7%a1,0 3163,館城跡,タテジョウアト," 明治元年(1868)7月、「正義隊」と名乗る松前藩の若手藩士を中心とするグループが藩主徳広を擁護し、クーデターにより政権を握りました。正義隊は、藩の拠点を松前から厚沢部の館村へ移すことを決定しました。正義隊がなぜ、突然本拠地を移すことに決めたのかは明確ではありません。 館城の築城は、9月1日(旧暦)頃から着手され10月25日頃には工事は完了(あるいは中断)していたと考えられます。14代藩主徳広は10月28日福山城を出発、11月3日に館城に入ったと伝えられています。 11月15日に、松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊の攻撃を受け落城しました。その後、館城は再建されることなく明治を迎えます。 発掘調査によって堀・土塁・柵で囲まれた館城の様子や、御殿の礎石などが見つかっています。",2018年2月23日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3163,3161,厚沢部町,,,近世,近世,歴史,41.8799477,140.3433075,,,,,,,"日本、〒043-1364 北海道檜山郡厚沢部町城丘397",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2018/02/館城桜.png,.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2018/02/館城桜.png,3161,館城桜,,,,%e9%a4%a8%e5%9f%8e%e8%b7%a1-2,0 3167,館城址石碑,タテジョウシセキヒ," 松前家22代当主松前之廣氏揮毫による石碑で、館城の沿革等が記されています。北海道開道百年、館城百年を記念して、昭和43(1968)年9月に建立されました。",2018年2月23日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3167,3168,厚沢部町,,,昭和,明治,碑・像,41.8801422,140.3438263,,,,,,,日本、北海道檜山郡厚沢部町,"戊辰の内乱が東北に及んだ明治元年八月松前藩は、かねて一朝有事の避難所に内定されていた要衝館村のこの地に新城を築いて移ることとした、。築城は突貫工事で進められたが未完成の裡に第十八代藩主徳広を迎えねばならなかつた。まもなく徳川脱走軍が来攻し十一月十五日、今井興之丞、三上超順らの奮戦もむなしく落城焼失し松前藩は挙げて津軽に避難せねばならなかつた。着工以来僅か二箇月半然しこれによつて松前藩はのち館藩として復活することになつたのである。開道百年思いあらたに館城跡保存協賛会の積極的協賛を得てこの碑を建てる。 昭和四十三年九月 厚沢部町長 京谷兼一 供書 松前家二十二代 松前之廣 纂額",,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2018/02/pic9.jpg,pic9.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2018/02/pic9.jpg,3168,Exif_JPEG_PICTURE,,,,%e9%a4%a8%e5%9f%8e%e5%9d%80%e7%9f%b3%e7%a2%91,0 3172,三上超順力試之石,," 館城で戦死した三上超順に関する由来が伝わる円礫です。伝わっているのは次のような話です。相撲好きの山田某という人が館城内の役所跡をとおる旧道沿いでこの石を見つけ、自宅に持ち帰りました。この石で毎日力試しをしていたところ、奥さんが病気になってしまいました。ある人がいうには「これは館城で戦死した三上超順のたたりだろう」ということでした。そこで、正定寺(厚沢部町館町)というお寺へ預けたところ、奥さんの病気も治り、不幸なことが起こらなくなりました。力試之石は、正定寺の境内に永く安置されていましたが、昭和 43 ( 1968 )年、開道百年館城百年の記念として正定寺境内から館城内へ移設されました。",2018年2月23日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3172,3173,厚沢部町,,,大正,大正,歴史,41.8798218,140.3421173,,,,,,,日本、北海道檜山郡厚沢部町,,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2018/02/s_三上超順力試しの石.jpg,s_三上超順力試しの石.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2018/02/s_三上超順力試しの石.jpg,3173,s_三上超順力試しの石,,,,%e4%b8%89%e4%b8%8a%e8%b6%85%e9%a0%86%e5%8a%9b%e8%a9%a6%e4%b9%8b%e7%9f%b3-2,0 3211,日魯漁業株式会社従業員精霊塔,ニチロギョギョウジュウギョウカブシキカイシャジュウギョウインセイレイトウ,"",2019年4月8日,2019年4月26日,http://donan-museums.jp/archives/3211,3212,函館市,西部地区,函館市船見町18番(称名寺内),大正,大正,"歴史,生業,碑・像",41.7692337,140.7018127,"1924年(大正13年)、操業中に命を落とした従業員への追善供養と、人間の食品とされる動物や植物供養のために建立された。題字は、日魯漁業株式会社の創業者である堤清六による。 毎年、日魯漁業株式会社株式を創業した堤清六の命日である9月12日に、ニチロ会が施主となり、施餓鬼法要が営まれている。",,,,,,,"(前) 日魯漁業株式会社従業員精霊塔 (裏) 大正十三年十一月一日建之 ",,,「日魯創業100年の軌跡」,cc-by,okuno.s,2019年4月、ニチロ会事務局猟古氏確認。追善費用等については、日魯漁業株式会社の後進、マルハニチロホールディングスが提供している。,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2019/04/171.jpg,171.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2019/04/171.jpg,3212,hako171,,日魯漁業従業員精霊塔,,%e6%97%a5%e9%ad%af%e6%bc%81%e6%a5%ad%e6%a0%aa%e5%bc%8f%e4%bc%9a%e7%a4%be%e5%be%93%e6%a5%ad%e5%93%a1%e7%b2%be%e9%9c%8a%e5%a1%94,0 3258,鷹落とし,," 今から約260年前の宝暦年間(1751〜1764)には、厚沢部町周辺に多くの鷹が生息していたと言われています。 鷹羽は、蝦夷地の特産品として知られており、近世以前にも松前(蠣崎)家は豊臣秀吉に鷹羽の献上を行っていました。松前藩藩主資広の頃は、蝦夷地の全域に390箇所の鷹場が設けられたとされています。 松前藩の鷹場の一つがこの付近にあったとされ、昔から村人に「鷹落とし」という呼び名で親しまれています。",2020年3月10日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3258,3260,厚沢部町,,,近世,近世,歴史,41.9143677,140.2653198,,,,,,,"Toyokawacho, Hokkaido, 043-0033, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic11.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic1.jpg,pic11.jpg||pic1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic11.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic1.jpg,3260||3259,鷹落とし||pic1,,,,%e9%b7%b9%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97,0 3263,造田記念碑,," 加賀七蔵氏(文久2年生)が造田池の一角に建立した記念碑です。 加賀七蔵は、明治41年に秋田県山本郡鹿渡村(現秋田県三種町)から鶉川沿いの大丁岱(現鶉町)に入植しました。入植後、大変な苦労をして畑作を中心とした耕作をおこなっていましたが、しだいに地がおとろえ、収量が低下していきました。 七蔵は、郷里(鹿渡村)でおこなわれていた稲作をめざし、灌漑計画を研究していたといわれています。この地で水田経営を成功させて生活を安定させたい願い、造田作業を続けました。 無事に水田開発に成功し、同志とともに悲願を達成した加賀七蔵は、自ら石碑を建てて、その喜びを表現したということです。",2020年3月10日,2020年3月10日,http://donan-museums.jp/archives/3263,3264,厚沢部町,,,明治,明治,歴史,41.9376945,140.3204956,,,,,,,"Motomachi, Hokkaido, 043-0102, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic26.jpg,pic26.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic26.jpg,3264,増電記念碑,,,,%e9%80%a0%e7%94%b0%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3266,館聖公会教会堂跡,タテセイコウカイキョウカイドウアト," 厚沢部町鷲ノ巣(字富里)に入植した山田致人(愛媛県出身)が明治23年(1890)に創立したと伝えられる教会堂跡です。 開拓使退官後の致人は、大野村(現北斗市)に居住しました。明治14年、七重村定住の聖公会伝道師だったデニング師から洗礼を受け、キリスト教徒となりました。明治15から16年にかけて、致人はデニング師の帰国に伴い渡英しました。この際に、イギリス式の農業を実地で目にする機会があったと考えられます。 イギリス式の農業適地として、館村を選定し入植しました。致人の入植後、致人を頼り二木小児郎や鳶川耕三郎らが相次いで入植し、いずれもキリスト教徒だったため、一時は、館村はキリスト教徒の村と呼ばれたほどでした。 その教会堂も信者の減少とともに消え、昭和53年(1978)松橋純吉氏と相馬金蔵氏がその跡地に標柱を建てました。",2020年3月10日,2020年3月10日,http://donan-museums.jp/archives/3266,3267,厚沢部町,,,,大正,歴史,41.8894730,140.3395386,,,,,,,"Tomisato, Hokkaido, 043-1363, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic27.jpg,pic27.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic27.jpg,3267,館聖公会教会堂跡,,,,%e9%a4%a8%e8%81%96%e5%85%ac%e4%bc%9a%e6%95%99%e4%bc%9a%e5%a0%82%e8%b7%a1,0 3269,拓魂流汗の碑,タクコンリュウカンノヒ," 終戦後、厚沢部町には海外引揚者、戦災者、復員者などの移住が多くありました。これらの人びとへの対策として緊急開拓入植制度が設けられ、その受入れ先として、本町にも七地区287戸(旧字、上俄虫17、安野呂28、鶉96、西鶉18、峠下12、城ノ岱30、館86)が入植して、昭和20年から10年余にわたって開墾に従事しました。 しかし、土地条件や生活環境も悪く、大きな負債を抱え悲惨な生活が続き、その結果、離農者が続出して離農跡地の荒廃化が進みました。 多くの離農者は当時の苦労に想いを馳せ、子孫の伝えたいとの願いから、石碑を建立しました。",2020年3月10日,2020年3月10日,http://donan-museums.jp/archives/3269,3270,厚沢部町,,,昭和,昭和,歴史,41.9489822,140.3817902,,,,,,,"Chiyoda, Hokkaido, 041-1222, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic29.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic30.jpg,pic29.jpg||pic30.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic29.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic30.jpg,3270||3271,pic29||pic30,,,,%e6%8b%93%e9%ad%82%e6%b5%81%e6%b1%97%e3%81%ae%e7%a2%91-2,0 3275,青年流汗の碑,セイネンリュウカンノヒ," 河川改修工事前の厚沢部川や安野呂川は、増水時には氾濫し、流域に大きな被害を与えてきました。 改修工事を進める大きな力となったのが、昭和37年に創設された「働きつつ学ぶ」一年修業全宿舎制の北海道地方開発青年隊でした。 その宿舎が、本町と日高支庁管内静内町に設けられました。本町には昭和37年(1962)第一期隊員24名を始め、昭和42年(1967)第六期隊員29名まで6年間に延べ168名の隊員が工事に従事しました。厚沢部川の河川改修工事を、技術者として巣立つためのきびしい自己練成の場として勤めあげました。 その尊い姿を讃え「羽ばたく若鷹」を表わしたこの碑が建立されました。",2020年3月10日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3275,3276,厚沢部町,,,昭和,昭和,歴史,41.9174728,140.2210083,,,,,,,"Higashiyama, Hokkaido, 043-0036, JP","由緒 北海道産業開発青年隊が創設されてここに六年 若き隊員が「働きつつ学ぶ」きびしい団体生活のなかに国土の建設と自己の錬成に精進する姿はたのもしくかつ尊いものがある この壮志と業績をたたえ本碑をゆかりの地厚沢部町に建立するゆえんである 昭和四十二年十月 北海道土木部長 中村聡 北海道地方産業開発青年隊終了隊員一同 昭和37年度第1期修了隊員 24名 昭和38年度第2期修了隊員 25名 昭和39年度第3期修了隊員 30名 昭和40年度第4期修了隊員 30名 昭和41年度第5期修了隊員 30名 昭和42年度第6期修了隊員 29名",,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic31.jpg,pic31.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic31.jpg,3276,青年流汗の碑,,,,%e9%9d%92%e5%b9%b4%e6%b5%81%e6%b1%97%e3%81%ae%e7%a2%91,0 3278,拓農魂の碑,タクノウタマシイノヒ," 昭和53年(1978)3月に厚沢部高等学校が農業科から普通科へ転換し、農業科が閉課されたことをきっかけに建立された石碑です。建立地は厚沢部高等学校学校が農業実習地として利用してきた檜山農事試作場跡地の一角です。 昭和47年(1972)頃からの普通科志向が高まり、農業高校としての存続が危惧されました。昭和49年(1974)に校下の保護者や生徒に対する意向調査が行われ、その結果、全日制普通科高校として再出発することとなり、農業科を閉課することとなりました。昭和53年(1978)の普通科転換までに、827名の卒業生を送り出しました。 ",2020年3月10日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3278,3279,厚沢部町,,,昭和,,歴史,41.9208565,140.2249146,,,,,,,"Tomisato, Hokkaido, 043-1363, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic32.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic33.jpg,pic32.jpg||pic33.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic32.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic33.jpg,3279||3280,拓農魂の碑||拓農魂の碑碑文,,,,%e6%8b%93%e8%be%b2%e9%ad%82%e3%81%ae%e7%a2%91,0 3282,厚沢部高等学校跡,," 厚沢部高等学校は、昭和23年(1948)12月に道立江差高校俄虫分校の夜間農業科として開校しました。最初は厚沢部小学校に併設された建物で授業が行われていました。昭和26年(1951)には新築された中学校へ移転しました。 昭和27年(1952)に江差高校から独立して俄虫高等学校となりました。その後、昭和57年(1982)4月に檜山南部地域の高校再編成によって、江差高等学校へ統合移管されました。卒業生総数1,069名でした。",2020年3月10日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3282,3283,厚沢部町,,,昭和,昭和,歴史,41.9201317,140.2261658,,,,,,,"Higashiyama, Hokkaido, 043-0036, JP","北海道厚沢部高等学校跡 <表面> 碑文 私たちの母校である町立厚沢部高等学校は、昭和57年4月1日、桧山南部地域の高等学校再編成にあたって、将来展望から江差町字伏木戸に移転新築された道立江刺高等学校へ統合移管され、昭和23年12月5日開校以来、33年3ヵ月をもって、その歴史と伝統に終止符を打った。 ここに、若き青春の一時期を学んだ卒業生1169名は光り輝やく母校の灯をこの石碑に託して建立したものである。 昭和57年3月27日 北海道麻生高等学校同窓会 <裏面> 逍遙歌 作詞作曲 大山忠敬 こぶしの香り 慕わしく 山狭の道 逍遙えば 渓流岩に しぶきして 静寂の森に こだましぬ ああこの郷に 四星霜 この学舎に 四春秋 いざ同胞よ 集いて讃えん 美わし此地の我等が母校",,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic34.jpg,pic34.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic34.jpg,3283,旧厚沢部高校跡石碑,,,,%e5%8e%9a%e6%b2%a2%e9%83%a8%e9%ab%98%e7%ad%89%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e8%b7%a1,0 3287,山田致人翁の墓,," 山田致人は、伊予国新谷藩士で、明治維新後は、開拓使に出仕しました。退官・任官を繰り返すものの明治十一年まで開拓使に勤務しました。 明治十七年に同志十三戸と館村へ入植し、西洋式農業の導入、教会堂の建設、小学校の創設、診療所の開設など館地域の振興に力を尽くしました。 明治三十三年に伊達村(現伊達市)からの要請により初代村長に就任しますが、翌年、健康を害したため村長職を辞し、療養のため館村に帰りました。しかし、致人不在の間、山田家長男道太の放蕩がエスカレートし、病床の致人はこれを苦に明治三十五年五月九日自害し、五十七歳の生涯を終えたのでした。 墓碑は、開拓使時代に親交があったと思われる榎本武揚が、花崗岩に自書して横浜港から船便で送ったものと言われています。 ",2020年3月10日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3287,3289,厚沢部町,,,明治,明治,歴史,41.8866920,140.3622284,,,,,,,"Midorigaoka, Hokkaido, 043-0054, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic35.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic36.jpg,pic35.jpg||pic36.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic35.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic36.jpg,3289||3290,山田致人の墓||山田致人の墓碑面,,,,%e5%b1%b1%e7%94%b0%e8%87%b4%e4%ba%ba%e7%bf%81%e3%81%ae%e5%a2%93,0 3288,二木小児郎翁開拓記念碑,," 小児郎翁は、薩摩国に生まれ、鹿児島県会議員を務めていましたが、明治21年(1888)5月に北海道開拓移住を決意しました。単身渡道し、館村の国有未開地の払下げを受けて開墾を始めました。 山田致人等と共に診療所の設置や館小学校の創立などに活躍し、大麦の試作や養蚕を試みるなどしています。 字富里の旧地名である「鷲の巣」は小児郎の命名によるものです。私財を投じて、富里小学校の前身となる「太平学舎」を開設し、地域の発展に大きな業績を残しました。小児郎は、昭和14年(1939)4月9日享年87才の天寿を全うしました。 開拓祈念碑は、昭和9年(1934)に彼の功績をたたえ、鷲の巣集落の人びとが稲倉石河畔の自然石を運び建立したものです。 ",2020年3月10日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3288,3292,厚沢部町,,,昭和,明治||大正,歴史,,,,,,,,,,,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic37.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic38.jpg,pic37.jpg||pic38.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic37.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic38.jpg,3292||3293,二木小児郎翁開拓記念碑||二木小児郎翁開拓記念碑遠景,,,,%e4%ba%8c%e6%9c%a8%e5%b0%8f%e5%85%90%e9%83%8e%e7%bf%81%e9%96%8b%e6%8b%93%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3295,鳶川耕三郎翁の墓,," 鳶川耕三郎は伊予国小松の一柳家の藩士で、明治12年(1879)に北海道に渡り、大野村向野(現北斗市)に入植しました。同じ頃に大野村向野に入植した山田致人と意気投合したと思われます。 明治16年(1883)にイギリスから戻った山田致人とともに館村へ入植しました。当初は糠野川が入植の割り当て地でしたが、山田致人の入植地である泥川沿いに移り、開墾に従事しました。致人らとともに館村へ入植したと伝えられる12戸のうち、残ったのは山田致人と鳶川耕三郎の2軒だけだったといいます。 明治39年(1906)の村制施行による最初の村会議員や厚沢部農会長を努めました。 昭和51年(1976)に山畔清悦らの「富里親和会」が富里墓地に墓標を建立しました。",2020年3月11日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3295,3296,厚沢部町,,,昭和,明治,未分類,41.8867340,140.3624420,,,,,,,"Higashiyama, Hokkaido, 043-0036, JP","由緒 開拓功労者故鳶川耕三郎氏は明治初期本庁開拓のため館村に入植された。 卓越せる指導力をもって地域振興のため多くの業績を残された。新営農方式の採用道路橋梁の新設最初の医院の設置など、地域住民の信望とみに厚く請われて町村制最初の村会議員更に農会長の要職に就かれ活躍された。本町開基百年を朴し、その数々の功績を偲び、墓石を修復し報思の誠を捧げたい。 昭和五十一年十一月 富里親和会",,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic39.jpg,pic39.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic39.jpg,3296,鳶川耕三郎の墓,,,,%e9%b3%b6%e5%b7%9d%e8%80%95%e4%b8%89%e9%83%8e%e7%bf%81%e3%81%ae%e5%a2%93,0 3298,土橋自然観察教育林(羽板内山天然林),," 土橋自然観察教育林は、250年以上前から松前藩の「留山」によって樹木の伐採が禁じられてきました。このため、樹齢200年を超える天然のヒノキアスナロ林が形成されています。 ヒノキアスナロの暗い林とブナやナラの明るい林とが入り混じった環境の中で、さまざまな植物や昆虫、動物が生活していますそのため、北海道南部の特徴的な植物のほとんどが教育林の中でみることができ、絶滅の危険があるとされる植物も、多く見つかっています。 ",2020年3月11日,2021年6月30日,http://donan-museums.jp/archives/3298,3302,厚沢部町,,,,,自然,41.9148521,140.2181702,,,,,,,"Tomisato, Hokkaido, 043-1363, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic43.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic44.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic42.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic41_resize.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic40_resize.jpg,pic43.jpg||pic44.jpg||pic42.jpg||pic41_resize.jpg||pic40_resize.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic43.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic44.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic42.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic41_resize.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic40_resize.jpg,3302||3303||3301||3300||3299,pic43||pic44||Exif_JPEG_PICTURE||pic41_resize||pic40_resize,,,,%e5%9c%9f%e6%a9%8b%e8%87%aa%e7%84%b6%e8%a6%b3%e5%af%9f%e6%95%99%e8%82%b2%e6%9e%97%ef%bc%88%e7%be%bd%e6%9d%bf%e5%86%85%e5%b1%b1%e5%a4%a9%e7%84%b6%e6%9e%97%ef%bc%89,0 3305,鶉川ゴヨウマツ自生北限地帯,," 国道227号から、約3.5キロ山に入った国有林の山頂に、ゴヨウマツ自生林があります。 本州の山地にはどこでも見られるゴヨウマツですが、北海道中部以北日本海側には見られません。北海道では厚沢部川流域と日高管内の元浦川や幌満川流域に分布しています。 鶉川上流の一帯は、北海道の日本海側の自生地として重要です。そのため、ゴヨウマツの自生北限地帯として、昭和3年(1928)2月7日内務省告示によって天然記念物に指定されました。 ゴヨウマツは鶉川上流右岸の標高400mから800mの険しい尾根状に分布しており、谷底の林道からその姿を遠望することができます。 ",2020年3月11日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3305,3307,厚沢部町,,,,,自然,41.9713287,140.4485016,,,,,,,"Inasato, Hokkaido, 041-1241, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic48.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic45.jpg,pic48.jpg||pic45.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic48.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic45.jpg,3307||3306,鶉川ゴヨウマツ史跡標柱と説明板||鶉川ゴヨウマツ,,,,%e9%b6%89%e5%b7%9d%e3%82%b4%e3%83%a8%e3%82%a6%e3%83%9e%e3%83%84%e8%87%aa%e7%94%9f%e5%8c%97%e9%99%90%e5%9c%b0%e5%b8%af,0 3309,佐市のケヤキ,," 明治38年(1905)頃に佐々木佐市氏の父甚吉が植樹したケヤキです。 国道227号線の拡幅工事の際にも伐採を免れ、国道沿いのランドマークとなっています。植樹年のわかる記念樹としても貴重です。",2020年3月11日,2020年4月11日,http://donan-museums.jp/archives/3309,3310,厚沢部町,,,明治,明治,自然,41.9219513,140.2854309,,,,,,,"Tomisato, Hokkaido, 043-1363, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/03/pic50.jpg,pic50.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/03/pic50.jpg,3310,佐市のケヤキ,,,,%e4%bd%90%e5%b8%82%e3%81%ae%e3%82%b1%e3%83%a4%e3%82%ad,0 3319,瀬棚線鉄道工事殉難者慰霊碑,セタナセンテツドウコウジジュンナンシャイレイヒ,"[caption id=""attachment_3317"" align=""alignnone"" width=""300""] 瀬棚線鉄道工事殉難者慰霊碑[/caption] 国鉄瀬棚線建設工事で犠牲となった強制労務者の慰霊碑。 昭和2(1927)年に着工された国鉄瀬棚線の建設工事で犠牲となった「タコ部屋」強制労務者の実態を掘り起こそうと、今金町内の教職員らが昭和50(1975)年に美利河墓地の笹やぶから8遺体を発掘、火葬して花石地区の寺に安置した。これがきっかけとなり、その遺族を探す運動から慰霊碑建立運動に発展し、今金歴史を探る会(杉本省吾会長)が中心となって募金活動に乗り出し、建立が実現した。 建立:昭和52(1977)年11月",2020年6月5日,2020年6月13日,http://donan-museums.jp/archives/3319,3317,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河,昭和,昭和,碑・像,42.4729958,140.2059174,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP","昭和三年瀬棚線敷設工事の際タコ部屋組織の中で土工として働き苛酷な条件の中で病没或いは事故死を遂げし人々十三体無縁として野に葬られしを今金歴史を探る会の人々の手によって発掘され本籍氏名を明らかにし今更めて茲に篤く葬り冥福を祈らんとするものなり 昭和五十二年十一月二十三日 今金町開基八十年並びに瀬棚線開通五十年を記念して 今金歴史を探る会建立",,,改訂今金町史(下巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/setanasenireihi001.jpg,setanasenireihi001.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/setanasenireihi001.jpg,3317,瀬棚線鉄道工事殉難者慰霊碑,瀬棚線鉄道工事殉難者慰霊碑,,瀬棚線鉄道工事殉難者慰霊碑,%e7%80%ac%e6%a3%9a%e7%b7%9a%e9%89%84%e9%81%93%e5%b7%a5%e4%ba%8b%e6%ae%89%e9%9b%a3%e8%80%85%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91-2,0 3322,ピリカ旧石器文化館,ピリカキュウセッキブンカカン,"[caption id=""attachment_3323"" align=""aligncenter"" width=""560""] ピリカ旧石器文化館[/caption] 国指定史跡ピリカ遺跡のガイダンス施設で2003年に開館。ピリカ遺跡から出土した重要文化財指定品などを含む旧石器展示室をはじめ、映像や音声による解説ホール、体験学習室を備えている。また、史跡指定区域内には、発掘調査区域の40平米を展示する施設「石器製作跡」があり、石器の出土状況を臨場感をもって見学することができる。 電話:0137-83-2477 開館時間:9:30~16:30 休館日:月曜日、祝日の翌日、12月1日~3月31日 入館料:無料 交通アクセス:函館バス美利河ダム前下車徒歩5分 駐車場:あり HP:あり",2020年6月5日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/3322,3323,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河228番地の1,,旧石器||縄文,博物館等の施設,42.4770660,140.2017975,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/01.jpg,01.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/01.jpg,3323,ピリカ旧石器文化館,ピリカ旧石器文化館,ピリカ旧石器文化館,ピリカ旧石器文化館,%e3%83%94%e3%83%aa%e3%82%ab%e6%97%a7%e7%9f%b3%e5%99%a8%e6%96%87%e5%8c%96%e9%a4%a8-2,0 3325,今村藤次郎頌徳碑,イマムラトウジロウショウトクヒ,"[caption id=""attachment_3326"" align=""aligncenter"" width=""239""] 今村藤次郎頌徳碑[/caption] 今金町開拓功労者・今村藤次郎氏の功績を後世に伝える頌徳碑。 建立:昭和29(1954)年11月",2020年6月5日,2020年12月11日,http://donan-museums.jp/archives/3325,3326,今金町,,今金町字今金 今金八幡神社境内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4304008,140.0109558,"くわしくはこちらをごらんください 今金町開拓の祖・今村藤次郎",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","(正面) 翁ハ明治三年三月愛媛県温泉郡石井村ニ生レ郷里ノ中学校ヲ卒エルヤ笈ヲ負フテ上京早稲田法律専門学校ニ入学在学中偶々北辺ノ鎖鑰タル本道ノ開拓ノコトヲ聞クヤ深ク感ズル所アリテ同校卒業ト同時ニ同志ト相謀リ当地ニ未開地ノ貸付ヲ受ケ明治二十六年四月自ラ先達トナリ移民二十数戸ト共ニ入地セラル。 当時交通極メテ不便時トシテ米塩ノ供給スラ不能トナルコト一再ナラズ然モ鬱蒼タル森林或ハ泥濘膝ヲ没スル沼沢ノ地ニ於テ荊棘ヲ拓キ具ニ草創ノ苦酸ヲ嘗メツツ克ク衆ヲ激励指導シ更ニ移民ノ招来シテ開墾ニ力ムルト共ニ道路橋梁用悪水路ノ開設等ニ私財ヲ投ジテ終ニ今日ノ美田良圃ノ基盤ヲ築カル後開拓功成リ農家経済定マルヤ其ノ耕地ノ大部分ヲ小作人ニ分譲シテ自作農ヲ創設シ亦昭和六年衆望ヲ担ツテ農会会長ニ就任スルヤ堆肥ノ奨励防風林ノ造成荒廃地ノ更生利用ヲ指導シテ地方開発ヲ促進スルノ外翁ハ亦自治愛村ノ念厚ク明治三十九年以来村会議員ニ選バレ在職四十年ノ永キニ亘リ至公至平ノ信念ヲ堅持シテ村治ノ円滑ナル運営ニ貢献セラレタリ昭和十九年二月十一日開拓及ビ自治功労者トシテ明治十四年十二月七日勅定ノ藍綬褒章ヲ賜リ其ノ善行ヲ表彰セラル、以上ヲ摘録シテ翁ガ本町開拓ノ祖トシテ貽サレタ功績ヲ爲ニ讃仰シテ永ク其ノ徳ヲ頌ヘントスルモノナリ",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/imamuratojiro001.jpg,imamuratojiro001.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/imamuratojiro001.jpg,3326,今村藤次郎頌徳碑,今村藤次郎頌徳碑,今村藤次郎頌徳碑,今村藤次郎頌徳碑,%e4%bb%8a%e6%9d%91%e8%97%a4%e6%ac%a1%e9%83%8e%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91,0 3329,安部義雄氏之像,アベヨシオシノゾウ,"[caption id=""attachment_3330"" align=""aligncenter"" width=""209""] 安部義雄胸像[/caption] 建立:昭和41(1966)年9月",2020年6月5日,2020年6月13日,http://donan-museums.jp/archives/3329,3330,今金町,,"瀬棚郡今金町字今金68番地 今金町民センター敷地内",昭和,昭和,碑・像,42.4293327,140.0115814,,,,,,,,"頌徳 今金町安部義雄氏は大正七年以来四十年の長きに亘り本町に職を奉じてその間至誠一貫精励是れ勤め特に村長町長として通算六期に及び率先躬行町勢の振興発展に尽力せらる本町の隆昌に寄与すること眞に大なるものあり、昭和四十年十月積年の功労により藍綬褒章授与の栄に浴す宜なるかなその誉れあるや茲に氏の栄誉を讃えて寿像を建立し併せてその功績を顕彰す 昭和四十一年九月 今金町",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/abeyoshiozo.jpg,abeyoshiozo.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/abeyoshiozo.jpg,3330,安部義雄胸像,安部義雄胸像,安部義雄胸像,安部義雄胸像,%e5%ae%89%e9%83%a8%e7%be%a9%e9%9b%84%e8%83%b8%e5%83%8f,0 3337,浅田村長治績表彰記念碑,アサダソンチョウチセキヒョウショウキネンヒ,"[caption id=""attachment_3338"" align=""aligncenter"" width=""218""] 浅田村長治績表彰記念碑[/caption] 建立:大正3(1914)年5月 明治30(1897)年7月利別村(現今金町)創立とともに初代戸長に迎えられたのは浅田雄二郎であった。 浅田は嘉永2(1849)年石川県金沢市の生まれ。明治17(1884)年に俄虫(厚沢部町)ほか六村戸長、さらに瀬棚・熊石などの戸長を経て本村に転じ、拓殖行政の基礎をまとめあげた。その後乙部村長に転じ、明治39(1906)年の利別村二級町村制施行によって再び初代村長に就任、子弟の教育に奔走し、町内八か所に学校を創設教育の普及を図った。さらに道路開削、河川改修治水事業、洪水防止にも献身され、この功績が認められ、明治43(1910)年道庁長官より銀時計一個、翌年金100円が授与された。明治45(1912)年7月病没。浅田村長の業績をしのび、住民の手づくりの手により大正3年に記念碑が建立された。",2020年6月5日,2020年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/3337,3338,今金町,,"瀬棚郡今金町字今金68番地 今金町民センター敷地内",明治||大正,明治||大正,碑・像,42.4291687,140.0118561,,,,,,,"Sakaecho, Hokkaido, 049-4311, JP",,,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/asadasoncho01.jpg,asadasoncho01.