河野加賀守政通の供養碑
コウノカガノカミマサミチノクヨウヒ
(表)
河野加賀守政通(こうのかがのかみまさみち)公の供養碑
河野政通公は享徳三年(一四五四)南部大畑より渡来し、現在の函館病院附近に館を築き函館一帯の地を治めた。
後、アイヌ等を和人の間に争を生じ館は陥ち政通公も戦歿す。ここの供養碑は宝暦三年(一七五三)時の亀田奉行、政通公の祭祀の無きを嘆き弥生小学校辺にありし称名寺に建立せしが、後称名寺の移転と共に現在地に至りしものである。
(裏)
平成元年七月吉日建之
河野加賀守政通の供養碑
河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年(1869年)までは「箱館」と書いた。
永正9年(1512年)、子・季通の時アイヌに攻められ館は陥落した 。
この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行 が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。
河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。
永正9年(1512年)、子季通(すえみち)の時アイヌに攻められ館は陥ちた。
この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。
函館市
■追加解説
これの供養碑は、亀田奉行酒井喜澄が、1753年(宝暦3年)4月8日、箱館の館主河野政通を供養して建立したものである。
河野加贺守政通的供养碑
河野政通离开伊予(爱媛县)后,于享德3年(1454年)到来并在如今的基坂上面建立了城池。这片区域在阿依努语中原被称为usukeshi(海湾中突出的一角之意),据说由于这个城池的外观形似箱子才出现了箱馆的地名,一直到明治2年(1869年)为止都书写为“箱馆”。
永正9年(1512年)其子季通在位时此城被阿依努族攻陷。
这个碑是在宝历3年(1753年)时由松前藩的龟田奉行所建,正面刻有“捐馆高峰院殿加屋凌云大居士 神仪”,背面则记载着碑文。
河野加賀守政通的供養碑
河野政通離開伊予(愛媛縣)後,於享德3年(1454年)到來並在如今的基坂上面建立了城池。這片區域在阿依努語中原被稱為usukeshi(海灣中突出的一角之意),據說由於這個城池的外觀形似箱子才出現了箱館的地名,一直到明治2年(1869年)為止都書寫為「箱館」。
永正9年(1512年)其子季通在位時此城被阿依努族攻陷。
這個碑是在寶曆3年(1753年)時由松前藩的龜田奉行所建,正面刻有「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」,背面則記載著碑文。
อนุสรณ์ศิลารำลึก โคโนะคะงะโนะคะมิมาซามิจิ
โคโนะ มาซามิจิ เกิดที่อิโยะ (จังหวัดเอะฮิเมะ) มาที่ฮอกไกโดในปีเคียวโตคุที่ 3 (ค.ศ.1454) และสร้างคฤหาสน์ขึ้นบนเนินโมโตอิซากะ ซึ่งแถบนี้ ภาษาไอนุ จะเรียกว่า อุสึเคชิ (หมายถึง ปลายอ่าว) และเพราะคฤหาสน์หลังนี้มีรูปร่างเหมือนกล่อง จึงว่ากันว่าเป็นที่มาของชื่อฮาโกดาเตะ ("ฮาโก" แปลว่า "กล่อง") และใช้ตัวคันจิที่หมายถึง "คฤหาสน์กล่อง" เขียนแล้วอ่านว่า "ฮาโกดาเตะ" จนกระทั่งถึงปีเมจิที่ 2 (ค.ศ.1869)
ในปีเอโชที่ 9 (ค.ศ.1512) รุ่นของบุตรชายชื่อ สึเอะมิจิ ถูกชาวเผ่าไอนุบุกโจมตี ทำให้คฤหาสน์หลังนี้ถูกทำลายไป
อนุสรณ์ศิลารำลึกแผ่นนี้ คาเมดะบุเกียวแห่งแคว้นมัตสึมาเอะ ได้สร้างขึ้นในปีโฮเรคิที่ 3 (ค.ศ.1753) โดยด้านหน้า สลักไว้ว่า "捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀" และด้านหลังมีข้อความจารึก