函館大火供養碑
ハコダテタイカクヨウヒ
■碑文
(表)
供養碑
函館之地由来多風屢逢災戹昭和九年三月二十一日夕七時前西南風起速度過三十四米突眞為希有之事時市内住吉町某家失火火勢猛烈倏忽之間延焼里餘又有漏電数所益加火勢消防職員雖尽力注水水即為風力所圧煙散霧飛毫無効果家倒屋壊蓋飛檐舞人身浮動無術可施時偶満潮海岸激浪怒号欲避難者眩惑失方或為火所迫或為水所遮進退維谷焼死溺死相次無算且風雪頻至寒威凛凓有免災而凍死者号嘑喚叫宛然地獄呵責也中間風針転西火至于海而止矣蓋翌二十二日朝六時也此罹災町数全焼二十二半焼十八戸数二万五千一百三十一死者二千一百六十餘何其惨哉我湯川区域中焼死溺死収其屍者及六百餘可謂酸撹腸者也茲有志相謀欲建供養碑以祈亡霊之冥福使余記其略概云爾
昭和九年甲戊六月 高田忠周選并書
■解説
1934年(昭和9年)3月21日、函館大火で焼死・溺死・凍死した人々のなかで、湯川地区で収容された遺体六百余の供養施餓鬼の記念碑である。慰霊施設としては函館市慰霊堂(大森町)があるが、湯川地区では、この供養碑が当時の有様を伝えている。
撰文、清書ともに書家・漢学者、高田忠周(竹山)による。
■参考文献
「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)