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/asadasoncho01.jpg,3338,浅田村長治績表彰記念碑,浅田村長治績表彰記念碑,,浅田村長治績表彰記念碑,%e6%b5%85%e7%94%b0%e6%9d%91%e9%95%b7%e6%b2%bb%e7%b8%be%e8%a1%a8%e5%bd%b0%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3341,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,キンパラメイゼンオウ・スズキイクタロウオウノショウトクヒ,"[caption id=""attachment_3342"" align=""aligncenter"" width=""201""] 金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑[/caption] 金原明善(きんぱらめいぜん)は静岡県人で、92年の生涯は至誠一貫、天竜川の治水と瀬尻村の植林、そして利別村(現今金町)開拓における本道開拓など社会事業家として令名を馳せた人である。明治29(1896)年、鈴木幾太郎を派遣し後志利別川の南北両岸に金原地域を建設し、地域を巡って開拓に努力する移民を慰撫奨励し、往時の荒地は今や千町歩の豊かな農場となり、自作農創設として百余戸の小作人がその恩恵に浴した。このため金原・鈴木両翁の遺徳を景仰するため、地域民の手により頌徳の碑が建てられた。 建立:昭和21(1946)年10月",2020年6月6日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/3341,3342,今金町,,瀬棚郡今金町字金原 金原基幹集落センター前,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4067535,139.9849243,"現在の金原地区は後志利別川南岸側のみを指し、当時は「南金原」と呼ばれた。一方、北岸側の神丘より北の区域は「北金原」(鈴岡地区)と呼ばれた。 鈴岡地区の同名の石碑は、この金原地区の石碑と元は同じ石材で、二分割して作られたもの。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","往昔蝦夷地ニ理想郷建設ノ雄図ヲ抱キ荒涼タル山野ヲ拓キテ金原部落ヲ創建セシ金原明善鈴木幾太郎翁ノ偉業ハ遠ク五十年ノ昔トナリヌ 明善翁ハ静岡県ノ人其ノ九十二年ノ生涯ハ至誠一貫天竜川ノ治水瀬尻村ノ植林北海道ノ開拓等国家ノ興隆ニ献身セリ 明治二十九年幾太郎翁ヲ派シ利別川岸南北ニ金原部落建設ノ第一歩ヲ築キ又屡々部落ヲ巡周シ移民ヲ慰撫激励セリ是ノ薫陶ト意図ヲ享ケ開拓ニ全力ヲ傾倒セル幾太郎翁ハ明治三十年三月伊勢尾張美濃ヨリ四十八戸ノ移民ヲ統率シ荒土ニ開拓ノ第一鍬ヲ印セシヨリ四十有余年幾多創業ノ辛酸ヲ嘗メ部落ノ開発ニ努ム 特ニ灌漑施設畜産教育等ノ振興自治ノ向上ニ尽瘁セリ 今ヤ両翁ノ偉業結実シ往時刺榛ノ地ハ千町歩ノ豊穣ナル農場ト化シ自作農創設トシテ百余戸ノ小作人ソノ恩恵ニ浴セリ今開村五十周年ヲ迎ヘルニ当リ両翁ヲ景仰スルヤ切ナリ茲ニ部落民相諮リ頌徳碑ヲ建ル所以ナリ 昭和二十一年十月 金原鈴金部落民一同 後藤仙南書",,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kinparasyotokuhikinpara01.jpg,kinparasyotokuhikinpara01.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kinparasyotokuhikinpara01.jpg,3342,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,%e9%87%91%e5%8e%9f%e6%98%8e%e5%96%84%e7%bf%81%e3%83%bb%e9%88%b4%e6%9c%a8%e5%b9%be%e5%a4%aa%e9%83%8e%e7%bf%81%e4%b9%8b%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91,0 3344,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,キンパラメイゼンオウ・スズキイクタロウオウノショウトクヒ,"[caption id=""attachment_3345"" align=""aligncenter"" width=""212""] 金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑[/caption] 金原明善(きんぱらめいぜん)は静岡県人で、92年の生涯は至誠一貫、天竜川の治水と瀬尻村の植林、そして利別村(現今金町)開拓における本道開拓など社会事業家として令名を馳せた人である。明治29(1896)年、鈴木幾太郎を派遣し後志利別川の南北両岸に金原地域を建設し、地域を巡って開拓に努力する移民を慰撫奨励し、往時の荒地は今や千町歩の豊かな農場となり、自作農創設として百余戸の小作人がその恩恵に浴した。このため金原・鈴木両翁の遺徳を景仰するため、地域民の手により頌徳の碑が建てられた。 建立:昭和21(1946)年10月",2020年6月6日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/3344,3345,今金町,,瀬棚郡今金町字鈴岡 鈴岡会館前,,,碑・像,42.4510574,139.9897003,"現在の金原地区は後志利別川南岸側のみを指し当時は「南金原」と呼ばれた。一方、北岸側の神丘より北の区域は「北金原」(鈴岡地区)と呼ばれた。 金原地区の同名の石碑は、この鈴岡地区の石碑と元は同じ石材で、二分割して作られたもの。",,,,,,"Tashiro, Hokkaido, 049-4331, JP","往昔蝦夷地ニ理想郷建設ノ雄図ヲ抱キ荒涼タル山野ヲ拓キテ金原部落ヲ創建セシ金原明善鈴木幾太郎翁ノ偉業ハ遠ク五十年ノ昔トナリヌ 明善翁ハ静岡県ノ人其ノ九十二年ノ生涯ハ至誠一貫天竜川ノ治水瀬尻村ノ植林北海道ノ開拓等国家ノ興隆ニ献身セリ 明治二十九年幾太郎翁ヲ派シ利別川岸南北ニ金原部落建設ノ第一歩ヲ築キ又屡々部落ヲ巡周シ移民ヲ慰撫激励セリ是ノ薫陶ト意図ヲ享ケ開拓ニ全力ヲ傾倒セル幾太郎翁ハ明治三十年三月伊勢尾張美濃ヨリ四十八戸ノ移民ヲ統率シ荒土ニ開拓ノ第一鍬ヲ印セシヨリ四十有余年幾多創業ノ辛酸ヲ嘗メ部落ノ開発ニ努ム 特ニ灌漑施設畜産教育等ノ振興自治ノ向上ニ尽瘁セリ 今ヤ両翁ノ偉業結実シ往時刺榛ノ地ハ千町歩ノ豊穣ナル農場ト化シ自作農創設トシテ百余戸ノ小作人ソノ恩恵ニ浴セリ今開村五十周年ヲ迎ヘルニ当リ両翁ヲ景仰スルヤ切ナリ茲ニ部落民相諮リ頌徳碑ヲ建ル所以ナリ 昭和二十一年十月 金原鈴金部落民一同 後藤仙南書",,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kinparasyotokuhisuzuoka01.jpg,kinparasyotokuhisuzuoka01.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kinparasyotokuhisuzuoka01.jpg,3345,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑,%e9%87%91%e5%8e%9f%e6%98%8e%e5%96%84%e7%bf%81%e3%83%bb%e9%88%b4%e6%9c%a8%e5%b9%be%e5%a4%aa%e9%83%8e%e7%bf%81%e4%b9%8b%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91-2,0 3349,オンコの石仏,オンコノセキブツ,"[caption id=""attachment_3350"" align=""aligncenter"" width=""300""] オンコの石仏[/caption] 発見場所:瀬棚郡今金町字光台 由 来:昭和51(1976)年8月1日、今金町奥種川の(故)岡野英雄氏が農業のかたわら木彫りでも楽しもうと、裏山にあったイチイ(通称オンコ)の大木を切ったところ、根元の空洞の中からこの石仏が発見されました。新聞報道により知れ渡り、当時は「木隠れ石仏」、「オンコの石仏」などと呼ばれ、広く知られることとなりました。",2020年6月11日,2022年3月9日,http://donan-museums.jp/archives/3349,3350,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河 文化財保管・活用庫内,,昭和,碑・像,42.4583893,140.0731659,"全体形状は砲弾形で、高さ13cm、底部付近で最大幅9cmを測る。横断面は楕円形をなし、長径7cmを測る。石材は安山岩。 人為的な彫刻は正面に集中し、石仏の概形を形成しています。上面・側面に自然面を残し、背面と底面は大きく荒割りされた跡がみられます。正面には尖鋭な工具で彫られた線状痕が明瞭に残ることから、完成品ではない製作途上品を思わせます。頭部・胴部・足部の識別が可能で、頭部には両目が刻まれ、胴部には坐禅を組んだ両足上に両腕が配されています。 北海道開拓記念館と北海道切支丹・砂金史研究会の研究者らが付近の沢や山を調べたところ、金鉱跡を示す石垣や石臼が発見されたことから、江戸時代前期に盛んに活動した砂金掘りのもので、松前藩の迫害から逃れた隠れキリシタンによるものではないかとされました。 しかしその後、道史編集委員でえぞキリシタン研究家による鑑定では、「彫刻技法の点では150年から200年ほど前のもの。隠れキリシタンとは関係なく、石仏にもキリシタンに関連する記号もない」として上記の説が否定されました。初期開拓者が持ち込んだものの可能性が示され、現在に至っています。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/onkonosekibutsu01.jpg,onkonosekibutsu01.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/onkonosekibutsu01.jpg,3350,オンコの石仏,オンコの石仏,,オンコの石仏,%e3%82%aa%e3%83%b3%e3%82%b3%e3%81%ae%e7%9f%b3%e4%bb%8f,0 3355,ピリカカイギュウ発掘地点,ピリカカイギュウハックツチテン,"[caption id=""attachment_3356"" align=""aligncenter"" width=""300""] ピリカカイギュウ発掘地点[/caption] 昭和53(1978)年、美利河ダムの建設工事中に現場作業員があばら骨を発見したのが始まりで、翌年発掘調査が行われました。調査の結果、頭部を含む上半身33個の骨化石が発見されました。 [caption id=""attachment_3359"" align=""aligncenter"" width=""300""] ピリカカイギュウ骨格復元模型[/caption] 詳しくはこちら",2020年6月11日,2020年6月13日,http://donan-museums.jp/archives/3355,3356,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河,昭和,,自然,42.4708214,140.1900635,"その後の研究により、この化石は今からおよそ120万年前に生きていた体長8mと世界最大級のカイギュウであることがわかりました。 実物大の復元骨格模型が平成10(1998)年に完成し、美利河地区の文化財保管・活用庫で保存・展示しています。 カイギュウは人魚伝説で知られるジュゴンの仲間で、浅瀬の海で海草を食べる草食ほ乳類です。海草を一日中食べている様子から、海牛(カイギュウ)と呼ばれるようになりました。 当時の美利河地区一帯は寒冷な浅瀬の海が広がり、カイギュウがゆったり海草を食べて暮らしたようすが想像されます。",,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,美利河産海牛化石発掘調査報告書(1992年),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/pirikakaigyuchiten.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/pirikakaigyumokei.jpg,pirikakaigyuchiten.jpg||pirikakaigyumokei.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/pirikakaigyuchiten.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/pirikakaigyumokei.jpg,3356||3359,ピリカカイギュウ発掘地点||ピリカカイギュウ復元骨格模型,ピリカカイギュウ発掘地点||ピリカカイギュウ復元骨格模型,ピリカカイギュウ発掘地点||ピリカカイギュウ復元骨格模型,ピリカカイギュウ発掘地点||ピリカカイギュウ復元骨格模型,%e3%83%94%e3%83%aa%e3%82%ab%e3%82%ab%e3%82%a4%e3%82%ae%e3%83%a5%e3%82%a6%e7%99%ba%e6%8e%98%e5%9c%b0%e7%82%b9,0 3363,開拓記念 西田元吉翁,カイタクキネン ニシダゲンキチオウ,"[caption id=""attachment_3364"" align=""aligncenter"" width=""187""] 開拓記念 西田元吉翁[/caption] 豊田地区の開拓功労者・西田元吉の功績を顕彰するため、地域が一望できる豊田大麻比古神社境内に住民の手により建てられた。 西田翁は青森県出身で、瀬棚から入地。津田惣三郎・高谷慶治郎と協力して移民の募集に努め、豊田地区の開拓を進めた。 建立:昭和8(1933)年9月",2020年6月11日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/3363,3364,今金町,,瀬棚郡今金町字豊田 豊田神社境内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4054260,139.9474335,"豊田部落の開発は明治20年当時、笹森来助が熊狩りに入地したのが開基のはじまりとも伝えられているが、この地の開拓功労者は西田元吉翁である。この偉業を偲ぶ開拓記念碑は昭和8年9月、豊田住民の手により神社横に建立された。 豊田地区は犬養氏ら7人の共同貸付地であったが、未開のまま政府から土地返還の声を聞くや、西田翁は犬養氏に代わって貸付を受ける機をうかがっていた。明治28年返還が命じられると西田翁は同30年に出願し、75万坪(約250ha)の貸付に成功、植民計画を立て移民を入植させた。しかし31、32年の大洪水に遭い、離散する者も増出したが、津田惣三郎氏の協力で移民の募集に努め、北檜山町などから入地させた。このため、西田・高田・津田の冠字をとり、地名を西高津(にしこうつ)としたこともあるが、西田翁は青森県の出身で、瀬棚町から入地。豊田の前期を築き上げたとも言われ、部落内からその功績が偲ばれる。 参考文献「広報いまかね」第100号(1966年12月発行)",,,,,,"Kitahiyamaku Kabutono, Hokkaido, 049-4515, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/nishidadenkichiou.jpg,nishidadenkichiou.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/nishidadenkichiou.jpg,3364,開拓記念 西田元吉翁,開拓記念 西田元吉翁,開拓記念 西田元吉翁,開拓記念 西田元吉翁,%e9%96%8b%e6%8b%93%e8%a8%98%e5%bf%b5%e3%80%80%e8%a5%bf%e7%94%b0%e5%85%83%e5%90%89%e7%bf%81,0 3366,白石開拓記念碑,シライシカイタクキネンヒ,"[caption id=""attachment_3367"" align=""aligncenter"" width=""224""] 白石開拓記念碑[/caption] 建立:昭和42(1967)年",2020年6月11日,2020年6月22日,http://donan-museums.jp/archives/3366,3367,今金町,,瀬棚郡今金町字白石,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.3753662,140.0396576,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","(裏面) 明治三十年今村藤次郎翁・野本矩重翁・熊沢助三郎翁諸氏の指導に依り開拓 昭和二十三年農地解放に依り自作農創設 昭和四十二年農業構造改善事業完成 昭和四十二年開拓七十周年記念 白石部落民一同建立",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/shiraishikaitakukinenhi.jpg,shiraishikaitakukinenhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/shiraishikaitakukinenhi.jpg,3367,白石開拓記念碑,白石開拓記念碑,白石開拓記念碑,白石開拓記念碑,%e7%99%bd%e7%9f%b3%e9%96%8b%e6%8b%93%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3372,利別村鈴木農場記,トシベツムラスズキノウジョウキ,"[caption id=""attachment_3373"" align=""aligncenter"" width=""197""] 利別村鈴木農場記[/caption] 八束(やつか)地区の開拓功労者・鈴木義宗(よしむね)の顕彰碑 建立:大正5(1916)年9月",2020年6月13日,2020年6月21日,http://donan-museums.jp/archives/3372,3373,今金町,,瀬棚郡今金町字八束,大正,明治||大正||昭和,碑・像,42.3981590,140.0097809,"今の八束地域はアイヌ語でオチャラッペと称したが、昭和8(1933)年の字名改正で鈴木義宗の出身地をとり、八束としたもの。 鈴木義宗は千葉県安房郡富浦町八束の出身で、明治28(1895)年に北海道開拓を志し、翌年渡道。開拓地を八束と八雲の2か所に決め、八束には樫村清徳の名義で1200町歩に及ぶ未開地の開拓許可を受けた。同時に道内から20戸、福井県から33戸を移住させ、西の台に利別村鈴木農場事務所を設置し、開墾を進めた。開拓初期は大洪水などの災害が続発し、あまりの厳しさに耐えかね小作人が転出するなど困難を極めたが、鈴木は成功年限を延長する許可を取るなどして被災者を励ました。この努力が実り、現在のような美田地帯が形成され、地域の発展につながった。 この碑は義宗翁ゆかりの西の台に設けられ、自身による「鈴木農場記」の一部が刻まれている。",,,,,,"Inaho, Hokkaido, 049-4325, JP","(表面) 利別村鈴木農場記 農ハ天下ノ本生民ノ憑ル所古来之ヲ重ズル所以ナリ余東都ニ寓スル年有リ常ニ四方ノ士ニ接シテ屢北海道ニ未開ノ地多キヲ聞キ以爲ク拓殖ノ業極テ難シト雖モ之ヲ墾クハ国家ノ利子孫ノ計宜ク其開發ニ力ヲ盡シテ公私ニ益スベシト於是明治二十九年北海探検ノ途ニ上リ遍ク全道ヲ跋渉シテ地ヲ相シ官ニ請テ本場及膽振國山越郡八雲村農場ヲ創設セリ當時此地平野ハ則汗潦氾濫矮木疎密斷續ノ間蘆葦雜草簇生シ丘陵ハ則千古ノ深林老樹枝ヲ交テ陰翳畫晦ク荊棘繁茂筱竹地ニ滿チ猛獸横行蚊虻人ヲ惱シ堅氷期外ニ於テハ殆ド入ルヲ得ザリキ故ニ此ニ農民ヲ移スヤ先ヅ瀦ヲ疏シ徑ヲ通シ蝸廬ヲ結テ草萊ヲ闢キ拮据經營實ニ二十年竟ニ熊羆ノ巣窟ヲ化シテ良田ト成スニ至ル在昔ノ光景ヲ追懐スレバ宛モ別天地ノ感有リ場民ノ勞モ亦多トス可シ今ヤ人皆其堵ニ安ジ産業漸ク盛ナルヲ見ル豈悦ブ可キノ顯象ニ非ズヤ因テ茲ニ場民ト共ニ竣功ヲ祝シ其梗概ヲ勒シテ後昆ニ傳フト云爾 大正五年九月 鈴木義宗誌",,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/yatsukasuzukiyoshimune.jpg,yatsukasuzukiyoshimune.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/yatsukasuzukiyoshimune.jpg,3373,利別村鈴木農場記,利別村鈴木農場記,利別村鈴木農場記,利別村鈴木農場記,%e5%88%a9%e5%88%a5%e6%9d%91%e9%88%b4%e6%9c%a8%e8%be%b2%e5%a0%b4%e8%a8%98,0 3376,神丘発祥之地,カミオカハッショウノチ,"[caption id=""attachment_3377"" align=""aligncenter"" width=""300""] 神丘発祥之地[/caption] 建立:昭和51(1976)年8月",2020年6月13日,2020年6月13日,http://donan-museums.jp/archives/3376,3377,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4218178,139.9593964,"今金町開拓発祥の地であるインマヌエルで「聖村インマヌエル」の不屈の精神をたたえ、その歴史を後の世までとどめようと地域に残る子孫たちが3年がかりで取り組んだ。インマヌエル地域は、北海道のキリスト教開拓移民の先駆をなした地で、現在も日本聖公会インマヌエル教会が存立し、先人の開拓精神を継承しながら郷土づくりに励んでいる。 信者である11戸の農家が農作業の合間に敷地の労力奉仕や碑の大石を見つけてくるなど住民総出で完成させた。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kamiokahassyonochi.jpg,kamiokahassyonochi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kamiokahassyonochi.jpg,3377,神丘発祥之地,神丘発祥之地,神丘発祥之地,神丘発祥之地,%e7%a5%9e%e4%b8%98%e7%99%ba%e7%a5%a5%e4%b9%8b%e5%9c%b0,0 3417,忠魂碑,チュウコンヒ,"[caption id=""attachment_3471"" align=""aligncenter"" width=""300""] 忠魂碑[/caption]",2020年6月18日,2020年12月11日,http://donan-museums.jp/archives/3417,3471,今金町,,瀬棚郡今金町字今金 今金八幡神社境内,明治||大正||昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4306984,140.0119476,"建立:明治40(1907)年 当初は現在の今金小学校東北部に設置され、碑銘は「日露戦役忠魂碑」であったもの。 大正4(1915)年に現在の今金八幡宮境内に移設。 昭和22(1947)年に碑銘を「忠魂碑」に変更。 太平洋戦争では当時利別村の若者が戦地へ赴き、283名もの方が戦死された。国に殉じた多くの英霊に感謝と敬意を表し、その霊を祀るため、今金町一円の遺族援護会が昭和22(1947)年に結成され、同年8月15日、既存の日露戦争戦役者忠魂碑と合わせた忠魂碑が建立された。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/chukonhi.jpg,chukonhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/chukonhi.jpg,3471,忠魂碑,忠魂碑,忠魂碑,忠魂碑,%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91-3,0 3425,馬頭観世音菩薩,バトウカンゼオンボサツ,"[caption id=""attachment_3533"" align=""aligncenter"" width=""216""] 馬頭観世音菩薩[/caption] 建立:昭和7(1932)年7月",2020年6月22日,2020年6月22日,http://donan-museums.jp/archives/3425,3533,今金町,,瀬棚郡今金町字住吉 住吉男山八幡神社境内,,,碑・像,42.4115524,140.1062927,,,,,,,"Inaho, Hokkaido, 049-4325, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/sumiyoshibatokannon.jpg,sumiyoshibatokannon.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/sumiyoshibatokannon.jpg,3533,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e4%b8%96%e9%9f%b3%e8%8f%a9%e8%96%a9-3,0 3429,ピリカ鍾乳洞,ピリカショウニュウドウ,"[caption id=""attachment_3529"" align=""aligncenter"" width=""300""] ピリカ鍾乳洞[/caption] [caption id=""attachment_3530"" align=""aligncenter"" width=""300""] ピリカ鍾乳洞内の石柱(高さ1.2m)[/caption] ※2020年現在、道道999号線(美利河二股自然休養村線)は通行止めとなっていますので、奥美利河温泉方面へ行くことはできません。",2020年6月22日,2020年12月13日,http://donan-museums.jp/archives/3429,3529,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河 奥美利河温泉近傍,,,自然,42.5387230,140.2510376,"※急崖で危険なため一般の立ち入りは禁止されています。 奥美利河温泉の手前約50m付近に「底なしの湯壺」と呼ばれる洞窟のあることが以前から知られていた。1993年に内部を調査した結果、鍾乳石・石筍・石柱などの生成物が見られ、鍾乳洞であることが判明した。また、この洞窟は下部に35度前後の温水プールがあり、この温水と隣の奥美利河温泉のpH値や成分を比較した結果、ほとんど同じであることがわかった。 以上のことから、この鍾乳洞は奥美利河温泉の温泉水によって形成されたと考えられており、温水によってできた鍾乳洞(カルスト地形)としては日本で初めて発見されたものとされている。",,,,,,"Sumiyoshicho, Hokkaido, 049-3521, JP",,,,"北海道檜山北高等学校 1999年『北海道檜山北部-地域の自然と歴史・文化』",cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/syonyudo02.png||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/syonyudo01.png,syonyudo02.png||syonyudo01.png,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/syonyudo02.png||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/syonyudo01.png,3529||3530,ピリカ鍾乳洞||ピリカ鍾乳洞内の石柱,ピリカ鍾乳洞||ピリカ鍾乳洞内の石柱(高さ1.2m),ピリカ鍾乳洞||ピリカ鍾乳洞内の石柱(高さ1.2m),ピリカ鍾乳洞||ピリカ鍾乳洞内の石柱(高さ1.2m),%e3%83%94%e3%83%aa%e3%82%ab%e9%8d%be%e4%b9%b3%e6%b4%9e,0 3430,馬頭観世音菩薩,バトウカンゼオンボサツ,"[caption id=""attachment_3510"" align=""aligncenter"" width=""205""] 馬頭観世音菩薩[/caption] 建立:昭和21(1946)年9月",2020年6月19日,2020年6月19日,http://donan-museums.jp/archives/3430,3510,今金町,,瀬棚郡今金町字田代 南山大神宮境内,昭和,大正||昭和,碑・像,42.4067650,140.0431213,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kamitashirobatokannon.jpg,kamitashirobatokannon.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kamitashirobatokannon.jpg,3510,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e4%b8%96%e9%9f%b3%e8%8f%a9%e8%96%a9-2,0 3432,本間訓導之碑,ホンマクンドウノヒ,"[caption id=""attachment_3592"" align=""aligncenter"" width=""211""] 本間訓導之碑[/caption] 建立:昭和8(1933)年7月22日",2020年6月25日,2020年6月25日,http://donan-museums.jp/archives/3432,3592,今金町,,今金町字今金 今金町総合公園敷地内,昭和,昭和,碑・像,42.4310722,140.0140686,本碑は当初、後志利別川河畔に設置されたが、その後の河川の直線化工事に伴い、法林寺境内へ移転、現在は総合公園敷地内に設置されている。,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","(正面) 本間訓導之碑 故本間訓導名ハ鉄雄昭和六年三月以来至誠一貫今金尋常高等小学校ニ職ヲ奉ジ居タリシニ同年七月二十二日其担任児童ヲ引率シ利別川ニ於イテ水泳練習中一児童ノ当ニ溺死セントスルヲ見ルヤ挺身之レガ救助ニ向ヒ激流ト闘ヒ遂ニ之ヲ救助シタルモ身ハ不幸濁流ニ没シ悲壮ナ最後ヲ遂グ同年九月教育者ノ亀鑑トシテ文部大臣ニ表彰セラル檜山管内教育関係者相謀リ仍テ茲ニ記念碑ヲ建テ不朽ノ徳ヲ讃フト爾云 (裏面) 檜山教育會・瀬棚郡利別村 昭和八年七月二十二日 建之",,,今金町史(1958年発行),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/hommakundo.jpg,hommakundo.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/hommakundo.jpg,3592,本間訓導之碑,本間訓導之碑,本間訓導之碑,本間訓導之碑,%e6%9c%ac%e9%96%93%e8%a8%93%e5%b0%8e%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 3440,八束開基八十年記念碑,ヤツカカイキハチジュウネンキネンヒ,"[caption id=""attachment_3441"" align=""aligncenter"" width=""300""] 八束開基八十年記念碑[/caption] 建立:昭和52(1977)年11月",2020年6月17日,2020年6月23日,http://donan-museums.jp/archives/3440,3441,今金町,,瀬棚郡今金町字八束,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.3923035,140.0274963,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","(正面) 拓かれし 父祖の いたわり 偲ひて 更に築かん 豊かなる郷 三代町長 河端豊 書 (裏面) 開基八十年記念 八束連合部落会",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/yatsukakaitakuhi.jpg,yatsukakaitakuhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/yatsukakaitakuhi.jpg,3441,開基八十年記念碑,開基八十年記念碑,開基八十年記念碑,開基八十年記念碑,%e9%96%8b%e5%9f%ba%e5%85%ab%e5%8d%81%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3444,神丘開基百年記念碑,カミオカカイキヒャクネンキネンヒ,"[caption id=""attachment_3445"" align=""aligncenter"" width=""202""] 神丘開基百年記念碑[/caption] 建立:平成3(1991)年",2020年6月17日,2020年6月23日,http://donan-museums.jp/archives/3444,3445,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘,平成,明治||大正||昭和||平成,碑・像,42.4358978,139.9800262,,,,,,,"Inaho, Hokkaido, 049-4325, JP","(正面) 開基百年 今金町長 村本光夫書 (裏面上段) 入植 神丘 明治二十四年三月 鈴岡 明治二十九年三月 (裏面下段) 碑誌 蒼茫たる原野に、開拓の黎明をみて爾来百年、幾星霜に及ぶ先人らの労苦と精励が、今日この地の隆盛の礎を築くに至った我々は、茲に偉大な拓魂を敬尚し、向後の勉励の誓い新たに記念碑を建立して、先人の健徳と功業を顕彰する。 平成三年 神丘地区開基百年記念協賛会",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kaikihyakunenhi-kamioka.jpg,kaikihyakunenhi-kamioka.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kaikihyakunenhi-kamioka.jpg,3445,開基百年記念碑,開基百年記念碑,開基百年記念碑,開基百年記念碑,%e9%96%8b%e5%9f%ba%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3447,藤倉翁頌徳碑,フジクラオウショウトクヒ,"[caption id=""attachment_3448"" align=""aligncenter"" width=""181""] 藤倉翁頌徳碑[/caption] 建立:昭和13(1938)年9月",2020年6月17日,2020年6月19日,http://donan-museums.jp/archives/3447,3448,今金町,,瀬棚郡今金町字種川,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4205284,140.0689850,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","(裏面) 藤倉久三郎翁ハ安政元年岩手懸ニ生マレ明治二十九年渡道草茫タル利別村字稲穂ニ入リ粒々辛苦率先開拓ノ偉業ニ従ヒ此ノ間幾多ノ公職ニ就キテ至誠公ニ奉シ毫モ己ヲ不顧郷土ノ為ニ盡瘁セラル 就中種川区長トシテ大正元年以来二十五年間勤続シ繁閑晴雨ニ不抱草鞋ヲ穿チ馬ニ跨リテ各戸ヲ歴訪シ眞ニ心身ヲ抛ツテ部落ノ発展ト幸福ニ努ムル姿コソハ斉シク吾人ノ敬慕スル所ナリ 茲ニ建之永遠ニ其ノ偉徳ヲ讃ヘントス 昭和十三年九月 部落民一同",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/fujikuraokinenhi.jpg,fujikuraokinenhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/fujikuraokinenhi.jpg,3448,藤倉翁頌徳碑,藤倉翁頌徳碑,藤倉翁頌徳碑,藤倉翁頌徳碑,%e8%97%a4%e5%80%89%e7%bf%81%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91,0 3451,馬頭観世音菩薩,バトウカンゼオンボサツ,"[caption id=""attachment_3452"" align=""aligncenter"" width=""205""] 馬頭観世音菩薩[/caption] 建立:大正12(1923)年9月18日",2020年6月17日,2020年6月17日,http://donan-museums.jp/archives/3451,3452,今金町,,瀬棚郡今金町字中里 中里天照皇大神宮境内 ,大正,明治||大正,碑・像,42.3917694,140.1234589,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/nakasatobatokannon.jpg,nakasatobatokannon.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/nakasatobatokannon.jpg,3452,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e4%b8%96%e9%9f%b3%e8%8f%a9%e8%96%a9,0 3454,忠魂碑,チュウコンヒ,"[caption id=""attachment_3455"" align=""aligncenter"" width=""205""] 忠魂碑[/caption] 建立:昭和10(1935)年",2020年6月17日,2020年6月17日,http://donan-museums.jp/archives/3454,3455,今金町,,瀬棚郡今金町字花石 花石黄金神社境内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4338760,140.1610413,大正2(1913)年、帝国在郷軍人上利別分会は、花石黄金神社境内に木碑の忠魂碑を建立したが、その後老朽化したので、昭和10(1935)年石碑として建て替えたもの。揮毫は陸軍大将鈴木荘六の書。,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/hanaishicyukonhi.jpg,hanaishicyukonhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/hanaishicyukonhi.jpg,3455,忠魂碑,忠魂碑,忠魂碑,忠魂碑,%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91-2,0 3457,常代の松,トコヨノマツ,"[caption id=""attachment_4512"" align=""aligncenter"" width=""225""] 常代の松[/caption] 高さ約11m、周囲4m以上あるイチイの大木で、樹齢1000年以上とも言われ、古くから開拓記念樹として町民に親しまれている。中間で幹が3つに分かれ、ところどころに穴が開いていて、この中に「ヌシ」が住んでいるとも言われている。「常代の松」の名の由来は、開拓当時ある高官が巡視した折、名付けられたという。 このイチイは平成元(1989)年に「新・北海道名木百選」に選定されている。なお、イチイは町の木に指定されている。",2020年6月18日,2021年5月28日,http://donan-museums.jp/archives/3457,4512,今金町,,瀬棚郡今金町字種川,,,自然,42.4222374,140.0604401,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/tokoyo.jpg,tokoyo.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/tokoyo.jpg,4512,常代の松,常代の松,常代の松,常代の松,%e5%b8%b8%e4%bb%a3%e3%81%ae%e6%9d%be-2,0 3463,馬頭観世音,バトウカンゼオン,"[caption id=""attachment_3464"" align=""aligncenter"" width=""230""] 馬頭観世音[/caption] 建立:大正10(1921)年12月",2020年6月18日,2020年6月18日,http://donan-museums.jp/archives/3463,3464,今金町,,瀬棚郡今金町字花石,明治||大正,明治,碑・像,42.4381218,140.1613007,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/hanaishibatokannon.jpg,hanaishibatokannon.