鳶川耕三郎翁の墓
鳶川耕三郎は伊予国小松の一柳家の藩士で、明治12年(1879)に北海道に渡り、大野村向野(現北斗市)に入植しました。同じ頃に大野村向野に入植した山田致人と意気投合したと思われます。
明治16年(1883)にイギリスから戻った山田致人とともに館村へ入植しました。当初は糠野川が入植の割り当て地でしたが、山田致人の入植地である泥川沿いに移り、開墾に従事しました。致人らとともに館村へ入植したと伝えられる12戸のうち、残ったのは山田致人と鳶川耕三郎の2軒だけだったといいます。
明治39年(1906)の村制施行による最初の村会議員や厚沢部農会長を努めました。
昭和51年(1976)に山畔清悦らの「富里親和会」が富里墓地に墓標を建立しました。
■碑文
由緒
開拓功労者故鳶川耕三郎氏は明治初期本庁開拓のため館村に入植された。
卓越せる指導力をもって地域振興のため多くの業績を残された。新営農方式の採用道路橋梁の新設最初の医院の設置など、地域住民の信望とみに厚く請われて町村制最初の村会議員更に農会長の要職に就かれ活躍された。本町開基百年を朴し、その数々の功績を偲び、墓石を修復し報思の誠を捧げたい。
昭和五十一年十一月
富里親和会