大島津波溺死者供養地蔵座像
オオシマツナミデキシシャクヨウジゾウザゾウ
台座側面右 当寺三世 栄泉 願主 称念
台座正面 溺死 弧霊 寶塔
台座側面左 奥州松前 相沼内村 延享三 丙 寅 七月十九日
石仏背面 三穴あり
寛保元年の大津波の供養のため、七回忌に建てられた。背後に三つの 穴があいており、これは海中の死者を引き上げるためヤスを使ったのでそのことを意味していると伝えられている。
寛保元(1741)年七月十六日、松前の南西60Kmの日本海上にある火山島松前大島が突然噴火した。その状況は「福山秘府」によれば「西部大島発火震動如大山之崩、亦雨白灰黒砂積地上深者数寸」とある。
丁度この日は旧盆引きの日で、各村々では住民達が盆踊りに夢中であったというが、恐怖のあまり急ぎ家に帰り神、仏に灯を上げて、ひたすらこの島の爆発の鎮まるのを念じていたという。
ところが七月十九日朝明六ツ時(午前6時)突然津波が起き、東は松前弁天島から西は熊石村に至る約130Km間の海岸に大津波が襲来した。松前藩留守居役から江戸に届いた報告書に寄れば、溺死者の総数は1467人、流失倒壊家屋791戸、漁船の遭難は1521艘に達する未曾有の大被害を受けたことが記録されている。
熊石村法蔵寺の記録では「寛保元年七月十九日九ツ半時(12時半)頃大津浪堂舎不残流ス、留守居海心房死僕喜八溺死諸書書物流失ス、本尊菩薩半鐘双盤平田内川上ニテ見出ス」とあって堂宇も流失し留守僧及従僕も死亡するほどの惨害だった。同寺過去帳によれば、9人の死者があったことが記録されている。また、相沼無量寺過去帳には相沼内村で
男13人、女17人、泊川村で男7人、女6人、熊石村で男14人、女 10人、計67人の死者が出たことが記録されている。
2007『熊石史実年表』八雲町編