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/hanaishibatokannon.jpg,3464,馬頭観世音,馬頭観世音,馬頭観世音,馬頭観世音,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e4%b8%96%e9%9f%b3,0 3466,鈴木幾太郎翁記念碑,スズキイクタロウオウキネンヒ,"[caption id=""attachment_3467"" align=""aligncenter"" width=""227""] 記念碑[/caption] 金原地区の開拓功労者・鈴木幾太郎の碑 建立:昭和5(1930)年5月 鈴木は明治3(1870)年、静岡県浜名郡長土村の生まれ。かねて北門開拓の志をもっていたところ、金原明善にその人物・力量を見込まれ、この地区の管理運営を任せられた。明治30(1897)年に伊勢・尾張から48戸の入植者を移住させたが、洪水や霜害・虫害などに見舞われ、開拓は困難を極めた。幾多の困苦と窮乏に堪え、一大農場を建設するに至ったのは、鈴木幾太郎の高遠なる理想と資性温厚篤実しかも堅忍不抜の賜であり、地域の発展に寄与した功績は大なるものであった。その功績を讃えるため、金原地区住民により建てられた。",2020年6月18日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/3466,3467,今金町,,瀬棚郡今金町字金原 金原神社境内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4051819,139.9827118,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","宇宙ノ森羅萬象統テ素因アリ南金原ノ字名亦故金原明善翁ニ私淑セルモノニシテ遂ニソノ姓ニ因縁ス 今ヲ去ル明治三十年三月鈴木幾太郎君ハ金原翁ノ熱誠ナル協賛ト其ノ資ヲ受ケ伊勢尾張ヨリ四十八戸ノ移住ヲ慫慂シ以テ熊羆ノ棲息スル原始林ノ開拓ニ志シ農民ノ努力ト相俟テ拮据経営ト幾多ノ困苦ト窮乏トニ堪ヘ得テ一大農場ヲ建設スルニ至ル 今ヤ戸数百二十戸ヲ算シ土木産業教育ノ施設等悉ク共存同栄ノ範ニ則リ比隣ノ羨望ヲ受クル所タリ是即チ翁ノ高遠ナル理想ト資性温厚篤実ナル鈴木君ノ堅忍不抜ノ賜ニシテ邦家ノ福利ニ寄与スルコト蓋シ甚大ナリ翁没後令孫己三郎君其ノ意思ヲ継承シ鈴木君ト戮力尚ホ今後ノ進展ヲ尽シツツアリ依テ茲ニ之ヲ記念トス 云爾 昭和五年五月 篆額撰文 大戸寧堂先生",,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kimparajinjyasuzuki.jpg,kimparajinjyasuzuki.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kimparajinjyasuzuki.jpg,3467,記念碑,記念碑,記念碑,記念碑,%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3470,服部圓太郎頌徳碑,ハットリエンタロウショウトクヒ,"[caption id=""attachment_3478"" align=""aligncenter"" width=""211""] 頌徳碑[/caption] 建立:昭和21(1946)年10月",2020年6月18日,2020年11月19日,http://donan-museums.jp/archives/3470,3478,今金町,,瀬棚郡今金町字金原 金原神社境内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.4049759,139.9828644,服部は明治8年、愛知県海部郡十四村に生まれ、明治36(1961)年に利別村金原に入植。以来、農業を経営する傍ら金原地区や利別村の要職を歴任し、常に地域を巡回して各戸と村役場との協調を図った。公正なる意見をもち住民の信頼も厚く、自治行政の発展に大きく貢献した。その服部の功績を讃えるため、金原・鈴金住民一同が建立したもの。,,,,,,"Suehirocho, Hokkaido, 049-4315, JP","服部円太郎氏ハ愛知県ノ人ナリ 明治三十六年四月金原ニ移住セシヨリ恙ニ辛酸ヲ嘗メ荒無地ヲ拓キ、又屡々聨合会長ニ選バレ部落ノ発展ニ畫瘁セリ、時ニ自作農創設ニ当ツテハ金原明善、鈴木幾太郎両翁ノ意思ヲ継ギ寝食ヲ忘レテ奔走シ遂ニ小作地千町歩ノ開放ヲ完成セリ 今開村五十周年記念ヲ迎ヘ自作農創設セラルルニ当リ部落民相謀リ茲に徳ヲ頌シ其ノ功績ヲ不朽ニ伝ヘン為頌徳碑ヲ建テシ所ナリ 昭和二十一年十月 金原・鈴金部落一同 後藤仙南 謹書",,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/kimparohattorientaro.jpg,kimparohattorientaro.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/kimparohattorientaro.jpg,3478,頌徳碑,頌徳碑,頌徳碑,頌徳碑,%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91,0 3473,木霊謝恩塔,コダマシャオントウ,"[caption id=""attachment_3474"" align=""aligncenter"" width=""200""] 木霊謝恩塔[/caption] 建立:昭和23(1948)年5月12日 今金町森林組合が建立したもので、当初は木碑だったが、その後昭和43(1968)年に開道百年を記念して石製に建て替えられた",2020年6月18日,2020年6月26日,http://donan-museums.jp/archives/3473,3474,今金町,,瀬棚郡今金町字今金 今金八幡神社境内,昭和,昭和,碑・像,42.4307022,140.0119781,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,今金八幡宮御鎮座百年記念誌(1996年発行),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/mokureisyaonhi.jpg,mokureisyaonhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/mokureisyaonhi.jpg,3474,木霊謝恩塔,木霊謝恩塔,木霊謝恩塔,木霊謝恩塔,%e6%9c%a8%e9%9c%8a%e8%ac%9d%e6%81%a9%e5%a1%94,0 3486,豊田開基百年記念碑,トヨタカイキヒャクネンキネンヒ,"[caption id=""attachment_3487"" align=""aligncenter"" width=""245""] 豊田開基百年記念碑[/caption] 建立:平成7(1995)年11月",2020年6月18日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/3486,3487,今金町,,瀬棚郡今金町字豊田 豊田神社境内,平成,明治||大正||昭和||平成,碑・像,42.4052620,139.9475250,,,,,,,"Kitahiyamaku Futoro, Hokkaido, 049-4517, JP","(裏面) 風雪洪水にみまわれながら荒々とした地に 明治二十八年四月 開拓の鍬を入れて 百年の年月を迎え 先人を労い 記念碑を建てる 平成七年十一月吉日 豊田開基百周年記念協賛会 会長 庫元成一・会員一同建立",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/toyotahyakunenhi.jpg,toyotahyakunenhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/toyotahyakunenhi.jpg,3487,開基百年,開基百年,開基百年,開基百年,%e9%96%8b%e5%9f%ba%e7%99%be%e5%b9%b4,0 3489,後藤寅之助頌徳碑,ゴドウトラノスケショウトクヒ,"[caption id=""attachment_3493"" align=""aligncenter"" width=""213""] 後藤寅之助頌徳碑[/caption] 後藤寅之助の頌徳碑。 建立:昭和21(1946)年10月 後藤は慶応元(1865)年宮城県名取郡中田村に生まれ、明治16(1883)年郷里において小学校教員として教鞭をとっていたが、北海道開拓を志し、明治35(1902)年に渡道。利別村を永住の地と定め、現在の金原小学校にあたる第五利別尋常小学校長を拝命。以来27年間にわたり同校で教鞭をとり退職した。この間、各種教育専門職を兼任し、寝食を忘れて子弟の教育にあたった。また利別村村会議員を3期務めるなど、地域社会の発展に貢献した。",2020年6月19日,2020年11月19日,http://donan-museums.jp/archives/3489,3493,今金町,,瀬棚郡今金町字金原 旧金原小学校敷地内,昭和,明治||大正||昭和,碑・像,42.3923531,139.9807434,,,,,,,"Tashiro, Hokkaido, 049-4331, JP","後藤寅之助翁ハ宮城県ノ人ナリ、明治三十五年三月、金原小学校ノ初代校長トシテ赴任以来二十八年間、身ノ栄達ヲ顧リミズ只管子弟教育ニ専念シ部落教科ニ挺身セリ、又退職後ハ村会議員、学務委員等ノ公職ニ選バレ村治ノ発展ニ貢献スルコト頗ル大ナリ、今ヤ翁ノ薫陶ヲ受ケ人ト為リタル者祖父子孫ノ四代ニ亘リ其ノ成果ハ宛然トシテ部落ノ文化ノ淵源ヲ為セリ、今開校四十五周年、開村五十周年記念ヲ迎フルニ当リ翁ノ偉業ヲ景仰スルヤ切ナリ 茲ニ同窓会並ニ部落民相謀リ頌徳碑ヲ建設スル所以ナリ 昭和二十一年十月 冨田青芳 書文",,,改訂今金町史(上巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/gototoranosukea.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/gototoranosuke.jpg,gototoranosukea.jpg||gototoranosuke.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/gototoranosukea.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/gototoranosuke.jpg,3493||3490,頌徳碑||頌徳碑,頌徳碑||頌徳碑,頌徳碑||頌徳碑,頌徳碑||頌徳碑,%e9%a0%8c%e5%be%b3%e7%a2%91-2,0 3496,記念碑,キネンヒ,"[caption id=""attachment_3497"" align=""aligncenter"" width=""180""] 記念碑[/caption] 種川地区の開拓功労者・加藤政之助(かとうまさのすけ)の碑 建立:明治41(1908)年3月、その後老朽化に伴い昭和46(1971)年8月建替え",2020年6月19日,2020年11月19日,http://donan-museums.jp/archives/3496,3497,今金町,,瀬棚郡今金町字種川,明治||昭和,明治,碑・像,42.4205399,140.0690613,"種川部落は元埼玉県人によって開拓され、埼玉部落ともいわれ町内でも畜産、養蚕、馬鈴薯づくりの盛んなところでもあった。これらは加藤政之助、加藤勘助、角田真平三翁のたゆみない努力のあらわれである。明治25(1892)年加藤政之助ら数名が本道開発を試み利別原野に足を踏み入れ、犬養毅の貸付地を道庁に計りその権利を継承、北海道拓殖組合を創立し開墾に着手したものである。明治28(1895)年加藤勘助氏は実兄の政之助や角田真平両氏に謀り三人共同で拓殖事業を進め、勘助はその経営や道路開削の任に当たった。さらに三翁は同県から同志を呼び寄せる一方、離散を希望する組合員の出資を賠償してその権利を継承、果樹、桑樹の栽培、家畜の飼養のほか養蚕の奨励や馬鈴薯の栽培を働きかけ、澱粉の製造をはじめ専心農業の発達を図った。約15年間にして貸与地の所有権を取得、開拓者に配分して現在の種川部落の発展を図ったものである。 参考文献「広報いまかね」第101号(1967年1月発行)",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","(正面) 記念碑 明治二五年埼玉県の有志加藤政之助外数名、北海道巡視の途次開墾せんと欲し、荊棘を分けて深く利別原野に入る、時に此の地は犬養毅外数名の貸下地に属す道長官北垣國道の勧誘に依り其の権利を継承して開墾せんことを決意し帰県後同志を糾合して北海道拓殖組合を創立し、明治二六年より此の地の開墾に着手せり、爾来一五星霜の間、移住者を勧誘し開墾に従事せるも経費多く重ねて収入之に伴わず組合員此の地離散を希望する者踵を接して出す、加藤政之助、角田真平、加藤勘助の三者、一〇年の苦心を一朝水泡に帰せしむることを憂い、三七年他の組合員の出資を賠償し、その権利を継承す、明治四〇年に至り業成りて貸下地全部の所有権を付与せり、是れ埼玉県移住民の拮据勉励の力に待つ所多し、故に約に従い地を割きて住民に分与する茲に住民等資を醵し碑を建て此の事蹟を後世に伝えんと欲し、余に其の文を嘱す、此の地開墾の事歴を略記し其の需に応ず。 明治四一年春三月 勲四等衆議院議員 加藤政之助謹書 (裏面) 本記念碑は明治四十一年三月吉日、先人の輝かしい偉業を後世に伝えるため、部落の有志によって建立したものであるが、爾来、風雪による腐蝕甚だしく、ここに部落民の総意により、先人の労苦を再認識し、併せてその偉業を永遠に継承するため建立したものである。 昭和四十六年八月五日 種川連合部落会",,,,,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/06/tanekawakinenhi.jpg,tanekawakinenhi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/06/tanekawakinenhi.jpg,3497,記念碑,記念碑,記念碑,記念碑,%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91-2,0 3499,日進開基五十周年記念碑,ニッシンカイキゴジュッシュウネンキネンヒ,"
[caption id=""attachment_3500"" align=""aligncenter"" width=""155""] 開基五十周年記念碑[/caption]
日進地区の開拓50年記念碑
建立:昭和35(1960)年
乙部町史(2001)下巻P587
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/忠魂碑宮の森.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/忠魂碑宮の森.jpg,4006,忠魂碑(宮の森),,,,%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91-4,0 3688,館崎遺跡,タテサキイセキ,"縄文時代前期後葉~中期中葉、後期前葉の集落です。 盛土遺構、竪穴住居跡、墓、土坑、柱穴、焼土などが複雑に重なり合って検出されたほか、国内最大級の岩偶、長野県霧ヶ峰産の黒曜石を使用した石鏃等が出土しています。",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3688,,福島町,,,縄文,縄文,歴史,41.4429817,140.2322998,,,,,,,"Miyama, Hokkaido, 049-1453, JP",,,,,cc-by,matsumaejo,,,,,,,,,,%e9%a4%a8%e5%b4%8e%e9%81%ba%e8%b7%a1,0 3697,辨開凧次郎生誕の地,ベンカイタコジロウセイタンノチ,"[caption id=""attachment_3727"" align=""aligncenter"" width=""300""] 辨開凧次郎生誕の地看板[/caption] [caption id=""attachment_3728"" align=""aligncenter"" width=""300""] 辨開凧次郎生誕の地風景[/caption]",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3697,3727,八雲町,八雲地区,,平成,近世,歴史,42.1919098,140.4166260,"アイヌ名イカシパは弘化4(1847)年、この落部の地で誕生しました。 明治22(1869)年には、22歳の若さにして落部コタンの長となり、明治33(1900)年に、皇太子殿下(後の大正天皇)の結婚を奉祝し、子熊2頭を献上し、感謝の証として御所の松ほか多くの御下賜品を受けました。 明治35(1902)年1月、青森歩兵第5連隊八甲田山行軍訓練での遭難事件でアイヌ民族捜索隊を編成し、目覚ましい活躍をされました。 大正8(1919)年、73歳で黒松内町の地にて没しました。 2010(平成22)年製作・設置「辨開凧次郎」研究会",,,,,,"Otoshibe, Hokkaido, 049-2562, JP",,,,2010(平成22)年製作・設置「辨開凧次郎」研究会,cc-by,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0268.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0269.jpg,DSC_0268.jpg||DSC_0269.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0268.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0269.jpg,3727||3728,辨開凧次郎生誕の地看板||辨開凧次郎生誕の地風景,辨開凧次郎生誕の地看板||辨開凧次郎生誕の地風景,辨開凧次郎生誕の地看板||辨開凧次郎生誕の地風景,辨開凧次郎生誕の地看板||辨開凧次郎生誕の地風景,%e8%be%a8%e9%96%8b%e5%87%a7%e6%ac%a1%e9%83%8e%e7%94%9f%e8%aa%95%e3%81%ae%e5%9c%b0,0 3711,「継業」の碑,「ケイギョウ」ノヒ,"高さ130cm幅230cm 乙部町民会館前の花壇内にある。 昭和54年(1979)の開町100周年記念事業の一環として翌55年に石碑建立計画が立案された。当初碑名は公募されたが、元教育大学教諭に依頼し「継業」と決定した。石材には千岱野(せんだいの)地区で発見されたものを使用し、題字は豊浜地区の麓嘉幸氏に依頼した。同55年11月3日に除幕式挙行。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3711,4010,乙部町,,爾志郡乙部町字館浦,昭和,昭和,碑・像,41.9743538,140.1373901,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P588
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/継業の碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/名馬越之浦の碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/姫川開拓碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/悲恋塚.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/千岱野獣魂碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/森影坂の碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/山津波犠牲者慰霊碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/三ツ谷龍神岩.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/皇軍忠魂紀念碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/庚申塚0.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/元和開田記念碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/魚魂の碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/海難犠牲者慰霊碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田七十周年記念碑.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田記念碑.jpg,.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||0.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg||.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/継業の碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/名馬越之浦の碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/姫川開拓碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/悲恋塚.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/千岱野獣魂碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/森影坂の碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/山津波犠牲者慰霊碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/三ツ谷龍神岩.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/皇軍忠魂紀念碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/庚申塚0.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/元和開田記念碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/魚魂の碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/海難犠牲者慰霊碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田七十周年記念碑.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田記念碑.jpg,4010||4028||4027||4026||4025||4024||4023||4022||4021||4020||4019||4018||4017||4016||4015,継業の碑||名馬越之浦の碑||姫川開拓碑||悲恋塚||千岱野獣魂碑||森影坂の碑||山津波犠牲者慰霊碑||三ツ谷龍神岩||皇軍忠魂紀念碑||庚申塚0||元和開田記念碑||魚魂の碑||海難犠牲者慰霊碑||栄浜開田七十周年記念碑||栄浜開田記念碑,,,,%e3%80%8c%e7%b6%99%e6%a5%ad%e3%80%8d%e3%81%ae%e7%a2%91,0 3713,荻野吟子顕彰碑,オギノギンコケンショウヒ,"",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3713,,せたな町,瀬棚地区,久遠郡せたな町瀬棚区本町,昭和,明治,碑・像,42.4486542,139.8518829,1967(昭和42)年、明治の黎明期の北部北檜山の医療・厚生・文化の向上に尽くされた偉業を永く後世に伝えるために、開道100年の記念事業として建立した。刻まれている碑文は吟子女史愛唱の聖句。,,,,,,"Kitahiyamaku Tokushima, Hokkaido, 049-4512, JP",,,,,cc-by,setana,,,,,,,,,,%e8%8d%bb%e9%87%8e%e5%90%9f%e5%ad%90%e9%a1%95%e5%bd%b0%e7%a2%91,0 3721,せたな町生涯学習センター,セタナチョウショウガイガクシュウセンター,"",2020年7月30日,2020年9月7日,http://donan-museums.jp/archives/3721,3720,せたな町,瀬棚地区,久遠郡せたな町瀬棚区本町651,,縄文||続縄文||擦文||中世||近世||明治||大正||昭和,博物館等の施設,42.4537773,139.8542175,"旧瀬棚商業高等学校を改修し、瀬棚郷土館・瀬棚図書センター・学童保育所の三つの施設の複合施設として2018年に開館。南川遺跡から出土した道指定有形文化財「南川遺跡出土の遺物」をはじめ、町指定有形文化財「公許女医第1号の荻野吟子女史の遺品・資料」や旧瀬棚線関係資料、鰊漁で使用した漁具など、せたな町の歴史を伝える文化財を見学することができます。 電話番号:0137-84-3901 開館時間:9:00~17:00 休 館 日:月曜日、祝日の翌日、年末年始(12月31日~1月5日) 駐 車 場:あり",,,,,,"Kitahiyamaku Futoro, Hokkaido, 049-4517, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/IMGP7702.jpg,IMGP7702.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/IMGP7702.jpg,3720,IMGP7702,,,,%e3%81%9b%e3%81%9f%e3%81%aa%e7%94%ba%e7%94%9f%e6%b6%af%e5%ad%a6%e7%bf%92%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc,0 3730,悲恋塚,ヒレンヅカ,"高さ160cm幅68cm 館浦(たてうら)地区「館の岬(たてのみさき)トンネル」南側手前国道沿い山側にある。 江戸時代鯡(ニシン)漁で働いていた若者丹波与作とお岩の悲恋伝説があり、後世まで伝えるために昭和45年(1970)11月29日に丹波節(たんばぶし)保存会を中心として石碑が建立された。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3730,4026,乙部町,,爾志郡乙部町字館浦,昭和,近世,碑・像,41.9777145,140.1326447,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P588
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/悲恋塚.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/悲恋塚.jpg,4026,悲恋塚,,,,%e6%82%b2%e6%81%8b%e5%a1%9a,0 3733,蝦夷地・和人地の境跡標柱,エゾチワジンチノサカイアト,"[caption id=""attachment_3779"" align=""aligncenter"" width=""300""] 蝦夷地・和人地の境跡標柱[/caption] [caption id=""attachment_3781"" align=""aligncenter"" width=""300""] 標柱と境川(山側)[/caption] [caption id=""attachment_3780"" align=""aligncenter"" width=""300""] 境川河口[/caption]",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3733,3779,八雲町,八雲地区,,平成,近世,歴史,42.2267990,140.3390503,,,,,,,"Yamakoshi, Hokkaido, 049-2671, JP",野田追場所と遊楽部場所の境であったこの所は、享和元年(1801)に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇場所が村並となったのにともなって定められた、江戸時代の蝦夷地と和人地の境です。,,,,cc-by,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1129.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1136.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1133.jpg,DSC_1129.jpg||DSC_1136.jpg||DSC_1133.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1129.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1136.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1133.jpg,3779||3781||3780,蝦夷地・和人地の境跡標柱||標柱と境川(山側)||境川河口,蝦夷地・和人地の境跡標柱||標柱と境川(山側)||境川河口,蝦夷地・和人地の境跡標柱||標柱と境川(山側)||境川河口,蝦夷地・和人地の境跡標柱||標柱と境川(山側)||境川河口,%e8%9d%a6%e5%a4%b7%e5%9c%b0%e3%83%bb%e5%92%8c%e4%ba%ba%e5%9c%b0%e3%81%ae%e5%a2%83%e8%b7%a1%e6%a8%99%e6%9f%b1,0 3734,姫川開拓碑,ヒメカワカイタクヒ,"高さ189cm幅76cm 姫川(ひめかわ)ふれあいセンター敷地内にある。 姫川(ひめかわ)地区はとくに明治時代以降、開進社第二会所などによって農業・馬産地帯として開かれていった。その功績を記念し、姫川青年団の手によって昭和24年(1949)11月3日に建立された。なお、石碑台座前面には姫川開拓の略歴が記されている。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3734,4027,乙部町,,爾志郡乙部町字姫川,昭和,明治,碑・像,41.9681816,140.1876984,,,,,,,"Shiomi, Hokkaido, 043-0233, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P589
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/姫川開拓碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/姫川開拓碑.jpg,4027,姫川開拓碑,,,,%e5%a7%ab%e5%b7%9d%e9%96%8b%e6%8b%93%e7%a2%91,0 3743,名馬越之浦の碑,メイバコシノウラノヒ,"高さ86cm幅48cm 字姫川(ひめかわ)千岱野(せんだいの)地区茅森山(かやもりやま)の上にある。 越之浦(こしのうら)は青森県七戸で生まれ、当初七重(ななえ)種畜場・大川牧場で飼養されていた青毛牝馬で、明治14年(1881)明治天皇北海道行幸の際にお召し馬となった。その後は千岱野の千岱野牧場(通称「品川牧場」)に引き取られ同37年(1904)2月18日に死亡した。この石碑はそれを悼んで牧場主の品川彌一子爵(品川彌二郎の息子)の指示によって建てられたが、建立時期は明治40年前後ではないかと推測されるが定かではない。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3743,4028,乙部町,,爾志郡乙部町字姫川(千岱野),明治,明治,碑・像,41.9804001,140.2122345,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P589
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/名馬越之浦の碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/名馬越之浦の碑.jpg,4028,名馬越之浦の碑,,,,%e5%90%8d%e9%a6%ac%e8%b6%8a%e4%b9%8b%e6%b5%a6%e3%81%ae%e7%a2%91,0 3746,せたな町情報センター,セタナチョウジョウホウセンター,"",2020年7月30日,2020年9月7日,http://donan-museums.jp/archives/3746,3745,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町瀬棚区本町651,,縄文||擦文||中世||近世||明治||大正||昭和,博物館等の施設,42.4147263,139.8759460,"町指定有形文化財「青い目の人形」、「明珍信家作の筋兜」、「阿波浄瑠璃人形」をはじめ、町内の遺跡から出土した土器や石器、開拓期の生活用具、旧瀬棚線の資料など、せたな町の歴史を伝える文化財を見学することが出来ます。 電話番号:0137-84-5342 開館時間:【4月~10月 10:00~19:00】、【11月~3月 10:00~18:00】 休 館 日:月曜日、祝日の翌日、年末年始(12月31日~1月5日) 駐 車 場:あり",,,,,,"Kitahiyamaku Tokushima, Hokkaido, 049-4512, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/情報センター(北檜山区)外観-斜正面FF-1.jpg,-斜正面FF-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/情報センター(北檜山区)外観-斜正面FF-1.jpg,3745,情報センター(北檜山区)外観-斜正面FF-1,,,,%e3%81%9b%e3%81%9f%e3%81%aa%e7%94%ba%e6%83%85%e5%a0%b1%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc,0 3768,日本公許女医第1号荻野吟子開業の跡,ニホンコウキョジョイダイイチゴウオギノギンコカイギョウノアト,"",2020年7月30日,2020年9月14日,http://donan-museums.jp/archives/3768,3766,せたな町,瀬棚地区,久遠郡せたな町瀬棚区本町,昭和,明治,碑・像,42.4543114,139.8523560,1897(明治30)年、日本公許女医第1号である荻野吟子女史が旧瀬棚村で「荻野医院」を開業した跡地の記念碑。碑文は制作年代は不確かだが、養女の竹ノ谷トミ氏からの聞き取りによると、よく口ずさんでいたようである。,,,,,,"Kitahiyamaku Futoro, Hokkaido, 049-4517, JP","セタナイの八景 明治の橋の夜の雨 二見が浦に夕日さす 掛澗に宿る帆掛船 利別に落つる雁 事比羅さんの秋の月 はるかに見ゆる狩場山 雲か雪かのうたがひも 晴れて嬉しや大谷地のあらし 隠林寺にぼんと撞く暮の鐘 吟子作詞",,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/-1-e1596081221750.jpg,-1-e1596081221750.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/-1-e1596081221750.jpg,3766,"荻野吟子開業碑 (1)",,,,%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%ac%e8%a8%b1%e5%a5%b3%e5%8c%bb%e7%ac%ac1%e5%8f%b7%e8%8d%bb%e9%87%8e%e5%90%9f%e5%ad%90%e9%96%8b%e6%a5%ad%e3%81%ae%e8%b7%a1,0 3778,獣魂碑,ジュウコンヒ,"高さ128cm、幅65cm。字姫川(ひめかわ)千岱野(せんだいの)地区の茅森山(かやもりやま)の上にある。 千岱野地区には昭和5年(1930)頃まで馬産を主とした千岱野牧場(通称品川牧場)があり、のちに一般農民へ開放され、馬耕により開拓が行われた。そのため、愛馬たちの霊を慰めるために、千岱野農事実行組合によって昭和22年(1947)7月7日に建立された。 千岱野地区での聞き取り調査によると、昭和30年(1955)頃から「馬頭(ばとう)さんの祭り」と称して5月の連休ごろに、名馬越之浦(こしのうら)と家畜の供養をしている。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3778,4025,乙部町,,爾志郡乙部町字姫川(千岱野),昭和,明治||大正||昭和,碑・像,41.9802666,140.2119141,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P590
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/千岱野獣魂碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/千岱野獣魂碑.jpg,4025,千岱野獣魂碑,,,,%e7%8d%a3%e9%ad%82%e7%a2%91,0 3788,栄浜開田七十周年記念碑,サカエハマカイデンナナジュッシュウネンキネンヒ,"高さ109cm、幅36cm。栄浜八幡神社境内にある。 栄浜(さかえはま)地区は明治中ごろまで鯡(ニシン)漁で生計を立ててきたが、だんだんと不漁が続くようになり絶えてしまった。それに代わる生活の糧として水田開削を明治34年(1901)から始め、のちに3本の用水路(「野の用水」「突符(とっぷ・別名大川)用水」「来拝(らいはい)用水」)からなる3つの水田地帯がある。この功績を称え、開田七十周年を記念して昭和48年(1973)11月に建立された。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3788,4016,乙部町,,爾志郡乙部町字栄浜,,,碑・像,42.0022697,140.1231995,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P590
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田七十周年記念碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田七十周年記念碑.jpg,4016,栄浜開田七十周年記念碑,,,,%e6%a0%84%e6%b5%9c%e9%96%8b%e7%94%b0%e4%b8%83%e5%8d%81%e5%91%a8%e5%b9%b4%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3798,丹羽五郎翁像,ニワゴロウオウゾウ,"",2020年7月30日,2020年9月14日,http://donan-museums.jp/archives/3798,3802,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区丹羽,昭和,近世||明治||大正,碑・像,42.4331589,139.9316711,"1961(昭和36)年丹羽開基70周年記念事業として、丹羽村創立者丹羽五郎翁の胸像が建立され、同年9月6日その除幕式が行われた。 「丹羽五郎翁像」の文字は、当時の北海道知事 町村金吾氏の書。",,,,,,"Kitahiyamaku Kitahiyama, Hokkaido, 049-4501, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/IMG_1438-e1596083754696.jpg,IMG_1438-e1596083754696.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/IMG_1438-e1596083754696.jpg,3802,IMG_1438,,,,%e4%b8%b9%e7%be%bd%e4%ba%94%e9%83%8e%e7%bf%81%e5%83%8f,0 3803,栄浜開田記念碑,サカエハマカイデンキネンヒ,"高さ111cm、幅61cm。栄浜八幡神社境内にある。 栄浜(さかえはま)地区では昭和23年(1948)に新たな水田地帯開削のため来拝川(らいはいがわ)から1kmあまりの灌漑溝(かんがいこう・用水路)工事が行われ、翌24年5月20日に完成した。同25年には用水路に堤を築き、同27年には温水溜池を完成させた。 この石碑は、その灌漑溝工事5周年を記念して、昭和28年(1953)10月に建立された。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3803,4015,乙部町,,爾志郡乙部町字栄浜,,,碑・像,42.0023041,140.1230927,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P591
