記念碑

キネンヒ

記念碑
記念碑

種川地区の開拓功労者・加藤政之助(かとうまさのすけ)の碑
建立:明治41(1908)年3月、その後老朽化に伴い昭和46(1971)年8月建替え

■碑文

(正面)
記念碑
明治二五年埼玉県の有志加藤政之助外数名、北海道巡視の途次開墾せんと欲し、荊棘を分けて深く利別原野に入る、時に此の地は犬養毅外数名の貸下地に属す道長官北垣國道の勧誘に依り其の権利を継承して開墾せんことを決意し帰県後同志を糾合して北海道拓殖組合を創立し、明治二六年より此の地の開墾に着手せり、爾来一五星霜の間、移住者を勧誘し開墾に従事せるも経費多く重ねて収入之に伴わず組合員此の地離散を希望する者踵を接して出す、加藤政之助、角田真平、加藤勘助の三者、一〇年の苦心を一朝水泡に帰せしむることを憂い、三七年他の組合員の出資を賠償し、その権利を継承す、明治四〇年に至り業成りて貸下地全部の所有権を付与せり、是れ埼玉県移住民の拮据勉励の力に待つ所多し、故に約に従い地を割きて住民に分与する茲に住民等資を醵し碑を建て此の事蹟を後世に伝えんと欲し、余に其の文を嘱す、此の地開墾の事歴を略記し其の需に応ず。
明治四一年春三月
勲四等衆議院議員 加藤政之助謹書

(裏面)
本記念碑は明治四十一年三月吉日、先人の輝かしい偉業を後世に伝えるため、部落の有志によって建立したものであるが、爾来、風雪による腐蝕甚だしく、ここに部落民の総意により、先人の労苦を再認識し、併せてその偉業を永遠に継承するため建立したものである。
昭和四十六年八月五日
種川連合部落会

■解説

種川部落は元埼玉県人によって開拓され、埼玉部落ともいわれ町内でも畜産、養蚕、馬鈴薯づくりの盛んなところでもあった。これらは加藤政之助、加藤勘助、角田真平三翁のたゆみない努力のあらわれである。明治25(1892)年加藤政之助ら数名が本道開発を試み利別原野に足を踏み入れ、犬養毅の貸付地を道庁に計りその権利を継承、北海道拓殖組合を創立し開墾に着手したものである。明治28(1895)年加藤勘助氏は実兄の政之助や角田真平両氏に謀り三人共同で拓殖事業を進め、勘助はその経営や道路開削の任に当たった。さらに三翁は同県から同志を呼び寄せる一方、離散を希望する組合員の出資を賠償してその権利を継承、果樹、桑樹の栽培、家畜の飼養のほか養蚕の奨励や馬鈴薯の栽培を働きかけ、澱粉の製造をはじめ専心農業の発達を図った。約15年間にして貸与地の所有権を取得、開拓者に配分して現在の種川部落の発展を図ったものである。
参考文献「広報いまかね」第101号(1967年1月発行)

大エリア 今金町
小エリア
所在地瀬棚郡今金町字種川
制作時代 明治, 昭和
主題時代 明治
カテゴリ 碑・像