山田致人は、伊予国新谷藩士で、明治維新後は、開拓使に出仕しました。退官・任官を繰り返すものの明治十一年まで開拓使に勤務しました。
明治十七年に同志十三戸と館村へ入植し、西洋式農業の導入、教会堂の建設、小学校の創設、診療所の開設など館地域の振興に力を尽くしました。
明治三十三年に伊達村(現伊達市)からの要請により初代村長に就任しますが、翌年、健康を害したため村長職を辞し、療養のため館村に帰りました。しかし、致人不在の間、山田家長男道太の放蕩がエスカレートし、病床の致人はこれを苦に明治三十五年五月九日自害し、五十七歳の生涯を終えたのでした。
墓碑は、開拓使時代に親交があったと思われる榎本武揚が、花崗岩に自書して横浜港から船便で送ったものと言われています。