金原明善翁・鈴木幾太郎翁之頌徳碑
キンパラメイゼンオウ・スズキイクタロウオウノショウトクヒ
金原明善(きんぱらめいぜん)は静岡県人で、92年の生涯は至誠一貫、天竜川の治水と瀬尻村の植林、そして利別村(現今金町)開拓における本道開拓など社会事業家として令名を馳せた人である。明治29(1896)年、鈴木幾太郎を派遣し後志利別川の南北両岸に金原地域を建設し、地域を巡って開拓に努力する移民を慰撫奨励し、往時の荒地は今や千町歩の豊かな農場となり、自作農創設として百余戸の小作人がその恩恵に浴した。このため金原・鈴木両翁の遺徳を景仰するため、地域民の手により頌徳の碑が建てられた。
建立:昭和21(1946)年10月
往昔蝦夷地ニ理想郷建設ノ雄図ヲ抱キ荒涼タル山野ヲ拓キテ金原部落ヲ創建セシ金原明善鈴木幾太郎翁ノ偉業ハ遠ク五十年ノ昔トナリヌ 明善翁ハ静岡県ノ人其ノ九十二年ノ生涯ハ至誠一貫天竜川ノ治水瀬尻村ノ植林北海道ノ開拓等国家ノ興隆ニ献身セリ 明治二十九年幾太郎翁ヲ派シ利別川岸南北ニ金原部落建設ノ第一歩ヲ築キ又屡々部落ヲ巡周シ移民ヲ慰撫激励セリ是ノ薫陶ト意図ヲ享ケ開拓ニ全力ヲ傾倒セル幾太郎翁ハ明治三十年三月伊勢尾張美濃ヨリ四十八戸ノ移民ヲ統率シ荒土ニ開拓ノ第一鍬ヲ印セシヨリ四十有余年幾多創業ノ辛酸ヲ嘗メ部落ノ開発ニ努ム 特ニ灌漑施設畜産教育等ノ振興自治ノ向上ニ尽瘁セリ 今ヤ両翁ノ偉業結実シ往時刺榛ノ地ハ千町歩ノ豊穣ナル農場ト化シ自作農創設トシテ百余戸ノ小作人ソノ恩恵ニ浴セリ今開村五十周年ヲ迎ヘルニ当リ両翁ヲ景仰スルヤ切ナリ茲ニ部落民相諮リ頌徳碑ヲ建ル所以ナリ
昭和二十一年十月
金原鈴金部落民一同
後藤仙南書
現在の金原地区は後志利別川南岸側のみを指し当時は「南金原」と呼ばれた。一方、北岸側の神丘より北の区域は「北金原」(鈴岡地区)と呼ばれた。
金原地区の同名の石碑は、この鈴岡地区の石碑と元は同じ石材で、二分割して作られたもの。
改訂今金町史(上巻)