関内庚申塔
セキナイコウシントウ
正 面 梵字 庚申塔 (梵字の左右は日月文様)
正面右 天下和順
正面左 日月清明
裏 面 明治廿四年(右)卯八月二日(左)
山崎三右衛門 渡辺栄七 野呂留三郎 野呂粕蔵
世話方 野呂徳松建之
北海道新聞朝の食卓(平成2年11月)の磯野利男の「庚申塚」によれ ば「庚申の故事のルーツは中国の道教にある。かのえさるの夜に体内の虫が抜けでて天帝にざん言するのを防ぐため、人々は夜っぴて酒宴を張ったのが始まりと言う。これが仏教と混交して「青面金剛」を庚申の守護神とした。わが国にも仏教伝来と共にこの風習が伝わり、各地に庚申講もでき、かのえさるの日には祭事を催し身の安全を願った。通常かのえさるの日は年に六度巡るが、十二年目に七回ある。この年を七庚申と言って「塚」を建てた。焼尻にもかつて庚申講があり、その日には講中相寄り夜を徹して飲み明かした。信仰よりのみかつ語るのを楽しみにした。その庚申講も講中の人たちの他界により消滅し、今は塚を守る者もいない。やがては庚申の故事も「塚」と同様、草に埋もれてしまうのであろうか。見猿、言わ猿、聞か猿を世に庚申三猿(えん)と称するが、江戸の川柳に「庚申はせ猿をいれて四猿なり」というのがある。つまり前を押さえたもう一匹の猿がいるらしい。」
この文章は焼尻神社の「七庚申」の塚にふれて述べているが、焼尻を関内や折戸に置き換えればそのまま熊石の状況でもある。石碑の裏の野呂家は三国定雄著の「関内よもやま話」の明治二十三年頃より三十年当時関内茶屋町付近全盛当時之図によれば茶屋町通りの入り口付近にあり庚申塔も関内川の側に建っていた事がわかる。
相沼から館平の人たちは八幡神社の横の自然石で出来た庚申塔を祀ってきた。現在も2ケ月ごとに20名くらいの会員で講を開いている。
床の間の中央に庚申の軸をかけ、供物を供え、中の一人が祭壇に向かって参拝してから、全員で「コーシンダイーコウシンダイー、マイタリマイタリ、ソワカー」と唱えて祈る。中央の一人が1回ごとに豆粒を1つづつよせ、33粒(回)で1廻りが終わる。1廻りの後に当番者が支度した食事が出る。やがて2回目が始まりそれが終わると、御神酒と肴が出る。その後3回目が始まり、こうして一夜を語り明かすと言う。
(※しかし、2017年現在、講は行われていないようである。)
2007『熊石史実年表』八雲町編