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田記念碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/栄浜開田記念碑.jpg,4015,栄浜開田記念碑,,,,%e6%a0%84%e6%b5%9c%e9%96%8b%e7%94%b0%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3809,アッサブクジラ化石産出地点,アッサブクジラカセキサンシュツチテン," 昭和15年(1940)ごろ、厚沢部川支流、佐助沢の川底で発見されました。化石の多くはまだ岩盤の中に埋まったままです。 発掘された化石からは下顎骨、胸椎、肋骨、肩甲骨、上腕骨、橈(とう)骨、尺骨、手根骨などが確認されています。骨格からはヒゲクジラのものと推定されますが、決め手となるアッサブクジラの頭部は岩盤中に埋もれたままです。 化石の産出した地層の時代は600~700万年前の中新世後期と考えられています。北海道内では、この時代のヒゲクジラ化石の産出例は淑なく、アッサブクジラは貴重な標本です。この化石の研究が進むことで、日本近海でのクジラの生態ばかりでなく、世界のクジラの進化や系統を考えるうえでも貴重な情報を手に入れることができると期待されています。",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3809,3820,厚沢部町,,,,,自然,41.8615570,140.3967285,,,,,,,"Ichinowatari, Hokkaido, 041-1242, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/pic54.jpg,pic54.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/pic54.jpg,3820,アッサブクジラ産出地点,,,,%e3%82%a2%e3%83%83%e3%82%b5%e3%83%96%e3%82%af%e3%82%b8%e3%83%a9%e5%8c%96%e7%9f%b3%e7%94%a3%e5%87%ba%e5%9c%b0%e7%82%b9,0 3812,会津白虎隊玉川遥拝所,アイヅビャッコタイタマガワヨウハイジョ,"",2020年7月30日,2020年9月14日,http://donan-museums.jp/archives/3812,3813,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区丹羽,大正,近世,歴史,42.4340363,139.9297333,会津藩士であった丹羽五郎は飯盛山に散った少年白虎隊19名の霊を郷里若松の地にあるが如く、祖先を祀る敬心から1924(大正13)年7月、この地に白虎隊遥拝所を建立した。現在の遥拝所は1971(昭和46)年11月20日、丹羽開基80周年事業として修復工事を行った。,,,,,,"Kitahiyamaku Tokushima, Hokkaido, 049-4512, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/IMG_1434.jpg,IMG_1434.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/IMG_1434.jpg,3813,IMG_1434,,,,%e4%bc%9a%e6%b4%a5%e7%99%bd%e8%99%8e%e9%9a%8a%e7%8e%89%e5%b7%9d%e9%81%a5%e6%8b%9d%e6%89%80,0 3814,皇軍忠魂碑,コウグンチュウコンヒ,"高さ111cm、幅80cm。栄浜八幡神社境内にある。 明治37年(1904)翌38年の日露戦争には村内から複数が出征し、このうち4人(現栄浜(さかえはま)地区と三ツ谷(みつや)地区)の戦病死者がでた。霊を慰めるため、明治42年(1909)10月に権現山(ごんげんやま・現栄浜小学校グラウンド付近)の頂に建立された。昭和34年(1959)、権現山が砂鉄採取のため切り崩されることとなったので、現在の位置に移された。",2020年7月30日,2020年8月6日,http://donan-museums.jp/archives/3814,,乙部町,,爾志郡乙部町字栄浜,,,碑・像,42.0022850,140.1231689,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P591
,,kumaishi,,,,,,,,,,%e7%9a%87%e8%bb%8d%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91,0 3824,函館戦争陣地跡看板,ハコダテセンソウジンチアトカンバン,"[caption id=""attachment_3866"" align=""aligncenter"" width=""300""] 函館戦争陣地跡説明看板[/caption]",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3824,3866,八雲町,八雲地区,八雲町落部入沢,明治,平成,歴史,42.1798859,140.4038086,説明看板は道路沿いにありますが、函館戦争当時の道は山側に存在しており、陣地跡も山中に存在しています。,,,,,,"Otoshibe, Hokkaido, 049-2562, JP",,"海軍副総裁榎本武揚は、艦隊を率いて脱走し、松島湾から陸軍奉行大鳥圭介、新撰組副長土方歳三、その他合わせて二千五百余の兵を乗せ、明治元(一八六八)年十月二十日鷲ノ木村に上陸し、ただちに五稜郭に向かって進撃するとともに、新撰組分隊を派遣して落部村から長万部村まで占領しました。 翌年明治二年四月、官軍は乙部村へ上陸し、五稜郭の奪還を企て、そのうち一隊に対して、厚沢部村の安野呂から江差越を通り落部村へ進出を命じました。これを知った脱走軍は入沢に於いて迎え撃つため、急遽住民を使い土塁二十数基とその他の陣地を構築して防御を計画しましたが砲三門を擁する三百余の官軍に、少数では勝目がないとみて五月三日いずれかへ退散してしまいました。 この土塁は、今もこの南方の丘陵地帯に昔の面影を残しています。 八雲町教育委員会",,,cc-by,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSCF0833.jpg,DSCF0833.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSCF0833.jpg,3866,函館戦争陣地跡説明看板,函館戦争陣地跡説明看板,函館戦争陣地跡説明看板,函館戦争陣地跡説明看板,%e5%87%bd%e9%a4%a8%e6%88%a6%e4%ba%89%e9%99%a3%e5%9c%b0%e8%b7%a1%e7%9c%8b%e6%9d%bf,0 3830,意養温泉湯元,イヤシナイオンセンユモト," 厚沢部町字上里の俄虫温泉旅館や上里温泉の湯元です。江戸時代から「イヤシナイの湯」として知られています。 弘化3年(1846)に厚沢部川流域の村々を訪れた松浦武四郎は意養温泉について、「温泉には金気が多いこと」、「辺鄙なところにあるため湯治客は少ないこと」などを記しています。 近代にはいると佐藤トミ氏などが温泉宿を経営し、湯治場としてにぎわったそうです。また、明治9年建立の久須志神社があったといわれています。 意養川を挟んだ対岸には「意養鉱山」があります。昭和12年(1937)に発見され、昭和26年ごろまで硫化鉄鉱の採掘がおこなわれていました。3か所に坑道があったといわれていますが、現在はすべてふさがっています。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3830,3833,,,,,近世,歴史,41.9371376,140.2542877,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/pic52.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/pic53.jpg,pic52.jpg||pic53.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/pic52.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/pic53.jpg,3833||3844,意養温泉湯元||pic53,,,,%e6%84%8f%e9%a4%8a%e6%b8%a9%e6%b3%89%e6%b9%af%e5%85%83,0 3832,白符大神宮,シラフダイジングウ,"寛文6年(1666年)松前藩主一族松前美作守景広が創立しました。 例年7月、白符大神宮例大祭において、「杵振舞」「棒振舞」「ヤセヤセ踊」「荒馬踊」からなる「白符荒馬踊」が、地域の若者を中心に演じられています。 ",2020年7月30日,2020年7月31日,http://donan-museums.jp/archives/3832,3850,福島町,,,近世,近世,建造物,41.4657173,140.2462921,,,,,,,"Ikanikeisaiganaibaai, Hokkaido, 049-1300, JP",,,,,,matsumaejo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1028.jpg,DSC_1028.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_1028.jpg,3850,白符大神宮,,,,%e7%99%bd%e7%ac%a6%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae,0 3835,森影坂の碑,モリカゲザカノヒ,"高さ117cm、幅83cm。元和八幡神社の鳥居前左側にある。 現在の元和(げんな)地区町道1号線にあたる道は、明治の中ごろまで人が通るのがやっとの狭くて生活に不便をきたす道であった。明治29年(1896)に地元の有志が募り、250円の自己資金を基に幅約二間(にけん・約3.6m)の道路を開削し、馬やリヤカーも通れるようになった。これを記念して建立されたが、時期は定かではない",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3835,4024,乙部町,,爾志郡乙部町字元和,,,碑・像,42.0096741,140.1061096,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P592
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/森影坂の碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/森影坂の碑.jpg,4024,森影坂の碑,,,,%e6%a3%ae%e5%bd%b1%e5%9d%82%e3%81%ae%e7%a2%91,0 3841,元和開田記念碑,ゲンナカイデンキネンヒ,"高さ110cm、幅38cm。元和八幡神社鳥居前右側にある。 元和(げんな)地区は昭和20年代半ばまで、前浜漁や出稼ぎ漁によって支えられた完全な漁村地帯であった。昭和27年(1952)沿岸凶漁対策と土地改良補助事業を併せて造田計画を立案し可笑内川(おかしないがわ)から総延長8kmの水路を築いた。翌28年にはブルドーザーによる造成を実施し、同29年に水田5町部(約5ヘクタール)が完成した。これを記念して昭和37年(1962)11月に建立された。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3841,4019,乙部町,,爾志郡乙部町字元和,,,碑・像,42.0097275,140.1060181,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P592
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/元和開田記念碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/元和開田記念碑.jpg,4019,元和開田記念碑,,,,%e5%85%83%e5%92%8c%e9%96%8b%e7%94%b0%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 3845,"楠母・孔母・孟母 頌徳碑",ナンボ・コウボ・モウボショウトクヒ," ",2020年8月4日,2020年9月14日,http://donan-museums.jp/archives/3845,3846,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区丹羽,大正,大正,碑・像,42.4278984,139.9338684,丹羽五郎は、理想郷「丹羽村」建設のため必要不可欠な「人づくり」のうち、最も大成な女子の教育に力を注がなければならないと考え、その婦道(女性として守らなければならない道)、婦徳(女性としてそなえるべき徳)、婦功(女性の仕事、妻としてなすべき仕事)等を教えるための施設として女子学寮(通称花嫁学校)を、丹羽家別荘近くに設け、全寮制として運営し教育の効果を高めるよう配慮し、その究極的な理想像として楠母・孔母・孟母の三母の頌徳碑をその庭に建立した。,,,,,,"Kitahiyamaku Kitahiyama, Hokkaido, 049-4501, JP","楠母 孔母 孟母 頌徳碑",,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/楠母・孔母・孟母の頌徳碑晩翠の森.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/楠母・孔母・孟母の頌徳碑晩翠の森.jpg,3846,楠母・孔母・孟母の頌徳碑(晩翠の森),,,,%e6%a5%a0%e6%af%8d%e3%83%bb%e5%ad%94%e6%af%8d%e3%83%bb%e5%ad%9f%e6%af%8d-%e5%85%ac%e5%be%b3%e7%a2%91,0 3855,伊能忠敬翁像,イノウタダタカオキナゾウ,"乙部町史(2001)下巻 P593
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/三ツ谷龍神岩.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/三ツ谷龍神岩.jpg,4022,三ツ谷龍神岩,,,,%e9%be%8d%e7%a5%9e%e7%9f%b3,0 3859,太田の定燈籠,オオタノジョウトウロウ,"",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3859,3860,せたな町,大成地区,久遠郡せたな町大成区太田,近世||昭和,近世,歴史,42.2676888,139.7807007,"1857(安政4)年 建立 1868(明治4)年 浪害により蓋部損壊 1887(明治20)年 燈器部損壊 1983(昭和58)年 破片を発見 1988(昭和63)年 復元 1991(平成3)年 展望施設として整備される 岩内、寿都方面から江差へ物資を運ぶため弁財船が利用されたが、帆越岬沖から尾花岬沖は潮の流れも早く、特に冬期間は強風波浪のため数多くの船が遭難した。 そこで、太田の部落民が相談して、現在の太田神社拝殿全面より20m地点の崖の上に燈台を作り、毎夜部落民が2~3人が交代で、魚油(鮫油)をともしたりして公開の安全を守った。燈籠はどの角度から見ても「太田」の字に見える。 ",,,,,,"Taiseiku Kaitorima, Hokkaido, 043-0515, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/IMGP6828.jpg,IMGP6828.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/IMGP6828.jpg,3860,IMGP6828,,,,%e5%a4%aa%e7%94%b0%e3%81%ae%e5%ae%9a%e7%87%88%e7%b1%a0,0 3863,俄虫鉱山のトロッコ軌道,ガムシコウザンノトロッコキドウ,"乙部町史(2001)下巻 P594
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/魚魂の碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/魚魂の碑.jpg,4018,魚魂の碑,,,,%e9%ad%9a%e9%ad%82%e3%81%ae%e7%a2%91,0 3889,箱館戦争戦歿者之墓,ハコダテセンソウセンボツシャノハカ,"[caption id=""attachment_3903"" align=""aligncenter"" width=""300""] 箱館戦争戦歿者之墓[/caption]",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3889,3903,八雲町,八雲地区,八雲町落部,明治,昭和,碑・像,42.1440697,140.3802185,,,,,,,"Otoshibe, Hokkaido, 049-2562, JP","【正面】箱館戦争戦歿者之墓 【後ろ面】昭和四十五年十月 二代目 林政己 建之 【左側面】戦病死者名 槙 孝次郎 藤原 与右衛門",,,,cc-by,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSCF0838.jpg,DSCF0838.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSCF0838.jpg,3903,箱館戦争戦歿者之墓,箱館戦争戦歿者之墓,箱館戦争戦歿者之墓,箱館戦争戦歿者之墓,%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e6%88%a6%e4%ba%89%e6%88%a6%e6%ad%bf%e8%80%85%e4%b9%8b%e5%a2%93,0 3892,小鶉川の砂岩露頭,," 第四期更新世の前期(約170万年~70万年前)に堆積した地層です。「鶉層」の名称が与えられています。非常にもろく岩石化が進んでいない砂岩です。同じ時期の地層として瀬棚層があります。 この地層の砂の採取が行われており、この場所も砂の採取によって出現した露頭です。 付近は北海道開発局によって立ち入り禁止とされていますので、近づくことは危険です。国道から安全に眺めましょう。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3892,3897,,,,,,未分類,41.9366531,140.3111877,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,,,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/pic56.jpg,pic56.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/pic56.jpg,3897,pic56,,,,%e5%b0%8f%e9%b6%89%e5%b7%9d%e3%81%ae%e7%a0%82%e5%b2%a9%e9%9c%b2%e9%a0%ad,0 3894,後志国久遠・奥尻・太櫓・瀬棚郡役所跡,シリベシコククドウ・オクシリ・フトロ・セタナグンヤクショアト," ",2020年8月3日,2020年9月7日,http://donan-museums.jp/archives/3894,3944,せたな町,大成地区,久遠郡せたな町大成区都386,昭和,明治,碑・像,42.2278786,139.8191833,"1872(明治5)年、函館開拓使庁久遠開拓出張所支庁が設置された。幾多の変遷を経て1880(明治13)年1月1日、この地に久遠・奥尻・太櫓・瀬棚群役所が開庁された。 同郡役所は、行政機能を擁するとともに、警察署業務も所管し積極的に地方自治の確立、産業の振興、民生の安定、教育の発展等に努めた、",,,,,,"Taiseiku Miyano, Hokkaido, 043-0513, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/IMGP8187.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/IMGP8187.jpg,IMGP8187.jpg||IMGP8187.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/IMGP8187.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/IMGP8187.jpg,3944||3895,IMGP8187||IMGP8187,,,,%e5%be%8c%e5%bf%97%e5%9b%bd%e4%b9%85%e9%81%a0%e3%83%bb%e5%a5%a5%e5%b0%bb%e3%83%bb%e5%a4%aa%e6%ab%93%e3%83%bb%e7%80%ac%e6%a3%9a%e9%83%a1%e5%bd%b9%e6%89%80,0 3898,海難犠牲者慰霊碑,カイナンギセイシャイレイヒ,"高さ330cm、幅121cm。花磯(はないそ)地区の波の穏やかな干潮時に行ける(参道あり)岩礁上にある。 この石碑は昭和32年(1957)8月20日に、留萌市居住の佐々木作太郎氏によって建立された。氏は昭和2年(1927)の海難事故で家族を失っており、その霊を弔うために建てた。昭和53年(1978)に同じく海難犠牲者を家族にもつ笹森忠勝氏が周囲の手すりと参道を整備した。現在は7月20日に慰霊祭を行なっている。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3898,4017,乙部町,,爾志郡乙部町字花磯,昭和,昭和,碑・像,42.0432663,140.0836487,,,,,,,,,,,乙部町史(2001)下巻 P594
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/海難犠牲者慰霊碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/海難犠牲者慰霊碑.jpg,4017,海難犠牲者慰霊碑,,,,%e6%b5%b7%e9%9b%a3%e7%8a%a0%e7%89%b2%e8%80%85%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91,0 3904,チロップ館(旧白符小学校),チロップカン(キュウシラフショウガッコウ),"平成20年(2008年)に閉校した白符小学校の校舎を利用して、福島町で明治~昭和に使用されていた漁業や農業に関わる民俗資料や、昔懐かしい昭和のおもちゃや人形のほか、福島町館崎遺跡から出土した土器や剥ぎ取り土層を展示しています。 開館時間 平日 10:00~15:00 土・日・祝日 10:00~16:00 休館日 休館日:火曜日・金曜日(火・金が祝日の場合、その翌日) 【 ※ 12月1日~翌年2月21日まで冬季休館となります】 入場料無料 お問い合わせ 福島町教育委員会生涯学習係 ℡:0139-47-3675",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3904,3911,福島町,,松前郡福島町字白符442,昭和||平成,縄文||中世||近世||明治||大正||昭和||平成,未分類,41.4681664,140.2458801,,,,,,,"Ikanikeisaiganaibaai, Hokkaido, 049-1300, JP",,,,,,matsumaejo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0840.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/P1012285.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0494.jpg,DSC_0840.jpg||P1012285.jpg||DSC_0494.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0840.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/P1012285.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0494.jpg,3911||3916||3913,チロップ館||チロップ館||チロップ館,,,,%e3%83%81%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%97%e9%a4%a8%e6%97%a7%e7%99%bd%e7%ac%a6%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1,0 3907,地鳴りする太鼓山,ジナリスルタイコヤマ," 太鼓山は頂上で足踏みするとドンドンと底鳴りがします。まるで地価が空洞で、太鼓のように感じることからこの名がついたといわれていますが、音が鳴る原因は解明されていません。 太鼓山は古生代(5億5000万年前から2億5000万年前)に形成されたチャートや粘板岩、凝灰岩で形成されていますが、こうした地質学的な特徴と音のなる原因との関わりは不明です。 もともと、太鼓山の遊歩道は「鶉山道」と呼ばれる箱館〜江差間をつなぐ街道の一部で、特に箱館開港の安政年間以降は、江差商人などが道路開削などに務め、整備されてきた歴史があります。明治元年に館城に松前藩主徳広が入城した時には、太鼓山の麓で住民が出迎えたといわれています。「太鼓山」の名称は大正時代に俄虫小学校(現厚沢部小学校)の安藤市兵衛校長が子どもたちと一緒に登山をした際に、「これは太鼓山だ!」と大声で叫んだことが由来だといわれています。
昭和60年に、旧道を利用して遊歩道が整備されました。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3907,3912,厚沢部町,,,,,"未分類,自然",41.9199066,140.2395782,,,,,,,"Tomisato, Hokkaido, 043-1363, JP",,,,,cc-by,assabu,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/f0228071_14240641.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/pic57.jpg,f0228071_14240641.jpg||pic57.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/f0228071_14240641.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/pic57.jpg,3912||3910,f0228071_14240641||pic57,,,,%e5%9c%b0%e9%b3%b4%e3%82%8a%e3%81%99%e3%82%8b%e5%a4%aa%e9%bc%93%e5%b1%b1,0 3908,太櫓の芭蕉塚,フトロノバショウヅカ,"",2020年10月2日,2021年3月22日,http://donan-museums.jp/archives/3908,4243,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区太櫓,中世,中世,碑・像,42.3834343,139.8181458,"1835(天保6)年6月、上ノ国の住人が松尾芭蕉の代表作である「古池や 蛙飛込む 水の音」を石に刻んで地蔵庵(現在の太櫓照光寺)の境内に建立したものである。 縦153㎝、幅53㎝、石は太櫓産の輝石安山岩を用いている。",,,,,,"Kitahiyamaku Tokushima, Hokkaido, 049-4512, JP","表面 「古池や 蛙飛込む 水の音」 芭蕉翁 裏面 (浸食が激しくほとんどが解読不能。解読可能箇所のみ記載) 天保六年 乙末 六月 立之",,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/09/-e1601543938809.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/09/芭蕉塚裏.jpg,-e1601543938809.jpg||.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/09/-e1601543938809.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/09/芭蕉塚裏.jpg,4243||4244,DSC_0433.JPG||DSC_0434.JPG,,,,%e5%a4%aa%e6%ab%93%e3%81%ae%e8%8a%ad%e8%95%89%e5%a1%9a,0 3914,庚申塚,コウシンヅカ,"現在は高さ79cm、幅42cm。豊浜(とよはま)地区と大岩(おおいわ)地区境界付近の国道沿い山側崖中腹にある。 庚申塚(こうしんづか)とは、集落のはずれ(境界)の道端に据えた道祖神の一種で、病や災厄が集落へ入り込まないよう願って、江戸時代に蚊柱(かばしら・現在の豊浜)村と支村の大岩との境界に建てたと推測される。年2回ほど、庚申塚の前や講員の家で庚申講が行われている。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3914,4020,乙部町,,爾志郡乙部町字豊浜,,,碑・像,42.0492706,140.0800476,,,,,,,"Kumaishi Oritocho, Hokkaido, 043-0331, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P595
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/庚申塚0.jpg,0.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/庚申塚0.jpg,4020,庚申塚0,,,,%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%9a-2,0 3915,庚申塚,コウシンヅカ,"",2020年8月3日,2020年8月3日,http://donan-museums.jp/archives/3915,3942,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区兜野,大正,大正,碑・像,42.4070930,139.8475342,"庚申塚とは、路傍などに青面金剛(庚申)を祀ってある塚で、中国の道教の守庚申に由来し、平安時代に伝わり、江戸時代に盛行された信仰の一つである。 使用している石材は兜野周辺でみられる安山岩で高さ70㎝、幅は底部が58㎝、中央部が31㎝、厚さは43㎝。",,,,,,"Kitahiyamaku Futoro, Hokkaido, 049-4517, JP","明治39年10月吉日 ☽日月清明 庚申 〇国家安全 願主 石岡勘助",,,,,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/IMGP6772-e1596417405932.jpg,IMGP6772-e1596417405932.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/IMGP6772-e1596417405932.jpg,3942,IMGP6772,,,,%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%9a-3,0 3921,パノラマロード,パノラマロード,"[caption id=""attachment_3922"" align=""aligncenter"" width=""300""] パノラマロード夏[/caption] [caption id=""attachment_3923"" align=""aligncenter"" width=""300""] パノラマロード冬[/caption]",2020年7月30日,2020年7月30日,http://donan-museums.jp/archives/3921,3922,八雲町,八雲地区,八雲町浜松,平成,平成,自然,42.2267990,140.3147888,"道立公園噴火湾パノラマパークなどから、国道5号へ向かう白樺並木道。 天気がいいと噴火湾(内浦湾)の対岸も見ることができる。",,,,,,"Yamakoshi, Hokkaido, 049-2671, JP",,,,,cc-by,yakumo,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/P1090460-2.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/12月・パノラマロード.jpg,P1090460-2.jpg||12月・パノラマロード.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/P1090460-2.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/12月・パノラマロード.jpg,3922||3923,パノラマロード夏||パノラマロード冬,パノラマロード夏||パノラマロード冬,パノラマロード夏||パノラマロード冬,パノラマロード夏||パノラマロード冬,%e3%83%91%e3%83%8e%e3%83%a9%e3%83%9e%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89,0 3931,山津波犠牲者慰霊碑,ヤマツナミギセイシャイレイヒ,"高さ73cm、幅151cm。花崗岩製。大岩(おおいわ)地区はずれ豊浜トンネル乙部町側国道沿い山側にある。 昔の乙部町豊浜(とよはま)地区と八雲町熊石(やくもちょうくまいし)(旧熊石町・くまいしちょう)相沼(あいぬま)地区間は立待岬(たちまちみさき)を海岸に沿って狭い国道が通っていた。昭和37年(1962)10月17日、当時あった第三号トンネルと第四号トンネル間の崖が大規模な地すべりを起こし、監視中の作業員と偶然通りかかった函館バスをのみ込み、11人が亡くなり3人がいまだに行方不明である。 この慰霊碑は犠牲者の冥福を祈るため、昭和38年現場付近へ建てられたが、同48年(1973)事故の教訓を生かして新しい(現)豊浜トンネルが開通した際に現在位置へ移転した。",2020年7月30日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/3931,4023,乙部町,,爾志郡乙部町字豊浜,,,碑・像,42.0551643,140.0754547,,,,,,,"Kumaishi Ainumacho, Hokkaido, 043-0332, JP",,,,乙部町史(2001)下巻 P595
