小児郎翁は、薩摩国に生まれ、鹿児島県会議員を務めていましたが、明治21年(1888)5月に北海道開拓移住を決意しました。単身渡道し、館村の国有未開地の払下げを受けて開墾を始めました。
山田致人等と共に診療所の設置や館小学校の創立などに活躍し、大麦の試作や養蚕を試みるなどしています。
字富里の旧地名である「鷲の巣」は小児郎の命名によるものです。私財を投じて、富里小学校の前身となる「太平学舎」を開設し、地域の発展に大きな業績を残しました。小児郎は、昭和14年(1939)4月9日享年87才の天寿を全うしました。
開拓祈念碑は、昭和9年(1934)に彼の功績をたたえ、鷲の巣集落の人びとが稲倉石河畔の自然石を運び建立したものです。