北海道第一歩の地碑
ホッカイドウダイイッポノチヒ
(表)
北海道第一歩の地
明治維新後 函館は
名実共に北海道の門戸と
なった。そして北海道の
地を踏む者が その
第一歩を印したのは
この東浜桟橋である。
後に若松町に鉄道桟橋
ができてからは旧桟橋と
も呼ばれた。国道四号線
が認定されるや 北海道
の道路の基点として
ここに道路元標が
建てられた。
明治百年を迎えるに
当り 此地に記念碑を
たてて 開拓に渡道した
先人の足跡をしのぶ。
昭和四十三年十一月三日
寄贈 日本中央競馬会
碑文 阿部龍夫
設計 明石信道
彫刻 根本土龍
施行 大成建設株式会社
北海道第一歩の地碑
明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋(旧桟橋) である。
青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。
当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。
連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の拠点などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。平成30年度から架け替え工事を実施。
この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して、昭和43年(1968年)9月に建立されたものである。
函館市
明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋である。
青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。
当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。
連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。
この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して昭和43年(1868年)9月建立されたものである。
函館市
■追加解説
東浜桟橋は、明治11(1878)年に作られ、明治22(1889)年に掛替え工事を実施、昭和4(1929)年には改修工事が実施された。名称は、明治5(7872)年に成立、昭和40(19)年の住居表示まであった東浜町に因むもので(現在は末広町の一部)、 現在のように桟橋がコンクリート化されたのは、昭和34(1959)年のことである
明治43(1910)年12月、連絡船の桟橋が函館駅に接する若松ふ頭に新設されてからは、利用者は連絡船へ直接乗り降りできるようになったが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地としても重要な役割を果たした。
北海道第一步的地碑
明治维新后,函馆成为了名副其实的北海道大门,第一步踏上北海道土地的印记就位于东滨栈桥(旧栈桥)。
青函航路在明治6年(1873年)由开拓使的弘明丸号开始一般运输,明治12年(1879年)时三菱会社从开拓使手中接下青函航路,而后由日本邮船铁道会社等接手营运,明治41年(1908年)作为国有铁道的航线,比罗夫丸号、田村丸号也开始投入营运。
当时的联络船是停泊在距离陆地尚有段距离的海面上,乘客再搭乘船舟来往栈桥。这座东滨栈桥造于明治4年(1871年)。
联络船的栈桥虽在明治43年(1910年)2月时新建并移转到若松埠头,但在这之后这座栈桥仍然继续使用,作为北洋渔业的据点等重要用途,特别是在战前北洋渔业进出入时相当热闹繁荣。平成30年度开始实施修缮工程。
这座纪念碑采熊与锚的设计,除了纪念开道100年来过往先人的足迹之外,还代表北海道未来的发展志向,于昭和43年(1968年)9月时建立。
函馆市
北海道第一步的地碑
明治維新後,函館成為了名副其實的北海道大門,第一步踏上北海道土地的印記就位於東濱棧橋(舊棧橋)。
青函航路在明治6年(1873年)由開拓使的弘明丸號開始一般運輸,明治12年(1879年)時三菱會社從開拓使手中接下青函航路,而後由日本郵船鐵道會社等接手營運,明治41年(1908年)作為國有鐵道的航線,比羅夫丸號、田村丸號也開始投入營運。
當時的聯絡船是停泊在距離陸地尚有段距離的海面上,乘客再搭乘船舟來往棧橋。這座東濱棧橋造於明治4年(1871年)。
聯絡船的棧橋雖在明治43年(1910年)2月時新建並移轉到若松埠頭,但在這之後這座棧橋仍然繼續使用,作為北洋漁業的據點等重要用途,特別是在戰前北洋漁業進出入時相當熱鬧繁榮。平成30年度開始實施修繕工程。
這座紀念碑採熊與錨的設計,除了紀念開道100年來過往先人的足跡之外,還代表北海道未來的發展志向,於昭和43年(1968年)9月時建立。
函館市
อนุสาวรีย์รำลึกก้าวแรกของฮอกไกโด
หลังจากการปฏิรูปสมัยเมจิ, ฮาโกดาเตะกลายเป็นประตูของฮอกไกโดทั้งโดยชื่อและความเป็นจริง คนที่มาเหยียบแผ่นดินฮอกไกโด จะเริ่มประทับเท้าที่แรก ณ สะพานฮิงาชิฮามะ (สะพานที่ยื่นออกไปในทะเล)
เส้นทางเซคัง (เส้นทางระหว่างอาโอโมริและฮาโกดาเตะ) ในปีเมจิที่ 6 (ค.ศ.1873) ผู้บุกเบิกเริ่มการขนส่งทั่วไปโดยใช้เรือโคเมมารุ ต่อมาในปีเมจิที่ 12 (ค.ศ.1879) บริษัทมิตซูบิชิได้ช่วงต่อในการเดินเรือเส้นทางเซคังจากพวกผู้บุกเบิก หลังจากนั้น บริษัทนิฮนยูเซ็นเท็ตสึโด รับช่วงต่ออีก จนกระทั่งปีเมจิที่ 41 (ค.ศ.1908) เรือฮิราฟุมารุ และ เรือทามุระมารุ เริ่มประจำการ ในฐานะที่เป็นเส้นทางเดินเรือของบริษัทรถไฟแห่งชาติ
ในเวลานั้น เรือข้ามเกาะจะจอดอยู่นอกฝั่ง และผู้โดยสารก็จะเดินทางไปมาระหว่างสะพานกับเรือโดยใช้เรือท้องแบน สะพานฮิงาชิฮามะแห่งนี้สร้างขึ้นในปีเมจิที่ 4 (ค.ศ.1871)
สะพานสำหรับเรือข้ามเกาะ ถูกย้ายไปสร้างขึ้นใหม่ที่วาคามัตสึฟุโต ในเดือนกุมภาพันธ์ ปีเมจิที่ 43 (ค.ศ.1910) หลังจากนั้น สะพานแห่งนี้ก็ยังคงถูกใช้ประโยชน์ และมีบทบาทสำคัญในการเป็นฐานสำหรับการประมงทางเหนือ โดยเฉพาะอย่างยิ่งก่อนสงคราม ตอนเรือเข้าและออกจากฝั่งจะครึกครึ้นมาก และได้เริ่มสร้างสะพานใหม่แทนในปีเฮเซที่ 30
อนุสาวรีย์รำลึกนี้ สร้างขึ้นในเดือนกันยายน ปีโชวะที่ 43 (ค.ศ.1968) เพื่ออุทิศให้กับอนาคตของการพัฒนาฮอกไกโด พร้อมกับรอยเท้าของบรรพบุรุษที่มาฮอกไกโดเพื่อบุกเบิก โดยประดับหมีกับสมอเรือไว้ เนื่องในโอกาสครบรอบ 100 ปีของการเปิดฮอกไกโด
■「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「はこだて市史編さん室だより」第4号(函館市史編さん室 2005年)