石川啄木の歌碑
イシカワタクボクノカヒ
(表)
函館の 青柳町こそ かなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花 啄木
(裏)
石川啄木が首蓿社に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年(1907年)5月~9月に至る短い期間であったが、この間の彼の生活は多数の盟友の温情に浸り、且久しく離散して居た家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった。今回当地を思慕する彼の歌碑が因縁深き此の地に建立さるるに際し、今更ながら在りし日の故友が偲ばれる。
昭和28年(1953年)4月13日 郁雨
宮崎大四郎
■案内板
この歌碑は、青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。
全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛詠されている。
薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人首蓿社の諸友に囲まれ、文学を論じ、人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと夢を思い悲しんだ。
■追加解説
石川啄木、本名は一(はじめ)。1886年(明治19年)、岩手県盛岡生まれ。18歳で与謝野鉄幹のつけた名「啄木」で「明星」に詩を発表する。21歳のときに小学校の代用教員となるが、明治40年に免職されて北海道に来た。函館滞在中に大火に見舞われ、その後札幌、小樽、釧路を経て、23歳のときに上京した。25歳で詩集「一握の砂」を発表、1912年(明治45年)4月13日東京で肺結核のため27歳でこの世を去った。
函館には、安山岩の台石上に戸井山の自然石を据えたこの歌碑のほか、大森浜の啄木小公園の啄木座像の台石に刻まれた歌、住吉町墓地内の墓碑に刻まれた歌がある。
青柳町は、この碑がある函館公園周辺の町名で、啄木が苴蓿社同人等に招かれて、最初に住み、後に一家を呼び寄せて住んだ町である。東京に去った後も、このような歌で函館での生活をしのんでいることから、啄木にとって函館での生活は思い出の深かったのだろう。
この碑は1953年(昭和28年)4月に、丸井百貨店の協力で築設され、4月13日に除幕式が行われた。
■参考文献
「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)