海陸軍戦死人名碑
カイリクグンセンシニンメイヒ
■碑文
(表)
海陸軍戦死名
(裏)
皇政復古天下帰于一然而頑鈍不悟凶暴自恣者相聚為賊遂襲此島據以抗 朝廷実明治元年十月廿四日也当是時官大出兵于青森而将海陸竝進以征之矣会雪深風烈凍寒殊甚而戦艦不至挙軍瞋目搤腕切歯以偏怒賊之暴戻恣睢却厭討征之遅々夙夜苦身焦心暴露雨雪練兵厲氣漸彌日越月及春而山雪稍融海風始穏戦艦畢至挙軍歓躍意氣奮揚乃四月六日前軍先航而到乙部分兵于四道一軍則踰木古内嶺一軍則踰鶉嶺一軍則踰安野呂嶺一軍則沿海浜出于福山城以海陸軍竝進乙部江差所聚之賊膽委氣沮不頓刄接兵而潰敗聚于福山城以抗 天兵不日而殿軍次至矣愈益奮起進如鉾矢戦如雷霆所嚮無前捕獲無算十七日復福山城五月十一日復箱館尋賊皆降全島全定而今天下無又有賊也矣嗚呼全島向離賊之酸酷而今休寧無恙豈亦非将師軍士刻苦之所致乎哉因為弔戦死者記其概略以表其勳労於万世之下云
維時明治二年歳在己巳秋八月総督清水谷侍従藤原公考朝臣撰之当社造営管轄陸軍々監有地志津摩藤原行古同和田植之介藤原義比海軍々監前田雅楽棟隆
■解説
箱館戦争に倒れた官軍勇士278名の氏名、藩名、戦死年月日、地名が刻まれているが、重複や脱洩が多い。
船見町には、別に「己巳役海軍戦死碑」がある。裏面の碑文は清水谷公考によるもので、招魂社造営にあたった陸軍の有地、和田、海軍の前田などの名が見られる。この石も亀石の一部である(尚、この事については「明治戊辰己己役官軍殉難者考」(神山茂著)を御参照願いたい)。
■参考文献
「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)