有無両縁塔
ウムリョウエントウ
(表)
有無両縁塔
(台座)
廓内遊女屋
施主人 住吉屋政十郎
小田屋善治
広田屋文吉
増屋定吉
宮川屋与吉
中里屋久一郎
東屋幸吉
金子屋東三郎
田中屋六太郎
小嶋屋栄三郎
大垣屋藤兵エ
高田屋たま
納屋孫右ヱ門
仲屋治右エ門
菱屋たま
北越屋さん
中嶋屋ひさ
新屋留吉
上田屋まさ
玉屋和五郎
佐藤久兵エ
盛屋武八
茂村屋定兵エ
伊勢屋徳右エ門
甲屋長太夫
世話人
■新屋留吉
塩越屋冨右衛門
上田屋利助
岩橋屋文五郎
菊邑屋安五郎
落合屋忠治郎
維時元治甲子歳終夏六月仏歓喜日
有無両縁塔
この「有無両縁塔」は、元治元年(1864年)に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。
かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5年(1868年)に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廓も一層の賑わいをみせるようになった。
この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。
函館市
この「有無両縁塔」は、元治元年(1864年)に、当時の遊廓の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。
かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5年(1858年)に、その一画を山ノ上遊廓として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廊も一層の賑わいをみせるようになった。
この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。
函館市
有无两缘塔
这座“有无两缘塔”是元治元年(1864年)时,由当时游郭的经营者为了供俸无依无靠的游女们而一同建立的供养塔。
过去被称作山上町,近邻(现在的船见町周边)是有不少游女屋的繁华区,箱馆奉行在安政5年(1868年)时将这区公认为山上游郭,整备也更加完善。伴随着隔年的开港,日本各地商人与外国人的往来逐渐兴盛,游郭也随之变得越加繁荣。
这块碑记录了在开港新时代的背景下,那些无法选择只能在此度过一生的游郭劳动女性曾经存在的事实,基石上刻有建立者们的名字。
函馆市
有無兩緣塔
這座「有無兩緣塔」是元治元年(1864年)時,由當時遊郭的經營者為了供俸無依無靠的遊女們而一同建立的供養塔。
過去被稱作山上町,近鄰(現在的船見町周邊)是有不少遊女屋的繁華區,箱館奉行在安政5年(1868年)時將這區公認為山上遊郭,整備也更加完善。伴隨著隔年的開港,日本各地商人與外國人的往來逐漸興盛,遊郭也隨之變得越加繁榮。
這塊碑記錄了在開港新時代的背景下,那些無法選擇只能在此度過ㄧ生的遊郭勞動女性曾經存在的事實,基石上刻有建立者們的名字。
函館市
อนุสาวรีย์อุมุเรียวเอ็นโท
อนุสาวรีย์นี้เรียกว่า "อุมุเรียวเอ็นโท" ถูกสร้างขึ้นในปีเก็นจิที่ 1 (ค.ศ.1864) เจ้าของกิจการสถานเริงรมย์ สร้างขึ้นเพื่อเป็นอนุสรณ์อุทิศส่วนกุศลแก่ผู้หญิงให้บริการที่ถูกทอดทิ้ง
สมัยก่อน ย่านที่ถูกเรียกว่า ตำบลยามาโนะอุเอะ (บริเวณตำบลฟุนามิในปัจจุบัน) มีสถานเริงรมย์มากมายและรุ่งเรือง โดยหลังจากที่ฮาโกดาเตะบุเกียว รับรองให้ย่านยามาโนะอุเอะเป็นย่านแหล่งเริงรมย์ในปีอันเซที่ 5 (ค.ศ. 1868) ก็ได้มีการจัดระเบียบอย่างต่อเนื่อง ยิ่งไปกว่านั้น เมื่อเปิดท่าเรือในปีถัดมา ทำให้มีพ่อค้าทั่วญี่ปุ่นและชาวต่างชาติเข้าออกมากมาย ทำให้ธุริกจสถานเริงรมย์รุ่งเรืองเป็นอย่างมาก
อนุสาวรีย์แห่งนี้ เตือนให้เราทราบถึงความจริงที่ว่า ในการเปิดท่าเรือเพื่อก้าวเข้าสู่ยุคใหม่ ยังมีผู้หญิงที่ไม่มีทางเลือกที่ต้องทำงานและจบชีวิตที่สถานเริงรมย์ในฐานะหญิงโสเภณี โดยมีชื่อของผู้บริจาคจารึกไว้บนแผ่นหิน
「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)