開墾役所跡
松前藩が安政年間(1855〜1860)に厚沢部川流域の農業開発のために開墾役所を設置したと言われています。松前藩の資料的な裏付けはとぼしく、増田家文書「館村開墾場絵図」によって現在の推定地付近に「開墾御役所」が確認できます。
開墾役所跡は、道々29号の北側、厚沢部川右岸で、館川と厚沢部川に挟まれた段丘面上で、現在は農地になっています。昭和42年(1967)の農地造成のため痕跡は失くなりましたが、波佐見産のコンプラ瓶が採取されています。
松前藩が安政年間(1855〜1860)に厚沢部川流域の農業開発のために開墾役所を設置したと言われています。松前藩の資料的な裏付けはとぼしく、増田家文書「館村開墾場絵図」によって現在の推定地付近に「開墾御役所」が確認できます。
開墾役所跡は、道々29号の北側、厚沢部川右岸で、館川と厚沢部川に挟まれた段丘面上で、現在は農地になっています。昭和42年(1967)の農地造成のため痕跡は失くなりましたが、波佐見産のコンプラ瓶が採取されています。