砂山影二の歌碑

スナヤマカゲジノカヒ

砂山影二の歌碑

 

 

■碑文

(表)

        砂山影二
わがいのち
この海峡の浪の間に
消ゆる日を想ふ
――岬に立ちて

(裏)

昭和四十三年五月十六日建之
図書裡会 海峡評論社

■解説

砂山影二の歌碑

砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918年)に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍した。
石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に壊疑的であった影二は、大正10年(1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。
この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。
函館市

■観光説明板

砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壷」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。
この歌は「坊っちやんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968)年、海峡評論社と図書裡会が建立した。

函館市

■追加解説

砂山影二(1902年~1921年)は、函館市で生まれ、庁立函館中学校を中退、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壷」の同人として活躍した。

描述

砂山影二之歌碑

砂山影二(本名、中野寅雄)大正7年(1918年)加入并活跃于大正在函馆创刊的文艺杂志《银壶》。
他深深崇拜石川啄木,倾倒于他的短歌,从他的作品中可以窥视到石川啄木影响。对人生持怀疑态度的砂山影二于大正10年(1921年)从青函联络船投海,结束了其年仅20岁的生命。
此诗歌为《坊ちゃんの歌集》的前文,歌碑是昭和43年(1968年)时由海峡评论社与函馆图书里会所建。
函馆市

描述

砂山影二之歌碑

砂山影二(本名、中野寅雄)大正7年(1918年)加入並活躍於大正在函館創刊的文藝雜誌《銀壺》。
他深深崇拜石川啄木,傾倒於他的短歌,從他的作品中可以窺視到石川啄木影響。對人生持懷疑態度的砂山影二於大正10年(1921年)從青函聯絡船投海,結束了其年僅20歲的生命。
此詩歌為「坊ちゃんの歌集」的前文,歌碑是昭和43年(1968年)時由海峽評論社與函館圖書裡會所建。
函館市

คำอธิบาย

อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนของซึนะยามะ คาเงะจิ

ซึนะยามะ คาเงะจิ (ชื่อจริง นาคาโนะ โทราโอะ) มีบทบาทในฐานะสมาชิกคนหนึ่งของวารสารวรรณกรรม "กิงโนะทสึโบะ" ที่ตีพิมพ์ครั้งแรกที่ฮาโกดาเตะในไทโชที่ 7 (ค.ศ.1918)
เนื่องจากเขาเคารพเทอดทูนอิชิกาวะ ทาคุโบะคุเป็นอย่างมาก และทุ่มเทให้กับกลอนสั้น(ทังกะ)นั้น จึงมองเห็นอิทธิพลของทาคุโบะคุในผลงานของเขา คาเงะจิผู้มีความสงสัยในชีวิตของตน ได้กระโดดออกจากเรือข้ามเกาะเซคังในปีไทโชที่ 10 (ค.ศ.1921) เสียชีวิตด้วยอายุเพียง 20 ปี
กลอนบทนี้อยู่ในช่วงเริ่มต้นของ "รวมบทกลอนของโบ๊จจัง" อนุสาวรีย์จารึกบทกลอนถูกสร้างขึ้นในปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) โดยนักวิจารณ์ไคเคียวและชมรมหอสมุดฮาโกดาเตะ

■参考文献

「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年)

大エリア 函館市
小エリア 西部地区
所在地函館市住吉町16(住吉墓地内)
制作時代 昭和
主題時代 大正
カテゴリ 碑・像