,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/07/山津波犠牲者慰霊碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/07/山津波犠牲者慰霊碑.jpg,4023,山津波犠牲者慰霊碑,,,,%e5%b1%b1%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e7%8a%a0%e7%89%b2%e8%80%85%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91,0 3980,笹山稲荷神社,,"",2020年8月4日,2020年8月4日,http://donan-museums.jp/archives/3980,3982,,,,,,"建造物,歴史",,,,,,,,,,,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/IMG_2052.jpg,IMG_2052.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/IMG_2052.jpg,3982,IMG_2052,,,,%e7%ac%b9%e5%b1%b1%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 3994,新政府軍の墓所,,"",2020年8月5日,2020年8月5日,http://donan-museums.jp/archives/3994,3995,,,,,,歴史,41.8663330,140.1309357,"明治2年(1869)、箱館戦争で戦死した新政府軍兵士を弔うために設けられた墓所。 明治元年(1868)から明治2年にかけて、新政府軍と旧幕府軍の間で戦われた箱館戦争は新政府軍の勝利で終わった。 この墓所には、新政府軍の戦死者92名が祀られている。 ■松前藩26名 ■長州藩18名 ■備前岡山藩16名 ■周防徳山藩11名 ■備後福山藩9名 ■水戸藩6名 ■弘前藩3名 ■函館府1名 ■筑後久留米藩1名 ■越前大野藩1名 墓碑の正面に藩名・役・名前が、側面に戦死した年月日と場所が刻まれている(写真は、松前藩軍事方三上超順の墓)。",,,,,,"Mukaihama, Hokkaido, 049-0613, JP",,,,,,esashi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/IMG_1579.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/IMG_7933.jpg,IMG_1579.jpg||IMG_7933.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/IMG_1579.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/IMG_7933.jpg,3995||3996,IMG_1579||IMG_7933,,,,%e6%96%b0%e6%94%bf%e5%ba%9c%e8%bb%8d%e3%81%ae%e5%a2%93%e6%89%80,0 4080,ななえの大トチノキ,ナナエノオオトチノキ,"[caption id=""attachment_4079"" align=""alignnone"" width=""300""] ななえの大トチノキ[/caption] 樹齢300年を超えると考えられるトチノキ。高さ約20m、胸高径約2m。幹の根本には人が通れる大きさの空洞がある。1997年に町道施工計画があがり、移植・伐採が検討されたが「七飯の大トチノキと森を守る会」が発足し保護をうったえたこともあり、現在もそのままの様相で残されている。",2020年8月11日,2020年8月11日,http://donan-museums.jp/archives/4080,4079,七飯町,中央部地区,北海道亀田郡七飯町字桜町,明治,明治,自然,41.9017563,140.6993561,,,,,,,"Sakuracho, Hokkaido, 041-1105, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/003.jpg,003.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/003.jpg,4079,003,ななえの大トチノキ,,,%e3%81%aa%e3%81%aa%e3%81%88%e3%81%ae%e5%a4%a7%e3%83%88%e3%83%81%e3%83%8e%e3%82%ad,0 4083,赤松並木,アカマツナミキ," 現在の国道5号線の両脇には、約1,400本の赤松が植栽され、通る人々の目を楽しませている。この道路は、日本初の西洋馬車道として、明治5年に開拓使が開削し、翌6年に開通したものである。明治9年の天皇行幸を記念して、七重御薬園時代から育ててきた松・杉・檜などの苗木を植栽し現在に至る。昭和61年に「日本の道100選」、平成8年に「歴史国道」に指定される。",2020年8月11日,2020年8月11日,http://donan-museums.jp/archives/4083,4085,七飯町,,,明治,昭和||平成,自然,41.8789062,140.7044525,,,,,,,"Narukawa, Hokkaido, 041-1112, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/赤松街道~1.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/赤松街道~.jpg,1.jpg||.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/赤松街道~1.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/赤松街道~.jpg,4085||4084,赤松街道~||赤松街道~,,,,%e8%b5%a4%e6%9d%be%e4%b8%a6%e6%9c%a8,0 4088,倉山卯之助の杉,クラヤマウノスケノスギ," 文化5年(1808年)に、官地500坪を借りた七重村在住の百姓、倉山卯之助は現在の文化センター周辺に、南部から取り寄せた杉と様似から取り寄せた椴松を植栽し、その大半を函館山に植樹した。また、卯之助は住居周辺に杉などを植栽し、それが見事な樹林になっていたが、太平洋戦争時の物資供出により伐採され、今では、三嶋神社境内にごく一部が残されるのみとなっている。",2020年8月11日,2020年8月11日,http://donan-museums.jp/archives/4088,4089,七飯町,,七飯町本町6丁目,近世,,自然,41.8956299,140.6932220,,,,,,,"Honcho, Hokkaido, 041-1111, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/卯之助の杉③.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/卯之助の杉③.jpg,4089,卯之助の杉③,,,,%e5%80%89%e5%b1%b1%e5%8d%af%e4%b9%8b%e5%8a%a9%e3%81%ae%e6%9d%89,0 4092,峠下台場跡,トウゲシタダイバアト,"五稜郭を占拠した後に、旧幕府軍側が急造したと伝えられている台場跡。七稜の星形を呈しており、大沼や駒ヶ岳、大野平野を一望できる。砲台を据えるためのスロープが2か所あるが、実際に設置されることはなかったという。現存状態も良好で、南北海道各地に残されている台場跡を含め、日本近代史を語る上で重要な史跡といえる。山頂部に構築されているため、見学にはクマ除けの準備が必要である。 [caption id=""attachment_4093"" align=""alignnone"" width=""300""] 峠下台場跡(七飯台場跡)[/caption]",2020年8月12日,2020年8月12日,http://donan-museums.jp/archives/4092,4093,七飯町,,北海道亀田郡七飯町峠下,明治,明治||大正||昭和||平成,歴史,41.9519234,140.6564484,,,,,,,"Tsuruno, Hokkaido, 041-1134, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/峠下台場①.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/峠下台場①.jpg,4093,峠下台場①,峠下台場跡(七飯台場跡),,,%e5%b3%a0%e4%b8%8b%e5%8f%b0%e5%a0%b4%e8%b7%a1,0 4116,権現山解山記念碑,ゴンゲンヤマカイザンキネンヒ,"高さ111cm、幅36cm。栄浜八幡神社境内にある。 現栄浜(さかえはま)小学校グラウンド付近に「権現山(ごんげんやま)」と称される砂丘があり頂上に権現様を祀っていた。昭和三十年代半ばに町内各地(現乙部中グラウンド・町民グラウンド付近など)の砂丘を崩していくなかで、権現山も崩されることになった。その権現山を忘れないようにするため、昭和35(1960)9月に建立された。",2020年8月15日,2020年8月17日,http://donan-museums.jp/archives/4116,4098,乙部町,,爾志郡乙部町字栄浜,昭和,昭和,碑・像,42.0022469,140.1230774,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,平成30年度おとべ郷土講座バス見学学習<町内の石碑>レジュメ P4,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/権現山解山記念碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/権現山解山記念碑.jpg,4098,権現山解山記念碑,,,,%e6%a8%a9%e7%8f%be%e5%b1%b1%e8%a7%a3%e5%b1%b1%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 4121,金毘羅山大権現,コンピラサンダイゴンゲン,"現在高さ58cm、幅21cm。栄浜八幡神社境内にある。 現栄浜小学校グラウンド付近にあった「権現山(ごんげんやま)」という砂丘に祀られていた可能性があるが、この石碑は「金毘羅(本社香川県)」であり、享保3年(1718)に現栄浜(さかえはま)集落(大茂内(おおもない)村)に創立され当時守護のため庵が作られ現龍寶寺(りゅうほうじ)内に祀られている権現は「熊野三社(和歌山県周辺の熊野信仰)」なので、この両権現の関係性ははっきりしない。 ただ、少なくとも江戸時代末期には、権現山上に権現様が祀られていたという旅行者の記録がある。",2020年8月15日,2020年8月17日,http://donan-museums.jp/archives/4121,4097,,,爾志郡乙部町字栄浜,,,碑・像,42.0022812,140.1231232,,,,,,,"Sakaehama, Hokkaido, 043-0113, JP",,,,平成30年度おとべ郷土講座バス見学学習<町内の石碑> P4,,kumaishi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/金毘羅山大権現.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/金毘羅山大権現.jpg,4097,金毘羅山大権現,,,,%e9%87%91%e6%af%98%e7%be%85%e5%a4%a7%e6%a8%a9%e7%8f%be,0 4135,行啓記念の藤,ギョウケイキネンノフジ," 明治10年以降、大沼は国内外の著名人が多く訪れ、風光明媚な風景がよく知られていた。明治38年には、道立公園として道路や休憩所、橋梁が整備され、桜や松などが植樹される。この藤は、明治44年8月21日に大正天皇が皇太子時代に大沼を行啓したことを記念して、植栽されたものである。毎年、5月末頃に見事な花房が来訪者の心を和ませている。",2020年8月18日,2020年8月18日,http://donan-museums.jp/archives/4135,4137,七飯町,,七飯町字大沼町(大沼公園内),明治,,自然,41.9833908,140.6717682,,,,,,,"Ikusagawa, Hokkaido, 041-1352, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/行啓記念の藤(HP用).jpg,HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/行啓記念の藤(HP用).jpg,4137,行啓記念の藤(HP用),,,,%e8%a1%8c%e5%95%93%e8%a8%98%e5%bf%b5%e3%81%ae%e8%97%a4,0 4139,山の神,ヤマノカミ," 七飯町の草創期の村の暮らしは、農業よりも、きこりや炭焼きなどの山仕事によって支えられていた。このことは、町内で見つかった炭窯跡や文献から推測できる。山の神は山に生業をもつ者の守護神として祀られており、この碑は嘉永元年(1848年)に建立された。山の神は三つ叉木に宿ると信じられ、この林内にも叉木となったクリとハリギリからなる叉木状の合体木があったが、台風等の被害によって往年の姿を見ることは出来ない。",2020年8月18日,2020年8月18日,http://donan-museums.jp/archives/4139,4140,七飯町,,七飯町字藤城,近世,,碑・像,41.9225616,140.6744385,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/山の神(藤城)(HP用).jpg,HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/山の神(藤城)(HP用).jpg,4140,山の神(藤城)(HP用),,,,%e5%b1%b1%e3%81%ae%e7%a5%9e,0 4143,箱館戦争戦死者墓碑群(峠下),ハコダテセンソウセンシシャボヒグン(トウゲシタ)," 箱館戦争勃発の地にある官軍側の戦死者の墓。最初の戦いで命を落とした松前藩金寅太郎、松前藩従者本間長之助、函館府在住隊宮野国吉・阿部吉郎二、福山藩(現在の広島県福山市)古川膳座ェ門の官軍側、計5名の墓が建てられている。",2020年8月18日,2020年8月19日,http://donan-museums.jp/archives/4143,4146,七飯町,,七飯町字峠下,明治,,碑・像,41.9311180,140.6595306,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/箱館戦争戦死者の墓(峠下)HP用).jpg,HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/箱館戦争戦死者の墓(峠下)HP用).jpg,4146,箱館戦争戦死者の墓(峠下)(HP用),,,,%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e6%88%a6%e4%ba%89%e6%88%a6%e6%ad%bb%e8%80%85%e5%a2%93%e7%a2%91%e7%be%a4%ef%bc%88%e5%b3%a0%e4%b8%8b%ef%bc%89,0 4149,峠下村平山先生の墓,トウゲシタムラヒラヤマセンセイノハカ," 明治維新後、箱館府転覆計画に失敗し、榎本軍に投じた平山金十郎の墓。間宮林蔵・近藤重蔵と共に文化の三蔵と称された平山行蔵の弟子の平山鋭次郎が安政年間に、この峠下で私塾を開いた。文久2年(1862年)に婿養子となった金十郎が塾を継ぎ、読み書きや武術を教授し、村民に慕われた。転覆計画失敗後は、新政府の追及から逃れ、明治7年に再び塾を再開している。明治36年に没したが、有志によりこの地に墓が建てられた。",2020年8月19日,2020年8月20日,http://donan-museums.jp/archives/4149,4150,七飯町,,七飯町字峠下,明治,,碑・像,41.9314346,140.6588440,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/平山先生の墓(HP用).jpg,HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/平山先生の墓(HP用).jpg,4150,平山先生の墓(HP用),,,,%e5%b3%a0%e4%b8%8b%e6%9d%91%e5%b9%b3%e5%b1%b1%e5%85%88%e7%94%9f%e3%81%ae%e5%a2%93,0 4152,仁山の庚申塚(塔),ニヤマノコウシンヅカ(トウ)," 峠下村と市渡村を結ぶ旧道沿いにあり、嘉永5年(1852年)、安政2年(1855年)、文久2年(1862年)、昭和18年の4基の庚申塔が立っている。江戸時代から石塔が並立しているのは珍しい。寄合い・互助の講の一つとして伝えられていた。",2020年8月19日,2020年8月20日,http://donan-museums.jp/archives/4152,4154,七飯町,,七飯町字仁山,近世||昭和,,碑・像,41.9207954,140.6425781,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/仁山の庚申塚.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/仁山の庚申塚.jpg,4154,仁山の庚申塚,,,,%e4%bb%81%e5%b1%b1%e3%81%ae%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%9a%ef%bc%88%e5%a1%94%ef%bc%89,0 4157,藤山の地蔵堂,フジヤマノジゾウドウ," この地蔵堂には、嘉永元年(1848年)に建立した三界萬霊塔、嘉永2年(1849年)に建立したといわれる子安地蔵尊、慶応元年(1865年)に建立された馬頭観音碑などある。子安地蔵尊には、村中世話人12名と石工の名が刻まれている。また、三界萬霊塔と馬頭観音碑は、毎年6月23日に地蔵堂例大祭がおこなわれ、祀られている。",2020年8月19日,2020年8月20日,http://donan-museums.jp/archives/4157,4158,七飯町,,七飯町字藤城,近世,,碑・像,41.9196930,140.6724396,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/藤城の地蔵.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/藤城の地蔵.jpg,4158,藤城の地蔵,,,,%e8%97%a4%e5%b1%b1%e3%81%ae%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%a0%82,0 4160,箱館戦争戦死者墓碑群(桜町),ハコダテセンソウセンシシャボヒグン(サクラチョウ)," 明治元年10月22日に峠下で戦いの火蓋が切られた箱館戦争は、七飯町各地を舞台に戦われることとなる。宝琳寺裏手の墓地には、新政府軍側の戦死者の墓があり、現在の本町周辺でも戦いが激しかったことを物語っている。また、この墓地には、大川の戦いで命を落とした八王子千人同心秋山幸太郎の墓もある。",2020年8月19日,2020年8月20日,http://donan-museums.jp/archives/4160,4161,七飯町,,七飯町字桜町,明治,,碑・像,41.9031487,140.6925049,,,,,,,"Sakuracho, Hokkaido, 041-1105, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/桜町戦死者の墓(HP用).jpg,HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/桜町戦死者の墓(HP用).jpg,4161,桜町戦死者の墓(HP用),,,,%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e6%88%a6%e4%ba%89%e6%88%a6%e6%ad%bb%e8%80%85%e5%a2%93%e7%a2%91%e7%be%a4%ef%bc%88%e6%a1%9c%e7%94%ba%ef%bc%89,0 4180,明治天皇御野立之地,メイジテンノウオノダテノチ," 明治14年9月6日、明治天皇は北海道行幸の折、この場所で休息を取られ、駒ヶ岳や大沼の景勝を堪能された。大正2年にこの場所を永く伝えるため、七重村村長以下有志によって、記念の松樹と杉1,500本を植樹。昭和11年になって、記念の石碑を建立した。現在石碑の建っている場所は、発見後移設したものである。",2020年8月23日,2020年8月23日,http://donan-museums.jp/archives/4180,4181,七飯町,,七飯町字西大沼,昭和,明治,碑・像,41.9659004,140.6336670,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/明治天皇御野立之地-1(HP用).jpg,-1(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/明治天皇御野立之地-1(HP用).jpg,4181,"明治天皇御野立之地 (1)(HP用)",,,,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e5%be%a1%e9%87%8e%e7%ab%8b%e4%b9%8b%e5%9c%b0,0 4183,峠下の庚申塚(塔),トウゲシタノコウシンヅカ(トウ)," 弘化2年(1845年)に建立された庚申塔。旧道と国道5号線が交差する辺りにある。庚申の日には、猿田彦の掛け軸を掲げ、ローソクをともし、供物をささげている。",2020年8月23日,2020年8月23日,http://donan-museums.jp/archives/4183,4184,七飯町,,七飯町字峠下,近世,,碑・像,41.9264336,140.6483459,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/峠下の庚申塚-1.jpg,-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/峠下の庚申塚-1.jpg,4184,"峠下の庚申塚 (1)",,,,%e5%b3%a0%e4%b8%8b%e3%81%ae%e5%ba%9a%e7%94%b3%e5%a1%9a%ef%bc%88%e5%a1%94%ef%bc%89,0 4186,大川三島神社跡地,オオカワミシマジンジャアトチ," 天正4年(1576年)、武佐川のほとりにすみついた人々が「山の神」として三嶋神社の祭神を祀ったといわれる。安政年間に市川十郎が調査した「蝦夷地実地検考録」には三島大明神と書かれていることから、古くから「島」の字を使っていたものと考えられる。七重村にあった三嶋神社から分霊したと考える人もいるが、詳細は不明である。",2020年8月23日,2020年8月23日,http://donan-museums.jp/archives/4186,4187,七飯町,,七飯町字大中山,近世,,碑・像,41.8766861,140.7200470,,,,,,,"Onakayama, Hokkaido, 041-1121, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/大川三島神社跡地-1(HP用).jpg,-1(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/大川三島神社跡地-1(HP用).jpg,4187,"大川三島神社跡地 (1)(HP用)",,,,%e5%a4%a7%e5%b7%9d%e4%b8%89%e5%b3%b6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e8%b7%a1%e5%9c%b0,0 4189,中島郷跡,ナカジマゴウアト," 安政年間にこの地域に七重村在住の中島辰三郎の指導で、越後から移民が入り田畑が拓かれた。戸数が増え、村として認められると辰三郎の姓にちなんで中島郷と名付けられた。文久元年(1861年)には越後の稲荷神社から分霊し、翌年に社殿が作られた。明治42年に大川の三島神社と合併し、今の大中山神社となる。",2020年8月23日,2020年8月23日,http://donan-museums.jp/archives/4189,4190,七飯町,,七飯町字中島,近世,,碑・像,41.8641319,140.7098999,,,,,,,"Onakayama, Hokkaido, 041-1121, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/中島郷跡-2(HP用).jpg,-2(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/中島郷跡-2(HP用).jpg,4190,"中島郷跡 (2)(HP用)",,,,%e4%b8%ad%e5%b3%b6%e9%83%b7%e8%b7%a1,0 4192,七重勧業試験場事務所跡,ナナエカンギョウシケンジョウジムショアト," 明治3年、プロシア(ドイツ)人R.ガルトネルから取り戻し、翌年に開拓使が引き継ぎ、西洋式農法をとりいれた試験農園を開いた。名称が度々変わったため、通称「七重官園」と呼ばれる。東京、札幌、根室、七重に置かれた4つの官園の中でも、七重官園は特に実験的な要素が強く、その事業内容は農業に限らず、林業・酪農・養蚕・勧業にまで及び、チーズやハムの製造など行われていた。ここでは、北海道酪農の父と呼ばれるエドウィン・ダンや札幌農学校初代教頭クラーク博士も教鞭をとったことがある。現在、七重小学校校舎の場所は、かつて官園事務所があった場所で、今では、国道沿いの石垣が往時の様相を伝えている。",2020年8月23日,2020年8月23日,http://donan-museums.jp/archives/4192,4193,七飯町,,七飯町本町6丁目,明治,,建造物,41.8961105,140.6915741,,,,,,,"Honcho, Hokkaido, 041-1111, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/七重官園事務所跡(HP用).jpg,HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/七重官園事務所跡(HP用).jpg,4193,七重官園事務所跡(HP用),,,,%e4%b8%83%e9%87%8d%e5%8b%a7%e6%a5%ad%e8%a9%a6%e9%a8%93%e5%a0%b4%e4%ba%8b%e5%8b%99%e6%89%80%e8%b7%a1,0 4195,七重官園綿羊牧場,ナナエカンエンメンヨウボクジョウ," 七重官園時代、このあたりは桔梗野綿羊牧場とされ、牧場周囲に土塁を築き、羊が離散するのを防いだという。開拓使廃止後は民間へ払い下げとなり、その一部は園田牧場となった。今では、当時の様子を正確に伝えるものは少なく、ごく部分的に土塁が残されているだけである。",2020年8月24日,2020年8月24日,http://donan-museums.jp/archives/4195,4196,七飯町,,七飯町大川7丁目,明治,,その他,41.8531799,140.7315369,,,,,,,"Okawa, Hokkaido, 041-1122, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/七重官園綿羊牧場-3(HP用).jpg,-3(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/七重官園綿羊牧場-3(HP用).jpg,4196,"七重官園綿羊牧場 (3)(HP用)",,,,%e4%b8%83%e9%87%8d%e5%ae%98%e5%9c%92%e7%b6%bf%e7%be%8a%e7%89%a7%e5%a0%b4,0 4198,峠下ホテル跡,トウゲシタホテルアト," 旧峠下小学校の跡地は、明治5年の札幌本道開削の時に、洋風のホテルが置かれた場所であった。五稜郭にあった箱館奉行所を取り壊した際の廃材を利用して建てられたといわれる。明治天皇行幸の折には行在所にあてられ、それを記念して大正2年に建立された石碑が今でも残っている。",2020年8月24日,2020年8月24日,http://donan-museums.jp/archives/4198,4199,七飯町,,七飯町字峠下,大正,明治,碑・像,41.9272118,140.6506042,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/明治天皇御駐蹕之地碑-2(HP用).jpg,-2(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/明治天皇御駐蹕之地碑-2(HP用).jpg,4199,"明治天皇御駐蹕之地碑 (2)(HP用)",,,,%e5%b3%a0%e4%b8%8b%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e8%b7%a1,0 4201,明治天皇蓴菜沼小休所,メイジテンノウジュンサイヌマショウキュウショ," 明治5年に札幌本道が完成すると、七重村に住んでいた八王子千人同心の宮崎重兵衛がこの地に旅館を建てた。明治14年の明治天皇北海道御巡幸の際には小休所に当てられ、鯉やジュンサイを天覧した。今では当時を偲ばせるのは、イチイの大樹と湖畔にある御前水の泉のみで、この旅館はもうない。",2020年8月24日,2020年8月24日,http://donan-museums.jp/archives/4201,4202,七飯町,,七飯町字西大沼,,明治,碑・像,41.9827805,140.6381226,,,,,,,"Tsuruno, Hokkaido, 041-1134, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/明治天皇ジュンサイ沼小休所-2(HP用).jpg,-2(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/明治天皇ジュンサイ沼小休所-2(HP用).jpg,4202,"明治天皇ジュンサイ沼小休所 (2)(HP用)",,,,%e6%98%8e%e6%b2%bb%e5%a4%a9%e7%9a%87%e8%93%b4%e8%8f%9c%e6%b2%bc%e5%b0%8f%e4%bc%91%e6%89%80,0 4204,札幌農学校第七農場,サッポロノウガッコウダイナナノウジョウ," 明治28年に、札幌農学校(現、北海道大学)で、実習地を求めていた折、入船重太郎が、所有していた土地を提供し、ここに札幌農学校第七農場が誕生した。大正4年に開墾を完了させると、記念碑を建立した。この碑が「成墾記念碑」で、裏面には開墾に従事した人々の名前が刻まれている。",2020年8月24日,2020年8月24日,http://donan-museums.jp/archives/4204,4205,七飯町,,七飯町大中山1丁目,大正,明治,碑・像,41.8781509,140.7046661,,,,,,,"Narukawa, Hokkaido, 041-1112, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/成墾記念碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/成墾記念碑.jpg,4205,成墾記念碑,,,,%e6%9c%ad%e5%b9%8c%e8%be%b2%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e7%ac%ac%e4%b8%83%e8%be%b2%e5%a0%b4,0 4207,水無の馬頭観音碑,ミズナシノバトウカンノンヒ," 北海道の開拓にとって馬は、運搬・開墾などに利用され、非常に重要な役割を果たした。このような背景から、庶民信仰として馬頭観音がよく祀られた。この碑は、文久2年(1862年)に水無御手作場の頭取飯田甚兵衛らによって建てられ、「右しかべ道・左とうげ道」と刻まれている。かつて、三股の地名の由来となった旧道分岐点に建てられていたが、現在は七飯町歴史館横の杉林の中に移設されている。",2020年8月25日,2020年8月25日,http://donan-museums.jp/archives/4207,4209,七飯町,,七飯町字桜町,近世,,碑・像,41.9084167,140.6903229,,,,,,,"Sakuracho, Hokkaido, 041-1105, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/水無の馬頭観音.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/水無の馬頭観音.jpg,4209,水無の馬頭観音,,,,%e6%b0%b4%e7%84%a1%e3%81%ae%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e7%a2%91,0 4211,ガルトネルブナ林,ガルトネルブナリン," 明治2年、プロシア(ドイツ)人のR.ガルトネルと蝦夷(榎本)政権との間で、周辺農民に西洋農法を教授するという前提のもと、七飯の土地約300万坪を99年に渡って租借する条約を交わす。ガルトネルは本国から取りよせたプラウなどの西洋式農機具を用いて開墾。リンゴ、さくらんぼ、梨、カーレンツ、グズベリー等の西洋果樹を植栽した。しかし、後の明治新政府は、北海道が外国に植民地化されることを恐れ、多額の賠償金を支払いこの条約を破棄することになる。これが、ガルトネル事件であり、ガルトネルが西洋農法を教授した事実を所以に、七飯は近代農業発祥の地とうたっている。ガルトネルは明治4年に帰国するが、かれが植栽したリンゴなどは開拓使に引き継がれ、今では、ガルトネルに対する評価は様々であるが、彼が植栽した人工のブナ林は今でも残されており、人工のブナ林としては道南で最も古いと考えられる。",2020年8月25日,2020年8月28日,http://donan-museums.jp/archives/4211,4212,七飯町,,七飯町字桜町,明治,,自然,41.9070511,140.6874695,,,,,,,"Sakuracho, Hokkaido, 041-1105, JP",,,,,,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/ガルトネルブナ林②(HP用).jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/ガルトネルブナ林②(HP用).jpg,4212,ガルトネルブナ林②(HP用),,,,%e3%82%ac%e3%83%ab%e3%83%88%e3%83%8d%e3%83%ab%e3%83%96%e3%83%8a%e6%9e%97,0 4214,大川村発祥の地,オオカワムラハッショウノチ," 天正4年(1576年)に三島神社を祀ったという記録から、武佐川のほとりにすみついた人々は、それ以前にはすでにいたと考えられる。寛政12年(1800年頃)に、七重村から独立して村となったが、薪炭をつくり、雑穀・野菜の栽培をして暮らしていた。旧家の屋敷神として川濯神社があり、トチノキ・クリ・アカマツの大樹が往時の景観を偲ばせている。",2020年8月25日,2020年8月25日,http://donan-museums.jp/archives/4214,4215,七飯町,,大中山4丁目,近世,,"その他,自然",41.8751564,140.7157135,,,,,,,"Onakayama, Hokkaido, 041-1121, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/大川村発祥の地④.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/大川村発祥の地④.jpg,4215,大川村発祥の地④,,,,%e5%a4%a7%e5%b7%9d%e6%9d%91%e7%99%ba%e7%a5%a5%e3%81%ae%e5%9c%b0,0 4217,大沼流山地形,オオヌマナガレヤマチケイ," 大沼三湖は、寛永17年(1640年)の駒ヶ岳噴火によって、折戸川がせき止められて成立している。この噴火により、大沼周辺には大小様々な小山状の地形が作られ、沼には島々が作られた。これが流山地形である。明治期に蝦夷地を探索した松浦武四郎なども、その景観を絶賛している。特に、JR大沼駅前から鹿部町へ向かう道路からは、この流山地形と雄大な駒ヶ岳が織り成す、秀逸な自然造形美を堪能できる。",2020年8月26日,2020年8月26日,http://donan-museums.jp/archives/4217,4218,七飯町,,七飯町字大沼町,近世,,自然,41.9739227,140.6844177,,,,,,,"Nishionuma, Hokkaido, 041-1355, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/流山地形と駒ケ岳(HP用).jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/流山地形と駒ケ岳(HP用).jpg,4218,流山地形と駒ケ岳(HP用),,,,%e5%a4%a7%e6%b2%bc%e6%b5%81%e5%b1%b1%e5%9c%b0%e5%bd%a2,0 4220,聖山遺跡,セイザンイセキ," 1974~76年に北海道大学、東北大学が中心となり行われた聖山の発掘調査は、縄文時代晩期の祭祀場であったと考えられ道南発掘史に輝かしい功績を残した。出土した非常に貴重な遺物は現在、七飯町歴史館に展示され、道南の晩期の土器様相を知る上で重要な指標となっている。",2020年8月26日,2020年8月26日,http://donan-museums.jp/archives/4220,4221,七飯町,,七飯町字大沼町,近世,,その他,41.9314842,140.6632233,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/IMG_9451(HP用).jpg,IMG_9451(HP用).jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/IMG_9451(HP用).jpg,4221,IMG_9451(HP用),,,,%e8%81%96%e5%b1%b1%e9%81%ba%e8%b7%a1,0 4225,七重官園のヒノキ林,ナナエカンエンノヒノキバヤシ," 明治4年から開拓使によって運営していた七重官園で植栽したと考えられるヒノキ林。官園が出来る前は、倉山卯之助によって杉が植栽されていた場所とも言われる。林内にはヒノキのほかに、トチノキ・杉の老木が見られ、今では町民の憩いの「文化の森」の一部となっている。",2020年8月28日,2020年8月28日,http://donan-museums.jp/archives/4225,4226,七飯町,,七飯町本町6丁目,明治,,自然,41.8976669,140.6941223,,,,,,,"Honcho, Hokkaido, 041-1111, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/七重官園のヒノキ林.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/七重官園のヒノキ林.jpg,4226,七重官園のヒノキ林,,,,%e4%b8%83%e9%87%8d%e5%ae%98%e5%9c%92%e3%81%ae%e3%83%92%e3%83%8e%e3%82%ad%e6%9e%97,0 4228,藤山のイチイ,フジヤマノイチイ," 樹齢400年以上のイチイの木は、亀田八幡宮の前身がこの地にあって、遷座の記念に植樹されたもの、もしくは宮司の墓があってこれを移すときに植えられたものと伝えられている。かつては幹が二叉であったが、昭和29年の台風15号によって、幹の一本が折れて、現在の姿になった。",2020年8月28日,2020年8月28日,http://donan-museums.jp/archives/4228,4229,七飯町,,七飯町字藤城,近世,,自然,41.9211464,140.6733246,,,,,,,"Iwaobetsu, Hokkaido, 044-0082, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/08/藤山のイチイ.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/08/藤山のイチイ.jpg,4229,藤山のイチイ,,,,%e8%97%a4%e5%b1%b1%e3%81%ae%e3%82%a4%e3%83%81%e3%82%a4,0 4238,大典記念碑,タイテンキネンヒ,"",2021年2月17日,2021年3月22日,http://donan-museums.jp/archives/4238,4438,せたな町,北檜山地区,北檜山区北檜山,大正,明治||大正,碑・像,42.4169197,139.8682404,"明治天皇の崩御により大正天皇(嘉仁親王)が即位した日であり、それを記念して建立したものである。 裏面には開拓のために入植した地域の年号が刻まれている。",,,,,,"Kitahiyamaku Futoro, Hokkaido, 049-4517, JP","表面 大典記念碑 大正四年十一月十日 裏面 拓開 野田府 明治十七年 鋸 同十九年 背負越 同二十二年 真駒内 同二十二年 長渕 同二十四年 石渕 同二十五年 鋸小学校 同二十八年",,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/02/IMG_5189-e1613546395733.jpg,IMG_5189-e1613546395733.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/02/IMG_5189-e1613546395733.jpg,4438,IMG_5189,,,,%e5%a4%a7%e5%85%b8%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 4246,太櫓馬頭観音碑,フトロバトウカンノンヒ," 建立年:不詳",2021年2月17日,2021年3月22日,http://donan-museums.jp/archives/4246,4423,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区太櫓,,,碑・像,42.3765297,139.8165588,,,,,,,"Ikanikeisaiganaibaai, Hokkaido, 049-4500, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/10/HORIZON_0001_BURST20200928132738677_COVER-e1613533682859.jpg,HORIZON_0001_BURST20200928132738677_COVER-e1613533682859.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/10/HORIZON_0001_BURST20200928132738677_COVER-e1613533682859.jpg,4423,HORIZON_0001_BURST20200928132738677_COVER.JPG,,,,%e5%a4%aa%e6%ab%93%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e7%a2%91,0 4248,鰊袋澗記念碑,ニシンフクロマキネンヒ,"",2020年10月2日,2021年4月4日,http://donan-museums.jp/archives/4248,4251,せたな町,瀬棚地区,元浦4区,昭和,近世,碑・像,42.4991417,139.8431702,元治元年(1864)新保繁太郎と新保幸吉は中歌村に移住、鰊建網10余統を経営した。同碑は波浪のため流失の恐れのある鰊網確保のため構築した袋澗の記念碑である。,,,,,,"Ikanikeisaiganaibaai, Hokkaido, 049-4500, JP","「鰊袋澗記念碑」 創設者 新保幸吉",,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0430-e1601545486231.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0432.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0431.jpg,DSC_0430-e1601545486231.jpg||DSC_0432.jpg||DSC_0431.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0430-e1601545486231.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0432.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0431.jpg,4251||4258||4257,DSC_0430.JPG||DSC_0432.JPG||DSC_0431.JPG,,,,%e9%b0%8a%e8%a2%8b%e6%be%97%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 4259,太櫓忠魂碑,フトロチュウコンヒ,"",2021年2月17日,2021年3月22日,http://donan-museums.jp/archives/4259,4261,せたな町,北檜山地区,久遠郡せたな町北檜山区太櫓,昭和,昭和,碑・像,42.3745499,139.8155518,"太櫓忠魂碑は、日露・日清・第二次世界大戦で戦死した勇士の霊を祀ったものである。昭和3(1928)年11月、村内在郷軍人会長、他数十名が忠魂碑設立準備委員会となり、部落民の労力奉仕に台石を運び、太櫓言代主神社系内に建立したもの。
