豊川稲荷神社
トヨカワイナリジンジャ
豊川稲荷神社
文久年間(1861年~1864年)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。
昭和9年(1934年)の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年(1940年)に建てられたもので、海に向いて建っていた当時とは向きが逆である。
古くから商売繁盛の神様として多くの人々から崇められ、魚市場や蓬莱町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などがそれを物語っている。
函館市
文久年間(1861~1864)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。
昭和9年の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年に建てられたもので、当時とは向きが逆である。
古くから商売繁盛の神様として崇められ、魚市場や蓬莢町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などが信者層を語っている。
函館市
丰川稻荷神社
文久年间(1861年-1864年),有志之士为了祈愿此地之繁盛而建。当时此地被称为新筑岛,神社建成后改为了丰川町。
昭和9年(1934年)神社第四次遭受火灾波及延烧,现今的神社重建于昭和15年(1940年),与最初面海而建的原神社朝向正好相反。
自古以来作为保佑生意繁荣的神明而香火繁盛,鱼市场及蓬来町(现在的宝来町)见番艺妓(艺妓管理办公室)一起捐奉的石灯笼似乎还在讲述著那些往事。
函馆市
豐川稻荷神社
文久年間(1861年-1864年),有志之士為了祈願此地之繁盛而建。當時此地被稱為新築島,神社建成後改為了豐川町。
昭和9年(1934年)神社第四次遭受火災波及延燒,現今的神社重建於昭和15年(1940年),與最初面海而建的原神社朝向正好相反。
自古以來作為保佑生意繁榮的神明而香火繁盛,魚市場及蓬來町(現在的寶來町)見番藝妓(藝妓管理辦公室)一起捐奉的石燈籠似乎還在講述著那些往事。
函館市
ศาลเจ้าโทโยคาวะอินาริ
ช่วงปีบุงคิว (ค.ศ.1861- ค.ศ.1864) เป็นศาลเจ้าที่มีอาสาสมัครสร้างขึ้นเพื่ออธิษฐานให้ละแวกนั้นเจริญรุ่งเรือง ในขณะนั้น ที่ในละแวกนั้น ถูกเรียกว่า ชินทสึคิชิมะ เมื่อศาลเจ้าสร้างเสร็จ จึงถูกเรียกว่าตำบลโทโยคาวะ
จนกระทั่งไฟไหม้ครั้งใหญ่ในปีโชวะที่ 9 (ค.ศ.1934) ศาลเจ้าถูกไฟไหม้สี่ครั้ง ศาลเจ้าหลังปัจจุบัน สร้างขึ้นในสมัยโชวะที่ 15 (ค.ศ.1940) ซึ่งตรงข้ามศาลเจ้าในขณะนั้นที่หันหน้าไปทางทะเล
ศาลเจ้าแห่งนี้ ได้รับการเคารพสักการะในฐานะที่เป็นเทพเจ้าแห่งความเจริญรุ่งเรืองในทางธุรกิจมาตั้งแต่สมัยโบราณ และโคมไฟหินที่ตลาดปลา, บรรดาบ้านเกอิชาของเมืองโฮไร (ตำบลโฮไรในปัจจุบัน) บริจาค คงเป็นเครื่องยืนยันได้อย่างดี