終戦後、厚沢部町には海外引揚者、戦災者、復員者などの移住が多くありました。これらの人びとへの対策として緊急開拓入植制度が設けられ、その受入れ先として、本町にも七地区287戸(旧字、上俄虫17、安野呂28、鶉96、西鶉18、峠下12、城ノ岱30、館86)が入植して、昭和20年から10年余にわたって開墾に従事しました。
しかし、土地条件や生活環境も悪く、大きな負債を抱え悲惨な生活が続き、その結果、離農者が続出して離農跡地の荒廃化が進みました。
多くの離農者は当時の苦労に想いを馳せ、子孫の伝えたいとの願いから、石碑を建立しました。