亀井勝一郎生誕の地
カメイカツイチロウセイタンノチ
(石柱)
亀井勝一郎生誕之地
武者小路実篤書
(碑文・表)
私の家のすぐ隣は、フランスの神父のい
るローマカソリック教会堂であった その
隣はロシヤ系のハリストス正教会である。
この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メー
トルほどの塔をもっているので、船で港へ
はいるとすぐ目につく。
ハリストス正教会の前には、イギリス系の
聖公会があり やや坂を下ったところには
アメリカ系のメソヂスト教会がある。
私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願
寺は、坂道をへだててわが家の門前にある
また同じ町内の小高いところには、この港
町の守護神である船魂神社が祭られ、そこ
から一直線に下ったところには、中国領事
館があって、ここは道教の廟堂を兼ねてい
た。要するに世界中の宗教が私の家を中心
に集まっていたようなもので、私は幼少年
時代を、これら教会や寺院を遊び場として
過ごしたのである。
″東海の小島の思い出″の一節より
亀井勝一郎生誕の地
亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年(1937年)「人間教育」、同18年(1943年)「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、同40年(1965年)日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年(1966年)11月14日病により永眠し、末完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイ力の刺身を好んだという。
なお、青柳町の函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。
函館市
亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。
函館市「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)
龟井胜一郎的诞生地
龟井胜一郎在明治40年(1907年)2月6日出生于元町,是父亲喜一郎的长子,曾经就读弥生小学、函馆中学、山形高中、东京帝国大学文学部,后来成为文艺评论家与思想家。
不朽名著有昭和12年(1937年)的《人间教育》以及昭和18年的(1943年)《大和古寺风物诗》等,昭和40年(1965年)被推举为日本艺术院会员。
晚年的大作《日本精神史研究》集龟井文学之大成得到相当高的评价,但昭和41年(1966年)11月14日因病长眠,并未完成令人唏嘘。
胜一郎终生都只说函馆家乡话,爱吃函馆的鲑鱼寿司跟乌贼生鱼片。
另外,在青柳町的函馆公园附近有刻着胜一郎笔迹的文学碑,内容是「人生邂逅し 开眼し 瞑目す」(人生邂逅 开眼界 终瞑目)的短句。
函馆市
龜井勝一郎的誕生地
龜井勝一郎在明治40年(1907年)2月6日出生於元町,是父親喜一郎的長子,曾經就讀彌生小學、函館中學、山形高中、東京帝國大學文學部,後來成為文藝評論家與思想家。
不朽名著有昭和12年(1937年)的「人間教育」以及昭和18年的(1943年)「大和古寺風物詩」等,昭和40年(1965年)被推舉為日本藝術院會員。
晚年的大作「日本精神史研究」集龜井文學之大成得到相當高的評價,但昭和41年(1966年)11月14日因病長眠,並未完成令人唏噓。
勝一郎終生都只說函館家鄉話,愛吃函館的鮭魚壽司跟烏賊生魚片。
另外,在青柳町的函館公園附近有刻著勝一郎筆跡的文學碑,內容是「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」(人生邂逅 開眼界 終瞑目)的短句。
函館市
สถานที่เกิดของคาเมอิ คัตสึอิจิโร
คาเมอิ คัตสึอิจิโร เกิดเมื่อวันที่ 6 กุมภาพันธ์ ปีเมจิที่ 40 (ค.ศ.1907) ที่โมโตะมาจินี้ ในฐานะลูกชายคนแรกของคิอิจิโร เขาเรียนที่โรงเรียนประถมศึกษายาโยอิ โรงเรียนมัธยมต้นฮาโกดาเตะ โรงเรียนมัธยมปลายยามากาตะ และคณะอักษรศาสตร์ มหาวิทยาลัยโตเกียวเทโคคุ และต่อมากลายเป็นนักวิจารณ์วรรณกรรมและนักคิด
เขาทิ้งงานเขียนชิ้นเอก "การศึกษาของมนุษย์" ปีโชวะที่ 12 (ค.ศ.1937) และ "ยามาโตะโคะจิ ฟูบุตสึชิ" ปีโชวะที่ 18 (ค.ศ.1943) ฯลฯ และในปีโชวะที่ 40 (ค.ศ.1965) ได้รับการแนะนำให้เป็นสมาชิกของ Japan Art Academy
ผลงานชิ้นเอกตอนปลายของเขา "การวิจัยประวัติศาสตร์จิตวิญญาณของญี่ปุ่น" ได้รับการยกย่องอย่างสูงว่าเป็นสุดยอดของวรรณคดีคาเมอิ แต่เขาเขียนไม่จบ เพราะล้มป่วยและเสียชีวิตเมื่อวันที่ 14 เดือนพฤศจิกายน ปีโชวะที่ 41 (ค.ศ.1966)
คัตสึอิจิโร ใช้ภาษาถิ่นของฮาโอดาเตะตลอดชีวิต และชอบกินซูชิปลาแซลมอนและซาชิมิปลาหมึกจากฮาโกดาเตะ
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)