高田屋屋敷跡
タカダヤヤシキアト
石柱
(表)
高田屋屋敷跡
(裏)
昭和三十一年八月
高田屋嘉兵衛百三十年祭記念
函館市
石碑
(表)
高田屋嘉兵衛(一七六九~一八一七)淡路国都
志本村の人 若くして函館に渡り千島
エトロフの漁場開発日露事件の和平
解決等、各方面に活躍して自ら豪冨を
なすと共に土地を繁栄せしめた。一族
の墓は称名寺にある
(裏)
昭和三十一年八月
高田屋屋敷跡
今日の函館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6年(1769年)兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元年 (1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを継いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。
市内にはほかに、宝来町の高田屋嘉兵衛の銅像や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。
函館市
箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6年(1769年)兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元年(1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。
函館市
■追加解説
高田屋邸宅内には、米倉数棟を建てて蝦夷地の凶作に備え、長屋を建て雇傭者を住まわせ、屋敷には池や築山、庭木、奇石、石灯籠などを配し、泉水に橋を架けた中の島には大きな亀石(形が亀に似ている巨石)が据えられていた。
文政6年(1823年)・天保元年(1830年)には、松前藩主を迎えて歓待するなど、「高田屋御殿」と呼ばれていたという。
嘉兵衛が、日本に幽閉されていたロシア人ゴロウニンの釈放に尽力したことは広く知られているが、ロシアはこれに報いるため、高田屋の船舶からは強奪などをせずに海上で遭遇した場合、それぞれ小旗を掲げて応じるという旗合せの密約が結ばれていた。天保2年(1831年)、高田屋の船舶からロシア船が食料を強奪する事件が発生したときに、この旗合せの密約が発覚、密貿易の嫌疑をかけられた。財政の窮迫によって、有力商人に御用金調達を命じては、取りつぶすという松前藩の動きもあったようで、結局これが発端となって、高田屋は没落することとなった。
この石柱は花崗岩、鈴木石太郎から寄贈されたもので、石碑は台座・碑石とも函館山の安山岩である。いずれも昭和31年(1956年)の高田屋嘉兵衛130年祭を記念して建立された。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛銅像や、大町の高田屋本店跡標柱があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や高田屋嘉兵衛顕彰碑がある。
高田屋屋敷跡
函馆有今天的发展,要说是高田屋嘉兵卫为之奠定了基础也不为过。
明和6年(1769年)出生于兵库县淡路岛的嘉兵卫于寛政8年(1796年)28岁之时来到函馆,直至文政元年 (1818年)回归故里之前,一直以函馆为中心经营船运业以及渔场成为一代豪商。
嘉兵卫不仅开拓了国后以及择捉两岛的渔场,作为北洋渔业的先驱名留史册,而且在公共事业以及慈善事业中也功绩卓著。
高田屋的全盛时期是寛政13年(1801年),继嘉兵卫之后的金兵卫(嘉兵卫之弟)在幕府的许可下,曾经在此租借了5万坪土地,并在其一角建设豪宅。宅邸占地面积大约2町(四周边长各约220米),院内造山砌池,还曾摆放过贵重的观赏石。
市区内在宝来町还有高田屋嘉兵卫的铜像,以及大町的高田屋本店遗迹(标识柱),和船见町称名寺中的高田屋一族之墓以及嘉兵卫彰显碑。
函馆市
高田屋宅邸遺跡
函館有今天的發展,要說是高田屋嘉兵衛為之奠定了基礎也不為過。
明和6年(1769年)出生於兵庫縣淡路島的嘉兵衛於寛政8年(1796年)28歲之時來到函館,直至文政元年 (1818年)回歸故里之前,一直以函館為中心經營船運業以及漁場成為一代豪商。
嘉兵衛不僅開拓了國後以及擇捉兩島的漁場,作為北洋漁業的先驅名留史冊,而且在公共事業以及慈善事業中也功績卓著。
高田屋的全盛時期是寛政13年(1801年),繼嘉兵衛之後的金兵衛(嘉兵衛之弟)在幕府的許可下,曾經在此租借了5万坪土地,並在其一角建設豪宅。宅邸占地面積大約2町(四週邊長各約220公尺),院內造山砌池,還曾擺放過貴重的觀賞石。
市區內在寶來町還有高田屋嘉兵衛的銅像,以及大町的高田屋本店遺跡(標識柱),和船見町稱名寺中的高田屋一族之墓以及嘉兵衛彰顯碑。
函館市
ที่ที่เคยเป็นคฤหาสน์ของทาคาดะยะ
รากฐานของการพัฒนาของฮาโกดาเตะในวันนี้นั้น ถูกวางโดยทาคาดะยะ คะเฮ ก็คงจะไม่ถือว่าเป็นการกล่าวเกินความจริง
คะเฮ เกิดที่เกาะอะวาจิ จังหวัดเฮียวโกะ ในปีเมวะที่ 6 (ค.ศ.1769) เขาย้ายไปอยู่ฮาโกดาเตะเมื่อตอนอายุ 28 ปี ในปีคันเซที่ 8 (ค.ศ.1796) และตั้งแต่นั้นมาเขาอาศัยอยู่ในฮาโกดาเตะ จนกระทั่งกลับไปที่บ้านเกิดของเขาในบุนเซที่ 1 (ค.ศ.1818) ในระหว่างนั้น เขาทำเงินจำนวนมากจากธุรกิจการขนส่งและการจัดการพื้นที่ประมง
คะเฮ เป็นผู้บุกเบิกพื้นที่ประมงทั้งที่เกาะคุนะชิริ และเกาะเอโทโรฟุ และไม่เพียงแต่สร้างชื่อให้ตัวเองในฐานะผู้บุกเบิกการประมงในทะเลทางเหนือ แต่ยังประสบความสำเร็จอย่างมากในงานสาธารณะและโครงการการกุศล
ช่วงที่รุ่งเรืองที่สุดของทาคาดะยะคือ ปีคันเซที่ 13 (ค.ศ.1801) คิมเบ (น้องชายของคะเฮ) เข้ามารับช่วงธุรกิจต่อจากคะเฮ ได้รับอนุญาตจากรัฐบาลบากุฟุ เช่าที่ 50,000 ทสึโบะ (1ทสึโบะ ประมาณ 3.3 ตารางเมตร) และสร้างคฤหาสน์ที่มุมหนี่งในที่ผืนนั้น พื้นที่บ้านมีขนาดถึง 220m×220m=ประมาณ 48,400 ตารางเมตร ภายในสร้างภูเขา สระน้ำ และวางหินราคาแพงไว้ด้วย
ในเมืองฮาโกดาเตะ นอกจากนี้ยังมีรูปปั้นทองสัมฤทธิ์ของทาคาดะยะ คะเฮ ที่ตำบลโฮไร และที่ที่เคยเป็นสำนักงานใหญ่ของทาคาดะยะที่โอมาจิ (หลักที่ปักไว้เพื่อเป็นจุดสังเกต) ที่วัดโชเมียวจิที่ตำบลฟุนะมิโจ มีสุสานของตระกูลทาคาดะยะ และอนุสาวรีย์ทาคาดายะ คะเฮ
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第26集・第27集(函館市史編纂委員会)、『函館市史』通説編第1巻(函館市 1980年)