",,,,,,"Kitahiyamaku Tokushima, Hokkaido, 049-4512, JP",,,,,cc-by,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/10/HORIZON_0002_BURST20200928133452797.jpg,HORIZON_0002_BURST20200928133452797.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/10/HORIZON_0002_BURST20200928133452797.jpg,4261,HORIZON_0002_BURST20200928133452797.JPG,,,,%e5%a4%aa%e6%ab%93%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91,0 4265,馬頭観音,バトウカンノン,"[caption id=""attachment_4266"" align=""aligncenter"" width=""300""] 馬頭観音[/caption]",2020年12月5日,2020年12月5日,http://donan-museums.jp/archives/4265,4266,今金町,,瀬棚郡今金町字鈴金 鹽竈神社境内,昭和||平成,昭和,碑・像,42.4164391,139.9575653,,,,,,,"Nakasato, Hokkaido, 049-4154, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/shiogamajinjabatou001.jpg,shiogamajinjabatou001.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/shiogamajinjabatou001.jpg,4266,shiogamajinjabatou001,馬頭観音,馬頭観音,馬頭観音,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3-2,0 4268,鹽竈神社,シオガマジンジャ,"[caption id=""attachment_4269"" align=""aligncenter"" width=""258""] 鹽竈神社[/caption] 創建:不詳(明治36年以前) 御祭神:塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)[安産神・漁業守護] 祭礼:9月18日 愛知県人春日井から入植した人たちによって祭祀されたものだが、当時の人はおらず、その後入植した人たちが鎮守の神として引継ぎ祭祀している。",2020年12月5日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4268,4269,今金町,,瀬棚郡今金町字鈴金,昭和||平成,昭和||平成,建造物,42.4164200,139.9575958,,,,,,,"Suehirocho, Hokkaido, 049-4315, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/shiogamajinja.jpg,shiogamajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/shiogamajinja.jpg,4269,shiogamajinja,鹽竈神社,鹽竈神社,鹽竈神社,%e9%b9%bd%e7%ab%88%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4272,馬頭観音,バトウカンノン,"[caption id=""attachment_4275"" align=""aligncenter"" width=""200""] 馬頭観音[/caption] 建立:明治35(1902)年 元は美利河三股地区内にあったものが、美利河ダム建設に伴い、水没を免れるため、現在の墓地敷地内に移転されたという。",2020年12月6日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4272,4275,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河 美利河墓地敷地内,昭和,昭和||平成,碑・像,42.4808731,140.2064972,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/pirikabatoukannonb.jpg,pirikabatoukannonb.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/pirikabatoukannonb.jpg,4275,pirikabatoukannonb,,,,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3-3,0 4277,馬頭観音,バトウカンノン,"[caption id=""attachment_4279"" align=""aligncenter"" width=""222""] 馬頭観音[/caption] 昭和23(1948)年建立",2020年12月7日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4277,4279,今金町,,瀬棚郡今金町字豊田 豊田神社境内,昭和,昭和||平成,碑・像,42.4053993,139.9473267,元は豊田橋河畔にあったものが、のちに神社境内に移転されたものという。,,,,,,"Kitahiyamaku Futoro, Hokkaido, 049-4517, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/toyotabatoukannon1.jpg,toyotabatoukannon1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/toyotabatoukannon1.jpg,4279,toyotabatoukannon,馬頭観音,馬頭観音,馬頭観音,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3-4,0 4282,馬頭観世音菩薩,バトウカンゼオンボサツ,"[caption id=""attachment_4283"" align=""aligncenter"" width=""300""] 馬頭観世音菩薩[/caption] ",2020年12月9日,2020年12月10日,http://donan-museums.jp/archives/4282,4283,今金町,,瀬棚郡今金町字田代,昭和,昭和,碑・像,42.4098244,140.0347137,,,,,,,,"昭和55(1980)年5月1日 村本光夫建立",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/muramotobatou001.jpg,muramotobatou001.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/muramotobatou001.jpg,4283,muramotobatou001,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,馬頭観世音菩薩,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e4%b8%96%e9%9f%b3%e8%8f%a9%e8%96%a9-5,0 4293,相馬神社,ソウマジンジャ,"[caption id=""attachment_4291"" align=""aligncenter"" width=""253""] 相馬神社[/caption] 創設:昭和22(1947)年10月 祭礼:7月17日",2020年12月11日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4293,4291,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘 神丘神社境内,昭和,昭和||平成,碑・像,42.4344215,139.9830627,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kamiokasomajinjya.jpg,kamiokasomajinjya.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kamiokasomajinjya.jpg,4291,kamiokasomajinjya,相馬神社,相馬神社,相馬神社,%e7%9b%b8%e9%a6%ac%e7%a5%9e%e7%a4%be-2,0 4295,地蔵,ジゾウ,"[caption id=""attachment_4289"" align=""aligncenter"" width=""200""] 地蔵[/caption] [caption id=""attachment_4290"" align=""aligncenter"" width=""300""] 地蔵[/caption] 建立:不詳(大正初期)",2020年12月11日,2021年6月8日,http://donan-museums.jp/archives/4295,4289,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘 国道230号沿い神丘墓地敷地,昭和,昭和,碑・像,42.4337883,139.9718018,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kamiokajizoson.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kamiokajizoson02.jpg,kamiokajizoson.jpg||kamiokajizoson02.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kamiokajizoson.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kamiokajizoson02.jpg,4289||4290,kamiokajizoson||kamiokajizoson02,地蔵尊||地蔵尊,地蔵尊||地蔵尊,地蔵尊||地蔵尊,%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%b0%8a,0 4299,地崎組鉄道工事殉職者之碑,チザキグミテツドウコウジジュンナンシャノヒ,"[caption id=""attachment_4287"" align=""aligncenter"" width=""217""] 地崎組鉄道工事殉職者之碑[/caption]",2020年12月11日,2020年12月11日,http://donan-museums.jp/archives/4299,4287,今金町,,瀬棚郡今金町字花石 瑪瑙寺境内,昭和,昭和,碑・像,42.4382248,140.1605988,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/chizakigumi.jpg,chizakigumi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/chizakigumi.jpg,4287,chizakigumi,地崎組鉄道工事殉職者之碑,地崎組鉄道工事殉職者之碑,地崎組鉄道工事殉職者之碑,%e5%9c%b0%e5%b4%8e%e7%b5%84%e9%89%84%e9%81%93%e5%b7%a5%e4%ba%8b%e6%ae%89%e8%81%b7%e8%80%85%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 4301,黄金神社,コガネジンジャ,"[caption id=""attachment_4286"" align=""aligncenter"" width=""300""] 黄金神社[/caption] 創設:明治44(1911)年8月 祭神:応神天皇・神功皇后・金山昆売神・天地八百万神・大物主神・山ノ神 祭礼:9月15日 当初は八幡神社として建立されたものが、その後三神体、宇佐八幡宮、讃岐の金比羅、愛媛の山ノ神を合祀黄金神社として祭祀している。",2020年12月11日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4301,4286,今金町,,瀬棚郡今金町字花石,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4338799,140.1613617,昭和31(1956)年9月15日、祭典に児童生徒によるそれぞれの子供御輿二つが初めて繰り出す,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/koganejinjya.jpg,koganejinjya.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/koganejinjya.jpg,4286,koganejinjya,黄金神社,黄金神社,黄金神社,%e9%bb%84%e9%87%91%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4303,神丘神社,カミオカジンジャ,"[caption id=""attachment_4288"" align=""aligncenter"" width=""300""] 神丘神社[/caption] 創設:明治32(1899)年9月17日 祭神:天照大神 祭礼:9月7日",2020年12月11日,2020年12月11日,http://donan-museums.jp/archives/4303,4288,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4342957,139.9834747,,,,,,,"Suehirocho, Hokkaido, 049-4315, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kamiokajinjya.jpg,kamiokajinjya.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kamiokajinjya.jpg,4288,kamiokajinjya,神丘神社,神丘神社,神丘神社,%e7%a5%9e%e4%b8%98%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4305,瑪瑙寺,メノウデラ,"[caption id=""attachment_4292"" align=""aligncenter"" width=""300""] 瑪瑙寺[/caption] 曹洞宗。 創立は明治41(1908)年、曹洞宗説教所として建立。 昭和9(1934)年11月本堂・庫裡を新築、昭和26(1951)年に本堂・庫裡を修理。その後、昭和54(1979)年に本堂・庫裡を大改築する。",2020年12月11日,2021年5月28日,http://donan-museums.jp/archives/4305,4292,今金町,,瀬棚郡今金町字花石,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4383430,140.1605377,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/menoudera.jpg,menoudera.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/menoudera.jpg,4292,menoudera,瑪瑙寺,瑪瑙寺,瑪瑙寺,%e7%91%aa%e7%91%99%e5%af%ba,0 4309,延命地蔵尊,エンメイジゾウソン,"[caption id=""attachment_4307"" align=""aligncenter"" width=""193""] 延命地蔵尊[/caption] 建立:不詳(大正中期) 祭礼:8月24日",2020年12月11日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4309,4307,今金町,,瀬棚郡今金町字今金 後志利別川北岸今金橋付近,,,碑・像,42.4227867,140.0080872,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/enmeijizo.jpg,enmeijizo.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/enmeijizo.jpg,4307,enmeijizo,延命地蔵尊,延命地蔵尊,延命地蔵尊,%e5%bb%b6%e5%91%bd%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%b0%8a,0 4313,豊歳神社,トヨトシジンジャ,"[caption id=""attachment_4308"" align=""aligncenter"" width=""300""] 豊歳神社[/caption] 御祭神:水波能売大神(みづはのめのかみ)(五帝龍神・岡象女神) 例祭:5月1日 社殿:流造り 由緒:創立年月日は不詳であるが、大正後期に住吉地区の幹線灌漑溝竣工に当たり、住吉頭首工導水門に小祠を建立し、水の恵みに感謝し豊穣を祈ったとされる。",2020年12月11日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4313,4308,今金町,,瀬棚郡今金町字今金 今金八幡神社境内,大正,大正||昭和||平成,建造物,42.4304314,140.0109863,"昭和32(1952)年、今金土地改良区創立35周年の節目に今金八幡宮境内地に新たに社殿を建立し、同年4月30日に遷座し、現在に至る。 平成6(1994)年4月、社殿の老朽化に伴い修復し、屋根は総銅板に葺替えられる。 なお、水波能売大神は水の神様。",,,,,,"Suehirocho, Hokkaido, 049-4315, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/toyotoshi.jpg,toyotoshi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/toyotoshi.jpg,4308,toyotoshi,豊歳神社,豊歳神社,豊歳神社,%e8%b1%8a%e6%ad%b3%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4320,相馬神社,ソウマジンジャ,"[caption id=""attachment_4321"" align=""aligncenter"" width=""211""] 相馬神社[/caption] 建立:昭和12(1937)年 愛馬会を組織して馬産の改良や輓馬大会なども開催した。",2020年12月12日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4320,4321,今金町,,瀬棚郡今金町字金原 金原神社境内,昭和,昭和||平成,碑・像,42.4050636,139.9828644,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kimbarasomajinja.jpg,kimbarasomajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kimbarasomajinja.jpg,4321,kimbarasomajinja,相馬神社,相馬神社,相馬神社,%e7%9b%b8%e9%a6%ac%e7%a5%9e%e7%a4%be-3,0 4323,豊田神社,トヨタジンジャ,"[caption id=""attachment_4324"" align=""aligncenter"" width=""300""] 豊田神社[/caption] 創設:明治34(1901)年 御祭神:大麻比古(おおあさひこ)大神・猿田彦(さるたひこ)大神[殖産興業神] 祭礼:9月11日 由緒:創設当初は徳島県大麻比古神社の分神を得て祀る。昭和24(1949)年、大麻比古神社を修繕して豊田神社と改称、新鳥居を奉納した。昭和36(1961)年、鳥居を新築・奉納、昭和40(1965)年に新築遷宮式が行われた。",2020年12月12日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4323,4324,今金町,,瀬棚郡今金町字豊田,昭和,昭和||平成,建造物,42.4055214,139.9474487,,,,,,,,,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/toyotajinja.jpg,toyotajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/toyotajinja.jpg,4324,toyotajinja,豊田神社,豊田神社,豊田神社,%e8%b1%8a%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4327,氷川神社,ヒカワジンジャ,"[caption id=""attachment_4328"" align=""aligncenter"" width=""300""] 氷川神社[/caption] 創設:明治30(1897)年 御祭神:須佐之男命・稲田姫命・大国主命[農・農作の神] 祭礼:9月10日 由緒:埼玉県大宮氷川神社の分霊を奉受し、この地に安置・祭祀を行ったことに始まる。昭和35(1960)年8月20日、拝殿を改築し現在に至る。",2020年12月12日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4327,4328,今金町,,瀬棚郡今金町字種川,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4214821,140.0685120,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/tanekawahikawajinja.jpg,tanekawahikawajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/tanekawahikawajinja.jpg,4328,tanekawahikawajinja,氷川神社,氷川神社,氷川神社,%e6%b0%b7%e5%b7%9d%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4330,美利河八幡神社,ピリカハチマンジンジャ,"[caption id=""attachment_4331"" align=""aligncenter"" width=""300""] 美利河八幡神社[/caption] 創設:不詳(明治40年以前)、その後昭和22(1947)年現在地に建立 御祭神:応神天皇・神功皇后・鉱山神体 祭礼:9月15日 美利河ダム建設で鎮座地が水没するため遷座することとし、昭和57(1982)年9月10日に新神殿28.0平米が完成し、現在に至る。",2020年12月12日,2021年6月8日,http://donan-museums.jp/archives/4330,4331,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河,昭和,昭和||平成,建造物,42.4796295,140.1958466,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/pirikajinjya.jpg,pirikajinjya.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/pirikajinjya.jpg,4331,pirikajinjya,美利河八幡神社,美利河八幡神社,美利河八幡神社,%e7%be%8e%e5%88%a9%e6%b2%b3%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4333,今金八幡神社,イマカネハチマンジンジャ,"[caption id=""attachment_4334"" align=""aligncenter"" width=""300""] 今金八幡神社[/caption] 創設:明治29(1896)年 御祭神:応神天皇・神功皇后 祭礼:9月20日 社殿:神明造り 由来:今金町の前身・利別村が誕生する前年の明治29(1896)年、開拓創始者・今村藤次郎は数名の者と協議し、郷土開発と敬仁崇祖の美風作興のために創立したもの。",2020年12月12日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4333,4334,今金町,,瀬棚郡今金町字今金,大正,大正||昭和||平成,建造物,42.4306145,140.0116272,,,,,,,"Suehirocho, Hokkaido, 049-4315, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/imakanehachimangu.jpg,imakanehachimangu.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/imakanehachimangu.jpg,4334,imakanehachimangu,今金八幡神社,今金八幡神社,今金八幡神社,%e4%bb%8a%e9%87%91%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4336,馬頭観音,バトウカンノン,"[caption id=""attachment_4337"" align=""aligncenter"" width=""224""] 馬頭観音[/caption] 建立:昭和10(1935)年",2020年12月12日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4336,4337,今金町,,瀬棚郡今金町字金原 金原神社境内,昭和,昭和||平成,碑・像,42.4049988,139.9828186,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kimbarabatokannon.jpg,kimbarabatokannon.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kimbarabatokannon.jpg,4337,kimbarabatokannon,馬頭観音,馬頭観音,馬頭観音,%e9%a6%ac%e9%a0%ad%e8%a6%b3%e9%9f%b3-5,0 4342,八束八幡神社,ヤツカハチマンジンジャ,"[caption id=""attachment_4343"" align=""aligncenter"" width=""300""] 八束八幡神社[/caption] 創設:明治29(1896)年 御祭神:応神天皇・神功皇后、伊邪那岐神・伊邪那美神、御子速玉(みこはやたま)之神・家都美(けつみの)御子神 祭礼:9月15日 八束八幡神社は明治29年当初、鈴木農場事務所付近に一社を創建、明治31年には青木農場(田代地区)で八幡神社を祭祀、白石地区では植村米太郎が白山神社の守り札を御神体として祭祀、栓の沢は明治40年入植開拓の頃から、熊野神社をそれぞれ祭っていたものを、昭和5年4月、八束・白石・田代の有志が協議し、四社三神を合祀することとし、現地に遷宮八束八幡神社として祭祀したもの。",2020年12月12日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4342,4343,今金町,,瀬棚郡今金町字八束,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.3926239,140.0294189,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/yatsukajinja.jpg,yatsukajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/yatsukajinja.jpg,4343,yatsukajinja,八束八幡神社,八束八幡神社,八束八幡神社,%e5%85%ab%e6%9d%9f%e5%85%ab%e5%b9%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4347,日進神社,ニッシンジンジャ,"[caption id=""attachment_4348"" align=""aligncenter"" width=""300""] 日進神社[/caption] 創設:明治44(1911)年 御祭神:桓武天皇・明治天皇 祭礼:9月13日 大正6(1917)年、社殿を造営し班毛(ぱんけ)神社と称する。昭和27(1952)年に奥殿を日進部落民が奉納。",2020年12月12日,2020年12月12日,http://donan-museums.jp/archives/4347,4348,今金町,,瀬棚郡今金町字日進,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.3170204,139.9992981,,,,,,,"Taiseiku Miyano, Hokkaido, 043-0513, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/nissinjinja.jpg,nissinjinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/nissinjinja.jpg,4348,nissinjinja,日進神社,日進神社,日進神社,%e6%97%a5%e9%80%b2%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4372,オオシュブンナイの滝,オオシュブンナイノタキ,"[caption id=""attachment_4377"" align=""aligncenter"" width=""228""] オオシュブンナイの滝[/caption] 撮影年:平成12(2000)年8月 ※2020年現在、町道シブンナイ線の一部区間が落石などの危険があり、通行止めとなっているため、オオシュブンナイの滝に行くことはできません。",2020年12月13日,2020年12月13日,http://donan-museums.jp/archives/4372,4377,今金町,,瀬棚郡今金町字中里,,,自然,42.3938293,140.1824951,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/ooshubunnaia.jpg,ooshubunnaia.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/ooshubunnaia.jpg,4377,ooshubunnaia,オオシュブンナイの滝,オオシュブンナイの滝,オオシュブンナイの滝,%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%96%e3%83%b3%e3%83%8a%e3%82%a4%e3%81%ae%e6%bb%9d,0 4379,ピリカ遺跡,ピリカイセキ,"[caption id=""attachment_4380"" align=""aligncenter"" width=""300""] ピリカ遺跡(右は展示施設「石器製作跡」)[/caption] [caption id=""attachment_4381"" align=""aligncenter"" width=""300""] 「石器製作跡」内部の展示[/caption]",2020年12月13日,2020年12月13日,http://donan-museums.jp/archives/4379,4380,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河,旧石器,旧石器,歴史,42.4764214,140.2029724,"後志利別川支流ピリカベツ川左岸の丘陵上に立地する後期旧石器時代の遺跡。これまでの発掘調査で大量の石器が出土し大規模な石器製作拠点であったこと、層位的に異なる二つの文化層が確認され、石器群の変遷をたどることができたこと、流麗な尖頭器や装飾品の石製小玉など当時の高度な石器製作技術や精神文化を示す貴重な遺物が見つかったこと等から、我が国の旧石器時代から縄文時代の移り変わりの様相を示す貴重な遺跡であるとして、国指定史跡に指定された。 なお、その後範囲確認調査で、遺跡の広さは20万平米と推定され、これまでの発掘面積は全体の1%に過ぎず、いまだ多くの石器がこの丘陵上に良好に残されている。 平成15(2003)年、ピリカ遺跡に隣接してガイダンス施設「ピリカ旧石器文化館」が整備され、出土品の展示や映像資料等で遺跡の概要を案内している。また、史跡指定区域内には展示施設「石器製作跡」があり、石器の出土状況を見学することができる。詳しくはこちら",,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,"北海道埋蔵文化財センター編1985年『美利河1遺跡』 今金町教育委員会編2000年『ピリカ遺跡Ⅰ』 今金町教育委員会編2001年『ピリカ遺跡Ⅱ』 今金町教育委員会編2019年『ピリカ旧石器文化館展示ガイドブック』",cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/0001.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/seisakuato201906.jpg,0001.jpg||seisakuato201906.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/0001.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/seisakuato201906.jpg,4380||4381,0001||seisakuato201906,ピリカ遺跡||「石器製作跡」内部の展示,ピリカ遺跡||「石器製作跡」内部の展示,ピリカ遺跡||「石器製作跡」内部の展示,%e3%83%94%e3%83%aa%e3%82%ab%e9%81%ba%e8%b7%a1,0 4384,光台神社,ヒカリダイジンジャ,"[caption id=""attachment_4385"" align=""aligncenter"" width=""200""] 光台神社[/caption] [caption id=""attachment_4386"" align=""aligncenter"" width=""300""] 光台神社鳥居[/caption] 創設:明治37(1904)年 御祭神:妙見神社分神(天之御中主神)、熊野権現(御子速玉之神・家都美御子神) 祭礼:9月9日 由緒:金谷二松郷里相馬妙見神社の分神を奉受し、明治37年に祭祀する。その後、光台の西台に入植した人たちが熊野権現の分身を祭祀していたが、光台の人たちが協議し、妙見神社に二神を鎮座合祀することとし、これを機会に光台神社と改称した。",2020年12月14日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4384,4385,今金町,,瀬棚郡今金町字光台,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4504585,140.0567780,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/hikaridaijinja002.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/hikaridaijinja001.jpg,hikaridaijinja002.jpg||hikaridaijinja001.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/hikaridaijinja002.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/hikaridaijinja001.jpg,4385||4386,hikaridaijinja002||hikaridaijinja001,光台神社||光台神社鳥居,光台神社||光台神社鳥居,光台神社||光台神社鳥居,%e5%85%89%e5%8f%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4389,種川神社,タネカワジンジャ,"[caption id=""attachment_4390"" align=""aligncenter"" width=""300""] 種川神社[/caption] 創設:明治37(1904)年 御祭神:天照大神 祭礼:9月9日",2020年12月14日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4389,4390,今金町,,瀬棚郡今金町字奥種川,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4489555,140.0713959,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/tanekawajinja.jpg,tanekawajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/tanekawajinja.jpg,4390,tanekawajinja,種川神社,種川神社,種川神社,%e7%a8%ae%e5%b7%9d%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4392,秋葉神社,アキバジンジャ,"[caption id=""attachment_4393"" align=""aligncenter"" width=""300""] 秋葉神社[/caption] 創設:明治32(1899)年 御祭神:秋葉山権現(火之迦具土神)[防火神] 祭礼:9月14日 由緒:静岡県人佐藤省三が遠州秋葉山権現の分神を奉受し祭祀した。",2020年12月14日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4392,4393,今金町,,,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4510155,139.9834137,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/akibajinja.jpg,akibajinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/akibajinja.jpg,4393,akibajinja,秋葉神社,秋葉神社,秋葉神社,%e7%a7%8b%e8%91%89%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4395,金原神社,キンパラジンジャ,"[caption id=""attachment_4396"" align=""aligncenter"" width=""300""] 金原神社[/caption] 創設:明治31(1898)年 御祭神:天照大神 祭礼:9月18日 由緒:明治31年、入植者が移住に先立って伊勢皇大神宮から大麻を奉受し、金原に入地すると現在地に祭祀した。大正3(1914)年社殿新築、大正14(1925)年に拝殿を造営、昭和4(1929)年8月滝澤領助狛犬一対奉納。鳥居は昭和12(1937)年建立。なお、上金原神社は金原神社に合祀された。",2020年12月14日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4395,4396,今金町,,瀬棚郡今金町字金原,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4049072,139.9825592,,,,,,,"Nakasato, Hokkaido, 049-4154, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/kimparajinjya.jpg,kimparajinjya.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/kimparajinjya.jpg,4396,kimparajinjya,金原神社,金原神社,金原神社,%e9%87%91%e5%8e%9f%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4398,男山八幡宮,オトコヤマハチマングウ,"[caption id=""attachment_4399"" align=""aligncenter"" width=""300""] 男山八幡宮[/caption] 創設:明治37(1904)年 御祭神:八幡宮(京都八幡宮分神)誉田別尊(ほんだわけのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと) 祭礼:9月15日 由緒:明治37年、中島新三郎ほか5名が入植当時、京都八幡宮の分神を奉受したことで神社を建立したもの。