函館公園記
ハコダテコウエンキ
(表)
函館公園記
太政大臣兼賞勲局修史館総栽従一位大勲位三条実美篆額
函館北海道之門戸也環山抱海当海陸之衝北控全道南接陸羽為北方大都会考諸志乗当蝦夷荒昧之時其事蹟不可得而詳焉文安中有河野氏者拠此及松前氏治蝦夷建関其近邑亀田以譏行人函館由是著寛政以降北徼多事幕府置函館奉行以鎭撫蝦夷地迨其与欧米各国訂盟開五口通商函館居其一於是海舶洋賈往来不絶民居日益殷盛明治初置開拓使統轄全道開拓使設支庁于此管民政外交之事以謂民生之漸繋執業之甚勤而無所以安慰之者非一張一弛之道也乃謀創公園以供人民遊覧之娯於庁之南谷地頭以官地若干充之市民渡辺熊四郎等聞有是挙或納貲或献地以助工今函館県令時任君時以使員長于支庁乃命熊四郎等任公園開築之事其庭池装修則専委之浅田清次郎而今大書記官有竹君董役各踴躍従事始於明治十一年三月訖於翌年十一月園広方一万四千六百歩西南負山樹林蒼鬱東対大瀛混茫無際其北則港口風帆煙檣隠見于碧波瀲灔之中而園内泉石花卉点綴布置極清雅幽秀之致又設博物之館陳列本道物産奇珎異貨光怪陸離於是乎士之官於斯者商工行旅之業於斯出於斯者各以暇日徜徉園中游焉息焉娯其耳目而休其神思夫函館之始成市聚不過百数十年承平日久人民漸集嚮之荒煙蔓草熊狼嘷而麋鹿群者悉化為民居市廛櫛比街路縦横而興隆之運方未有艾昔日之歎人煙寥寥者今則人皆厭其煩囂紛擾欲尋清閒之区昿敞之観以資游覧之快而公園之設適中其所求宜其歓欣奮躍而助成之也抑又国家治化之隆而為民上者善察其所便悉心経営故能至此焉爾鳴呼百余年来時運否泰民生休戚之故其亦可思也哉時任君属余以記文将刻石園中余前奉職於使庁得悉斯園所由設之意故不敢辞而述其梗概如此云
明治十五年十一月 太政官大書記官従五位勲四等 小牧昌業撰
修史館監事従五位勲五等 巌谷脩書 井亀泉刻字
(裏)
公園開築従事者
開築専務 浅田清次郎
函館勤務中
同世話掛 常野正義
渡辺熊四郎
平塚時蔵
平田文右衛門
今井市右衛門
岩船峰次郎
菊地治郎右衛門
新栄幸門
■解説
表面には「函館公園記」という三条実美の篆額と、公園築設の由来を記した小牧昌業による漢文が刻まれ、裏面には公園開築従業者の氏名がある。
北海道の玄関口函館は、開港通商の場で大変にぎやかであった。そこで逍遥心を楽しむ憩の場所を希望していた開拓支庁が明治6年公園築園を計画、同10年11月函館駐在イギリス領事ユースデン氏のすすめで渡辺熊四郎が感奮して、小林重吉、今井市右衛門、九茂喜代治、小島與三郎ら有志を集めた。区長常野正義も賛助し、開拓使庁に請願して時任君が、公園接近の地買い上げ、一万四千六百歩に至った。渡辺熊四郎・平塚時蔵・平田丈右衛門・新栄幸平・今井市右衛門・岩船峯次郎・菊地治郎右衛門の7人を選び、公園監守として浅田清次郎を工事担当させた。園全体をながめるため同12年時任為基が自ら鋤・鍬を握り、築山を造った、明治12年11月3日天長節にあたり開園祭を行った。こうして市民一体となって造られたこの公園は資金数千円、9,080人余の協力者によって完成した。(函館公園全図より)
■参考文献
「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)