箱館通宝銭座跡
ハコダテツウホウゼニザアト
(表)
箱館通宝 銭座跡
(裏)
昭和五十二年十月
函館古銭会建立
■案内板
安政3年(1856年)幕府はえぞ地(北海道)に限り通用として銭の鋳造を認め、当地尻澤辺村字谷地頭といわれた。
この地に北海道唯一の銭座を建てた。銭文は箱館通實、円孔の鉄の銭であった。
安政4年(1857年)4月より同5年11月までの鋳造高は、10万650貫文という。
昭和52年10月 函館古銭会
■追加解説
昔、蝦夷地では和人が物を売り買いする場合には銭を用いていたが、この通貨は何れも本州からの移入品で、それ以外は物物交換によった。蝦夷地でも、産出される砂金が貨幣として使ったことや、「松前小判」と称した金貨を造ったこともあったが、市場に広くは流通しなかった。
幕府の前直轄時代には、アイヌの人々に銭の使用法を教えて、売買計算の方法を習熟させようとしたが、松前藩が復領すると、貨幣の通用は禁止された。さらに、松前藩の支配のもので行われた場所請負人による交易の独占により、アイヌの人々の生活は益々困窮することとなった。
このため幕府の再直轄時代にはいると、箱館奉行がこの悪弊を除去しようと再三建議した結果、「箱館通宝」を鋳造することとなり、開港間もない1856年(安政3年)11月に銭座が設けられた。
松平信濃守、石川左近将監、羽太庄左衛門、大河内善兵衛、三橋藤右衛門等が幕府に上申した「蝦夷地銭通用之儀に付、再応申上候書付」中の「品替と銭通用之勝劣左に申上候」の条には下記のようなことが挙げられ、蝦夷地の開拓は「銭通用は開国之主法第一と被存候義に御座候」と結ばれている。
一、蝦夷人との交易品搬出の不便
二、蝦夷地における物品購入の困難
三、交易標準の不統一
四、蝦夷地における和人生活の困難
五、和人蝦夷人雑居における不便
六、蝦夷人生活の不安定
鋳造に関わる職人は南部地方から雇入れ、安政5年11月までに10万650貫、安政6年までに19万貫余、3か年間に30万5000貫の「箱館通宝」が鋳造された。安政4年閏5月から、箱館や松前江差、さらに蝦夷地内に流通させたが、その価値は必ずしも一定ではなかったようである。箱館市中では1両につき6貫800匁替の相場であった。
この貨幣の「箱館通宝」の字は、当時箱館奉行定役太田為之助の筆であり、裏面の「安」は安政の安を表している。当初は鉄銭ばかりだったが、奉行所の松浦竹四郎が上申し、銅銭も鋳造するようになった。武四郎自身、鍋、煙管、火箸等を提供したという(「函館百珍と函館史実」より)
この「箱館通宝」は例の少ない鉄銭で、他に比べると重量が重く、品質が粗悪だったため、人々から嫌われて次第に流通しなくなり、遂に鋳造も中止となった。
1977(昭和52)年11月3日に、この碑の除幕式が行れた。
■参考文献
「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第26集(函館市史編纂委員会)