筆塚(土谷多兵衛之墓)
フデヅカ(ツチヤタベイノハカ)
■碑文
正 面 土谷多兵衛之墓
裏面上部 門 人
裏面右 筆 塚
明治二十七年十二月十三日
裏面中央 濱堅藤吉 佐埜李蔵 土谷掟太郎 田子由太郎
輪島留五郎 井川寛蔵
裏面左 土谷三
■解説
土谷多兵衛についての詳しい資料はないが、熊石町史に土谷太兵衛として出てくるところがある。明治初期の漁業実態に絡んでの資料であるがかいつまんで触れると次のようになる。
明治五年の鯡漁業は松前白神峠から茂津多岬(瀬棚)までが希有の凶漁に見舞われ、明治六年の漁に期待をかけたがこの年も不漁となった。その不安の最中、鯡漁業税二十分の一を改正して十分の一に改めた事から漁民一揆が勃発し、道南一帯に広がったため青森鎮台兵が出動し、黒田開拓次官が福山にきて税の据置を決断し、さらに不漁困窮の場合の政府貸付も考慮する事を約束して、漁民の動揺を押さえた。
しかし明治七年も不漁となり、九月に政府の貸付が許された。この漁業資本金は網を持って着業する大規模漁業者のみ貸付が許されている。
一、金拾五圓 土谷太兵衛
此引當
中差網 三拾放
その後の調査によって次の通り判明した。
土谷太兵衛
北海道爾志郡熊石町字畳岩廿番地
天保六年八月一五日生まれ (長男)
嘉永五年二月廿九日前戸主(土谷太兵衛)死亡により跡相続
■参考文献
2007『熊石史実年表』八雲町編