昭和16(1941)年9月に社殿を改築。",2020年12月14日,2021年1月21日,http://donan-museums.jp/archives/4398,4399,今金町,,瀬棚郡今金町字住吉,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4114494,140.1065979,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/sumiyoshi.jpg,sumiyoshi.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/sumiyoshi.jpg,4399,sumiyoshi,男山八幡宮,男山八幡宮,男山八幡宮,%e7%94%b7%e5%b1%b1%e5%85%ab%e5%b9%a1%e5%ae%ae,0 4403,第四利別簡易教育所跡碑,ダイヨントシベツカンイキョウイクショアトヒ,"[caption id=""attachment_4404"" align=""aligncenter"" width=""300""] 第四利別簡易教育所跡碑[/caption] 開拓創始者・鈴木義宗は入植者の定住策として子弟の教育に強い関心を持ち、入植者が50余戸となったことから、明治32(1899)年、簡易教育所の設置認可を受け、西の台に15坪の平屋で床に藁を敷き、机の代用として丸太に板を釘付けにし三人用として、石板・石筆を頼りに読み書き・そろばん・手習の授業が行われた。明治37(1904)年になり、さらに教育環境を整備するため、有志の寄付により28坪の校舎を新築し、翌年から第四利別尋常小学校に改称された。 参考資料:改訂今金町史(上巻)",2020年12月14日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4403,4404,今金町,,瀬棚郡今金町字八束,平成,明治,碑・像,42.3982124,140.0106049,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","第四利別簡易教育所跡 八束小学校百周年記念 題字 八束小学校長 阿部和美",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/yatsukakyoikusyoato.jpg,yatsukakyoikusyoato.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/yatsukakyoikusyoato.jpg,4404,yatsukakyoikusyoato,第四利別簡易教育所跡碑,第四利別簡易教育所跡碑,第四利別簡易教育所跡碑,%e7%ac%ac%e5%9b%9b%e5%88%a9%e5%88%a5%e7%b0%a1%e6%98%93%e6%95%99%e8%82%b2%e6%89%80%e8%b7%a1%e7%a2%91,0 4406,南山大神宮,ミナミヤマダイジングウ,"[caption id=""attachment_4407"" align=""aligncenter"" width=""300""] 南山大神宮[/caption] 創設:明治36(1903)年 御祭神:後陽成院の御宸筆の写・天照大神の軸 祭礼:春陰暦4月8日 秋9月15日 由緒:明治36年陰暦4月8日、佐藤平蔵が伊勢国豊受大神宮(外宮)より奉受して祭礼する。",2020年12月14日,2023年4月8日,http://donan-museums.jp/archives/4406,4407,今金町,,瀬棚郡今金町字田代,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4064598,140.0431061,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/nanzandaijingu.jpg,nanzandaijingu.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/nanzandaijingu.jpg,4407,nanzandaijingu,南山大神宮,南山大神宮,南山大神宮,%e5%8d%97%e5%b1%b1%e5%a4%a7%e7%a5%9e%e5%ae%ae,0 4410,中里神社,ナカサトジンジャ,"[caption id=""attachment_4411"" align=""aligncenter"" width=""294""] 中里神社[/caption] 創設:明治37(1904)年 御祭神:天照大神 祭礼:9月17日",2020年12月14日,2020年12月14日,http://donan-museums.jp/archives/4410,4411,今金町,,瀬棚郡今金町字中里,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.3919640,140.1234741,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2020/12/nakasatojinja.jpg,nakasatojinja.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2020/12/nakasatojinja.jpg,4411,nakasatojinja,中里神社,中里神社,中里神社,%e4%b8%ad%e9%87%8c%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4414,カニカン岳金山跡,カニカンダケキンザンアト,"[caption id=""attachment_4415"" align=""aligncenter"" width=""300""] カニカン岳近景[/caption] [caption id=""attachment_4416"" align=""aligncenter"" width=""300""] カニカン岳採集の鉱山臼[/caption] 江戸時代前期(17世紀中葉)の金山遺跡で、これまでの調査によりカニカン岳中腹の標高約600m付近に鉱石の粉成等の作業が行われたテラス(人為的な平坦地)があり、それよりさらに高位面に鉱石の採掘域等の存在が確認されている。また、南麓を流れる茶屋川の源流部付近で鉱山臼2点、北麓のベタヌ川付近で鉱山臼1点が採集されている。茶屋川採集の2点は定形型、ベタヌ川採集のものは黒川型とされ、いずれも美利河地区の文化財保管・活用庫で保管している。 本格的な調査は行われておらず、具体的な内容はよくわかっていない。 なお、カニカン岳はアイヌ語「カニカンヌプリ」に由来し、「金を取る山」という意味である。",2021年1月12日,2023年9月28日,http://donan-museums.jp/archives/4414,4415,今金町,,瀬棚郡今金町字美利河,近世,近世,歴史,42.5406418,140.1664276,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,"坂倉源次郎 1739年『北海随筆』 寺崎康史 2013年「カニカン岳金山跡」『日本の金銀山遺跡』所収 (財)日本ナショナルトラスト 1996年『美利河・花石の砂金採掘跡』 矢野牧夫 1988年『黄金郷への旅』北海道新聞社",cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/01/kanikankinzanato.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/01/066.jpg,kanikankinzanato.jpg||066.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/01/kanikankinzanato.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/01/066.jpg,4415||4416,カニカン岳近景||カニカン岳採集の鉱山臼,カニカン岳近景||カニカン岳採集の鉱山臼,カニカン岳近景||直径46cm,カニカン岳近景||カニカン岳採集の鉱山臼,%e3%82%ab%e3%83%8b%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%b2%b3%e9%87%91%e5%b1%b1%e8%b7%a1,0 4431,美谷袋澗,ビヤフクロマ,"",2021年2月17日,2021年3月22日,http://donan-museums.jp/archives/4431,4435,せたな町,瀬棚地区,久遠郡せたな町瀬棚区美谷,明治||大正,明治||大正,生業,42.5624962,139.8356171,美谷袋澗は現存するものでは珍しい蒲鉾型で、長さ20m、高さ1.5m、2列遺構となっている。,,,,,,,,,,,,setana,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1401.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1413.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1408.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1411.jpg,IMG_1401.jpg||IMG_1413.jpg||IMG_1408.jpg||IMG_1411.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1401.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1413.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1408.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/02/IMG_1411.jpg,4435||4434||4433||4432,IMG_1401||IMG_1413||IMG_1408||IMG_1411,,,,%e7%be%8e%e8%b0%b7%e8%a2%8b%e6%be%97,0 4472,教願寺,キョウガンジ,"[caption id=""attachment_4473"" align=""aligncenter"" width=""300""] 教願寺[/caption]",2021年5月10日,2021年5月18日,http://donan-museums.jp/archives/4472,4473,今金町,,瀬棚郡今金町字今金24番地,昭和,昭和||平成,建造物,42.4300537,140.0067444,"浄土真宗本願寺派。 創建は明治36(1903)年9月、社号公称は大正11(1922)年8月。 昭和24(1949)年11月に本堂が新築、完成。 昭和49(1974)年9月に客殿、昭和57(1982)年に庫裡を再建。",,,,,,"Showacho, Hokkaido, 049-4314, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/kyoganji.jpg,kyoganji.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/kyoganji.jpg,4473,教願寺,教願寺,教願寺,教願寺,%e6%95%99%e9%a1%98%e5%af%ba,0 4475,専教寺,センキョウジ,"[caption id=""attachment_4525"" align=""aligncenter"" width=""300""] 専教寺[/caption]",2021年5月10日,2023年11月26日,http://donan-museums.jp/archives/4475,4476,今金町,,瀬棚郡今金町字田代,,,建造物,42.4135551,140.0104980,"浄土真宗本願寺派(西本願寺) 創立は明治44(1911)年5月。寺号公称は大正2(1913)年。 現本堂は昭和51(1976)年12月に改築完成。",,,,,,"Nakasato, Hokkaido, 049-4154, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/senkyoji.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/senkyoji-1.jpg,senkyoji.jpg||senkyoji-1.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/senkyoji.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/senkyoji-1.jpg,4476||4525,専教寺||専教寺,専教寺||専教寺,専教寺||専教寺,専教寺||専教寺,%e5%b0%82%e6%95%99%e5%af%ba,0 4478,普済寺,フサイジ,"[caption id=""attachment_4479"" align=""aligncenter"" width=""300""] 普済寺[/caption]",2021年5月10日,2021年5月18日,http://donan-museums.jp/archives/4478,4479,今金町,,瀬棚郡今金町字今金,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4291954,140.0051727,"曹洞宗。 創立は明治28(1895)年夏。寺号公称は大正5(1916)年。 昭和54(1979)年までに本堂、納骨堂、客殿、庫裡、鐘楼の改築完成。地蔵堂は昭和61(1986)年に改築。",,,,,,"Showacho, Hokkaido, 049-4314, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/fusaiji.jpg,fusaiji.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/fusaiji.jpg,4479,普済寺,普済寺,普済寺,普済寺,%e6%99%ae%e6%b8%88%e5%af%ba,0 4481,隆憧寺,リュウドウジ,"[caption id=""attachment_4522"" align=""aligncenter"" width=""300""] 隆憧寺[/caption]",2021年5月17日,2021年6月1日,http://donan-museums.jp/archives/4481,4522,今金町,,今金町字今金,昭和,昭和||平成,建造物,42.4301529,140.0106812,"真言宗高野山。 創立・寺号公称は昭和8(1933)年8月。 昭和8(1933)年に本堂完成、昭和11(1936)年に増築完成。",,,,,,"Showacho, Hokkaido, 049-4314, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/ryudoji20210531.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/ryudoji.jpg,ryudoji20210531.jpg||ryudoji.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/ryudoji20210531.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/ryudoji.jpg,4522||4482,隆憧寺||隆憧寺,隆憧寺||隆憧寺,隆憧寺||隆憧寺,隆憧寺||隆憧寺,%e9%9a%86%e6%86%a7%e5%af%ba,0 4496,法林寺,ホウリンジ,"[caption id=""attachment_4510"" align=""aligncenter"" width=""300""] 法林寺[/caption]",2021年5月18日,2021年5月30日,http://donan-museums.jp/archives/4496,4510,今金町,,瀬棚郡今金町字今金,明治,,建造物,42.4301186,140.0138550,"真宗大谷派。 創立は明治30(1897)年8月。寺号公称は明治39(1906)年。 本堂改築は昭和5(1930)年に完成し、庫裡改築は昭和19(1944)年に完成。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,"2021.05.30 経度が 500.0138550 になっていたので 140.0138550 に修正しました(未来大 奥野)",http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/horinji.jpg,horinji.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/horinji.jpg,4510,法林寺,法林寺,法林寺,法林寺,%e6%b3%95%e6%9e%97%e5%af%ba,0 4515,インマヌエル教会,イマカネインマヌエルキョウカイ,"[caption id=""attachment_4520"" align=""aligncenter"" width=""300""] 今金インマヌエル教会[/caption]",2021年6月1日,2021年6月1日,http://donan-museums.jp/archives/4515,4520,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘,明治,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4202881,139.9705200,"宗派は日本聖公会。 初代聖堂は明治29(1896)年、現在の道道936号と北11線との交差点の西角(現地点から直線距離で約400m離れた場所)に建てられたが、たびたび後志利別川の洪水被害にあい、立地としては不適当であった。 大正7(1918)年、現在の場所に二代目聖堂が完成。 二代目聖堂の老朽化のため、昭和43(1968)年に三代目聖堂が建て替えられ、現在に至る。 設計は函館ヨハネ教会員・浜島国四郎氏で、寒冷地高床式コンクリートスラブ方式。",,,,,,"Nakasato, Hokkaido, 049-4154, JP",,,,日本聖公会今金インマヌエル教会創始沿革,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/05/imnuelkyokai.jpg,imnuelkyokai.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/05/imnuelkyokai.jpg,4520,今金インマヌエル教会,今金インマヌエル教会,今金インマヌエル教会,今金インマヌエル教会,%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%9e%e3%83%8c%e3%82%a8%e3%83%ab%e6%95%99%e4%bc%9a,0 4527,地蔵,ジゾウ,"[caption id=""attachment_4528"" align=""aligncenter"" width=""245""] 地蔵[/caption] 建立:昭和58(1983)年5月",2021年6月1日,2021年6月8日,http://donan-museums.jp/archives/4527,4528,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘,昭和,昭和||平成,碑・像,42.4316216,139.9709473,,,,,,,"Azumacho, Hokkaido, 049-4301, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/kamiokabochijizo.jpg,kamiokabochijizo.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/kamiokabochijizo.jpg,4528,地蔵尊,地蔵尊,地蔵尊,地蔵尊,%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%b0%8a-2,0 4530,鳥獣神社,チョウジュウジンジャ,"[caption id=""attachment_4531"" align=""aligncenter"" width=""240""] 鳥獣神社[/caption]",2021年6月1日,2021年6月1日,http://donan-museums.jp/archives/4530,4531,今金町,,瀬棚郡今金町字今金,昭和,昭和||平成,建造物,42.4304657,140.0111389,"創立:昭和47(1972)年8月 今金猟友クラブが有志から募金を募り、今金八幡宮境内に建立。 完工式と供養祭には町長、警察署長をはじめ、町内のハンター約50名が訪れ、今まで殺生した多くの鳥獣を慰霊した。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,改訂今金町史(下巻),cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/chojyujinjya.jpg,chojyujinjya.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/chojyujinjya.jpg,4531,鳥獣神社,鳥獣神社,鳥獣神社,鳥獣神社,%e9%b3%a5%e7%8d%a3%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4533,今村氏・金森氏再会記念樹,イマムラシカナモリシサイカイキネンジュ,"[caption id=""attachment_4534"" align=""aligncenter"" width=""209""] 今村氏・金森氏再会記念樹[/caption]",2021年6月2日,2021年6月3日,http://donan-museums.jp/archives/4533,4534,今金町,,瀬棚郡今金町字今金,平成,平成,歴史,42.4277611,140.0138855,平成13(2001)年6月、金森石郎の子孫・金森義弘氏(当時山形県副知事)が来町され、同じく開拓の祖である今村藤次郎の子孫・今村由井子氏と再会した。この再会を記念し、今金町字今金のデ・モーレンいまかね正面に町木であるイチイを植えたもの。今村氏と金森氏が今金の地で会うのは開拓当時以来107年ぶりのことだった。,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/imamurakanamorisyokuju.jpg,imamurakanamorisyokuju.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/imamurakanamorisyokuju.jpg,4534,今村氏・金森氏再会記念樹,"今村氏・金森氏再会記念樹 ","今村氏・金森氏再会記念樹 ",今村氏・金森氏再会記念樹,%e4%bb%8a%e6%9d%91%e6%b0%8f%e3%83%bb%e9%87%91%e6%a3%ae%e6%b0%8f%e5%86%8d%e4%bc%9a%e8%a8%98%e5%bf%b5%e6%a8%b9,0 4559,(旧)今金町立八束小学校校舎,キュウイマカネチョウリツヤツカショウガッコウコウシャ,"[caption id=""attachment_4560"" align=""aligncenter"" width=""300""] (旧)今金町立八束小学校校舎[/caption] [caption id=""attachment_4562"" align=""aligncenter"" width=""300""] (旧)今金町立八束小学校校舎[/caption]",2021年6月8日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/4559,4560,今金町,,瀬棚郡今金町字田代531番地,昭和,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.3922577,140.0281067,"主な沿革 明治32(1899)年、現地点より北西へ約1.6km離れた通称「西の台」に簡易教育所として設立。 明治38(1905)年に第四利別尋常小学校に改称。 明治45(1912)年、現在地に移転。 昭和2(1927)年、大茶良部(おちゃらっぺ)小学校に改称。 昭和9(1931)年、八束尋常小学校に改称。 昭和10(1932)年、八束尋常高等小学校に改称。 昭和16(1941)年、国民学校に改称。 昭和22(1947)年、八束中学校を併置。 昭和50(1975)年2月、原因不明の出火で校舎全焼。 昭和50(1975)年12月、現校舎が完成。 昭和51(1976)年、屋内体育場が完成。 平成19(2007)年3月、廃校。 現校舎は「八束交流センター」と改称され、町が管理し、地区住民に利活用されている。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,改訂今金町史上巻・下巻,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5282.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5288.jpg,NKN_5282.jpg||NKN_5288.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5282.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5288.jpg,4560||4562,(旧)今金町立八束小学校校舎||(旧)今金町立八束小学校校舎,(旧)今金町立八束小学校校舎||(旧)今金町立八束小学校校舎,(旧)今金町立八束小学校校舎||(旧)今金町立八束小学校校舎,(旧)今金町立八束小学校校舎||(旧)今金町立八束小学校校舎,%ef%bc%88%e6%97%a7%ef%bc%89%e4%bb%8a%e9%87%91%e7%94%ba%e7%ab%8b%e5%85%ab%e6%9d%9f%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e6%a0%a1%e8%88%8e,0 4564,(旧)今金町立神丘小学校校舎,キュウイマカネチョウリツカミオカショウガッコウコウシャ,"[caption id=""attachment_4565"" align=""aligncenter"" width=""300""] (旧)今金町立神丘小学校校舎[/caption]",2021年6月8日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/4564,4565,今金町,,瀬棚郡今金町字神丘820番地,昭和,明治||大正||昭和||平成,建造物,42.4368935,139.9798737,"主な沿革 明治31(1898)年、現地点より南へ約1.9km離れた西10号基線付近に仮校舎が設立され授業開始。 明治36(1903)年、現在地に移転、新築。 昭和初め頃、今縫留(いんまぬえる)尋常小学校に改称。 昭和8(1933)年、神丘小学校に改称。 昭和16(1941)年、国民学校に改称。 昭和19(1944)年、高等科併置。 昭和22(1947)年、神丘小学校に改称。 昭和44(1969)年2月、火災で全焼。 昭和44(1969)年10月、現在地に現校舎完成。 平成20(2008)年3月、廃校。 現校舎は神丘連合自治会が管理し、地区住民に利活用されている。",,,,,,"Nakasato, Hokkaido, 049-4154, JP",,,,改訂今金町史上巻・下巻,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5301.jpg,NKN_5301.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5301.jpg,4565,(旧)今金町立神丘小学校校舎,(旧)今金町立神丘小学校校舎,(旧)今金町立神丘小学校校舎,(旧)今金町立神丘小学校校舎,%ef%bc%88%e6%97%a7%ef%bc%89%e4%bb%8a%e9%87%91%e7%94%ba%e7%ab%8b%e7%a5%9e%e4%b8%98%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e6%a0%a1%e8%88%8e,0 4569,地蔵,ジゾウ,"[caption id=""attachment_4570"" align=""aligncenter"" width=""227""] 地蔵[/caption]",2021年6月8日,2021年6月8日,http://donan-museums.jp/archives/4569,4570,今金町,,瀬棚郡今金町字住吉,,,碑・像,42.3934479,140.1084442,,,,,,,"Nakasato, Hokkaido, 049-4154, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5266.jpg,NKN_5266.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5266.jpg,4570,地蔵尊,地蔵尊,地蔵尊,地蔵尊,%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%b0%8a-3,0 4572,地蔵,ジゾウ,"[caption id=""attachment_4573"" align=""aligncenter"" width=""300""] 地蔵[/caption]",2021年6月8日,2021年6月8日,http://donan-museums.jp/archives/4572,4573,今金町,,瀬棚郡今金町字花石,,,碑・像,42.4338951,140.1597748,,,,,,,"Hanaishi, Hokkaido, 049-4153, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5248.jpg,NKN_5248.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5248.jpg,4573,地蔵尊,地蔵尊,地蔵尊,地蔵尊,%e5%9c%b0%e8%94%b5%e5%b0%8a-4,0 4608,(旧)日進小学校体育館,キュウニッシンショウガッコウタイイクカン,"[caption id=""attachment_4609"" align=""aligncenter"" width=""300""] (旧)日進小学校体育館[/caption]",2021年6月11日,2021年6月11日,http://donan-museums.jp/archives/4608,4609,今金町,,瀬棚郡今金町字日進,昭和,明治||大正||昭和,建造物,42.3176613,140.0008240,"主な沿革 明治45(1912)年、池の岱(いけのたい)教育所として開校。 大正5(1916)年、池の岱尋常小学校に改称。 大正6(1917)年、現在地に移転、校舎新築。 大正14(1925)年、児童数190余人を数える。 昭和2(1927)年、班毛(ぱんけ)尋常小学校に改称。 昭和9(1934)年、日進(にっしん)小学校に改称。 昭和16(1941)年、国民学校に改称。 昭和19(1944)年、高等科併置。 昭和22(1947)年、日進中学校を併置。 昭和34(1959)年11月、屋内体育館新築(現存施設)。 昭和48(1973)年、日進中学校が今金中学校に統合、廃校。 昭和53年(1978)年3月、日進小学校休校。 昭和62年(1987)年3月、廃校。 その後、屋内体育館の部分のみ残し、校舎解体。",,,,,,"Taiseiku Kaitorima, Hokkaido, 043-0515, JP",,,,改訂今金町史上巻・下巻,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5553.jpg,NKN_5553.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/NKN_5553.jpg,4609,(旧)日進小学校体育館,"(旧)日進小学校体育館 ","(旧)日進小学校体育館 ",(旧)日進小学校体育館,%ef%bc%88%e6%97%a7%ef%bc%89%e6%97%a5%e9%80%b2%e5%b0%8f%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e4%bd%93%e8%82%b2%e9%a4%a8,0 4618,慰霊碑,イレイヒ,"[caption id=""attachment_4619"" align=""aligncenter"" width=""200""] 慰霊碑[/caption] [caption id=""attachment_4620"" align=""aligncenter"" width=""205""] 慰霊碑(裏)[/caption] 建立:昭和32(1957)年",2021年6月13日,2021年6月13日,http://donan-museums.jp/archives/4618,4619,今金町,,"瀬棚郡今金町字神丘 神丘墓地",昭和,昭和,碑・像,42.4315224,139.9710693,,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP","無縁仏乃霊を 慰る為め建之 昭和三十二年九月 山崎喜三郎",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/ireihi01.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/ireihi02.jpg,ireihi01.jpg||ireihi02.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/ireihi01.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/ireihi02.jpg,4619||4620,慰霊碑||慰霊碑,慰霊碑||慰霊碑(裏),慰霊碑||慰霊碑(裏),慰霊碑||慰霊碑,%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91,0 4624,今金町産業会館,イマカネチョウサンギョウカイカン,"[caption id=""attachment_4625"" align=""aligncenter"" width=""300""] 今金町産業会館[/caption]",2021年6月13日,2021年6月13日,http://donan-museums.jp/archives/4624,4625,今金町,,瀬棚郡今金町字今金,昭和,昭和,建造物,42.4297829,140.0118866,"今金町商工会が昭和40(1965)年9月に建設。 木造2階建て、総面積293平米。 事務室、大小会議室、特産品陳列室を備え、専門店会協同組合、青色申告会等が入り、当時は商工業者の利便性が高かった。 現在は今金町高齢者事業団の事務所として利用されている。",,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,改訂今金町史下巻,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/産業会館.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/産業会館.jpg,4625,今金町産業会館,今金町産業会館,今金町産業会館,今金町産業会館,%e4%bb%8a%e9%87%91%e7%94%ba%e7%94%a3%e6%a5%ad%e4%bc%9a%e9%a4%a8,0 4672,地蔵,ジゾウ,"[caption id=""attachment_4673"" align=""aligncenter"" width=""218""] 地蔵[/caption] ",2021年6月28日,2021年6月28日,http://donan-museums.jp/archives/4672,4673,今金町,,瀬棚郡今金町字中里,,,碑・像,42.4282112,140.1529846,,,,,,,,,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/hanaishijizo01.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/06/hanaishijizo02.jpg,hanaishijizo01.jpg||hanaishijizo02.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/hanaishijizo01.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/06/hanaishijizo02.jpg,4673||4674,地蔵||hanaishijizo02,地蔵||,地蔵||,地蔵||,%e5%9c%b0%e8%94%b5,0 4706,地蔵,地蔵,"[caption id=""attachment_4707"" align=""aligncenter"" width=""240""] 地蔵[/caption] [caption id=""attachment_4708"" align=""aligncenter"" width=""300""] 地蔵[/caption]",2021年7月11日,2021年7月11日,http://donan-museums.jp/archives/4706,4707,今金町,,瀬棚郡今金町住吉,明治||大正||昭和,,碑・像,42.4112053,140.1050568,明治43(1910)年頃、住吉地区に創設されたばかりの大谷派説教所に神野正平氏によって祀られたのが始まりとされる。その後、大正14~15年頃に住吉橋付近へ移転。その後、洪水を避けるため現在地に移された。縁日は8月24日。,,,,,,"Sumiyoshi, Hokkaido, 049-4156, JP",,,,「住吉開基百七年男山八幡神社御鎮座百年記念誌 上ハカイマップ」2003年発行,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/07/NKN_6040.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2021/07/NKN_6043.jpg,NKN_6040.jpg||NKN_6043.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/07/NKN_6040.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2021/07/NKN_6043.jpg,4707||4708,地蔵||地蔵,地蔵||地蔵,地蔵||地蔵,地蔵||地蔵,%e5%9c%b0%e8%94%b5-2,0 4736,シャクシャイン古戦場跡碑,シャクシャインコセンジョウアトヒ,"[caption id=""attachment_4737"" align=""aligncenter"" width=""300""] シャクシャイン古戦場跡碑[/caption] ",2023年8月12日,2023年8月12日,http://donan-museums.jp/archives/4736,4737,長万部町,,北海道山越郡長万部町国縫30,平成,近世,碑・像,42.4349289,140.3191681,,,,,,,"Kuroiwa, Hokkaido, 049-3341, JP","「シャクシャインの戦争」クンヌイ古戦場跡 一六六九(寛文九)年、和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのおさシャクシャインが、アイヌモシリ全域に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍を編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。 シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川をはさんで、松前軍と対峙する。アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベから更に本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。シベチャリに退いたシャクシャインは松前軍との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終息に向かった。 