ヲシャマンベ陣屋跡
オシャマンベジンヤアト
安政2年(1855年)年、ロシアの南下を恐れた江戸幕府は、盛岡藩(南部藩)に蝦夷地警備を命じ、分屯地として設置したもの。
地理的に室蘭出張陣屋と砂原屯所とのほぼ中間にあり、黒松内を経て日本海側に達する陸路との分岐点に当たることや、地形的に長万部川河口右岸にあったヲシヤマンベ会所の背後に坊主山と呼ばれた段丘の末端に当たることから、この地が選ばれた。
しかし、沿岸は遠浅のため、外国船が容易に近づけないことがわかり、陣屋の必要性がなくなったことから、安政4年(1857)8月に廃止されることとなり、12月には撤去され、取り壊した建物は砂原屯所に送られた。
その後、この屯所跡地は運動場として使われたり、同じ段丘上にある飯生(いいなり)神社の改築などで屯所正面にあたる南東側は囲郭跡地が大きく改変された。
現地には現在も一部の土塁が残り、昭和49年(1974)に「東蝦夷地南部陣屋跡」として国指定史跡に指定された。
■参考文献
長万部町史編集室 1977年「長万部町史」
戸祭由美夫 2017年「絵図にみる幕末の北辺防備 五稜郭と城郭・陣屋・台場」古今書院