高田屋嘉兵衛銅像

タカダヤカヘイドウゾウ

高田屋嘉兵衛銅像hako022_2

 

■碑文

(台座表)

高田屋嘉兵衛像

(台座裏)

高田屋嘉兵衛(明和六年~文政十年一七六九~一八二七)は淡路の人二十八歳の時 渡来し五十歳の時帰国するまで箱館を基地としエトロフ島を開発経営して北洋漁業を営み奉行所松前移転後も本店を大町に 屋敷を蓬来町に構えて大船十余・蔵四十余をもち大いに箱館の繁栄を築いた。又ゴローイン拘因のとき沈着剛胆よく、日露の間を奔走してその釈放につとめ、永く露国に感謝せられた。今年箱館開港百年に当り、本市出身の梁川剛一氏に嘱しこの銅像を建立して、永くその功績を記念する。
昭和三十三年七月十五日 函館市長 吉谷一次

■解説

高田屋嘉兵衛銅像

この銅像は、高田屋嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33年(1958年)に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明和6年(1769年)に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元年(1818年)に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、今日の函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
さらに、日露国家間に起こった「ゴロヴニン事件」を民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が、日本に捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
函館市

■観光説明板

この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。

函館市

■追加解説

1958年(昭和33年)7月10日、函館市によって建立された。
昭和3年(1928年)に、梁川が東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)を卒業して、函館に戻ってきた頃、近江政太郎が、当時の教育長斉藤與一郎、図書館長の岡田健蔵と銅像建設の相談をして梁川剛一に模型の制作を依頼したことがあった。この時は日魯漁業会社で宇田事件(昭和4年、島徳蔵・宇田貫一郎らによる日魯漁業株式会社の露領漁区高値落札、会社の乗っ取り事件。日魯株が暴落し政財界を揺るがした)が起こり経費を負担できなくなったので、銅像の建立は実現しなかったが、模型は市立図書館へ引き継がれ、現在は市立函館博物館で保存されている。
この像は、昭和31年、嘉兵衛の130年忌を機に銅像建立の機運が盛り上がり、再び梁川剛一に制作を依頼して建立されたもので、各方面からの絶大な協力と近江政太郎氏等の協力があった。
市内にはほかに高田屋屋敷跡や、大町の高田屋本店跡標柱があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や高田屋嘉兵衛顕彰碑がある。

描述

高田屋嘉兵卫铜像

本铜像是为了歌颂高田屋嘉兵卫的功绩,以及纪念函馆港开放港口100周年,于昭和33年(1958年)修建的。制作者是函馆出身的彫刻家梁川刚一。
嘉兵卫明和6年(1769年)出生于淡路岛,28岁时来到函馆。他功勋卓著,直到文政元年(1818年)回归故乡之前,一直将函馆作为基地,经营造船、海运和渔业,先后开发了国后岛的航线和渔场,为今天函馆的发展奠定了基础。
另外,他还因为以一位民间人士的立场引导顺利解决日俄间发生的“戈洛文(golovnik)事件”而名声远播。这座铜像是文化10年(1813年),俄罗斯军舰狄安娜号来迎接被捕于日本的戈洛文(golovnik)船长进入函馆港口时,嘉兵卫在场当时的形象。右手拿的是松前奉行的谕书,左手拿的是去往舰艇内著正装而换下来的衣服。身穿仙台绫的和服裙裤、白袜、麻底草鞋并带着珮刀。
函馆市

描述

高田屋嘉兵衛銅像

本銅像是為了歌頌高田屋嘉兵衛的功績,以及紀念函館港開放港口100周年,於昭和33年(1958年)修建的。製作者是函館出身的彫刻家樑川剛一。
嘉兵衛明和6年(1769年)出生於淡路島,28歲時來到函館。他功勛卓著,直到文政元年(1818年)回歸故鄉之前,一直將函館作為基地,經營造船、海運和漁業,先後開發了國後島的航線和漁場,為今天函館的發展奠定了基礎。
另外,他還因為以一位民間人士的立場引導順利解決日俄間發生的“戈洛文(golovnik)事件”而聲名遠播。這座銅像是文化10年(1813年),俄羅斯軍艦狄安娜號來迎接被捕於日本的戈洛文(golovnik)船長進入函館港口時,嘉兵衛在場當時的形象。右手拿的是鬆前奉行的諭書,左手拿的是去往艦艇內著正裝而換下來的衣服。身穿仙臺綾的和服裙褲、白襪、痳底草鞋並帶著珮刀。
函館市

คำอธิบาย

รูปปั้นทองสัมฤทธิ์ทาคาดะยะ คะเฮ

รูปปั้นทองสัมฤทธิ์นี้ สร้างขึ้นในปีโชวะที่ 33 (ค.ศ.1958) เพื่อฉลองครบรอบ 100 ปีของการเปิดท่าเรือฮาโกดาเตะ และยกย่องความสำเร็จของทาคาดะยะ คะเฮ ผู้สร้างคือยานางาวะ โกอิจิเป็นนักแกะสลักจากฮาโกดาเตะ
คะเฮเกิดที่เกาะอะวาจิ ในปีเมวะที่ 6 (ค.ศ.1769) เดินทางไปฮาโกดาเตะตอนอายุ 28 ปี จนกระทั่งกลับสู่บ้านเกิดในปีบุนเซที่ 1 (ค.ศ.1818) เขาอาศัยอยู่ที่ฮาโกดาเตะ ทำกิจการต่อเรือ, ขนส่งทางทะเล และจัดการพื้นที่ประมง พัฒนาพื้นที่ประมงและเส้นทางเดินเรือสู่เกาะคุนะชิริ และเกาะเอโทโรฟุ สร้างพื้นฐานของการพัฒนาฮาโกดาเตะในปัจจุบัน ทิ้งผลงานไว้เป็นจำนวนมาก
นอกจากนี้ ยังมีชื่อเสียงในด้านการช่วยคลี่คลายปัญหา "คดี Golovnin" ที่เกิดขึ้นระหว่างญี่ปุ่นและรัสเซีย ทั้งๆ ที่อยู่ในฐานะประชาชนทั่วไป รูปปั้นนี้เป็นภาพของคะเฮตอนที่เขาเข้าร่วมเป็นพยานในการส่งมอบตัวกัปตัน Golovnin ที่ถูกญี่ปุ่นจับไว้ เมื่อเรือรบดิอานาของรัสเซียเข้าจอดที่ท่าเรือฮาโกดาเตะในปีบุงคะที่ 10 (ค.ศ.1813) มือขวาถือหนังสือจากมัตสึมาเอะบุเกียว มือซ้ายถือเสื้อผ้าที่ถอดตอนเปลี่ยนเป็นชุดเต็มยศบนเรือ สวมฮาคามะที่ตัดเย็บจากผ้าทอเซนได ทาบิสีขาว รองเท้าหูหนีบที่ใช้เชือกป่าน และคาดดาบสองอัน

■参考文献

「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第37集(函館市史編纂委員会)、市立函館博物館館報「SARANIP」No.36(市立函館博物館 1997)

大エリア 函館市
小エリア 西部地区
所在地函館市宝来町7(グリーンベルト内)
制作時代 昭和
主題時代 近世
カテゴリ 歴史, 碑・像