クンヌイ川をはさんだこの地は、松前を目指して攻め寄せたシャクシャイン軍と松前軍との、最大の激戦地の跡である。 この戦いは、先住民族アイヌと中央政権との主従関係の成立を意味しない。 それは十九世紀初頭から二度の幕府直轄を経て、明治期からの近代法体系の中で漸次形づくられたものである。さらに戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない。 この地に眠る両軍犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。 二〇一六(平成二十八)年九月建立 長万部町長 木 幡 正 志",,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/08/P8110612.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/08/P8110613.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/08/P8110611.jpg,P8110612.jpg||P8110613.jpg||P8110611.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/08/P8110612.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/08/P8110613.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/08/P8110611.jpg,4737||4739||4738,シャクシャイン古戦場跡碑||P8110613||P8110611,シャクシャイン古戦場跡碑||||,シャクシャイン古戦場跡碑||||,シャクシャイン古戦場跡碑||||,%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%82%af%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%82%a4%e3%83%b3%e5%8f%a4%e6%88%a6%e5%a0%b4%e8%b7%a1%e7%a2%91,0 4741,静狩湿原,シズカリシツゲン,"[caption id=""attachment_4742"" align=""aligncenter"" width=""300""] 静狩湿原[/caption] ",2023年8月12日,2023年8月12日,http://donan-museums.jp/archives/4741,4742,長万部町,,北海道山越郡長万部町静狩,,,自然,42.5732117,140.4317169,,,,,,,"Taisei, Hokkaido, 048-0143, JP",,"記念物 静狩湿原 北海道の最南端に分布する本町の貴重な高層湿原(ミズゴケ湿原)。 夏にはトキソウ、イソツツジ、他にもモウセンゴケ、サワラン、ミズトンボ、ワタスゲなどが咲き誇る原生植物の宝庫。かつては300haもあったが現在は34ha程度になった。 禁止事項 1.植物を掘ったり抜き取ること、2.発掘調査をすること、3.土地の形を変えること、4.建築や土木工事をすること",,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/08/NKN_4963.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/08/P6050431.jpg,NKN_4963.jpg||P6050431.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/08/NKN_4963.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/08/P6050431.jpg,4742||4743,静狩湿原||P6050431,静狩湿原||,静狩湿原||,静狩湿原||,%e9%9d%99%e7%8b%a9%e6%b9%bf%e5%8e%9f,0 4750,二股温泉の石灰華,フタマタオンセンノセッカイカ,"二股温泉の石灰華、いわゆる湯の華は、温泉中に多量に含まれた炭酸石灰成分が、温泉の湧出によって温度・圧力が低下し、水分も多少蒸発して沈殿したものです。 沈殿物は、堆積したり、あるいは鍾乳洞のように垂れ下がったり、種々の奇形を呈しています。また、その沈殿速度が大変速いので、わすか半月で様々な型の置物ができあがります。 長さ約400m、幅約200m、厚さ最大25mで、段丘上の丘をつくるこの石灰華の規模は、世界においてもアメリカのイエローストーン、マンモス・ホットスプリングの石灰華の他に例がなく、学術的に非常に貴重なものです。 1965年6月14日、北海道指定天然記念物に指定。 [caption id=""attachment_4751"" align=""aligncenter"" width=""300""] 二股温泉の石灰華[/caption] [caption id=""attachment_4752"" align=""aligncenter"" width=""300""] 二股温泉の石灰華[/caption] [caption id=""attachment_4753"" align=""aligncenter"" width=""300""] 解説板[/caption]",2023年9月1日,2023年9月1日,http://donan-museums.jp/archives/4750,4751,長万部町,,北海道長万部町字大峯30番地ほか,,,自然,42.5764885,140.2397461,,,,,,,"Kuromatsunai, Hokkaido, 048-0101, JP",,,,,,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/09/IMG_8871.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/09/IMG_8867.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/09/IMG_8873.jpg,IMG_8871.jpg||IMG_8867.jpg||IMG_8873.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/09/IMG_8871.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/09/IMG_8867.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/09/IMG_8873.jpg,4751||4753||4752,二股温泉の石灰華||解説板||二股温泉の石灰華,二股温泉の石灰華||解説板||二股温泉の石灰華,二股温泉の石灰華||解説板||二股温泉の石灰華,二股温泉の石灰華||解説板||二股温泉の石灰華,%e4%ba%8c%e8%82%a1%e6%b8%a9%e6%b3%89%e3%81%ae%e7%9f%b3%e7%81%b0%e8%8f%af,0 4761,三味線滝,シャミセンダキ,"落差約15mの滝。流れ落ちる音が三味線の音色に似ているとか、滝が三筋の糸のように流れていることから名付けられたという。",2023年9月12日,2023年9月12日,http://donan-museums.jp/archives/4761,4764,鹿部町,,茅部郡鹿部町大岩,,,自然,42.0134850,140.8524170,,,,,,,"Iwatocho, Hokkaido, 041-1624, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/09/IMG_0967-scaled.jpeg,IMG_0967-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/09/IMG_0967-scaled.jpeg,4764,三味線滝,,,,%e4%b8%89%e5%91%b3%e7%b7%9a%e6%bb%9d,0 4769,昆布礁復舊記念碑,コンブショウフッキュウキネンヒ," 昭和4年(1929年)6月17日の駒ヶ岳大噴火の折、鹿部町の昆布礁は壊滅的な被害を受けたが、新たな岩礁造成のため、投石事業と海底岩盤の破砕事業をすすめ復旧を図った。昭和11年、昆布礁の災害復旧を記念して建立された。当初は、大沼電鉄鹿部駅前広場に建立されたが、後に鹿部稲荷神社境内に移設、その後、昭和61年に現在地である鹿部公園内に移設された。",2023年10月28日,2023年11月20日,http://donan-museums.jp/archives/4769,4770,鹿部町,,"北海道茅部郡鹿部町鹿部 駐車場",昭和||平成,昭和||平成,碑・像,42.0323830,140.8124084,,,,,,,"Iwatocho, Hokkaido, 041-1624, JP","表 昆布礁復舊記念碑
",,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/10/IMG_0405-scaled.jpeg,IMG_0405-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/10/IMG_0405-scaled.jpeg,4770,昆布礁復舊記念碑,,,昆布礁復舊記念碑,%e6%98%86%e5%b8%83%e7%a4%81%e5%be%a9%e8%88%8a%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 4774,駒ヶ岳爆発記念碑,コマガタケバクハツキネンヒ," 昭和4年(1929年)6月17日の駒ヶ岳大噴火により鹿部町は壊滅的な被害を受けたが、住民の努力によって復興したことを記念して、伊藤源八と佐々木喜之助の2名によって寄進された石碑。当初鹿部神社境内に建立されたが、昭和61年に現在の鹿部公園内へ移設された。",2023年10月28日,2023年10月28日,http://donan-museums.jp/archives/4774,4772,鹿部町,,"北海道茅部郡鹿部町鹿部 駐車場",昭和,昭和,碑・像,42.0323639,140.8124695,,,,,,,"Iwatocho, Hokkaido, 041-1624, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/10/IMG_0406-scaled.jpeg,IMG_0406-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/10/IMG_0406-scaled.jpeg,4772,駒ヶ岳爆発記念碑,,,,%e9%a7%92%e3%83%b6%e5%b2%b3%e7%88%86%e7%99%ba%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91,0 4776,ミンク供養之碑,ミンククヨウノヒ," 昭和34年(1959年)に産業振興を目的に鹿部村においてミンク飼育を開始、以降、毛皮品評会において最高位の通産大臣賞を受賞するなどの実績を持ち、一村一品運動の先駆となる自治体事業として注目されたが、昭和62年(1987年)、時代の変化により事業を閉じることとなった。この石碑は、鹿部町におけるミンク事業を後世に伝えるため建立された。",2023年10月28日,2023年10月28日,http://donan-museums.jp/archives/4776,4777,鹿部町,,"北海道茅部郡鹿部町鹿部 駐車場",昭和,昭和,碑・像,42.0324287,140.8125610,,,,,,,"Iwatocho, Hokkaido, 041-1624, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/10/IMG_0410-scaled.jpeg,IMG_0410-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/10/IMG_0410-scaled.jpeg,4777,ミンク供養之碑,,,,%e3%83%9f%e3%83%b3%e3%82%af%e4%be%9b%e9%a4%8a%e4%b9%8b%e7%a2%91,0 4785,植木蒼悦記念館,ウエキソウエツキネンカン,"北海道唯一の水墨画家で俳人でもあった植木蒼悦(本名・悦郎)は、孤高貧窮の仙人とも呼ばれるような生活で、自己表現を貫きました。 昭和57年(1982年)10月にオープンしたこの美術館は、蒼悦の河童をモチーフにした水墨画をはじめ、油彩画・俳句書などの作品が展示されています。(長万部町HPより転載) [caption id=""attachment_4786"" align=""aligncenter"" width=""300""] 植木蒼悦記念館[/caption]",2023年11月25日,2023年11月25日,http://donan-museums.jp/archives/4785,4786,長万部町,,北海道山越郡長万部町長万部413,,,博物館等の施設,42.5169144,140.3735504,"開館時間 10:00~16:00 休館日 月曜日、12月30日~1月5日、祝日の翌日 入館料 無料 見学希望の方は隣の町民センターにお問い合わせください",,,,,,"Toyohoro, Hokkaido, 048-0113, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/11/PB241849.jpg,PB241849.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/11/PB241849.jpg,4786,植木蒼悦記念館,植木蒼悦記念館,植木蒼悦記念館,植木蒼悦記念館,%e6%a4%8d%e6%9c%a8%e8%92%bc%e6%82%a6%e8%a8%98%e5%bf%b5%e9%a4%a8,0 4790,平和祈念館,ヘイワキネンカン,"長万部町で43年間開業していた医師の故・工藤豊吉氏が、私財を投じて建設した美術館で、昭和58年(1983年)の終戦記念日に、展示品の数々が長万部町に寄贈され、人類の平和を祈念して開館しました。 高床校倉風の建物に、反戦の思いを込めた作品や、心に平穏を与える美術品の数々が展示されています。前庭は彫刻の庭となっており、北海道出身の世界的彫刻家・本郷新氏の作品「嵐の中の母子像」「わだつみのこえ」ほか3点が展示されています。(長万部町HPより転載) [caption id=""attachment_4789"" align=""aligncenter"" width=""300""] 平和祈念館[/caption] ",2023年11月25日,2023年11月26日,http://donan-museums.jp/archives/4790,4789,長万部町,,北海道山越郡長万部町字長万部413番地12,,,博物館等の施設,42.5174828,140.3739624,"開館時間 10:00~16:00 休館日 毎週月曜日、12月30日~1月5日、祝日の翌日 入館料 無料",,,,,,"Toyohoro, Hokkaido, 048-0113, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/11/PB241859.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/11/PB241858.jpg,PB241859.jpg||PB241858.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/11/PB241859.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/11/PB241858.jpg,4789||4805,平和祈念館||PB241858,平和祈念館||,平和祈念館||,平和祈念館||,%e5%b9%b3%e5%92%8c%e7%a5%88%e5%bf%b5%e9%a4%a8,0 4792,長万部町民センター,オシャマンベチョウミンセンター,"長万部町民センターは、「郷土資料室」、「鉄道村」、「和田芳恵コーナー」など、長万部の歴史に関する史料を一堂に集めた施設です。(長万部町HPより転載) [caption id=""attachment_4793"" align=""aligncenter"" width=""300""] 長万部町民センター[/caption]",2023年11月25日,2023年11月25日,http://donan-museums.jp/archives/4792,4793,長万部町,,北海道山越郡長万部町字長万部413番地12,,,博物館等の施設,42.5172005,140.3738708,"開館時間 10:00~16:00 休館日 毎週月曜日、12月30日~1月5日、祝日の翌日 入館料 無料 TEL.01377-2-5396",,,,,,"Toyohoro, Hokkaido, 048-0113, JP",,,,,cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/11/PB241851.jpg,PB241851.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/11/PB241851.jpg,4793,長万部町民センター,長万部町民センター,長万部町民センター,長万部町民センター,%e9%95%b7%e4%b8%87%e9%83%a8%e7%94%ba%e6%b0%91%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc,0 4799,ヲシャマンベ陣屋跡,オシャマンベジンヤアト,"安政2年(1855年)年、ロシアの南下を恐れた江戸幕府は、盛岡藩(南部藩)に蝦夷地警備を命じ、分屯地として設置したもの。 地理的に室蘭出張陣屋と砂原屯所とのほぼ中間にあり、黒松内を経て日本海側に達する陸路との分岐点に当たることや、地形的に長万部川河口右岸にあったヲシヤマンベ会所の背後に坊主山と呼ばれた段丘の末端に当たることから、この地が選ばれた。 しかし、沿岸は遠浅のため、外国船が容易に近づけないことがわかり、陣屋の必要性がなくなったことから、安政4年(1857)8月に廃止されることとなり、12月には撤去され、取り壊した建物は砂原屯所に送られた。 その後、この屯所跡地は運動場として使われたり、同じ段丘上にある飯生(いいなり)神社の改築などで屯所正面にあたる南東側は囲郭跡地が大きく改変された。 現地には現在も一部の土塁が残り、昭和49年(1974)に「東蝦夷地南部陣屋跡」として国指定史跡に指定された。 [caption id=""attachment_4796"" align=""aligncenter"" width=""300""] ヲシャマンベ陣屋跡[/caption] [caption id=""attachment_4797"" align=""aligncenter"" width=""300""] ヲシャマンベ陣屋跡の土塁[/caption] [caption id=""attachment_4798"" align=""aligncenter"" width=""300""] ヲシャマンベ陣屋跡の土塁[/caption]",2023年11月25日,2023年11月25日,http://donan-museums.jp/archives/4799,4796,長万部町,,北海道山越郡長万部町陣屋町,,,歴史,42.5204430,140.3732452,,,,,,,"Toyohoro, Hokkaido, 048-0113, JP",,,,"長万部町史編集室 1977年「長万部町史」 戸祭由美夫 2017年「絵図にみる幕末の北辺防備 五稜郭と城郭・陣屋・台場」古今書院",cc-by,imakane,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/11/PB241832.jpg,PB241832.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/11/PB241832.jpg,4796,ヲシャマンベ陣屋跡,ヲシャマンベ陣屋跡,ヲシャマンベ陣屋跡,ヲシャマンベ陣屋跡,%e3%83%b2%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%83%99%e9%99%a3%e5%b1%8b%e8%b7%a1,0 4809,サラキ岬-咸臨丸終焉の地,サラキミサキ,"咸臨丸は1857年にオランダで製造された軍艦で、勝海舟らが太平洋横断をしたことでも知られています。 明治3年(1870)になると開拓使が民間の海運会社に咸臨丸を貸与し、商船として北海道開拓移民の輸送に当たることになりました。 明治4年、仙台藩白石城主片倉小十郎邦憲(くにのり)の家臣団が北海道へ渡ることを決意。第三陣として咸臨丸が出発しました。 暴風や高波に遭いながらなんとか9月17日函館に寄港。病人を下船させ20日に小樽へ向けて出発します。しかし、当別沖に差し掛かった頃暴風雨に吹き付けられ木古内町泉沢のサラキ岬沖で暗礁に乗り上げました。2歳から83歳までの乗船人は地元の人々により救助されますが、船体は海中に姿を消しました。 昭和59年(1984)、サラキ岬の沖合で鉄製の錨が発見されました。これが咸臨丸のものとして木古内町郷土資料館「いかりん館」に保存展示されています。",2023年12月23日,2023年12月23日,http://donan-museums.jp/archives/4809,4850,木古内町,,,近世||明治,明治,歴史,41.7002640,140.5244751,,,,,,,"Mitsuishi, Hokkaido, 049-0283, JP",,,,,cc-by,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/DSC_0198サラキ岬咸臨丸碑.jpg,DSC_0198サラキ岬咸臨丸碑.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/DSC_0198サラキ岬咸臨丸碑.jpg,4850,DSC_0198サラキ岬咸臨丸碑,,,咸臨丸終焉の地碑,%e3%82%b5%e3%83%a9%e3%82%ad%e5%b2%ac-%e5%92%b8%e8%87%a8%e4%b8%b8%e7%b5%82%e7%84%89%e3%81%ae%e5%9c%b0,0 4811,道道大沼公園鹿部線沿いの黒松並木,ドウドウオオヌマコウエンシカベセンゾイノクロマツナミキ,"[caption id=""attachment_4812"" align=""alignnone"" width=""300""] 黒松並木[/caption] 昭和4年の駒ケ岳大噴火により、鹿部村は一夜にして火山灰や軽石に被われ、廃村の危機といわれるほどだった。 復興の一環で、村では昭和6年頃から、落葉松などの苗木約3,000本を取り寄せ植樹。土中に硫黄分が多くて植樹は難しいと考えられたが、幸いにも芽吹きを確認したため、翌7年には約10,000本の植樹を推進し、鹿部に緑化運動が始まった。昭和8年には渡島支庁からニセアカシアや松などの種が届けられ、大沼在住の工藤啓五郎と中村駒次郎(当時の鹿部村収入役)によって育成された。 二人が育成したものは苗木となり、後に希望する村民へ配布したが、ニセアカシアの希望者は少なかったためそのまま残されたが、昭和10年に、残った黒松が中村家によって道道わきに移植され、黒松並木が作られたという。 平成3年ごろ、鹿部町の保全事業の一環で75本の補植が行われるなど、鹿部町にとって災害復興の象徴ともいえる松並木である。",2023年11月27日,2023年12月21日,http://donan-museums.jp/archives/4811,4812,鹿部町,,茅部郡鹿部町宮浜,昭和,昭和,自然,42.0401306,140.8037567,,,,,,,"Iwatocho, Hokkaido, 041-1624, JP",,,,,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/11/IMG_0433-scaled.jpeg,IMG_0433-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/11/IMG_0433-scaled.jpeg,4812,IMG_0433,黒松並木,,道道大沼公園鹿部線沿いの黒松並木,%e9%81%93%e9%81%93%e5%a4%a7%e6%b2%bc%e5%85%ac%e5%9c%92%e9%b9%bf%e9%83%a8%e7%b7%9a%e6%b2%bf%e3%81%84%e3%81%ae%e9%bb%92%e6%9d%be%e4%b8%a6%e6%9c%a8,0 4818,八鉾杉,やつほこすぎ," 福島大神宮境内にある杉の大木。 1本の木から8つの枝が生じているため八鉾杉と呼ばれ、、神木として住民に親しまれています。 落雷によってずたずたに割けてしまったが、暫くするとまた元通りの8つの幹になり成長したため、村人の信仰を集めるに至ったと言い伝えられています。",2023年12月11日,2023年12月11日,http://donan-museums.jp/archives/4818,4820,福島町,,,,,自然,41.4768028,140.2549744,,,,,,,"Fukushima, Hokkaido, 049-1312, JP",,"八鉾杉(やつほこすぎ) 記念保護樹木 この木は、慶安2年(1649)福島神明宮再建の際、記念に植栽されたもので、平成30年の時点で樹齢370年に達していると考えられます。1本の幹から8本の枝が生じているためこの名があり、御神木として住民に親しまれています。 昭和50年6月21日指定 北海道",,,cc-by,fukushima,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9614-scaled.jpg,IMG_9614-scaled.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9614-scaled.jpg,4820,IMG_9614,,,,%e5%85%ab%e9%89%be%e6%9d%89,0 4826,乳房檜,ちぶさひのき," 川濯神社の左下手にある周囲8メートルのアスナロ檜の大木。 幹に乳房状のコブがあり、これをさすると母乳の出が良くなると言い伝えがあります。 川濯神社の祭神は伊邪那岐命、 伊邪那美命、瀬織津姫命の三柱の生産・生殖を司る神であり、古くより女性講中によって祭礼が行われてきました。 十年に一回五月の母の日に伝統的な女性による祭礼が行われており、 道南風物詩の一つにもなっています。",2023年12月11日,2023年12月11日,http://donan-museums.jp/archives/4826,4827,福島町,,,,,自然,,,,,,,,,,,"乳房檜記念保護樹木 ヒノキは古くから各種の用材や庭園樹などとして広く用いられてきましたが、その分布は福島県が北限で本道のヒノキは植栽されたものです。 明応元年、福島大神宮が再建されましたが、この樹木はその当時神木として奉植されたものといわれ、母体安全、子孫繁栄などの祈りが込められており、松前藩四代目藩主の奥方も祈願したことがあると伝えられています。 昭和48年3月30日指定 北海道",,,,fukushima,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9627-scaled.jpg,IMG_9627-scaled.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9627-scaled.jpg,4827,IMG_9627,,,,%e4%b9%b3%e6%88%bf%e6%aa%9c,0 4835,白符神社の桧,," 白符神社は、寛文6年(1666年)旧松前藩主美作守景広公が建立したもので、この樹はその当時植裁されたものと思われます。御神木として尊敬されており、これを傷つけると神罰を受けるという言い伝えがあります。",2023年12月19日,2023年12月19日,http://donan-museums.jp/archives/4835,4846,福島町,,,,,自然,41.4658813,140.2463531,,,,,,,"Shirafu, Hokkaido, 049-1301, JP",,,,,,fukushima,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/白符檜_七飯山田さん撮影_IMG_2450-scaled.jpg,_七飯山田さん撮影_IMG_2450-scaled.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/白符檜_七飯山田さん撮影_IMG_2450-scaled.jpg,4846,白符檜_七飯山田さん撮影_IMG_2450,,,,%e7%99%bd%e7%ac%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e6%a1%a7,0 4839,みそぎの浜,ミソギノハマ,"天保2年(1831)1月15日の早朝、佐女川神社の神社守の夢枕に「御神体を清めよ」とのお告げがあった。そこで神社守は神社の真下を流れていた佐女川に張った氷を砕き、その冷水を浴びて自分の身を清め、御神体を抱いて海岸を臨んだ。すると、川口に大鮫が横たわり、波に打たれていた。その背中の上には白衣をまとった美しい女性の姿があったという。神社守が御神体を抱いて海中に入り、幾度となく水ごりを行うと、女性の姿は見えず、大鮫は上流へ上り、小さな沼(佐女沼)に姿を消したという。その年から村は豊漁豊作に恵まれ、大変賑わった。 以来、村では若者四人を選び、行修者として冷水を浴び体を清めることとなった。最終日(現在は1月15日に行われる)には「別当」「稲荷」「山の神」「弁財天」の四つの御神体を抱いたまま極寒の津軽海峡へ飛び込み、一年の豊漁豊作を祈願する神事として受け継がれている。 ",2023年12月21日,2023年12月23日,http://donan-museums.jp/archives/4839,4852,木古内町,,,近世,近世,歴史,41.6745796,140.4386139,,,,,,,"Nakanokawa, Hokkaido, 049-1101, JP",,,,,,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/IMG_6800寒中みそぎ.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/みそぎの浜-scaled.jpeg,IMG_6800寒中みそぎ.jpg||-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/IMG_6800寒中みそぎ.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/みそぎの浜-scaled.jpeg,4852||4856,IMG_6800寒中みそぎ||みそぎの浜,,,,%e3%81%bf%e3%81%9d%e3%81%8e%e3%81%ae%e6%b5%9c,0 4841,佐女川神社,サメガワジンジャ,"寛永2年(1625)、松前藩初代藩主松前慶広の六男である景広が佐女川のほとりに祠を建て武運長久を祈願したのが始まりとされています。 寛文5年(1665)頃に僧円空が来道し、鉈彫り像を一体安置したため観音堂と称されたこともあります。 慶応4年(1868)、明治新政府による神仏分離令によって廃されるところを村人の手に守られ、この像を主神として木古内村の鎮守として現在に至っています。 ",2023年12月21日,2023年12月23日,http://donan-museums.jp/archives/4841,4855,木古内町,,,近世,近世,"建造物,未分類",41.6822968,140.4316254,,,,,,,"Nakanokawa, Hokkaido, 049-1101, JP",,,,,cc-by,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/さめかわ神社-scaled.jpg,-scaled.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/さめかわ神社-scaled.jpg,4855,佐女川神社,,,佐女川神社,%e4%bd%90%e5%a5%b3%e5%b7%9d%e7%a5%9e%e7%a4%be,0 4877,禅燈寺,ゼントウジ,"明治18年(1885)から19年にかけて旧庄内藩から木古内村に移住して来た人々により、明治33年(1900)12月20日に落成。本尊は釈迦牟尼如来。 大正5年(1916)山門を建立。仏師二代目風間壮慶による仁王像がある。 JR江差線が山門と本堂の間を走っていた。 ",2023年12月23日,2023年12月23日,http://donan-museums.jp/archives/4877,4863,木古内町,,,明治||大正,明治,"歴史,碑・像",41.6712608,140.4097137,,,,,,,"Nakanokawa, Hokkaido, 049-1101, JP",,,,,cc-by,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/禅燈寺山門-scaled.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/禅燈寺.jpg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/山門天井-scaled.jpeg||http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/山門-scaled.jpeg,-scaled.jpg||.jpg||-scaled.jpeg||-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/禅燈寺山門-scaled.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/禅燈寺.jpg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/山門天井-scaled.jpeg||/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/山門-scaled.jpeg,4863||4862||4860||4859,禅燈寺山門||禅燈寺||山門天井||,,,||||||禅燈寺,%e7%a6%85%e7%87%88%e5%af%ba,0 4879,木古内の坊,キコナイノボウ,"大正7年(1918)に北海道庁が編纂した『北海道人名字彙』の中に「木古内ノ坊」という項目があります。 木古内ノ坊こと川又友吉は弘化3年(1846)の生まれで、生まれつき目が不自由でした。家族も病のため満足に働けない厳しい境遇の中、友吉は父と病気がちな弟二人を養うため、函館へ出て付け木(マッチ)を売り歩きます。ボロボロの服を身にまといながら、いつも笑顔をたやしませんでした。友吉は孝行者として道南一帯に広く知られるようになり、明治10年(1877)には開拓使から表彰されましたが、明治21年病に倒れ、翌年43歳で生涯を終えました。 現代人が忘れ去ろうとしている純真な人間性、親孝行、正直、勤勉などの徳目を見出し、因果応報を信じ、末長く後世に語り継ぐため、「木古内の坊の会」により『木古内の坊物語』が発刊され、平成18年(2006)に像が建てられました。 ",2023年12月23日,2023年12月29日,http://donan-museums.jp/archives/4879,4866,木古内町,,,平成,大正,碑・像,41.6814995,140.4419250,,,,,,,,,,,木古内町「新木古内町史」2023,cc-by,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/木古内の坊.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/木古内の坊.jpg,4866,木古内の坊,,,,%e6%9c%a8%e5%8f%a4%e5%86%85%e3%81%ae%e5%9d%8a,0 4882,山形庄内藩士上陸の地碑,やまがたしょうないはんしじょうりくのちひ,"明治18年(1885)から19年にかけて、北海道開拓と北方警備を目指して山形県鶴岡から105戸がこの地に渡ってきました。 記念碑は昭和40年(1965)、鶴岡地区開基八十周年事業として字本町702番地に標柱を建立したのが始まりです。47年、この場所に町立病院が建設されることとなり、中学校通り線の町有地に石碑を新設建立しました。その後平成22年(2010)9月、北海道新幹線建設に伴い、現在地に移転されました。 ",2023年12月23日,2023年12月23日,http://donan-museums.jp/archives/4882,4864,木古内町,,,昭和,明治,"歴史,碑・像",41.6718102,140.4116974,,,,,,,"Nakanokawa, Hokkaido, 049-1101, JP","北門の警備と蝦夷地開拓、自立自営の大使命を帯び、明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発、酒田港より御用船にて此の地に上陸し、庄内藩士、佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ土地墾闢を志向す。 所謂、士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い、大谷地、棚部岱、瓜谷、吉堀、中野、達川に移住し、爾来 鏤骨の辛苦と苦難の農耕を続け、歴代に受け継がれ、此処に87年の今日、水田酪農郷鶴岡を築く。 改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に伝えん 酒井忠明書",,,,cc-by,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/荘内藩上陸碑.jpg,.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/荘内藩上陸碑.jpg,4864,荘内藩上陸碑,,,,%e5%b1%b1%e5%bd%a2%e5%ba%84%e5%86%85%e8%97%a9%e5%a3%ab%e4%b8%8a%e9%99%b8%e3%81%ae%e5%9c%b0%e7%a2%91,0 4887,忠魂碑,チュウコンヒ,"[caption id=""attachment_4888"" align=""alignnone"" width=""225""] 鹿部神社境内の忠魂碑[/caption] 明治37年、38年の日露戦争に鹿部町出身者30名が出征、凱旋帰還した兵士により帝国在郷軍人会が結成され、大正5年頃から忠魂碑を建立するため寄付を募っていました。函館水電株式会社や有志の寄付により、大正7年に着工、折戸川河畔に近い丘の上に約5メートルの石碑を建立し、大正11年に除幕式が挙行された。 昭和4年の駒ケ岳の大噴火の後、折戸川から町の中央部へ移転する計画があがり、昭和7年に字鹿部66番地へ移転。後に日中戦争、太平洋戦争が勃発すると鹿部町出身の戦死者が多数となり、戦後になると忠魂碑は浜通りにあった鹿部稲荷神社の境内へ移転します。その後、昭和31年に神社の移転にともない忠魂碑も現在の場所へ移転されました。 昭和51年に戦没者遺族会によって忠魂碑の奥に57基の墓碑が建立され、慰霊祭が執行されている。 ",2023年12月28日,2023年12月28日,http://donan-museums.jp/archives/4887,4888,鹿部町,,茅部郡鹿部町宮浜321,大正,大正,"歴史,碑・像",42.0355759,140.8182068,,,,,,,"Iwatocho, Hokkaido, 041-1624, JP",,,,・「広報しかべ」No.263号
,cc-by,nanae,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/IMG_0429-scaled.jpeg,IMG_0429-scaled.jpeg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/IMG_0429-scaled.jpeg,4888,忠魂碑,鹿部神社境内の忠魂碑,,忠魂碑,%e5%bf%a0%e9%ad%82%e7%a2%91-5,0 4891,薬師堂,ヤクシドウ,"薬師山頂上にあり、本尊は薬師如来 天保12年(1841)4月建立。 ",2023年12月29日,2024年3月28日,http://donan-museums.jp/archives/4891,4853,木古内町,,,近世,近世,建造物,41.6841393,140.4356232,,,,,,,,,,,,cc-by,shiriuchi,,http://donan-museums.jp/wp-content/uploads/2023/12/img157薬師堂外観.jpg,img157薬師堂外観.jpg,/home/musehakodate/donan-museums.jp/public_html/wp-content/uploads/2023/12/img157薬師堂外観.jpg,4853,img157薬師堂外観,,,,%e8%96%ac%e5%b8%ab%e5%a0%82,0